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創世記のデボーション

私たちがだれのものであるかを心に留めておく

ヨセフは民に言った。「見よ。私は今、おまえたちとおまえたちの土地を買い取って、ファラオのものとした。」(創世記47:23)

「すると彼らは言った。「あなた様は私たちを生かしてくださいました。私たちは、あなた様のご好意を受けて、ファラオの奴隷となりましょう。」(25節)

上の言葉を読むたびに、私はイエス様が私たちのためにしてくださったことを思い出します。

エジプト人たちと同じように、私たちは死にかけていましたが、イエス様は私たちを買い取って、ご自分のもの、また天の父のものとされ、救ってくださいました。(黙示録5:9;第一ペテロ1:18〜19)

そして、エジプト人たちが収穫の五分の一を納めたとき、ファラオのいつくしみを思い出していたように、私たちは献金を捧げるとき、神のいつくしみを思い出します。

でも、素晴らしい真理は、イエス様が私たちを神の奴隷ではなく、神の子供とするために買い取ってくださったということです。

パウロの言葉を借りれば、

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。

御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。子どもであるなら、相続人でもあります。。。

神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。(ローマ8:15ー17)

だから、毎日、喜びをもって、私たちが誰のものであるかを心に留め、私たちの人生を神様に捧げましょう。

あなたがたはもはや自分自身のものではありません。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。

ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。(第一コリント6:19ー20)

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創世記のデボーション

どうか私に近寄ってください

兄弟たちはヨセフを前にして、驚きのあまり、答えることができなかった。ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」(創世記45:3~4)

ヨセフの兄たちの立場になって想像してみましょう。

彼らは通訳者を通して、エジプトの支配者と話していました。(創世記42:23)

でも突然、通訳者とヨセフの他のしもべたちが部屋を出ていき、その支配者は彼らにヘブル語で話しかけます。それだけではなく、彼は、「私はヨセフです」と言います。

それを聞いて、彼らは恐れました。彼らは22年前にヨセフを奴隷として売ったからです。自分たちの罪をよく知っていて、ヨセフの怒りに値することを知っていました。

でも、ヨセフは彼らに言いました。「どうか私に近寄ってください。」

イエス様も同じことを私たちに言われます。

私たちはイエス様の御前に立ち、私たちの罪と失敗はすべて明らかになります。だから、私たちは神の怒りに値することをよく知っています。

でも、イエス様は私たちを見て、言われます。

「どうか私に近寄ってください。大いなる救いをもたらすために、神は私をあなたより先に遣わされた。

天の父は私をすべての主に任命された(第一コリント15:27)。

だから、あなたは神に近寄ることができる。

あなたが恐れず、毎日毎日、一瞬一瞬、私と共に歩み、私のそばにいることができる。

あなたの試練と苦しみの中で、私はあなたを支える。

だから、あなたの家族と回りの人々のところに行き、私の栄光、あなたが見た一切のことを告げなさい。そうすれば、彼らも私に近寄り、私を知るようになる。」

私はこういうことを考えて、本当に不思議だなぁと思います。

今日、私が祈った詩篇は、とても適切な反応だと思います。

全地よ、主に向かって喜びの声をあげよ。
喜びをもって主に仕えよ喜び歌いつつ御前に来たれ。

知れ。主こそ神。
主が私たちを造られた。
私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊。

感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に入れ。

主に感謝し、御名をほめたたえよ。

主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで、
その真実は代々に至る。(詩篇100編)

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創世記のデボーション

この世には、苦難があっても

ヨセフは長子をマナセ(意味:「忘れる」)と名づけた。「神が、私のすべての労苦と、私の父の家のすべてのことを忘れさせてくださった」からである。

また、二番目の子をエフライム(意味:「実り多い」)と名づけた。「神が、私の苦しみの地で、私を実り多い者としてくださった」からである。(創世記41:51ー52)

イエス様、あなたは、「世にあっては苦難があります」と言われました。(ヨハネ16:33)

でもヨセフと同じように、ある日、私の苦しみはなくなり、過去が私に影響を及ぼすことはなくなります。(黙示録21:24)

