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コリント人への手紙第一

悪霊と交わること

日本では、多くのクリスチャンたちは仏教の葬式や法事について、どうすべきか悩みます。

意見はさまざまです。そうした儀式に参加しないクリスチャンもいれば、参加はするものの、数珠を使わず、焼香もしない人もいます。

私の考えですが、こうした儀式への参加については、自分の良心に従うべきです。

ただし、参加する場合は、事前に何をするのか、しないのかをよく考えておいたほうがよいでしょう。そうしなければ、自分の良心に反する行動を取ってしまうかもしれません。

例えば、あるクリスチャンはこう考えます。「私は焼香するけれど、特に深い意味はない。この偶像は本当に神々ではないし。」

コリントのクリスチャンも同じような考えを持っていたようです。パウロは彼らに、「偶像に捧げられた肉を食べてもよい」と語りました。

けれども、一部のクリスチャンはそれを聞いて、その言葉以上の行動に踏み出したようです。彼らは市場で偶像に捧げられた肉を購入するだけでなく、友人の家でその肉を食べるだけでなく、さらに偶像礼拝の祭りにも参加していたようです。

もしかすると、彼らはこう考えたかもしれません。 「私は本当にその偶像を礼拝しているわけではない。ただ家族や友人と過ごしているだけだ。」

または、こう考えたかもしれません。 「この祭りに参加することで、家族や友人に愛を示している。それに、この偶像は大したものではない。本当の神々ではないのだから。」

しかし、パウロは彼らにこう言いました。

ですから、私の愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい。(コリント人への手紙第一10:14)

そして、パウロは二つのことを指摘します。一つ目は聖餐式についてです。彼はこう言いました。 「聖餐式に参加するとき、キリストの血とからだにあずかることではありませんか。」(16)

つまり、「そのパンを食べ、そのぶどう酒を飲むとき、あなたはイエス様との交わりを示している。イエス様の十字架の御業によって、今やあなたはイエス様との関係を持っていることを表している。」ということです。

そして、パウロは旧約聖書を引用し、イスラエルの民のいけにえについて語ります。彼らの供え物のひとつが「和解のいけにえ」でした。

牛を捧げた後、その肉の一部を家に持ち帰り、家族と共に食しました。それは神様との平和、また神様との交わりの象徴でした。

パウロは言います。 「偶像礼拝の祭りに参加することは、まさに同じことをしているのではないでしょうか。あなたはその偶像との交わりを示しているのです。」

では、偶像の本当の問題とは何でしょうか。ただの金や銀や木の像でしょうか?

そのような考え方は誤りです。パウロはこう言いました。

私は何を言おうとしているのでしょうか。偶像に献げた肉に何か意味があるとか、偶像に何か意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。

むしろ、彼らが献げる物は、神にではなくて悪霊に献げられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。(19-20)

要するに、コリントの人々がその祭りに参加するとき、彼らは実際に悪霊と交わっていました。同様に、焼香をし、仏壇の前で拝むとき、人々は悪霊と交わっていることになります。

では、私たちクリスチャンはそのような行為をしてもよいのでしょうか。

パウロは、それを一切許しませんでした。

あなたがたは、主の杯を飲みながら、悪霊の杯を飲むことはできません。主の食卓にあずかりながら、悪霊の食卓にあずかることはできません。

それとも、私たちは主のねたみを引き起こすつもりなのですか。私たちは主よりも強い者なのですか。(21-22)

私たちは霊的な事柄を扱うとき、十分に注意する必要があります。私たちは何に向き合っているのでしょうか。神様でしょうか。それとも、悪霊でしょうか。

偶像だけでなく、占星術、手相占い、ウィジャ板、タロットカードも単なる娯楽ではありません。それらは悪霊と関わる行為です。

私たちはそのようなことを避けるべきです。むしろ、パウロの言葉に従いましょう。

愛する者たち。このような約束を与えられているのですから、肉と霊の一切の汚れから自分をきよめ、神を恐れつつ聖さを全うしようではありませんか。(コリント人への手紙第二7:1)

