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詩篇のデボーション

神の謙虚

あなたは御救いの盾を私に下さいます。
あなたの右の手は私を支え
あなたの謙遜は私を大きくします。(詩篇18:35)

もうすぐクリスマスだからこそ、その言葉が私の心に響いているのでしょう。

「あなたの謙虚は私を大きくします。」

私は取るに足りない者なのに、神様はご自身を低くし、人となり、しもべの姿をとってくださいました。

そして、神であるイエス様は十字架で私の罪のために死んでくださいました。(ピリピ2:7~8)

だから今や、そのみわざによって、取るに足りない私は神の子とされました。

なんとすばらしいことでしょう。

【主】は生きておられる。
ほむべきかなわが岩。
あがむべきかなわが救いの神。(詩篇18:46)

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サムエル記第一のデボーション

だれが、この聖なる神の前に立つことができるだろう?

ベテ・シェメシュの人たちは言った。「だれが、この聖なる神、主の前に立つことができるだろう。(サムエル記第一6:20)

今日の箇所では、イスラエルの民もペリシテ人も、大切な真理を思い知らされました。

それは、神様の前に立つにふさわしい者は、誰一人としていないということです。

ペリシテ人の神ダゴンは立つことができず、ペリシテ人たち自身も立つことができませんでした。だから、さばきが下ったとき、彼らは領主たちに主の箱を戻すように叫びました。

しかし、イスラエルの民もまた、神様の前に立つことはできませんでした。

何百年も前に、モーセは彼らにこう警告していました。

「レビ人だけが主の箱を運ぶことを許されている。しかし彼らでさえ、その箱を見たり触れたりすることは許されていない。」(民数記4:15~20)

ところが、イスラエルの民はその指示を無視し、箱をすぐに覆わず、さらに勝手にその箱を開けてしまったため、さばきが彼らにも下りました。そこで、彼らは叫びました。「だれが、この聖なる神の前に立つことができるだろう。」

その答えは明らかです。神様の前に立つにふさわしい者は、誰一人としていません。なぜなら、神様は聖なる方であり、私たちは罪によって汚れた者だからです。

私たちは皆、罪を犯しており、神の栄光を受けることができません。(ローマ書3:23)

だから、私たちがふさわしいことは、神の裁きだけです。

しかし、イエス様を通して、今や私たちはこの聖なる神の前に立つことができます。

パウロはこう記しました。

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。(ローマ書5:1~2)

どうして、私たちは神様の前に立つことができるのでしょうか。それは、イエス様の十字架のみわざによって、私たちが神様との平和を持っているからです。

十字架の上で、私たちの罪によって汚れた衣はイエス様に置かれました。そして、私たちがイエス様を信じると、神様はイエス様の義と聖さをもって、私たちを着せてくださいます。

だからこそ、私たちは自由に神様の前に進み出ることができるのです。

もちろん、自分が義人であることを感じないときもあります。とくに、罪を犯すとき、私たちは汚れていて、神の愛にふさわしくないと感じます。

それでも、私たちは希望を持っています。それは、

キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。(第一ヨハネ3:2)

だからこそ、私たちは神様の栄光を見るとき、恐れる必要はありません。むしろ、私たちは喜びます。なぜなら、イエス・キリストによって、神様は私たちをすでに受け入れてくださっているからです。

そして、いつかの日、私たちは神様の栄光を身にまとうことになります。

だから、パウロはこう記しました。

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(第二コリント3:18)

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マルコの福音書のデボーション

私を救うために

同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。」(マルコの福音書15:31)

祭司長や律法学者たちの言葉は、いつも私の心に響きます。彼らはその言葉でイエス様をあざけりましたが、その言葉は彼らの理解を超えて真実でした。

私たちを救うために、イエス様はご自身を救うことができませんでした。むしろ、私の罪を背負って、激しい苦しみのうちに死なれなければなりませんでした。神の御怒りのすべてが、イエス様に注がれたのです。

しかし、イエス様のおかげで、神様と私の間に立っていた幕が、上から下まで真っ二つに裂けました。

私たちを救うために、イエス様がご自身を救うことを選ばれなかったことに心から感謝しています。

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ルカの福音書のデボーション

ただ一緒に歩いている?本当に従っている?