やがて私に啓示される栄光に比べれば、今の時の私の苦難が取るに足りないものであることを感謝します。(ローマ8:18)

私の苦しみの中で、私がどう祈ればいいのかよく分からないとき、御霊が私のために祈ってくださることを感謝します。(ローマ8:26)

あなたを愛する私たち、あなたのご計画にしたがって召された私たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを感謝します。(ローマ8:28)

それが私の希望です。あなたこそが私の希望なのです。

だから苦しみに満ちたこの世にいる間、私はあなたに信頼することを選びます。

私のためにあなたの計画を成し遂げてください。私があなたのために実を結ぶように。あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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創世記のデボーション

辛いときに信仰を保つ

ヨセフが自分の心の中で何を考えていたのか、私は時々知りたいと思います。

創世記40章では、私たちはヨセフの心を垣間見ることができ、42〜45章では、ヨセフの思いはもっと明らかになります。

でも、39章では、私たちはヨセフの思いをよく知ることができません。

そういうわけで、私たちはよく考えます。「ヨセフは本当に敬虔な人でした。どんな試練に直面しても、ヨセフは忠実に神様に仕えたのです。彼の心は決して揺らぐことはなかったのです。」

でも今日、私が考えたのは、「ヨセフにとって、その態度を保つのは、そんなに簡単だっただろうか」ということです。

奴隷として売られたとき、その最初の数日間、ヨセフは兄弟たちに対して苦々しい思いを抱いていたでしょうか。ヨセフは神様に、「どうしてそんなひどいことを許されたのか」と尋ねたでしょうか。

ポティファルの妻がヨセフに言いがかりをつけ、ヨセフが牢に座っていたとき、神様に対して苦々しい思いを抱くように誘惑されたでしょうか。

「私は神様の道に従ったのに、どうしてこんなことになったのだろうか。神様に従うのは無駄なのだ。」

たぶん、ヨセフはそのような思いと戦いました。彼はただの人間だったのです。彼は不完全な人だったのです。

それでも、彼は結局、自分の信仰を保ち、神様に忠実に仕え続けました。

その意味では、ヨセフはダビデのようでした。ダビデもヨセフも回りの人々に不当に扱われました。(詩篇62:3〜4)

彼らは、人に対して、また神様に対して苦々しい思いを抱く理由がありました。

それでも、彼らは神様を信じ続けることを選びました。そして、結局、神様はその信頼に値する方であることを証明されました。

今日、たまたま詩篇62編も読んでいました。そして、牢でヨセフがダビデの言葉と似たようなことを歌っているのを想像することができました。

私のたましいよ、黙って、ただ神を待ち望め。私の望みは神から来るからだ。神こそ、わが岩、わが救い、わがやぐら。私は揺るがされることがない。

私の救いと栄光は、ただ神にある。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。

民よ、どんなときにも神に信頼せよ。

あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。

神はわれらの避け所である。(詩篇62:5ー8)

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創世記のデボーション

穴にいるとき

今日、私たちは創世記37章を読んでいますが、私はたまたま詩篇118篇も読んで祈りました。

詩篇118篇を読んで、私はこう思いました。「自分の人生のもっとも暗いときを振り返ると、ヨセフはこの歌を歌うことができただろう。」

(この詩篇は、ヨセフの死後何百年も経ってから作られたものですが。)

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(詩篇118:1)

苦しみのうちから、私は主を呼び求めた。主は答えて、私を広やかな地へ導かれた。

主は私の味方。私は恐れない。人は私に何ができよう。主は私の味方、私を助ける方。

私は、私を憎む者をものともしない。(詩篇118:5ー7)

おまえは私を激しく押し倒そうとしたが、主が私を助けられた。主は私の力、またほめ歌。主は私の救いとなられた。(13ー14)

興味深いことは、いろんな意味で、ヨセフの物語がイエス様の物語と似ているということです。

つまり、ヨセフは、自分を拒絶し、裏切った兄弟たちを救ったのです。だから、イエス様に関する預言は、ヨセフにも当てはめられるのです。

家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。(詩篇118:22)

振り返ると、ヨセフは喜びをもって、その歌を歌うことができたでしょう。でも、あの穴の中にいたときや、奴隷として売られたときには、そのことばを歌うのは難しかったでしょう。

