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ヨハネの福音書 ヨハネ13章 ルカ22章

本当のリーダーシップ

私は以前にも述べましたが、四つの福音書を統合するのは時として難しいものです。

多くの場合、著者たちは出来事を年代順に伝えておらず、時には話の途中で脱線することもあります。最後の晩餐について読むと、私はそのように感じます。

弟子たちが食事をしているとき、彼らは誰が一番偉いかについて議論を始めました。なぜその話題になったのかは分かりませんが、もしかすると、過ぎ越しの祭りを祝うために二階の大広間に入った際、一人一人の席を巡って言い争いが起こったのかもしれません。

なぜなら、その文化では、イエス様の右に座る者が最も偉い弟子とされ、左に座る者が次に偉い弟子とされたからです。そして、イエス様から離れた席に座るほど、その弟子の地位は低く見なされました。

そのため、彼らは誰がイエス様の隣に座るべきかを巡って争っていたのかもしれません。

例えば、ペテロはこう言ったかもしれません。「俺はお前たちのリーダーだ。イエス様の右に座るのは当然だろう。」

するとヨハネは、「でも、イエス様は俺のことを一番好きだよ。」と言ったかもしれません。

また、ユダは「でも、俺は財務を担当している。だから、一番偉いはずだ。」と言ったかもしれません。

イエス様がこの言い争いをどれほどの時間見ていたのかは分かりませんが、ようやく弟子たちは不満げに席につきました。そして、そのときイエス様は驚くべき行動をとられました。

このような状況では、食事の前に誰かが他の人々の足を洗うことが習慣でした。当時、人々はサンダルを履き、未舗装の道を歩いていたため、すぐに足が汚れてしまいました。

通常、しもべが足を洗いましたが、しもべがいない場合は最も若い者がその役目を担うことになっていました。したがって、本来であればヨハネが行うべきだったかもしれません。

けれども、彼は何とかイエス様の隣の席を確保した(ヨハネ13:23)ため、しもべの役を引き受けるのを避けたかったのかもしれません。そして、その大喧嘩の末、他の弟子たちも足を洗う気にはなれませんでした。

イエス様は弟子たちを叱責する権利がありました。しかし、イエス様は責めるのではなく、愛を示されました。

イエス様は席から立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰に巻かれました。そして、弟子たちの足を洗い、拭かれました。

それを見て、弟子たちは恥ずかしい思いに駆られたでしょう。特に、イエス様がその仕事をしているのは、彼らがそれを避けたせいでした。彼らの中で、誰もその仕事を引き受けたくなかったのです。

イエス様はその務めを終えると席に戻り、彼らに問いかけられました。

わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。あなたがたはわたしを「先生」とか「主」とか呼んでいます。

そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。

主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。(ヨハネ13:12-14)

イエス様は続けてこう言われました。

異邦人の王たちは人々を支配し、また人々に対し権威を持つ者は守護者と呼ばれています。しかし、あなたがたは、そうであってはいけません。

あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい。

食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょうか。食卓に着く人ではありませんか。しかし、わたしはあなたがたの間で、給仕する者のようにしています。(ルカ22:25-27)

そして、イエス様は結論を述べられました。

わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。

まことに、まことに、あなたがたに言います。しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません。

これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。(ヨハネ13:15-17)

イエス様は、彼らに何を教えようとされたのでしょうか。

イエス様は、彼らを大きな責任を担う者として選ばれました。やがて、イエス様は彼らに王権を委ねられます。彼らはイスラエルの十二部族を治め、イエス様の国でその食卓に着き、共に食べたり飲んだりするのです。

とはいえ、イエス様が以前言われたように、リーダーシップとはただ人々に命令を下すことではありません。本当のリーダーは人々に仕える者です。そのため、イエス様は弟子たちの足を洗われました。そして、イエス様は私たちの罪のために死なれました。

だからこそ、私たちリーダーも同じことを実践すべきです。

リーダーシップの祝福は、私たちの権利にあるのではありません。それは、人々に命令することではなく、むしろイエス様のように人々に仕えることにあります。それこそが、本当のリーダーシップなのです。