さて、大勢の群衆がイエスと一緒に歩いていたが、イエスは振り向いて彼らに言われた。

「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。(ルカの福音書14:25ー27)

イエス様の言葉は厳しく聞こえるかもしれません。しかし、イエス様は彼らに基本的にこう尋ねられていたのです。

「あなたがたは私の国に参加することを本当に望み、心から従っているのですか。それとも、ただ私と一緒に歩いているだけなのですか。」

これは、語られた例え話の一つの要点でした。ある人々は、最初は宴会に参加する意欲を示したものの、最終的には他のものを優先しました。(その宴会は神の国を象徴していました)。(16ー20節)

真の弟子とただ一緒に歩いているだけの人の違いは何でしょうか。

真の弟子たちは、イエス様とその御国を家族、財産、さらには自分の人生さえも上回るほど大切にし、心からイエス様を愛しています。

もちろん、イエス様は私たちに、自分の家族を文字通り憎むことや、すべての持ち物を手放すことを求めておられるわけではありません。

しかし、イエス様はこう問いかけておられます。「あなたにとって、私はどのような価値を持っていますか?私をすべてのものよりも優先しますか?」

イエス様は、すべてを犠牲にするほど私たちを愛しておられました。私たちはそのようにイエス様を大切にしているでしょうか。

イエス様が良い王であり、イエス様に従うことで最終的に命を失うどころか、命を得ることを本当に信じているでしょうか。

Love so amazing, so divine,
驚くほど素晴らしく、神聖な愛は、
Demands my soul, my life, my all.
私の魂、命、そしてすべてを本当に呼び求めます。

O the wonderful cross
ああ、素晴らしい十字架よ
Bids me come and die that I may truly live.
私が来て死ぬように、そして豊かに生きるように招かれています。

–アイザック・ワッツ、クリス・トムリン

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ルカの福音書のデボーション

弟子とは

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。(ルカの福音書9:23)

今朝、イエス様の御言葉を反芻していました。その御言葉を言い換えるなら、

わたしの弟子になりたいと思うなら(実際、すべてのクリスチャンは弟子です):

1. 自分中心に生きることをやめなさい。「私の人生」という考え方を手放しなさい。

2. むしろ、毎日すべてを天の父に明け渡しなさい。すべてを捧げ、すべてにおいて従いなさい。(ピリピ2:8)

3. 毎日毎日、一瞬一瞬わたしと共に歩みなさい。わたしから学び、わたしの働きに参加しなさい。御父の良い統治のもとへ人々を招きなさい。

イエス様の言葉を考えると、「日々」という言葉が私の心に響きました。クリスチャン生活は、一週間に一度だけのものではなく、日々のものです。

さらに、イエス様だけではなく、天の父も私たちがイエス様の弟子となるように呼んでおられます。

これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け。(ルカ9:35)

だから、今日私はこのように祈りました。

イエス様、あなたは私の良い王です。どうか、私が毎日あなたに従い、あなたの弟子として生きることができますように導いてください。

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テサロニケ人への手紙第二のデボーション

私たちが必要な祈り

今日、私はパウロの祈りに深く感動しました。なぜなら、彼がテサロニケ人たちのために祈ったことは、まさに私自身に必要な祈りだからです。実際、それはすべてのクリスチャンにとって必要な祈りです。

パウロはこう言いました。

こうしたことのため、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか私たちの神が、あなたがたを召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から出た働きを実現してくださいますように。

それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、私たちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。(第二テサロニケ2:11ー12)

