これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。
あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。。。
律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。(ガラテヤ人への手紙3:2ー3,11)
信仰によって生きるとは、どういう意味でしょうか。パウロは何を意味したのでしょうか。
たぶん、その意味の基礎は2章20節にあります。
今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。
信仰によって生きるとは、この二つのことを信じることから始まります。
1. 神様は実際に私を愛しておられます。
2. イエス様は私の罪のために死んでくださいました。十字架で、イエス様は私の罪の債務を完全に赦してくださいました。
私が初めてその真理を実感したとき、私は深く感動しました。何年もの間、その真理を知ってはいましたが、その日、その真理は私の心に染み渡りました。
多くの人は、クリスチャンになるとき、その真理を信じ、喜びます。しかし、やがて次のような思いが心に入り始めます。
「神様は私にがっかりしているのではないか。」
「私はあまり良いクリスチャンじゃないなあ。もっと良いクリスチャンになるべきだ。」
「私はもっとやるべきだろう。もっと聖書を読んだり、祈ったり、友達にイエス様のことを話したり、神様に仕えたりするべきだろう。」
「私は罪に対してもっと勝利を得るはずなのに。」
「私はもっと良い人間になるべきだ。もっと良い父親。もっと良い母親。もっと良い生徒。もっと良い教会のリーダー。」
そそのような考えが自分の心に浮かぶことがあるでしょうか。
それらは信仰の言葉ではありません。それらは信仰から生まれる喜びの言葉ではありません。
私たちがクリスチャンになったとき、神の愛、イエス様の十字架の働きによる神の受け入れを信じ、喜びました。それなのに、どうしてすぐに、神様の愛と受け入れが私たちの「実績」によるものだと考え始めるのでしょうか。
パウロはガラテヤ人たちにこう言いました。「クリスチャンになるとき、神様があなたがたを受け入れた理由は、あなたがたが割礼を受け、神の律法に従ったからではありません。むしろ、あなたがたがイエス様を信じることによって、神様はあなたがたを受け入れてくださいました。
では、なぜ今、神の律法に従うあなたがたの努力によって、神様の受け入れを得ようとしているのですか。」
あなたはどのようにクリスチャンとしての生活を送ろうとしているでしょうか。信仰によって生きているでしょうか。イエス様があなたを愛し、あなたのためにご自身を与えてくださったことを喜んでいるでしょうか。
もしかすると、あなたが神の愛と受け入れに値することをまだ証明しようとしているでしょうか。
