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ヨハネの福音書のデボーション

本当のところ神様は私のことをどう思っておられるの?

イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。(ヨハネの福音書11:5ー6)

多くの人々、クリスチャンたちを含めて、「本当のところ神様は私のことをどう思っておられるのだろうか」と疑問に思います。

イエス様がすぐに来られず、ラザロが亡くなったとき、たぶんマルタとマリアもイエス様について同じことを考えていたでしょう。

「イエス様は本当に私たちを愛しておられるのでしょうか。なぜ来てくださらなかったのですか?なぜ兄を癒してくださらなかったのですか?」

しかし、真実は何だったのでしょうか。本当のところイエス様は彼らのことをどう思っておられたのでしょうか。

イエス様はラザロ、マルタ、マリアを愛しておられました。

私たちが苦しんでいて、神様が沈黙されている時、神様が私たちのことをどう思っておられるのか疑問に思うのは簡単なことです。

でも、覚えておきましょう。神様は私たちの味方です。さらに、神様は私たちを深く愛してくださっています。(ローマ8:31ー32)

そして、何も、死のとげさえも、私たちを神様の愛から引き離すことはできません。(ローマ8:38ー39;ヨハネ11:25)

でも私たちが自問しなければならないのは、その真実を信じるかどうかです。(ヨハネ11:26)

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もうダメ?

マルタはイエスに言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。(ヨハネの福音書11:21)

マリアはイエスがおられるところに来た。そしてイエスを見ると、足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(32節)

今まで、マリアとマルタの言葉を読んだとき、彼女たちがイエス様を責めているのだと思っていました。「何でもっと早く来てくださらなかったのですか。もっと早く来てくださっていたら、私の兄は死ななかったでしょうに。」

しかし今、私は彼女たちが本当にイエス様を責めていたのかどうか、少し疑問を感じています。

なぜなら、イエス様が着かれたとき、ラザロはすでに墓に葬られていて、四日が経っていたからです。つまり、イエス様がすぐに来られたとしても、ラザロはすでに二日間亡くなっていたということになります。

だから、たぶん、彼女たちが言いたかったのは、「イエス様のせいではないけれど、兄が病気になったとき、あなたがそんなに遠くにおられなかったらと思います。もしここにいてくださったなら、私の兄は死ななかったでしょうに」ということだったのかもしれません。

でも、はっきりしているのは、イエス様が着かれたとき、マリアとマルタには、イエス様がラザロを復活させることができるという考えがまったく思い浮かばなかったということです。イエス様にラザロを復活させていただきたいと願うという考えも、まったく思い浮かびませんでした。

マルタは「あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています」と言いましたが、24節と39節にあるマルタの言葉を見ると、彼女がイエス様にその日にラザロを復活させていただけるとは考えていなかったことが、はっきりと分かります。

それを読んで、私はこう考えました。「もうダメだ。祈り続けるのはもう無駄だ」と思うときがあるでしょうか。

「イエス様がこの死んだものを復活させることはできない。私の状況には、もう復活の希望がない」と思うときがあるでしょうか。

私は、イエス様がそんなに小さなお方だと思ってしまうでしょうか。

イエス様が、私の願いや思いをはるかに超えて行うことができると信じているでしょうか。それとも、イエス様にできることについての私の概念は、まだ小さすぎるのでしょうか。

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イエス様の愛を疑う?

イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。 しかし(別訳:「そのようなわけで」)、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。(ヨハネの福音書11:5ー6)

ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」

しかし、彼らのうちのある者たちは、「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか」と言った。(36ー37節)

しかし、彼らのうちの一人で、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。」

このことは、彼が自分から言ったのではなかった。彼はその年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。(49ー52節)

イエス様は私たちを愛しておられます。それでも、イエス様が私たちの望むように応えてくださらない時もあります。

そのような時、私たちは苦しみ、「どうして」と問いかけます。また、「イエス様は本当に私を愛しておられるのだろうか」と思うこともあります。

けれども、実のところ、多くの場合、私たちは何も分かっていません。神様はすべてをご存じですが、私たちはまったく考えていない要素が多くあるのです。

最大の例は、十字架です。神様がなさっていたことを、誰も理解していませんでした。祭司たちも、パリサイ人たちも、イエス様の弟子たちも、イエス様の母マリアさえも、神の計画を知りませんでした。

しかし、十字架こそが、神様の愛の最大の表現だったのです。

あなたは今、さまざまな疑問を抱え、苦しんでいるでしょうか。神様に「どうして」と問いかけているでしょうか。

マリアとマルタの模範に従いましょう。彼女たちは深く傷ついていましたが、イエス様に背を向けることはありませんでした。むしろ、彼女たちはイエス様のもとに走り寄り、イエス様を信じ続け、従い続けました。

彼女たちの模範に従うなら、私たちもいつか神様の栄光を見ることができます。

私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。

この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。

しかし、このことは、 「目が見たことのないもの、 耳が聞いたことのないもの、 人の心に思い浮かんだことがないものを、 神は、神を愛する者たちに備えてくださった」 と書いてあるとおりでした。」(第一コリント3:7ー9)

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真理を認識できる?