私たちがよく考えるのは、自分自身を良い人にしなければならないということです。自分の力と自制心によって、自分自身を変えなくてはならないと考えがちです。

しかし、パウロが祈っているのは、神様が私たちを召しにふさわしい者としてくださり、神様の力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から生まれる働きを実現してくださるということです。

それによって、イエス様が私たちの間であがめられ、私たちにも主にあって栄光が与えられます。

けれども、その栄光は私たち自身の素晴らしさによるものではなく、私たちの人生に働いている天の父の恵みと御子の恵みによるものです。

そして、パウロはこう祈ります。

どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、永遠の慰めとすばらしい望みを恵みによって与えてくださった方ご自身が、あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。(第二テサロニケ2:16ー17)

また、

主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐に向けさせてくださいますように。(第二テサロニケに3:5)

私たちの信仰の根底には、一つの根本的な真理があります。それは、神様が私たちを深く愛してくださるということです。

パウロが祈ったのは、イエス様が日々私たちを天の父の愛へと導き、私たちが必要な励ましと希望を受けることができるようにということです。そして、その励ましと希望によって、私たちはあらゆる良いわざとことばのために、神様によって強められます。

さらに、テサロニケ人たちのように、私たちが試練や苦しみに直面するとき、パウロは、私たちがイエス様を仰ぎ見ることによって、勇気を得るように祈りました。十字架で私たちの罪の代価を支払ってくださったイエス様の忍耐に目を向けることによってです。

私は前にも言いましたが、私たちはよく、自分の力と自制によってクリスチャン生活を送ろうとしてしまいます。

でも、イエス様が私たちを天の父の愛へと導いてくださるように、イエス様の十字架を覚えていましょう。神様の愛とイエス様の十字架に、心を向けて思いを巡らしましょう。

そして、あなたのあらゆる良いわざと言葉が、神様の愛とイエス様の十字架への感謝から生まれるものでありますように。

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創世記のデボーション

神様が備えてくださる

御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった」 。。。

アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエ(つまり、「主が備えてくださる」、または、「主が見てくださる」という意味)と呼んだ。

今日も、「主の山には備えがある」と言われている。(創世記22:12、14)

この話を読むたびに、私はいつも感動します。でも今日、初めて気づいたことがあります。

もしかすると、パウロはこの話を思いながら、こう書いたのかもしれません。

神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。(ローマ8:31ー32)

2000年前、カルバリという丘の上で、神様はご自分の御子を惜しむことなく、私たちの救いのために備えてくださいました。

神様がそうしてくださったのなら、どうして私は神様が私のすべての必要に備えてくださることを疑うことができるでしょうか。

天のお父さん、あなたはアドナイ・イルエです。あなたは私を見てくださる主です。あなたは私の必要に備えてくださる主です。

カルバリで、あなたがそのような神であることを証明してくださいました。

どうか私がその真理を忘れないように。あなたがどのような神であるか、私が決して忘れないように。

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イザヤ書のデボーション

私たちをあわれんでくださる神

日曜日はイースターでしたが、この季節に、なぜイエス様が死ななければならなかったのかを思い起こすことは、とても大切だと思います。

今日の箇所は本当に興味深いです。イザヤは、神様が天を裂いて降りて来られ、ご自身をこの世の国民に現してくださるように祈ります。

その一方で、イザヤが悟ったのは、神様が来られるなら、イスラエルの敵だけでなく、イスラエル自身も裁かれるということです。なぜなら、イスラエルの民も神様に背を向けてしまったからです。

だから、イザヤは祈ります。

主よ、どうか激しく怒らないでください。いつまでも、咎を覚えていないでください。どうか今、私たちがみな、あなたの民であることに、目を留めてください。(イザヤ書64:9)

その祈りは、イエス様が死ななければならなかった理由を明らかにしています。十字架において、イエス様は私たちの代わりに神様の怒りを負ってくださいました。イエス様とその十字架の働きによって、私たちの罪は赦されます。