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コリント人への手紙第一

知識をどのように扱うか

さまざまな意味で、この箇所はローマ書14書に似ています。そこで、まず1〜3節を見て、この言葉がどのようにこの章の残りの部分に関わるのかについて考えたいと思います。

パウロはこう語っています。

次に、偶像に献げた肉についてですが、「私たちはみな知識を持っている」ということは分かっています。

しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。

自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。(コリント人への手紙第一8:1-3)

クリスチャンの兄弟たちが偶像に捧げられた食べ物を食べることに対して、あるコリントの人々は戸惑いを感じたようです。彼らは、そのような食べ物を口にすることは罪だと考えました。

このような人々について、パウロはこう書いています。

しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。(ローマ書14:23)

一方で、ほかのコリントの信者たちは、偶像に捧げられた肉を食べることが彼らの霊的な歩みに影響を与えないことを理解していました。実際、イエス様は「すべての食べ物は清い」と教えられました。(マルコ7:19)

ところが、その知識が彼らのプライドへとつながりました。そして、傷つきやすい良心を持つ兄弟たちの前で、自らの自由を積極的に行使し、偶像に捧げられた肉を食べました。

彼らの行為によって、傷つきやすい良心を持つ兄弟たちは、自分の良心に反しながらその肉を口にし始めました。しかし、彼らの行為が信仰から出たものではなかったため、その肉を食べることは彼らにとって罪となりました。

そのため、パウロは知識のある兄弟たちに厳しく戒めました。なぜなら、彼らの行為によって、弱い兄弟たちが罪に陥ってしまったからです。

そのうえでパウロはこう語りました。

「もちろん、偶像は真の神ではありません。私たちはそのことを知っています。だから、偶像に捧げられた肉を食べても問題はありません。」

とはいえ、パウロはさらにこうも語りました。

自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。(コリント人への手紙第一8:2)

パウロは何を伝えようとしているのでしょうか。単に知識を持っているだけでは十分ではありません。その知識をどのように扱うかを理解し、正しく用いなければなりません。知識の扱い方を知らなければ、その知識は不完全なものとなります。

では、私たちはどのように知識を用いるべきでしょうか。それは、愛をもって知識を扱うことです。

パウロはコリントの人々にこう語りました。

知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。(1)

知識を持つことは、時にプライドへとつながるかもしれません。「私は知っている。あなたは知らない。」

そのプライドによって、ある人は聖書について延々と議論しますが、何も解決しません。

また、知識とプライドのゆえに、人は相手を見下し、裁いてしまいます。

さらには、そのプライドによって、教会が分裂してしまうことさえあります。

コリントの教会でも、このような問題が生じました。そこで、パウロは彼らに語りました。

「あなたが知識を持っていること自体を、神様は喜ばれるわけではありません。神様が喜ばれるのは、あなたたちがその知識をどのように用いるかです。

その知識によって人々を築き上げるでしょうか。あるいは、その知識によって人々を壊してしまうでしょうか。」

そして、パウロはこの教えを次のようにまとめます。

しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。(3)

私たちは、人が神様を愛しているかどうかをどのように見分けることができるでしょうか。ヨハネはこのことについて、私たちに教えています。

神を愛する者は兄弟も愛すべきです。(第一ヨハネ4:21)

残念なことですが、コリントの人々はそうしませんでした。彼らは、自らの知識によって兄弟たちを築き上げるのではなく、かえって崩してしまいました。その結果はどうなったのでしょうか。

つまり、その弱い人は、あなたの知識によって滅びることになります。この兄弟のためにも、キリストは死んでくださったのです。(11)

だから、パウロは彼らに警告します。

あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。(12)

そして、パウロは彼らに、知識をどのように用いるべきかを教えています。

ですから、食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません。(13)

