主はこう仰せられる。
「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。
誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。
わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行なう者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。――主の御告げ――(エレミヤ書9:23ー24)
ユダ人たちは自分の知恵と力を自慢していました。あるユダ人たちは割礼を受けたので、「私たちは神様の民だ」と思っていました。
しかし、彼らが神様に背を向けて、自分の道を歩んでいたため、その自慢は無意味でした。だから、すぐに裁きが訪れました。
あなたはどうでしょうか。何について自慢しているでしょうか。あなたの教育でしょうか。あなたの仕事でしょうか。あなたの富でしょうか。あなたの立場でしょうか。あなたの持ち物でしょうか。
もしあなたが神様を知らないなら、それらのものは無意味です。
けれども、神様について知っているだけでは不十分です。たくさんの人々は神様について知っています。サタンでさえも、私たちよりも神様について多く知っています。
しかし、私たちは本当に神様を知っているでしょうか。神様と親しい関係を持っているでしょうか。
神様が喜ばれることを私たちも喜び、神様が嫌われるものを私たちも嫌っているでしょうか。また、神様が喜ばれることや、神様が嫌われるものを私たちは知っているでしょうか。
神様を知っていることは、本当に誇るべきことです。それは一生のプロセスです。なぜなら、神様は私たちの心が神様の心のように変えられることを望んでおられるからです。
あなたは神様を知るためにどれほどの時間を取っているでしょうか。あなたは神様との関係のために時間を取っているでしょうか。あなたにとって、それは一番大切なことでしょうか。
パウロはこのように書きました。
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。
私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。
それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。
私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。(ピリピ3:8ー11)
あなたにはそのような情熱があるでしょうか。イエス様を知ろうとする情熱があるでしょうか。