初代教会が旧約聖書を読む際には、ギリシャ語訳を用いていました。イザヤ書64:4のギリシャ語訳は少し意訳されていて、非常に興味深いものです。

「あわれみを待ち望む者のためにみわざを行われるあなたのほかに、私たちはとこしえから神を耳にしたこともなく、目で見たこともありません。」

神様の最終的な憐れみのみわざは、十字架において成し遂げられました。

パウロもそのように理解していたようです。十字架について語るとき、彼はイザヤ書64:4を意訳して引用しています。

目が見たことのないもの、 耳が聞いたことのないもの、 人の心に思い浮かんだことがないものを、 神は、神を愛する者たちに備えてくださった。(第一コリント2:9)

十字架は、ただの悲劇的な事件ではありませんでした。十字架は、私たちを憐れみ、私たちを救うための、永遠からの神のご計画でした。

それは、なんと素晴らしいことでしょう!

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イザヤ書のデボーション

なぜ、あなたは私をそんなにも愛してくださるのですか

イエス様、あなたはこの世に来られたとき、私たち人間のようになられました。あなたは、美男子ではなく、私たちが慕うような見栄えもありませんでした。

あなたは、人々から退けられることも、病をも経験されました。

そして、あなたは刺されました。あなたは砕かれました。十字架にかけられるまでに、あなたの姿は人とは思えないほどに、打たれました。(イザヤ52:14)

そのすべては、私のためでした。私の背きのために、あなたは刺され、打たれました。私の咎のために、あなたは砕かれました。

私が天の父と平和を持つことができる理由は、あなたが私のために罰せられたからです。そして、あなたの打ち傷のゆえに、私の罪によって壊れた人生は癒されました。

私は、さまよった羊のようでした。私は、自分勝手な道に向かって行ったのです。でも、良い羊飼いのように、あなたは私を探し求めてくださいました。

私は、神様に罰せられて当然でしたが、あなたは、私の罰を受け取ってくださいました。

あなたに十字架を強いた者は、誰もいませんでした。あなたは、自ら望んで、自分のいのちを死に明け渡されました。あなたは、私の罪を負ってくださいました。そして、今なお、あなたは私のために、とりなしをしてくださっています。

「父よ、彼をお赦しください。彼は、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」

イエス様、あなたが十字架で私の罪を負ってくださったおかげで、私は天の父の御前に立ち、義と認められます。

あなたは、苦しみと死を経験されましたが、よみがえられました。そして、あなたの死によって救われた私たちを見るとき、あなたは満足しておられます。

あなたの恵みに、畏敬の念を抱いています。どうして、あなたは私をそんなにも愛してくださっているのでしょうか。

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ヨハネの福音書のデボーション

見よ、あなたの王だ

ピラトはユダヤ人たちに言った。「見よ、おまえたちの王だ。」(ヨハネ19:14)

すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」

こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。(20:19-20)

見よ、あなたの王だ。
血まみれで、体が引き裂かれた王。

見よ、あなたの王だ。
茨の冠をかぶせられた王。

見よ、あなたの王だ。
殴られ、顔があざだらけになった王

見よ、あなたの王だ。
不当に虐待された王。

見よ、あなたの王だ。
木にかけられた王。

見よ、あなたの王だ。
あなたのために死なれた王。

見よ、あなたの王だ。
墓から脱出された王。

見よ、あなたの王だ。
栄光によみがえられた王。

見よ、あなたの王だ。
手と脇腹を突き刺された王。

見よ、あなたの王だ。
その平安にとどまりましょう。

見よ、あなたの王だ。
すぐに来られる王。

見よ、あなたの王だ。
新しい天と地を造られる王。

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ヨハネの福音書のデボーション

神様が記されたもの

「そこで、ユダヤ人の祭司長たちはピラトに、「ユダヤ人の王と書かないで、この者はユダヤ人の王と自称したと書いてください」と言った。

ピラトは答えた。「私が書いたものは、書いたままにしておけ。」」(ヨハネの福音書19:21ー22)

