この箇所では、エルサレムはまだ包囲されていました。また、エレミヤはまだ牢屋にいました。その時、神様はエレミヤにこう言われました。
「あなたのいとこが、土地を売るためにあなたのところに来る。その時、その土地を買いなさい。」
普通に考えれば、それは良い機会のように思えますが、エルサレルムが包囲されていたため、エレミヤがその土地を持ち続けられるかどうかは不明であり、少し愚かな決断に見えるかもしれません。
それでも、神様は「買いなさい」と言われました。それは神様がこう言われたからです。
まことに、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。再びこの国で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになるのだ。(エレミヤ書32:15)
つまり、エレミヤの土地の購入は、イスラエル人の帰国のしるしでした。
エレミヤの反応は少し複雑でした。(16-25節)
それは信仰に基づく祈りだったのでしょうか。それとも、神様が本当にイスラエル人を御自身の国に帰らせてくださるかどうかを疑っていたのでしょうか。または、その祈りには信仰と疑いの両方が混在していたのでしょうか。
私たちも、イエス様に息子の癒しを願った父親のような立場にいることがあるのではないでしょうか。イエス様は父親に言われました。
「私があなたの息子を癒せることを信じますか。」
その父親は次のように答えました。「信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコ9:25)
エレミヤもこのように祈ったように思えます。
「主よ。あなたはすべてのことができます。あなたにとって、不可能なことはありません。あなたは、バビロン人が来てエルサレムを包囲すると警告してくださり、あなたが言われた通りに彼らが来ました。私は信じます。
けれども、あなたは私に言われます。『その土地を買いなさい。なぜなら、ある日イスラエル人がこの土地に戻るからです。』
それは本当なのでしょうか。私たちは本当にこの国に戻れるのでしょうか。」
おそらく、エレミヤは神様の力そのものを疑っていたのではありませんでした。むしろ、イスラエル人が本当に悔い改めるのかどうかを疑っていたのかもしれません。なぜなら、その時点で彼らは全く悔い改めていなかったからです。
しかし、神様はこのようにお答えになりました。
「見よ。わたしは、わたしの怒りと、憤りと、激怒とをもって散らしたすべての国々から彼らを集め、この所に帰らせ、安らかに住まわせる。
彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。
わたしは、いつもわたしを恐れさせるため、彼らと彼らの後の子らの幸福のために、彼らに一つの心と一つの道を与え、 わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。
わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える。
わたしは彼らを幸福にして、彼らをわたしの喜びとし、真実をもって、心を尽くし思いを尽くして、彼らをこの国に植えよう。」(エレミヤ書32:37ー41)
つまり、神様は、きっとイスラエル人を御自身の国に帰らせると言われました。
けれども、神様が31章で言われたように、イスラエルの霊的な復活は、イスラエル人の働きではなく、神様の働きです。神様が彼らの心を変えてくださり、彼らは悔い改めます。そして、神様は彼らをもう一度祝福すると約束してくださいました。
私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
第一に、私たちが疑うときでも、神様は私たちの益のために働いてくださっているということです。神様は、私たちを祝福したいと思われます。神様は、私たちを祝福することを喜ばれます。
私たちがそのことを心に留めるなら、神様を信頼し従うことがさらに容易になるでしょう。
第二に、神様は、いつも私たちの心に働きかけて、神様が望まれるように私たちを形作ってくださるということです。
私たちの役割は、神様と協力することです。そうすれば、神様は私たちを祝福してくださいます。