あなたはどうでしょうか。自分の知識をどのように用いていますか。

自分を高ぶらせ、兄弟姉妹を傷つけてしまうでしょうか。それとも、彼らを築き上げ、成長を助けるでしょうか。

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エゼキエル書

姦淫

この箇所はホセア書に似ています。ホセアがイスラエルを姦淫する妻と例えたように、エゼキエルもエルサレムを姦淫する妻と例えています。

まず、エゼキエルはエルサレムに対する神様の愛について語ります。

悪人、つまりエモリ人とヘテ人がエルサレムを建て、その都市が嫌われる存在となったにもかかわらず、神様はエルサレムを世話し、美しく整えてくださいました。

ダビデがエルサレムの王となったとき、彼は契約の箱をエルサレムへ運びました。

その後、ソロモンが神様のために宮を建てました。この時、神様はエルサレムを祝福し、御自分のものとされました。

ソロモンの時代、エルサレムは大いに栄え、銀はほとんど価値がないほどでした(列王記第10:21)。

けれども、すぐにエルサレムの没落が始まりました。ソロモンが多くの女性と結婚し、その妻たちの影響によって、ソロモンは偶像を礼拝するようになったのです。

偶像礼拝はたちまちイスラエル全土に広がりました。彼らは神様から与えられたものを他の神々を礼拝するために使いました。さらには、神様の宮で他の神々を礼拝することさえありました。

また、彼らはエジプト人、アッシリヤ人、バビロン人と同盟を結び、神様を拒絶して、その国々の神々を礼拝しました。

神様はこう言われました。

遊女には、すべて代価が支払われるのに、あなたは、自分のほうから持参金をすべての愛人たちに与え、彼らに贈り物をして、四方からあなたのところに来させて姦淫をした。

だから、あなたの姦淫は、ほかの女の場合と反対だ。だれもあなたを求めて姦淫をする者はいなかった。

あなたが報酬を支払い、だれもあなたに報酬を支払わなかった。だからあなたは反対のことをしたのだ。(エゼキエル16:33-34)

その罪を犯しても、エルサレムの人たちは「私たちはそんなに悪くはない」と言いました。

しかし、神様はこう言われました。

「あなたは北イスラエル王国の首都サマリヤよりも悪い。あなたはソドムよりも悪い。私は彼らを裁いたが、あなたと比べれば、彼らは正しい者だった。」(46-52)

だから、神様は「あなたを裁く」と言われました。

しかし、神様はもう一つのことも言われました。それは、いつの日か神様が彼らを癒し、彼らの罪を赦してくださるという約束です。また、神様は彼らの恥を取り去ることをも約束されました。

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

一つ目は、神様が私たちのためにしてくださったことを決して忘れるべきではないということです。

神様は私たちを罪と恥から救い出し、私たちにイエス様の義と美しさを着せてくださいました。

私たちが赦されるためにイエス様が十字架で成し遂げた働きを思い出し、感謝を捧げましょう。そして、私たちを恥ずかしくするものに戻って霊的な姦淫を犯すことがないようにしましょう。

二つ目は、自分が自分自身を救ったと思って、自分を欺くことがないようにするということです。「自分の力と知恵によって祝福された」と思い上がることは避けましょう。

ヤコブはこう書きました。

すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。(ヤコブ1:17)

「誰も私に何も与えてくれなかった。私はその物のためにちゃんと働いた」と思うかもしれません。

けれども、神様はあなたの命、才能、力を与えてくださいました。すべては神様からのものです。

三つ目は、私たちが自分自身を周りの人々と比べるべきではないということです。つまり、「私はその人ほど悪くはない」と言うべきではありません。

なぜなら、多くの場合、私たちの標準は神様の標準とはかなり異なるからです。

私たちは自分の行動がそれほど悪くないと思うかもしれませんが、神様はその行動を罪と呼ばれるのです。そして、神様の目には、私たちの行動が他の人々の行動よりも悪いと映ることもあります。