私は以前にも言いましたが、パリサイ人たちと祭司たちの大きな問題は、彼らがイエス様の言葉を聞き、イエス様の御業を目の当たりにしていながら、それでもなおイエス様を信じなかったことです。

だからこそ、この箇所で彼らは危機に直面しました。

イエス様はラザロをよみがえらせました。そして、彼らはその奇跡を否定できませんでした。皆が、ラザロが4日間死んでいたのに、イエス様が彼をよみがえらせたことを知っていました。そのため、多くの人々がイエス様を信じるようになりました。

けれども、パリサイ人たちと祭司たちの反応はどうだったでしょうか。

「私たちはイエス様の御業をよく知っています。私たちはその奇跡を否定できません。それでも私たちはまだ信じません。」

イエス様がメシアである証拠は十分にありました。それにもかかわらず、彼らはどうしてもイエス様を信じようとはしませんでした。

一方で、彼らはユダヤ人たちの反応に思い悩みました。つまり、ユダヤ人たちがイエス様を王にしようとすれば、ローマ帝国がイスラエルの土地と国民を奪い取ることになる、という懸念です。

ヨハネは、大祭司カヤパの言葉の皮肉さを認識しました。カヤパは次のように言いました。

あなたがたは全然何もわかっていない。

ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。(ヨハネの福音書11:49-50)

カヤパが意味したのは、ローマが彼らの国を奪い取るよりも、イエス様が死ぬ方が方便だということです。

しかし、ヨハネは次のように解説しました。

ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。(51-52)

自分の口から発せられる真理さえ認識できないほど、彼らのプライドと野心は彼らの目を曇らせていました。

あなたはどうでしょうか。真理を聞いたとき、その真理を認識できるでしょうか。

イエス様は、「私は真理だ」と言われました。

真理を理解するためには、あなたはたった一つのことを認めなければなりません。つまり、イエス様が生ける神の御子キリストであることです。

それを認めない限り、あなたは決して真理を理解することはできません。

あなたはどうでしょうか。真理を認識できるでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ11章

私たちの苦しみをイエス様に打ち明ける?

私たちの多くは、苦しみの中にあるとき、その苦しみに向き合わず、ただ埋めてしまいます。苦しみを無視しようとします。

もしかしたら、仕事や食べ物、楽しみで気を紛らわせようとするかもしれません。けれども、その苦しみは私たちの魂を蝕み、やがて広がり、私たちを飲み込んでしまいます。

では、どうすればよいのでしょうか。

マリアとマルタもこの苦しみを経験しました。彼女たちの兄は亡くなりました。そして、もしイエス様がもっと早く来ていれば、ラザロは死ななかったことを知っていました。ところが、イエス様はすぐには来られませんでした。

そのため、彼女たちはラザロの死に苦しみ、もしかすると、イエス様に裏切られたと感じたかもしれません。

だから、イエス様がようやく来られたとき、彼女たちはほぼ同じ言葉を口にしました。

主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。(ヨハネの福音書11:32)

私は前にも言いましたが、もしかしたら、マルタはその言葉を口にしたとき、イエス様を責めるのではなく、「私はあなたをまだ信じています」という意味を込めていたのかもしれません。

けれでも、マリヤの場合はどうでしょうか。おそらく、彼女は苦しみに満ちた声でその言葉を発したのでしょう。だから、ヨハネはイエス様の反応を描写するとき、次のように書きました。

そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ[ました]。(33)

どうしてイエス様はそのように反応されたのでしょうか。おそらく、イエス様はマリヤに深く同情されたのでしょう。しかし、もしかすると、マリヤの不信仰を見て、心を痛められたのかもしれません。

38節では、ほかの人々が「なぜイエス様はもっと早く来られなかったのか」と問いかけたとき、イエス様は同じ反応を示されました。

だから、イエス様はラザロの墓に向かったとき、マルタにこう言われました。

その石を取りのけなさい。(39a)

私はマルタの答えをよく理解できます。

主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。(39b)

けれでも、イエス様はこのように答えられました。

もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。(40)

最初、マルタはイエス様の言葉に従うことに気が進みませんでした。すでに手遅れだったからです。ラザロはすでに亡くなっていました。

しかし、最終的に彼女がイエス様の言葉に従ったことで、イエス様はラザロを復活させられました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

あなたは、どんな苦しみを心の中に埋めてしまったでしょうか。

その苦しみのせいで、どんな苦々しい思いを抱いているでしょうか。たとえば、ほかの人々に対する苦々しい思い、あるいは神様に対する苦々しい思いです。

イエス様はあなたにこう語られます。

「その石を取り除きなさい。あなたの苦しみと苦々しい思いを私に打ち明けなさい。それらはあなたの心の中で腐っているからだ。だからこそ、その苦しみを打ち明けなさい。もし私を信じるなら、あなたは神様の栄光を見ることになる。」

