英語には、こんなことわざがあります。「You can please some of the people some of the time, but you can’t please all of the people all of the time.」
つまり、「あなたは、たまにある人々を喜ばせることができるかもしれません。しかし、いつもすべての人々を喜ばせることはできません。」ということです。
このことわざは、イエス様に対しても当てはまりました。イエス様は完全な方でした。イエス様のすべての行動は完全でしたし、イエス様は完全に人々を愛しておられました。
それでも、イエス様はすべての人々を喜ばせたわけではありません。そして、イエス様ご自身も、すべての人々を喜ばせようとは全く思われていませんでした。
むしろ、イエス様は批判者たちの偽善を指摘されました。そして、彼はこう言われました。
この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、こう言うのです。
「笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。」
ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ』と言い、人の子が来て食べたり飲んだりしていると、「あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」と言います。
でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。(マタイ11:16-19)
要するに、バプテスマのヨハネが来て禁欲生活を送ったとき、パリサイ人たちや律法学者たちはこう言いました。「その人の言うことを聞くな。彼は頭がおかしい。」
しかし、イエス様が来られたとき、イエス様は罪人と共に食べたり飲んだりされたため、彼らはこう言いました。「その人の言うことを聞くな。彼は食いしん坊で大酒飲みだ。」(もちろん、イエス様が食いしん坊で大酒飲みだったわけではありません。)
このことからわかるのは、パリサイ人たちがヨハネとイエス様を拒絶したのは、彼らの生活スタイルのためではなかったということです。実際のところ、彼らはヨハネとイエス様が伝えたメッセージそのものを受け入れなかったのです。
多くの人々も、そのパリサイ人たちのようです。私たちがイエス様の言葉を伝えるとき、彼らはそのメッセージによって心地悪さを感じることがあります。
すると、彼らはそのメッセージを汚すため、メッセンジャーの評判を傷つけようとします。そして、批判できる点を探し出そうとします。そんな人々を喜ばせることは、絶対にできません。
ここで私が言いたい要点は何でしょうか。そんな人々を喜ばせようとしないでください。
賢い人は、すべての人々を喜ばせようとはしません。賢い人は、ただ一人、神様を喜ばせようとします。そして、その結果として、彼らは神様のために実を結ぶのです。
イエス様はこう言われました。
知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します。(ルカ7:35)
それはどういう意味でしょうか。相手があなたを批判しても、あなたが結んだ実を通して、あなたの知恵の正しさが証明されるのです。
だから、すべての人々を喜ばせようとする必要はありません。イエス様でさえそれをされませんでした。私たちも同じです。ですから、私たちを召された方を喜ばせることに集中しましょう。