それでも、ヨセフは自分の信仰にしがみつきました。神様が良い方であり、その恵みがとこしえまで続くことを、信じ続けました。次の数章を読めば、私たちはその姿を見ることができます。

その結果は?ヨセフは、パウロも学んだことを学びました。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)

私たちの人生がうまくいっているとき、神様が良い方であること、神様の愛を信じるのは簡単です。

でも、あの穴の中にいるとき、私たちはまだそれを言うことができるでしょうか。

ヨセフと一緒に、あの歌を歌えるでしょうか。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(詩篇118:1)

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マタイの福音書のデボーション

クリスマスのメッセージ

マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。(マタイの福音書1:21)

「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」

その言葉を聞いて、ヨセフはとても驚いたでしょう。

「私の息子が自分の民をその罪から救う?どういうことだろう?私の息子がどうやって人々をその罪から救うことができるのだろうか。」

その時、ヨセフは十字架をまったく想像できなかったでしょう。

もし御使いが、「この方はローマ人たちからお救いになる」と言っていたら、ヨセフはたぶんすぐに理解できたでしょう。なぜなら、神様は似た言葉をサムソンの両親に語られたからです(士師記13:5)。

しかし、「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです」とは?

現代でも、その言葉を聞いて、ヨセフと同じように戸惑う人は多いでしょう。

もし彼らが自分に救いが必要だと思えば、政府の圧制からの救いを考えるでしょう。または、経済的な問題、健康の問題、家庭の問題などを考えるでしょう。

それらの問題が取り去られれば、喜びと平和を得られると考えるでしょう。

だから、もし彼らが祈ろうと思っても、それらの問題のために祈るでしょう。

けれども、彼らが気づいていないのは、自分の最大の問題が自分の罪であるということです。つまり、自分の罪からの救いを必要としていることに気づいていないのです。

多くの人々は自分の罪を軽んじています。また、自分の行為を罪として認めていません。

その一方で、ある人たちは自分の罪によって罪悪感と後悔を抱いていますが、どうしたらよいかわかりません。

それでも、どちらの場合でも、メッセージは同じです。

「イエス様がご自分の民をその罪からお救いになるために来られました。」

ですから、クリスマスのことを考え、私たちの愛する人々にクリスマスの意味をどのように説明すべきかを考えるとき、そのメッセージの中心を心に留めておきましょう。

イエス様がご自分の民をその罪からお救いになるために来られました。

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創世記のデボーション

神の恵みの計画

いろいろな意味で、ヨセフはイエス様の前触れでした。

ヨセフは父に愛されました。(創世記37:3;マタイ3:17)

ヨセフは自分の民に拒絶されました。(創世記37:8;ヨハネ1:10〜11)

ヨセフは銀で売られました。(創世記37:28;マタイ26:14〜16)

ヨセフは言いがかりをつけられました。(創世記39:16〜18;マタイ26:59〜61)

ヨセフは権力の座を与えられました。(創世記41:37〜44;ピリピ2:9〜11)

ヨセフは自分の民に、大いなる救いを備えてくださいました。(創世記45:7;マタイ1:21)

45章では、私たちの救いの描写を見ることができます。

ヨセフの兄弟たちのように、ある日、私たちはイエス様の御前に立ち、自分の罪を知り、自分が死刑に値することもわかります。

でも、ヨセフのように、イエス様は私たちに優しく言われます。

「どうか私に近寄ってください。神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。」(創世記45:4,7)

今なお、ユダヤ人の間には、恵みによって救われた残りの者がいます。(ローマ11:5)

神様の恵みによって、私たちも神様の家族に属しています。私たちもイエス様の大いなる救いを受けました。

その救いは偶然ではありませんでした。ヨセフの場合と同じように、それは神様の恵みの計画の一部でした。(創世記45:5〜8;使徒2:13〜18、4:27〜28)

だから、パウロとともに歌いましょう。

ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。

「だれが主の心を知っているのですか。 だれが主の助言者になったのですか。だれがまず主に与え、 主から報いを受けるのですか。」

すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ12:33ー36)