あなたはどう応じるでしょうか。

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私たちが信じるために

これはイエス様の最も有名な奇跡の一つです。私は何度もこの話を読んだことがありますが、今回は特にこの言葉が私の心に深く響きました。

あなたがたが信じるために。。。(ヨハネの福音書11:15)

この箇所では、私たちは何度もこのテーマを目にします。そして、その言葉を通して、私たちはイエス様の動機を知ることができます。時には、人々はイエス様の行動を理解できませんでしたが、イエス様の動機は、彼らの信仰を成長させることでした。

だから、イエス様はマルタの信仰に挑戦されたのです。

もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。(40)

そして、イエス様がラザロの墓で祈られたとき、次のように祈られました。

わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。

しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。(42)

そして、ラザロの復活の後、ヨハネは私たちに次のように語りました。

そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。(45)

イエス様が私たちに学んでほしいことの一つは、私たちがイエス様を信頼することです。私たちのあらゆる経験、苦しみや試練の中にあってもイエス様を信頼すること。それこそがイエス様の意図されていることです。

時には、私たちは神様にこう問いかけます。「神様、あなたを愛しています。でも、なぜ私はこの試練に直面しているのでしょうか。あなたは本当に私を愛してくださっているのでしょうか。」

この話では、マリヤがそのように問いかけました。彼女はイエス様のことを心から愛していました。

また、別の話では、彼女はとても高価な香油をイエス様の足に塗り、彼女の髪の毛でその足をぬぐいました。

マリヤはイエス様を愛していました。そして、イエス様がマリヤたちを愛しておられることを知っていたので、ラザロが病気になったとき、彼女はイエス様を呼びました。イエス様は必ず来てくださると確信していました。

実際、イエス様はその家族を心から愛しておられました。(5)

だから、イエス様は彼らの家に行かず、二日間待っておられたのです。(6)

ちょっと待ってください。イエス様は彼らを愛しておられたから、行かなかったのでしょうか。

それはどういう意味でしょうか。

どうしてイエス様は二日間も待っておられたのでしょうか。それは、イエス様が彼らに、イエス様を信頼することを学ぶよう望んでおられたからです。

イエス様が二日間も来られなかったことで、ラザロは死にました。けれども、イエス様がラザロを復活させたとき、彼らの信仰のレベルは大きく成長しました。

時には、私たちは「どうして神様は何も言わないのだろうか。どうして私の祈りに応えてくださらないのだろうか」と疑問に思います。

マリヤとマルタも、きっとそう考えたでしょう。「どうしてイエス様は来てくださらないのだろうか。」

もちろん、彼女たちはイエス様を信頼していました。しかし、イエス様は彼女たちがさらに深く信頼するよう望んでおられました。

マルタの言葉を少し見てみましょう。

主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。 (21)

それは苦々しい気持ちを込めた言葉だったのでしょうか。私はそう思いましたが、今はわかりません。もしかしたら、それは信仰の言葉だったのかもしれません。

「イエス様、あなたがもっと早く来ていたら、私の兄を癒すことができたことをよく知っています。でも、私はあなたをまだ信じています。今でも、神様はイエス様と共におられ、イエス様の願いを聞いてくださることを知っています。」(21-22)

マルタは、イエス様がラザロを復活させることを信じたでしょうか。おそらく、そうは信じなかったでしょう。(39節を読んでください。)

もしかしたら、彼女はこう言いたかったのかもしれません。

「あなたは私の願いを叶えてくださらなかったけれど、私はあなたをまだ信じています。だからこれからも、困ったときにはあなたのもとへ行きます。」

それでもなお、イエス様はもう一度マルタの信仰に挑戦されました。

「今の問題をもうあきらめたでしょうか。そうしてはなりません。あなたのお兄さんは復活します。私は命の主です。

私は誰にでも命を与えることができます。私を信じる者は、たとえ死んでも生きるのです。そして、私を信じる者は決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(23-26)

マルタは「はい」と答えましたが、おそらく、イエス様の本当の意味を理解していなかったでしょう。それでも、彼女は言いました。「あなたを信じます。あなたが神の子だと信じます。」(27)

この信仰とは何でしょうか。それは子供のような純粋な信仰です。

私たちも、イエス様の言葉が理解できないことがあります。神様の決断や行動が分からないこともあります。

しかし、混乱していても、失望していても、「私はまだあなたを信じます」と言えるでしょうか。

マルタは、ラザロの墓の前で、その疑問に向き合わなければなりませんでした。「この厳しい状況の中でも、私はイエス様の言葉に従うほどに、イエス様を信じることができるでしょうか。」

けれども、彼女がイエス様の言葉に従ったとき、神様の栄光を目の当たりにしました。

私たちも同じです。マルタに問いかけたように、イエス様は私たちにもこう問いかけます。

もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。(40)

あなたはどのように反応しますか。