四つ目は、私たちがどんなに失敗しても、神様の約束は決して変わらないということです。私たちが忠実でなくても、神様は常に忠実です。(第一テモテ2:13)

エルサレムの人々は完全に失敗しましたが、結局、神様は彼らを癒されました。同じように、神様はあなたをも癒してくださいます。

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エレミヤ書 オバデヤ書

裁きの理由

なぜ私はエレミヤ書とオバデヤ書の箇所を混ぜているのでしょうか。それは、オバデヤ書を読むと、このエレミヤ書の箇所に似ているからです。

例えば、エレミヤとオバデヤは同じ表現とイメージを使っています。だから、多分オバデヤはエレミヤの言葉を知っていたかもしれません。また、エレミヤはオバデヤの言葉を知っていたかもしれません。

一人の聖書の著者が別の聖書の著者を引用することは珍しいことではありませんでした。

あるいは、神様はオバデヤにこう言われたのかもしれません。「エレミヤの言葉を覚えていますか。彼が言ったことをもう一度書きなさい。」(逆の可能性もあります。)

または、彼らがお互いの預言を知らなかったけれど、神様は彼らに同じメッセージを伝えられたのかもしれません。それも珍しいことではありません。

とにかく、神様はユダの周りの国々を裁いておられます。おそらく、エレミヤ書27ー29章の出来事が起こったとき、この預言が書かれたのでしょう。27ー29章では、エレミヤはその同じ国々に対してネブカデネザルに降伏するよう警告しました。

どうして神様はその国々を裁かれたのでしょうか。神様は3つの理由を示されました。

1.偽物の神を礼拝すること。例えば、モアブ人の神はケモシュでした。またアモン人の神はモレクでした。すべての国々は真の神に背を向けて、自分の神々を礼拝しました。

2.プライドのこと。神様はモアブについてこう言われました。

おまえは自分の作った物や財宝に拠り頼んだので、おまえまで捕らえられ[る]。。。

私たちはモアブの高ぶりを聞いた。実に高慢だ。その高慢、その高ぶり、その誇り、その心の高ぶりを。「わたしは、彼の高ぶりを知っている。――主の御告げ――

その自慢話は正しくない。その行ないも正しくない。」(エレミヤ書48:7、29ー30)

アモンについて神様はこう言われました。

裏切り娘よ。あなたの谷には水が流れているからといって、なぜ、その多くの谷を誇るのか。あなたは自分の財宝に拠り頼んで、言う。「だれが、私のところに来よう。」(エレミヤ書49:4)

神様はエドムにこう言われました。

あなたの心は高慢だ。あなたが鷲のように巣を高くしても、わたしは、そこから引き降ろす。(エレミヤ書49:16)

そして、神様がケダルとハツォルという国について話されたとき、神様はネブカデネザルに命じられました。

さあ、安心して住んでいるのんきな国に攻め上れ。――主の御告げ。。。(エレミヤ書49:30-31)

3.その国々は、憐れみと情けを全然知らなかったこと。イスラエルが倒れたとき、モアブ人はイスラエル人をからかいました(エレミヤ書48:27)。

また、アモン人は追放されたイスラエル人の土地を奪いました(エレミヤ書49:1)。

そして、エドム人はイスラエル人の「兄弟」なのに、イスラエルが攻撃されたとき、エドムは全然助けませんでした。むしろ、イスラエルが倒れたとき、エドム人たちは喜んでいました。(オバデヤ12-13)

(エドムはエサウの子孫でした。イスラエル人はエサウの弟ヤコブの子孫でした。)

偶像礼拝。プライド。情けと憐れみのない心。あなたはそのような罪を犯すでしょうか。

仏壇を拝むでしょうか。もしくは、すべてのことよりもお金を大事にするでしょうか。あなたが一番大事にするものは、あなたの神です。

プライドはどうでしょうか。あなたは何に信頼するでしょうか。自分自身を信頼するでしょうか。それとも神様を信頼するでしょうか。

ナルニア国物語の著者C・S・ルイスはこう言いました。

「プライドは一番悪い罪です。ほかの罪よりも、プライドは私たちを神様から遠ざけるからです。なぜなら、プライドによって、私たちは神様がいらないと思うからです。そのプライドによって、私たちは神様に背を向けます。」