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創世記のデボーション

何の申し開きもできないでしょう

ユダが答えた。「あなた様に何を申し上げられるでしょう。何の申し開きができるでしょう。何と言って弁解することができるでしょう。神がしもべどもの咎を暴かれたのです。」(創世記44:16)

ユダの言葉は、私たちすべてに当てはまるでしょう。

私たちは天の御座の前に立ち、神様が私たちの人生の記録を開かれたとき、何も言うことができません。弁解することもできません。

ユダが自分の父ヤコブに語った言葉も、本当に印象に残ります。

もしも、あの子をお父さんのもとに連れ帰らなかったなら、私は一生あなたの前に罪ある者となります。(32節)

ヤコブは知らなかったかもしれませんが、ユダの言葉には、二つの意味があったと思われます。

ヨセフを奴隷として売るように勧めたのは、ユダでした。(創世記37:26ー27)

しかし、44章では、ユダが自分の罪の重さをどれほど感じていたかがわかります。

ヨセフを奴隷として売ったことで、もちろんヨセフに罪を犯しましたが、自分の父にも罪を犯しました。

ユダは過去を変えることはできませんでした。でも、ベニヤミンの命を保証することによって、自分の罪の償いをしようとしたのだと思います。

ユダの隠されたメッセージは、こうだったのかもしれません。

「もし、ベニヤミンを父のもとに連れ帰らなかったなら、私は一生あなたの前で、ヨセフに関して罪ある者となります。」

でも実際には、ユダがベニヤミンを父のもとに連れ帰ったとしても、その罪の償いをしたことにはなりません。

私たちは、どれほどユダのように、自分の罪の償いをしようとするでしょうか。でも、どんなに良いことをしても、私たちはその罪の償いをすることはできません。

神様が私たちの咎を暴かれるとき、私たちは弁解することができません。

しかし、良い知らせがあります。イエス様は十字架で、私たちの罪を背負われ、その代価を支払ってくださいました。私たちがしなければならないのは、ただイエス様の働きを信じて、休むことです。

だから、パウロはこう言いました。

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。

そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。(ローマ5:1ー2)

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創世記のデボーション

神様の訓練

ここは実に興味深い箇所です。

今日の箇所では、ヨセフは過去の傷に直面します。

20年ぶりに、彼は「正直な」兄たちに会います。(創世記42:11)

(「正直者?あなたたちは私に何をしたか、正直にお父さんに伝えたの?」)

兄たちと話したとき、ヨセフは奴隷として売られたことを思い出します。

もう一人の弟はいなくなりました。(13)

そして、私たちはヨセフの兄たちを見ます。神様は、彼らがずっと埋めようとしていた罪悪感を掘り起こされました。

まったく、われわれは弟のことで罰を受けているのだ。(21)

最後にヤコブがいます。

ヨセフがいなくなってから、ヤコブはずっとその憂いに明け暮れていました。たぶん彼は、「神様はどこにいらっしゃるのだろうか」と思っていたでしょう。

ヨセフはいなくなり、シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンまで取ろうとしている。こんなことがみな、私に降りかかってきたのだ。(36)

私たちはよく苦しみに遭います。人に傷つけられることもあります。罪悪感に苦しむこともあります。だから、「神様はそんなに私を憎んでおられるのか」と疑問に思うことがあります。

でも、神様の目的は私たちを苦しませることではありません。むしろ、神様は私たちに癒しと救いをもたらしてくださっています。

ヨセフが初めて知ったのは、ルベンがヨセフを売ることに反対していたということです。むしろ、ルベンはヨセフをかばってくれていました。

また、ヨセフは兄たちがそれほど薄情ではなかったことも分かりました。つまり、彼らはずっと罪悪感に苦しんでいたのです。(21〜22)

それを理解したことで、ヨセフは彼らを許すことができたのでしょう。

ヨセフの兄たちは、自分たちは神様の裁きを受けていると思いました。(21、28)

でも実際には、彼らは神様の救いを見ていたのです。

そして、ヨセフがいなくなってから、ヤコブは神様から何も語られていませんでしたが、最終的にヤコブが知ったのは、神様がヤコブの益のために働いてくださっていたということです。