天のお父様、ユダヤ人は怒り、文句を言いましたが、ピラトのことばは立ちました。

それなら、なおのこと、あなたの御言葉は確かに立つでしょう。この世の民がどれほどあなたのことばに反対し、あなたに背いても、あなたのことばは揺るぎません。

あなたが記されたものは、すでに定められているのです。

預言者たちを通して語られたすべてのことばは成就しました。(24、28、36ー37節)

それが、私の希望です。

この世は壊れています。この世の民はあなたに背きました。

しかし、あなたはご自分の王を立てられました。(詩篇2:6)

この世はその王を十字架につけました。

しかし、あなたはその王を復活させられました。

そして、ある日、その王はこの世に戻り、この世のすべてを新しくしてくださいます。

私はその日を待ち望んでいます。

なぜなら、あなたが記されたことはすでに定められており、そのすべてのことばは、あなたの時に成就するからです。

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ヨハネの福音書のデボーション

見よ、この人だ。見よ、あなたの王だ。

ピラトのことばは、私の心に深く響きました。

見よ、この人だ。(ヨハネの福音書19:5)

その日、ユダヤ人たちは何を見たでしょうか。人間と同じ姿になられた神です。(ピリピ2:6-7)

その神は、むちで打たれ、拳で殴られ、いばらの冠をかぶせられ、紫色の着物を着せられた方です。

Amazing love! 
驚くべき愛

How can it be, that thou, my God, shouldst die for me? 
どうして、あなたが私の神であられるのに、私のために死んでくださったのでしょうか。

ーーチャールズ・ウェズリー

見よ、おまえたちの王だ。(14)

ユダヤ人たちは何を見たでしょうか。

それは、死刑を宣告された王です。ご自分の罪のためではなく、私たちの罪のために。

Amazing love! 
驚くべき愛

How can it be that you my King, would die for me?
どうして、あなたが私の王であられるのに、私のために死んでくださったのでしょうか。

ーービリー・ジェームズ・フット

今日の話を何度も読んだことがあるかもしれませんが、どうかざっと読まないでください。そして、読んですぐに忘れないでください。

少し時間を取って、ユダヤ人たちがその日、何を見たのかを深く考えてみましょう。その場面を心に描いてみましょう。

イエス様があなたのために何をしてくださったのかを思い巡らしましょう。

イエス様の苦しみを心に留めましょう。

イエス様の死を黙想しましょう。

そして、イエス様の復活を覚えておきましょう。

ユダヤ人の指導者たちの模範に倣ってはいけません。私たちの王を軽んじてはいけません。

むしろ、深い感謝と喜びをもって、「あなたは私の王です」と歌いましょう。

そして、毎日、毎秒、私たちの人生をイエス様にささげましょう。

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ペテロの手紙第一のデボーション

不公平

キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは。。。あなたがたを神に導くためでした。(ぺテロの手紙第一3:18)

「不公平だ!こんなこと許されない!」

そのような言葉を言ったことがあるでしょうか。私にはあります。

でも、18節を読んだとき、私が気づいたのは、イエス様が最大の不公平を受けていたということです。

イエス様は義人でした。彼は罪を犯したことがありませんでした。それでも、十字架で、イエス様は私たち罪人のために苦しみました。私たちの罪のために苦しみました。

どうしてでしょうか。

私たちを神様に導くためです。

でも、イエス様がただ「公平さ」だけを考えていたとしたら、私たちはどうなっていたでしょうか。

イエス様がそのように考えていなくて、本当に良かったですね。

むしろ、イエス様は私たちのことを心配してくださいました。

イエス様は、天の父と私たちとの関係が回復されることを望まれました。

だからイエス様は、「公平さ」への関心を脇に置かれました。

主よ、人々が私を不公平に扱うとき、私があなたの態度を取るように助けてください。彼らに対するあなたの愛と心配を私に与えてください。

あなたが十字架で苦しんでいた時、私に模範を残されました。私があなたの足跡に従うようにしてください。(第一ペテロ2:21~23)