あなたには情け深くて、憐れみ深い心があるでしょうか。パリサイ人と律法学者にはそのような心がありませんでしたので、イエス様は彼らを厳しく批判されました。イエス様はこう言われました。「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」

パリサイ人と律法学者は神様を愛していると言いましたが、周りの人々を愛していませんでした。

あなたはどうでしょうか。あなたの周りの人々を愛しているでしょうか。それとも自分自身のことだけを考えるでしょうか。

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エレミヤ書

大いなる神

アメリカでは、私たちは金の偶像や木製の偶像をあまり目にしません。けれども、セックスや力、お金はアメリカ人の「偶像」となっています。

日本にもそのような「偶像」がありますが、仏教の偶像や神道の偶像も多く見られます。

もちろん、多くの日本人にとって、仏教や神道は文化的な伝統でしかありません。彼らはそれらを本当に信じているわけではありません。

それでも、その偶像礼拝を見ると、私は本当に悲しくなります。なぜなら、それらの「神々」は全く力を持たないからです。

それらの「神々」は、ただの木材や金にすぎません。

だからこそ、神様はこのように言われました。

国々の民のならわしはむなしいからだ。それは、林から切り出された木、木工が、なたで造った物にすぎない。

それは銀と金で飾られ、釘や、槌で、動かないように打ちつけられる。

それは、きゅうり畑のかかしのようで、ものも言えず、歩けないので、いちいち運んでやらなければならない。

そんな物を恐れるな。わざわいも幸いも下せないからだ。」(エレミヤ書10:3ー5)

また、

すべての人間は愚かで無知だ。すべての金細工人は、偶像のために恥を見る。その鋳た像は偽りで、その中に息がないからだ。

それは、むなしいもの、物笑いの種だ。刑罰の時に、それらは滅びる。(14ー15)

しかし、神様はそれらの「神々」と全く異なります。

主よ。あなたに並ぶ者はありません。あなたは大いなる方。あなたの御名は、力ある大いなるものです。諸国の民の王よ。

だれかあなたを恐れない者がありましょうか。それは、あなたに対して当然なことです。

諸国の民のすべての知恵ある者たちの中にも、そのすべての王国の中にも、あなたと並ぶような者はいないからです。(6ー7)

また、

しかし、主はまことの神、生ける神、とこしえの王。その怒りに地は震え、その憤りに国々は耐えられない。。。

主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く建て、英知をもって天を張られた。(10、12)

私は、その偶像を礼拝している人々を嘲っているのではありません。けれども、彼らがその偶像を捨てて、まことの神様を礼拝するように祈ります。神様こそが、私たちの礼拝にふさわしいお方です。

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イザヤ書

ほかの神はいない

イザヤ書43-44章では、神様はその民にこの真理を教え込んでおられます。「私だけが神です。他に神はいないのです。」

43章には、次のように書かれています。

あなたがたはわたしの証人、――主の御告げ――わたしが選んだわたしのしもべである。

これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者であることを悟るためだ。

わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない。

わたし、このわたしが、主であって、わたしのほかに救い主はいない。(イザヤ書43:10-11)

そして、44章でも、神様は同じ真理を語られます。

わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。(イザヤ書44:6)

多くの人々は、クリスチャンが偏狭な人々だと思います。それは、私たちが他の神が存在するという考えを受け入れないからです。しかし、もしクリスチャンが正しいなら、それは本当に偏狭な態度と言えるのでしょうか。