だから、へブル人への手紙の著者が語る励ましの言葉を心に留めておきましょう。

私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。

すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。

ですから、弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。また、あなたがたは自分の足のために、まっすぐな道を作りなさい。足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろ癒やされるためです。(へブル12:9ー13)

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創世記のデボーション

私たちの希望

夢が二度ファラオに繰り返されたのは、このことが神によって定められ、神が速やかにこれをなさるからです。(創世記41:32)

その言葉は本当に興味深いです。

ヨセフはいろいろな苦しみを経験しました。どのようにしてヨセフは希望を持ち続けることができたのでしょうか。

ヨセフの言葉の中に、私たちは彼の希望の理由を見ることができると思います。

つまり、彼が若いときに二つの夢を見て、その夢によって神様はヨセフの将来の希望を示されました。その希望は、神様のいつくしみと忠実さに基づいていました。

ヨセフの場合、「速やか」とは約20年のことでした。でも、結局、その日は来ました。

私たちも希望を持っています。その希望は確かなものです。

なぜでしょうか。

へブル人への手紙の著者によれば、私たちの希望は、変わらない二つのものに基づいています。それは、神様の変わらない約束と誓いです。(へブル6:17〜18)

おそらく、もう一つ加えることができるでしょう。それは、神様の良いご計画です。

その変わらないものによって、私たちには大祭司が与えられています。それはイエス様です。イエス様は私たちの大祭司であり、私たちの永遠の救いの源となられました。(へブル5:5〜10、7:10〜28)

だからこそ、前に置かれている希望をつかもうとして逃れてきた私たちは、力強い励ましを受けるのです。その希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものです。(へブル6:18〜19)

だから、どんな試練に遭っていても、ヨセフのように、キリストにある希望にしがみつきましょう。

あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。

「もうしばらくすれば、来たるべき方が来られる。遅れることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、 わたしの心は彼を喜ばない。

しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」(へブル10:36ー39)

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創世記のデボーション

私を思い出してください

「あなたが幸せになったときには、どうか私を思い出してください。私のことをファラオに話して、この家から私が出られるように、私に恵みを施してください。」

。。。ところが、献酌官長はヨセフのことを思い出さないで、忘れてしまった。(創世記40:14、23)

献酌官長がヨセフのことをすっかり忘れてしまったとき、ヨセフはどれほど失望していたことでしょうか。

ヨセフが言った通りに献酌官長が自由にされ、元の地位に戻されたとき、ヨセフはその最初の数日間、どれほど希望を持っていたことでしょうか。

でも、数日が過ぎました。数週間が過ぎました。ヨセフの状況はまったく変わりませんでした。

人間は不完全な存在です。人々が私たちをがっかりさせることもあります。

でも良い知らせは、神様が私たちのことを忘れないということです。

39章には、「神様はヨセフと共におられた」と4回書かれています。

ヨセフは神様の臨在を感じ取れない時もあったかもしれませんが、神様はいつもヨセフと共におられました。

数千年後、もう一人の人が叫びました。「どうか私を思い出してください」と願いました。

十字架の上で、イエス様はその人にこう言われました。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)

でも、献酌官長と違って、イエス様はその人を思い出し、天の父のもとで、その人のためにとりなしてくださいました。

そのように、イエス様は私たちのためにもとりなしてくださいます。(へブル7:22〜25)

だから、私たちはどんなに苦しんでいても、イエス様にある希望にしがみつきましょう。

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創世記のデボーション

私たちと共におられる神

ドタンで、ヨセフの兄弟たちが彼を捕らえ、イシュマエル人に奴隷として売ったとき、ヨセフは何を考えていたでしょうか。

「神様はどこだろう」と思うのは、自然な反応かもしれません。

不思議なことですが、何百年後、同じドタンの地で、もう一人の人物が似たような思いを抱いていました。

預言者エリシャとそのしもべが敵の軍隊に包囲されたとき、しもべは恐れにとらわれてパニックになりました。でも、エリシャは彼に言いました。

恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから(列王記第二6:16)

そして、エリシャは祈りました。

どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください。(列王記第二6:17)