あなたは、リーダーシップをどのように定義するでしょうか。それは、人々があなたに仕えることでしょうか。それとも、あなたが人々に仕えることでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ12章

イエス様に仕えるために

イエス様がエルサレムに目立つ形で入城されたこと、また神殿から業者や両替人を追い出されたことによって、エルサレム中でイエス様は話題となりました。そのため、初めてエルサレムを訪れた人々がイエス様に会いたいと願うのは、自然なことでした。

この話では、ユダヤ教に改宗しようとしていたギリシャ人たちが、イエス様に会いたいと願いました。おそらく、ピリポがギリシャ語の名前だったため、彼らは最初にピリポのもとを訪ねたのでしょう。

そこで、ピリポはアンデレとともに、彼らをイエス様のもとへ連れて行きました。(アンデレは、人々をイエス様に紹介することが多かった人物です。)

イエス様は彼らに会ったとき、次のように語られました。

人の子が栄光を受けるときが来ました。

まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。(ヨハネの福音書12:23-24)

イエス様はご自身の死と復活について語られていました。イエス様がこの世におられる限り、その働きはイスラエルに限定されていました。けれども、イエス様が死んで復活された後、聖霊を通してその働きは世界中に広がり、すべての国と民族に及びました。

そして、イエス様はさらに続けて語られました。

自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む人は、それを保って永遠のいのちに至ります。

わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについてきなさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。

わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。(25-26)

イエス様は、ごく当たり前のことを語ると同時に、非常に逆説的なことも言われました。

では、その当たり前のこととは何でしょうか。イエス様に仕えたいと思うなら、イエス様についていかなければなりません。また、イエス様に仕えたいと思うなら、イエス様がおられる場所にいなければなりません。

もしあなたが常にイエス様から離れているなら、イエス様に仕えることは困難です。だから、イエス様に仕えたいと思うなら、イエス様の近くにいて、イエス様が望まれることを見極めなければなりません。

けれども、イエス様と共に歩みたいと願うなら、ときには愛する者や、執着しているものを手放さなければならないこともあります。だからこそ、イエス様は逆説的なことを言われました。

「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至る。」

もちろん、私たちはすべてを憎むべきだというわけではありません。しかし、ときにはイエス様に従うために、私たちは愛する者や、この世のものを手放さなければならないことがあります。

たとえば、イエス様が「あなたの国を離れ、別の場所へ行きなさい」と言われるなら、私たちはその御声に従わなければなりません。

また、イエス様が「あなたの現在の収入は高いかもしれないが、その仕事を捨て、私に仕えなさい」と言われるなら、イエス様の国のために、私たちはその道を選ばなければなりません。

ときには、イエス様についていくことで、私たちの人生は大きく変わります。ときには犠牲を払うこともあるでしょう。けれども、もし私たちがイエス様のもとにいなければ、真に仕えることはできません。

忘れないでください。その犠牲と変化は痛みを伴うかもしれません。しかし、最終的には、その犠牲には大きな価値があります。

私は日本に引っ越したとき、そのことを学びました。もともとハワイを離れる予定はまったくありませんでした。けれども、実際に日本へ来ると、私は以前よりも幸せになりました。イエス様についていき、日本に来たことで、私は新たな命を見出しました。

イエス様についていくなら、あなたも命を見つけることでしょう。

あなたはどうでしょうか。イエス様がおられる場所に、あなたもいるでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ19章

ミナのたとえ話:私たちが待っているうちに

ルカによれば、イエス様がこのたとえ話を教えられた理由は、「イエス様がエルサレムの近くに来ていて、人々が神の国がすぐに現れると思っていたから」です(ルカの福音書19:11)。

つまり、イエス様は彼らの間違った考えを正すと同時に、正しい考えを彼らの心に植え付けたいと思われたのです。それで、イエス様はこう言われました。

ある身分の高い人が遠い国に行った。王位を授かって戻って来るためであった。

彼はしもべを十人呼んで、彼らに十ミナを与え、「私が帰って来るまで、これで商売をしなさい」と言った。(12-13)

