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コリント人への手紙第一

キリストとの交わり、兄弟姉妹との交わり

聖餐式の際、多くのクリスチャンはこの箇所を耳にします。パウロはこう述べました。

私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。

「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」

食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」(コリント人への手紙第一11:23-25)

聖餐式を単なる宗教的な儀式と考えてしまうのは容易なことです。コリントの人々もそうでした。その結果、彼らは貧しい兄弟姉妹を軽んじ、聖餐式を汚してしまいました。

けれども、イエス様はこう言われました。「パンを食べ、ぶどう酒を飲むとき、私のことを覚えなさい。あなたがたの罪を赦し、神と和解するために、私は自らの血を流します。」

この真理を心に留めるとき、私たちは忘れてはなりません。イエス様は私たちの兄弟姉妹のためにも死なれたのです。イエス様の目には、彼らもまた尊い存在です。

だからこそ、聖餐式に参加するとき、私たちはイエス様に近づくだけでなく、互いにも近づき合うべきです。

もちろん、イエス様は私たちを神と和解させるために死なれました。とはいえ、それだけではなく、クリスチャン同士が互いに和解し、一つとなるためにも、イエス様は命を捧げられたのです。

パウロはエペソの人々にこう書きました。

実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し(ました)。(エペソ2:15)

パウロは特に、異邦人とユダヤ人の間にある壁について語りました。その壁とは、モーセの律法です。しかし、その原則は私たちにも適用されます。クリスチャンの間に、人種の壁や身分の壁があってはなりません。

そして、パウロは続けてこう言いました。

こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。(エペソ2:15-16)

パウロによれば、私たちは皆、ユダヤ人であれ異邦人であれ、律法によってではなく、イエス様の十字架を通して神様に近づくのです。だからこそ、ユダヤ人と異邦人の間に分裂があってはなりません。

イエス様が死なれた理由の一つは、すべてのクリスチャンが一つとなることです。

このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。

こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。(エペソ2:18-19)

だから、教会の中には二流のメンバーなど存在しません。

私たちがユダヤ人であれ異邦人であれ、金持ちであれ貧しい者であれ、権力者であれ一般の人であれ、イエス様は私たちのために命を捧げられました。その目的は、私たちが神様と和解し、すべてのクリスチャンが一つとなることです。

だから、聖餐式でキリストを思い起こすとき、この最も重要な真理も心に留めるべきです。

あなたはどうでしょうか。聖餐式に参加するとき、神様との関係だけを考えているでしょうか。それとも、ほかのクリスチャンとの関係も意識しているでしょうか。

聖餐式に参加するとき、兄弟姉妹との関係はどうでしょうか。自分の教会のメンバーだけでなく、ほかのクリスチャンとの関係も考えているでしょうか。

彼らに対して苦々しい思いを抱いていませんか。もしそうであれば、その人と和解しなくてはなりません。そうしないと、あなたの飲み食いは自分をさばくことになってしまいます。(コリント人への手紙11:27-29)

あなたはキリストとの一致だけでなく、兄弟姉妹との一致も持っているでしょうか。

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詩篇

神様の民と一緒にいる喜び

巡礼者がエルサレムの門にたどり着くと、詩篇122篇を歌い始めたでしょう。この歌は、詩人が神様の宮に入る喜びを言い表しています。

人々が私に、「さあ、主の家に行こう」と言ったとき、私は喜んだ。(詩篇122:1)

私は若い時、あまりそんな喜びはありませんでした。私は7-8歳ぐらいでクリスチャンになったのですが、中学生になったとき、もう教会に行きたくなくなりました。

私の教会は良い場所でしたが、私は他のことをしたかったのです。

けれども、高校生になった時、初めて神様の臨在を感じました。私が賛美をするとき、急に理解したのは、私たちはカラオケをしているのではなく、その歌を通して神様に祈っているということです。

その経験で、私の教会と礼拝に対する考え方が変わりました。

時々、クリスチャンは教会が必要ないと思います。なぜなら、彼らは自分で礼拝できると思うからです。

もちろん、礼拝には個人的な側面もあります。しかし、もし私たちが他のクリスチャンと一緒に礼拝するのが嫌いなら、私たちの態度は間違っています。

時々、私たちにはプライドの問題があります。「私は聖書をもうよく知っている。牧師の説教は必要ない。」

時々、私たちは人々を許せないので、教会に行きたくないと思います。「どの教会に行っても、誰かが私を傷つける。だから、教会はもういいです。」

時々、私たちはいつも人々を裁きます。「全てのメンバーは偽善者だ。彼らと付き合いたくない。」

また、時々私たちは自己中心です。「私にとって、教会に行く益がない。」

けれども、教会に行くのは、ただ私たちの利益のためではありません。教会で、私たちは神様に賛美を捧げます。

また、私たちは周りの人々に仕えるべきです。そして、彼らと一緒にそのコミュニティに仕えるべきです。

この詩篇では、詩人はエルサレムの平和のために祈ることについて話します。また、彼はエルサレムの繁栄を求めます。そのように、私たちは自分の都市のために祈るべきであり、その都市の繁栄を求めるべきです。

一人では、このようなことは私たちはあまりできません。しかし、キリストの体として、教会は私たちのコミュニティに影響を与えることができます。

もしあなたが、ただ礼拝に出て、すぐに帰るなら、あなたは神様の計画が全然見えません。

だから、教会の人々と交わり、一緒に働いてください。神様の体で、あなたには自分の役割があるので、その役割を果たしましょう。

ヘブル人への手紙の著者はこう書きました。

また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。

ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。(へブル書10:24-25)