私が悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、平和を求めるように助けてください。

私を傷つけた相手と私との平和だけではなく、その人とあなたとの平和をも求めるように助けてください。あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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マルコの福音書のデボーション

恥じているのですか

だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。(マルコの福音書8:38)

今まで気づいていなかったけど、イエス様の言葉には、皮肉があります。

イエス様はこの世の民を「姦淫と罪の時代」と呼ばれます。

彼らはイエス様の言葉を聞いて、恥を感じるはずでしょう。でも、実は、多くの人々は自分の罪を誇ります。さらに、彼らは罪を行う人たちを応援します。(ローマ1:21ー32)

それだけではなく、彼らはキリストの言葉に従う人たちに恥をかかせようとします。

でも、イエス様は私たちにこう言われます。

だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。(34節)

たぶん、十字架は、最も苦しくて恥ずべき死に方だったでしょう。人々は裸で十字架にかけられました。イエス様が十字架にかけられたとき、周りの人々はイエス様をあざ笑いました。

イエス様の弟子とは、自分の十字架を負い、イエス様の恥と苦しみを受けることを意味します。

ある人々は私たちを憎みます。

私たちをあざ笑う人もいます。

でも、イエス様が教えられたのは、私たちの恥の中に、私たちが祝福を得るということです。(マタイ5:10ー12)

さらに、私たちの大胆さによって、今、私たちをあざ笑っている人たちは、いつか救われるかもしれません。

だから、パウロと一緒に言いましょう。

私は福音を恥としません。福音は。。。信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。(ローマ1:16)

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詩篇のデボーション

感謝する理由

詩篇100篇のタイトルは「感謝する賛歌」です。

この詩篇を反芻しているとき、私が思ったのは、旧約聖書の時代の詩人がこの詩篇を書いたけれど、新約聖書の時代の詩人の言葉のように聞こえるということです。

どうして私はそう思うのでしょうか。

なぜなら、その詩人は、ユダヤ人だけではなく、すべての人々に神様を礼拝するように促しているからです。

イエス様が十字架で死なれる前に、神様を礼拝する理由を持っていた人々は、ユダヤ人たちでした。

神様に近づく特権を持っていた人々は、ユダヤ人たちでした。なぜなら、神様は特に彼らを御自分の民、また、御自分の羊として選ばれたからです。

でも、十字架の後、イエス様を信じるすべての人々は、ユダヤ人でもユダヤ人でなくても、神様に近づくことができます。私たち皆は、「私は神の民です。私は神の羊です」と言う権利を持っています。

だから、喜びをもって主に仕えましょう。喜び歌いつつ神様の御前に進みましょう。

大胆に神様に近づいて、主に感謝し、ほめたたえましょう。そして、詩人と一緒に歌いましょう。

主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。(詩篇100:5)

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詩篇のデボーション

私の門、私の義

天のお父様、あなたは私のために義の門を開けてくださいました。

イエス様は私の門です。(ヨハネ10:9)

イエス様は私の義です。(第一コリント1:30)

イエス様によって、私はあなたに近づくことができます。(へブル10:19ー22)

だから今、私はあなたの御前に立って、あなたを感謝します。なぜなら、あなたは私に答え、私の救いとなられましたから。(詩篇118:19ー21)

家を建てる者たちが捨てて、十字架にかけた石は、あなたの教会の要の石となりました。(詩篇118:22、使徒の働き4:10ー12、エペソ2:19ー22)

天のお父様、これはあなたがなさったことです。私たちの目には不思議なことです。これはあなたが設けられた日です。この日を楽しみ喜びます。(詩篇118:23ー24)