イエス様は、どのような間違った考えを覆したいと思われたのでしょうか。それは、神の国がすぐに来るという考えです。

王としての地位につく前に、イエス様は罪の問題を解決するために十字架で死ななければなりませんでした。

イエス様は死なれ、復活された後、天に帰って天の父の右に座られました。そして、聖書によれば、現在イエス様は「敵がご自分の足台とされるのを待っておられます」(へブル人への手紙10:13)。

ですから、私たちはいまだにイエス様の帰りを待っています。

では、イエス様が帰られるまで、私たちは何をすべきでしょうか。私たちはイエス様に忠実に仕えるべきです。

イエス様は弟子たちの心にその考えを植え付けたいと思われました。神の国のために、まだたくさんの仕事をしなければなりません。

このたとえ話では、王は十人のしもべに同じ金額を与えました。そして、王は彼らに、「私が帰って来るまで、これで商売をしなさい」と命じられました。

そのお金は何を象徴しているのでしょうか。おそらく、それは私たちの救いです。しもべたちはそのお金を得るために働いたのではありません。王はそのお金を彼らに預け、彼らはそれを投資しなければなりませんでした。

同じように、私たちは働いて救いを得たのではありません。神様の恵みによって救いが与えられました。しかし、私たちはその救いを用いて、神様の国のために働かなければなりません。

パウロは次のように言いました。

恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。【ピリピ2:12-13)

私たちが与えられた救いを投資するとは、どういう意味なのでしょうか。それは、私たちが受けた救いを用いて、周りの人々に投資することを意味します。

私たちは自分の救いを喜ぶだけではなく、その救いを周りの人々と分かち合う心が必要です。彼らのために祈り、彼らに仕えましょう。

そして、私たちは彼らに対して、イエス様の目、口、耳、手となるべきです。イエス様が帰られるまで、私たちはそうし続けなければなりません。

そのように行動するなら、私たちは報いを受けるでしょう。どんな報いでしょうか。それは、神様の国のためにさらに大きな責任が与えられることです。

多くのクリスチャンは神様のために素晴らしいことをしたいと思っています。しかし、もし彼らが受けた救いを周りの人々と分かち合わないのであれば、神様がさらに大きな責任を彼らに委ねられるでしょうか。

さらに、最後のしもべのように、神様の国のために投資をしないのであれば、イエス様が帰られるとき、その人々は叱責されることになるでしょう。

パウロはそのような人々について次のように語っています。

その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。(第一コリント3:15)

あなたはどうでしょうか。あなたが受けた救いで、何をしているのでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ16章

何に、誰に仕えているか?

私たちの社会では、「お金」という神が非常に人気です。多くの人々がお金を慕い求め、それを追いかけます。彼らはお金のために働き、時にはそのために命を落とします。(例えば、過労死です。)

しかし、イエス様はこう言われました。

しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。

あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。(ルカの福音書16:13)

私は以前も言いましたが、私にとってこの教えはとても厳しいものです。特に、お金を使って人に仕えることは難しいと感じます。だからこそ、私は自分自身に問いかけるべきです。私は誰に仕えているのでしょうか。

私はお金に仕えているのでしょうか。懸命に働き、手にした財産をできる限り手放さずに守ろうとしているだろうか。それとも、その財産を神様に仕えるための道具と考えているだろうか。神様は、私の財産にいつでも、どこでもアクセスできるだろうか。

もしそうでないなら、私は神様ではなく、お金に仕えていることになります。それは偶像礼拝です。

これはパリサイ人たちの問題でもありました。彼らはイエス様の言葉を聞いたとき、あざ笑いました。

その時代、人々は富を神様の祝福のしるしだと考えていました。

「神様は義人だけを祝福されるはずだ。私は多くの財産を持っているのだから、私は義人に違いない。」

それだけではなく、彼らは貧しい人々を見下しました。そして、イエス様までも侮りました。つまり、彼らは偶像礼拝の罪を犯しただけでなく、プライドという罪も犯したのです。

あなたはどうでしょうか。あなたは自分の持ち物を誇っているでしょうか。あなたの持ち物が、あなたの神になってはいないでしょうか。あなたはお金に仕えているために、神様の国のために周りの人々に触れることができないでしょうか。

あなたは何に仕えているでしょうか。誰に仕えているでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ7章

私たちは誰に仕えているでしょうか

この箇所を読んだとき、この言葉は私の心を打ちました。なぜなら、私は神様のみ言葉を教えているからです。

わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。

自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。(ヨハネの福音書7:16-18)

