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エペソ人への手紙のデボーション

神の愛に根差している

そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。

そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。(エペソ人への手紙3:17ー19)

最近、教会で私は「初めの愛」についてのメッセージを語りました。特に、イエス様への初めの愛を保つことがどれほど大切かについて話しました。

しかし、初めの愛を保つということは、単に聖書をもっと読み、祈り、神様に仕えるという話ではありません。

むしろ、それは、この基本的な真理に、自分自身を根差すことなのです――「神がまず私たちを愛してくださいました。」

初めの愛を保つために、私たちは毎日、神の愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを、より深く理解するべきです。

けれども、私たちは当たり前だと思っているものに自分自身を根差すことはできません。思い巡らすことのないものに根差すこともできません。

例えば、エペソ人への手紙1ー3章にあるパウロの言葉を軽く読んで、「はい、はい、もう知っている」と言ってしまうのは、とても容易なことです。

けれども今日、私はこの三つの真理を思い巡らし、心の中で把握しようとしています。

世界の基が据えられる前に、神様は私を自分の子どもとするように選んでくださいました。(エペソ1:4ー5)

私は罪の汚れのすべてから清められました。神様は私を聖なる者、傷のない者として見なしてくださいます。(エペソ1:4、7)

私は神様の作品です。神様は、私が御国に仕えるために、良い行いをあらかじめ備えてくださいました。(エペソ2:10)

それらを思い巡らすとき、また、自分がそれにどれほどふさわしくないかを思うとき、私は驚きに満たされます。

パウロも、きっとそのように感じたでしょう。(エペソ3:8)

エペソ1章から3章を読むとき、あなたは「もう知っている」と言っていませんでしたか。それとも、その真理を思い巡らし、再び驚いていたでしょうか。

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マルコの福音書のデボーション

初めの愛

けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。(ヨハネの黙示録2:4)

最近、私はこのことばを思い巡らしていました。

初めの愛の特徴とは何でしょうか。おそらく、その主な特徴は「喜び」ではないでしょうか。

では、何がその愛を芽生えさせるのでしょうか。それは、私たちに対する神の愛とあわれみです。(第一ヨハネ4:19)

今日の箇所に登場する金持ちは、そのような愛を持ったことがないように見えます。自分はすでに良い人間だと思っていて、あわれみを必要と感じることがなかったのでしょう。(マルコ10:19〜20)

だからこそ、イエス様が彼に、持ち物のすべてを売り払い、ご自身に従うよう招かれたとき、彼は喜ぶことなく、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去りました。(マルコ10:21〜22)

一方、弟子たちはイエス様を愛していましたが、その動機にはまだ混じりけがありました。彼らはいつもこう考えていました。

「もしイエス様に従うなら、どのような益を受け取ることができるだろうか。」(マルコ10:28、35〜37)

しかし、バルティマイがイエス様に従ったとき、彼の心は大きな喜びに満ちていました。(ルカ18:43)

なぜでしょうか。

それは、バルティマイがあわれみを求め、そして受け取ったからです。

それこそが、初めの愛です。

イエス様は私を見つめるたびに、いつくしみをもって、あわれんでくださいます。(マルコ10:21、47)

私は、そのことを決して忘れないように祈ります。 そして、その愛を、決して当たり前のものと思わないように祈ります。

あなたのためにも、私はそのように祈ります。

Because you first loved me,
あなたが私をまず愛してくださったから
Jesus, you will always be
イエス様、あなたはこれからもずっと
You will always be
これからもずっと
My first love.
私の初めの愛です ーー ボブ・ハートマン