例えば、もし私が娘に「2+2=4」と言い張ったとしたら、それは偏狭さを表しているでしょうか。

そうではありません。ただ、真理を語っているだけです。

同じように、この聖書の箇所では、神様は何度も、さまざまな方法で、ご自身の唯一性と独特さをイスラエルの民に教えられています。

まず、神様はこう言われました。

わたしが、もう古くからあなたに聞かせ、告げてきたではないか。

あなたがたはわたしの証人。わたしのほかに神があろうか。ほかに岩はない。わたしは知らない。(イザヤ書44:8)

神様はご自身の預言を指されます。何度も神様はイスラエルの民に将来の出来事を預言し、その言葉の通りにそれが実現しました。

さらに、神様はご自身の知識について語られます。神様はこう言われました。「私はすべてを造りました。この世界も、また宇宙も造りましたが、私は他に神を知りません。」

イザヤ書43章では、神様はこう言われます。「私は他の神を造らなかった。また、私より先に造られた神はない。」

そして、44章12-20節では、神様はイスラエルの民にこう語られます。

「考えてみなさい。あなたたちは木材で偶像を造ります。しかし、その木材の残りを使って、自分自身を温めるために燃やします。また、その木材の残りで料理を作ります。それでも、その同じ木材で作った偶像を拝むのですか。

あなたはその偶像の創造者です。それにも関わらず、その偶像に助けを求めるのですか。創造されたものが創造者よりも偉いでしょうか。」

だから、神様はこう言われます。

ヤコブよ。これらのことを覚えよ。イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ。わたしが、あなたを造り上げた。あなたは、わたし自身のしもべだ。

イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない。

わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。

わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。(イザヤ書44:21-22)

神様がイスラエルの民に語られたのと同じことを、私たちにも語っておられます。

「私だけが神であることを思い出しなさい。私はあなたの創造者です。私はあなたの贖い主です。私のもとに戻ってきなさい。なぜなら、十字架で、あなたの罪のために私は代価を支払ったからです。」

神様だけが真の神であることを心に刻みましょう。他に神はいないからです。

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列王記第二 歴代誌第二

神様に立ち返る

少し久しぶりに歴史書に戻りましょう。

この箇所では、私たちはユダの素晴らしい王の一人に出会います。彼の名前はヒゼキヤです。

列王記の著者はヒゼキヤについて次のように書いています。

彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。(列王記第二18:18:1-5)

実は、ヒゼキヤの父アハズは酷い模範でした。

しかし、多分ヒゼキヤはイスラエル王国の崩壊を目の当たりにし、預言者ミカやイザヤの警告を聞いたことで、すぐに悔い改め、ユダを再び神様に向ける決意をしたのだと思います。

ヒゼキヤの人生を見ると、私たちがどのように神様に立ち返るべきかが分かると思います。

まず、ヒゼキヤはユダの民が礼拝していた偶像を取り除きました。

その中にはモーセが作った青銅の蛇も含まれていました。この青銅の蛇は、イスラエル人が荒野をさまよった際に、神様が蛇の毒からの癒しの手段として用いられました。

ところが、ユダの民はこの青銅の蛇を偶像として礼拝し始めたため、ヒゼキヤはこの蛇を打ち砕いたのです。

同じように、私たちが神様に戻りたいと願うなら、私たちも自分の偶像を捨てなければなりません。

もちろん、仏教の偶像や仏壇を捨てるべきですが、それだけでなく他の「神々」も捨てる必要があります。例えば、「お金の神」や「持ち物の神」です。

もし何かを神様よりも大切にしているなら、それはあなたの偶像です。

もちろん、文字通りにお金や持ち物を捨てるわけではありません。けれども、すべてに優先して神様を第一にし、大切にしなくてはなりません。

青銅の蛇のように、かつてはあなたの偶像が良いものだったかもしれません。例えば、あなたの趣味です。

ところが、その趣味によって神様との関係が疎かになり、神様のための働きを怠っているのであれば、その趣味をしばらく置いておく必要があるでしょう。

偶像を取り除いた後、ヒゼキヤは神様の宮を掃除し、清めました。

私たちクリスチャンはキリストの宮です。キリストが私たちの内に住んでおられるのですから、その宮を清める必要があります。つまり、偶像を捨てる必要があります。

それと共に、私たちは神様に罪を告白し、悔い改める必要があります。

ヒゼキヤの時代では、罪のためにいけにえを捧げなければなりませんでした。(歴代誌第二29:23-24)