この箇所を読むと、私は自分自身にこう問いかけます。「私の教えはどこから来るのだろうか。私自身から来るのだろうか。それとも、神様から来るのだろうか。

私が日曜日にメッセージを伝えるとき、それは私の栄光のためだろうか。私は教会の人々を感動させたいと思っているのだろうか。それとも、人々が神様に栄光を帰すよう願っているのだろうか。」

私たちクリスチャンは真理を伝える者であるべきです。そして、私たちには偽りがあってはなりません。牧師や聖書を教える者だけでなく、すべてのクリスチャンが真理を伝える者であるべきです。

しかし、真理を語る者になりたいなら、私たちは誰に仕えるのか決める必要があります。また、誰の栄光を求めるのか決める必要があります。

私たちは自分自身の栄光を求めているのでしょうか。それとも、神様の栄光を求めているのでしょうか。私たちは本当に神様に仕えているのでしょうか。それとも、口先で神様の名前を讃えているだけで、実際には自分自身に仕えているのでしょうか。

もし私たちが自分自身の栄光を求めているなら、または周囲の人々からの誉れを求めているなら、神様の福音を薄めてしまう誘惑に直面することになります。そして、もしかすると福音をまったく伝えない選択をしてしまうかもしれません。

あるいは、私たちはパリサイ人のようになってしまうかもしれません。表面上は神様に仕えているふりをしながら、実際には人々からの栄光を求めているのです。

あなたは誰に仕えていますか。あなたは誰の栄光を求めていますか。

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詩篇

神様の民と一緒にいる喜び

巡礼者がエルサレムの門にたどり着くと、詩篇122篇を歌い始めたでしょう。この歌は、詩人が神様の宮に入る喜びを言い表しています。

人々が私に、「さあ、主の家に行こう」と言ったとき、私は喜んだ。(詩篇122:1)

私は若い時、あまりそんな喜びはありませんでした。私は7-8歳ぐらいでクリスチャンになったのですが、中学生になったとき、もう教会に行きたくなくなりました。

私の教会は良い場所でしたが、私は他のことをしたかったのです。

けれども、高校生になった時、初めて神様の臨在を感じました。私が賛美をするとき、急に理解したのは、私たちはカラオケをしているのではなく、その歌を通して神様に祈っているということです。

その経験で、私の教会と礼拝に対する考え方が変わりました。

時々、クリスチャンは教会が必要ないと思います。なぜなら、彼らは自分で礼拝できると思うからです。

もちろん、礼拝には個人的な側面もあります。しかし、もし私たちが他のクリスチャンと一緒に礼拝するのが嫌いなら、私たちの態度は間違っています。

時々、私たちにはプライドの問題があります。「私は聖書をもうよく知っている。牧師の説教は必要ない。」

時々、私たちは人々を許せないので、教会に行きたくないと思います。「どの教会に行っても、誰かが私を傷つける。だから、教会はもういいです。」

時々、私たちはいつも人々を裁きます。「全てのメンバーは偽善者だ。彼らと付き合いたくない。」

また、時々私たちは自己中心です。「私にとって、教会に行く益がない。」

けれども、教会に行くのは、ただ私たちの利益のためではありません。教会で、私たちは神様に賛美を捧げます。

また、私たちは周りの人々に仕えるべきです。そして、彼らと一緒にそのコミュニティに仕えるべきです。

この詩篇では、詩人はエルサレムの平和のために祈ることについて話します。また、彼はエルサレムの繁栄を求めます。そのように、私たちは自分の都市のために祈るべきであり、その都市の繁栄を求めるべきです。

一人では、このようなことは私たちはあまりできません。しかし、キリストの体として、教会は私たちのコミュニティに影響を与えることができます。

もしあなたが、ただ礼拝に出て、すぐに帰るなら、あなたは神様の計画が全然見えません。

だから、教会の人々と交わり、一緒に働いてください。神様の体で、あなたには自分の役割があるので、その役割を果たしましょう。

ヘブル人への手紙の著者はこう書きました。

また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。

ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。(へブル書10:24-25)