そして、そのしもべは、神様の軍隊が彼らを守っていることを見ました。神様は彼らを見捨てたわけではありませんでした。神様は最初から、彼らと共におられました。

そのように、神様はヨセフと共におられました。

そして、数千年後、イエス様が「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたとき、神様は実際にイエス様と共におられました。

また、神様がヨセフの兄弟たちの罪を用いて、ヤコブの家族(その兄弟たちを含む)の救いをもたらされたように、神様はユダヤ人たちの罪を用いて、私たちの救いをもたらされました。

だからこそ、あなたがどんな試練に直面しても、心に留めておきましょう。

その試練の中で神様を見ることができないかもしれませんが、神様はあなたと共におられます。そして、神様はあなたの益のために働いてくださいます。(ローマ8:28)

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ヘブル人への手紙

神様の良さを信じる信仰

「神様は良い方です。」

「いつもです。」

「いつもです。」

「神様は良い方です。」

ある教会では、それが合言葉のように繰り返されています。

でも、私たちはその言葉を本当に信じているでしょうか。もちろん、物事が順調なときには、それを信じて熱心に語るのは簡単です。

でも、苦しいときはどうでしょうか。神様が何をなさっているのか、私たちに理解できないときはどうでしょうか。また、将来に不安を感じるときはどうでしょうか。

そのような時、私たちはなお、神様が良い方であることを信じることができるでしょうか。

私たちが自分の信仰を見つめ直すと、これは最も根本的な問いの一つと言えるかもしれません。

だからこそ、この手紙の著者は、こう語っています。

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(へブル人への手紙11:6)

「神は、ご自分を求める者には報いてくださる方である。」

言い換えるならば、神様は、ご自身の良さを信じる者に報いてくださいます。その人は、神様がご自身の約束を守ると信じます。その人は、自分の苦労が無駄ではないと信じます。その人は、自分の苦しみが意味あるものだと信じます。

神様は、そのような信仰者に報いてくださるのです。

どんなに私たちの境遇が厳しくても、神様を求めるほどに、その真理を信じ続けることができるでしょうか。そう信じない限り、私たちは神様を喜ばせることができません。

アブラハムは、そう信じました。

神様は、アブラハムの子孫がイサクの系統によって多くなると約束されました。しかし、ある日、神様はアブラハムに命じられました。「あなたの息子イサクを、生贄として捧げなさい。」

それは、イサクを神様の奉仕のために捧げるという意味ではありませんでした。アブラハムは、文字通り、イサクを殺し、生贄として捧げなくてはなりませんでした。

アブラハムは、本当に混乱していたことでしょう。その生贄を捧げる山に到着するまでには、三日間かかりました。その間、アブラハムは何を考えていたのでしょうか。

「どうして神様は、そんな命令をされたのだろうか。イサクの系統を通して、神様は私に多くの子孫を与えると約束された。でも、もしイサクが死んでしまったら、その約束はどのように成就するのだろうか。」

それでも、最終的にアブラハムはこう考えるに至りました。

「神様は良い方だ。神様は、ご自身の約束を守られる。だからこそ、もし私にイサクを殺すよう命じるなら、神様は必ずイサクを復活させてくださるだろう。神様は、いのちと死を支配される神だ。そして、やはり神様は良い方だ。」

そして、アブラハムがイサクを殺すために刀を振りかざしたとき、天使は彼に告げました。「あなたの手を、その子に下してはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れていることを、よく理解した。」(創世記22:10–12)

神様は、確かに良い方でした。

イサクは、そのような経験をしたので、将来がまだ不明だったにもかかわらず、息子たちヤコブとエサウを祝福することができました。

彼は、神様が約束された地をまだ受け取ってはいませんでした。所有していたのは、父アブラハムが買った小さな土地だけでした。それでも、イサクは神様が良い方であることを信じ、息子たちを祝福しました。

ヤコブは、さまざまな試練に直面しました。ある試練はヤコブ自身のせいでしたが、ある試練は彼の責任ではありませんでした。それでもヤコブは、自分に対する神様のいつくしみと忠実さを見たのです。