しかし、私たちにとってイエス様こそが最後のいけにえです。イエス様は十字架で死んで、私たちの罰を代わりに受けてくださいました。

そして、イエス様の血が私たちをすべての罪から清めてくださいます。(第一ヨハネ1:7)

ただし、清い心を保つためには、私たちは常に罪を告白し、悔い改める必要があります。

ヨハネは次のように書いています。

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

最後に、ヒゼキヤとユダの民は、もう一度自分たち自身を神様に捧げました。彼らは神様にこう言ったのです。

「私たちはあなたのものです。私たちの人生をもう一度あなたに捧げます。」

私たちも同じようにするべきです。

罪に背を向けるだけでは不十分です。神様に向き直らなくてはなりません。

偶像を捨てるだけでは十分ではありません。心を尽くして神様に従わなくてはならないのです。

あなたはクリスチャンであっても、神様から離れてしまったかもしれません。

かつては神様と共に歩んでいたとしても、今は神様から遠ざかっているかもしれません。

それでも、今も神様はあなたを愛しておられ、あなたのために待っておられるのです。

だから、もし神様に戻りたいと願うなら、次のように祈ってください。

イエス様、私はあなたから離れてしまい、自分の道を歩んでいました。どうか赦してください。

あなたの言葉にはこうあります。「もし私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第一ヨハネ1:9)

今、私はあなたに立ち返ります。私の偶像を捨てる助けを与えてください。そして、私の心の王座にもう一度座ってください。

あなたの恵みと憐れみに感謝します。私を決して諦めないことに感謝します。

あなたのみ名によって祈ります。アーメン。

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ヨナ書

自分への恵みを捨てる

この箇所を読むと、この話がいかに劇的かを改めて感じます。嵐の中で、ヨナは海に投げ込まれ、波にのまれて、どんどん深く沈み、命の危機に瀕していました。しかし、土壇場になり、ヨナは心の底から叫びました。「神様!助けてください!」

その時、大きな魚が現れ、ヨナを飲み込んでしまいました。

こうして、ヨナは「初めての潜水艦」に乗ることになります。その中で、ヨナはこう思いました。

むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。(ヨナ書2:8)

ヨナは何について考えていたでしょうか。自分の民についてだったでしょうか。それとも、ニネベの民について考えていたでしょうか。おそらくその両方だったかもしれません。

けれども、ヨナの心には空しい偶像がありました。もちろん、ヨナはバアルやヤロブアムが立てた金の子牛を拝んでいたわけではありませんが、別の偶像を心の中に建てていました。それは、「私」という偶像です。

そのため、神様が「ニネベに行きなさい」と命じられたとき、ヨナは「私」という神に従ったのです。

その結果、ヨナは神様からの祝福を自ら捨ててしまうことになりました。

神様はヨナを通して素晴らしい働きを成し遂げたかったのです。もしヨナが進んでニネベでの務めを果たしていたなら、神様は彼を豊かに祝福されたことでしょう。

しかし、ヨナはニネベの民にも、神様にも心を頑なにしてしまいました。

ようやくニネベに行ったときも、ヨナはしぶしぶと神様のメッセージを伝えました。そのため、彼は再び神様からの祝福を逃してしまいました。

あなたはどうでしょうか。「私」という偶像に従っているでしょうか。あなた自身とあなたの欲望があなたの人生の中心にあるでしょうか。ヨナの生涯から学び、彼の言葉を心に留めておきましょう。

むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。(8)

「私」という偶像を手放しましょう。神様に私たちの人生の王座を捧げましょう。そうすることで、神様からの祝福を心から受け取ることができるのです。