だから、死ぬ直前に、その確信を持って、息子たちを祝福しました。

あなたはどうでしょうか。どんなことを経験しているのでしょうか。心から「神様は良い方だ」と言えるでしょうか。神様が忠実な方だと信じられるでしょうか。神様があなたへの約束を守られると信じているでしょうか。

それらを信じなければ、あなたは神様を喜ばせることができません。

あなたは、どんな信仰を持っているのでしょうか。

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マタイ1章 マタイの福音書

没我的な人生

「私の人生です。」

「私の権利です。」

「私の幸福です。」

どれほど私たちは、こうした言葉を耳にするでしょうか。どれほど私たちは、そのような言葉を口にするでしょうか。

しかし、ある著者が言ったように、「あなたの人生の中心は、あなたではありません。」

むしろ、あなたの人生の中心は神様です。そして、神様はこの世界に歴史を織り成しておられます。

ヨセフの話を読むとき、この真理を見ることができます。

彼のマリヤに対する反応について考えてみてください。彼らは婚約していましたが、当時の文化では、現代の私たちが考える婚約よりもはるかに強いコミットメントでした。

彼らはまだ一緒に生活しておらず、肉体的な関係もありませんでしたが、ユダヤの律法によれば、婚約を解消するには離婚の手続きをしなければなりませんでした。

けれども、その婚約の期間中に、マリヤは妊娠しました。

ヨセフはどう感じたでしょうか。深く傷ついたことでしょう。裏切られたと感じたかもしれません。怒りに震えたかもしれません。そして、ユダヤの律法によれば、彼にはマリヤを処刑する権利がありました。

しかし、彼の反応を見てみましょう。

夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。(19)

どうやら、ヨセフはもはやマリヤと結婚することを望んでいなかったようです。その状況では、おそらく誰もマリヤと結婚したがらなかったでしょう。

けれども、彼は傷ついても、復讐を望みませんでした。「正義」を主張しませんでした。自分の「権利」を訴えませんでした。

むしろ、彼はマリヤをあわれみました。彼は彼女を公の場で恥さらしにしたくありませんでした。できる限り彼女を守るために、内密に離婚しようと考えました。

マリヤは、自分の妊娠についてヨセフに説明しようとしたでしょうか。一体何が言えるでしょうか。

「誤解しないでください。私はほかの男性と関係を持ったわけではありません。この子は神様によるものです。」

そう言ったとしても、ヨセフがそれを信じるはずがありませんでした。

神様はその状況をよく理解しておられたので、ヨセフのもとに天使を遣わされました。その天使はこう言いました。

ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。

マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。(20-21)

ある程度、ヨセフは安心したかもしれません。とはいえ、その責任を拒むのは容易だったでしょう。

なぜなら、もし彼がマリヤと結婚すれば、おそらく彼の評判が傷つくからです。周囲の人々はこう思ったかもしれません。 「ああ、ヨセフは結婚する前にマリヤと関係を持ったに違いない。マリヤだけでなく、ヨセフも悪かったのだ。」

また、ヨセフはこのように答えることもできたでしょう。 「分かっているけれど、私の子ではない。私はこの子のために祈ったことはないし、あなたは事前に私の意見を求めなかった。どうして私がその責任を負わなければならないのか。」

けれども、ヨセフはそのようにはしませんでした。彼はマリヤと結婚しました。噂やさまざまな困難があったにもかかわらず、彼はマリヤと結婚しました。なぜでしょうか。

それは、ヨセフが自分の人生の中心が自分自身ではないことを知っていたからです。

神様がイスラエル、そしてこの世界を救うための計画を立てておられることを理解していました。そして、その計画が自分よりもはるかに大きなものであることも知っていました。

だからこそ、ヨセフは自分の権利や計画を脇に置き、神様とマリヤに仕えることを選びました。そして、その決断を通して、彼は本当の喜びを見出したのだと思います。

あなたはどうでしょうか。自分のために生きているでしょうか。もしそうなら、あなたの人生はむなしいものになるでしょう。しかし、神様のために、神様の目的のために生きるなら、充実した人生を見出すことができます。

イエス様はこう言われました。

いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。(マタイ16:25)

あなたは誰のために生きているのでしょうか。