主よ。あなたはまことにいつくしみ深い方です。その恵みはとこしえまでです。(詩篇118:1)

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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詩篇のデボーション

ご自身を低くされた神

過ぎ越しの祭りの際、ユダヤ人たちは普段、詩篇113ー118篇を歌っていました。

最後の晩餐で、イエス様とその弟子たちが歌ったとき、たぶんその詩篇を歌ったのでしょう。(マタイ26:30)

だから、4ー6節は私の心を打ちました。

主はすべての国々の上に高くおられ その栄光は天の上にある。

だれが私たちの神、主のようであろうか。

主は高い御位に座し、身を低くして 天と地をご覧になる。(詩篇113:4ー6)

でも、神様はただご覧になったわけではありません。むしろ、神様はご自身の栄光を置いておいて、人間になり、私たちの罪のために死んでくださいました。(ピリピ2:5ー8)

イエス様の十字架の働きのおかげで、私たちはちりから起こされ、罪のあくたから引き上げられました。

さらに、神様は私たちを王の子供たちとして、イエス様と共に天上に座らせてくださいました。(詩篇113:7ー8、エペソ2:1ー7)

それを覚えていて、詩人と共に歌いましょう。

ハレルヤ。主のしもべたちよ、ほめたたえよ。 主の御名をほめたたえよ。

今よりとこしえまで 主の御名がほめられるように。

日の昇るところから沈むところまで、主の御名がほめたたえられるように。(詩篇113:1ー3)

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ヘブル人への手紙

なぜ、これほど多くの血が必要だったのか

最近の記事で取り上げた重要な概念は、「写し」と「影」です。

つまり、子牛や雄やぎの生贄は、十字架におけるイエス様の究極のいけにえを予表していたのです。

けれども、そもそもなぜ生贄が必要だったのでしょうか。

神様は、いけにえを求めずとも、私たちを赦すことができなかったのでしょうか。他に方法はなかったのでしょうか。

この問いに向き合うために、イエス様のゲッセマネでの祈りに目を向けてみましょう。イエス様は、こう祈られました。

わが父よ、できることなら、この杯(つまり、十字架)をわたしから過ぎ去らせてください。(マタイ26:39)

他に方法があれば、神様はその道を選ばれたはずです。けれども、私たちの罪を赦すために、神様は生贄を求められました。

この手紙の著者は、こう述べています。

血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。(へブル人への手紙9:22)

その真理の種は、旧約聖書の律法の中に見ることができます。神様は、こう語られました。

実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である。(レビ記17:11)

言い換えるなら、血はいのちの象徴です。そして、人のいのちが救われるためには、その代わりとして別のいのちが差し出されなければなりません。

旧約聖書の時代には、子牛や雄やぎ、羊のいのちが、イスラエルの民の身代わりとして捧げられました。けれども、以前の記事でも触れたように、それらの生贄は完全なものではありませんでした。なぜでしょうか。

第一の理由は、人間のいのちの価値が、動物のいのちの価値よりも高いからです。

第二の理由は、その動物たちが、自らの意志で人間の罪のために死んだのではないからです。

その一方で、イエス様は人間であると同時に、神でおられるお方です。だからこそ、イエス様のいのちは、私たちの罪を完全に償うことができました。

さらに、前回の記事で見たように、イエス様は自ら進んでご自身の命を差し出されたのです。そしてイエス様は、天の父に向かってこう祈られました。

今、わたしはあなたのみこころを行うために来ました。(へブル人への手紙10:9)

なぜ私たちが、イエス様の血によって贖われなければならないのか――この手紙の著者は、それを説明するために、さらに二つの描写を用いて語っています。

彼はこう述べています。

キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反から贖い出すための死が実現して、召された者たちが、約束された永遠の資産を受け継ぐためです。(9:15)

この描写によれば、私たちはかつて罪の奴隷でした。けれども、十字架において、イエス様はご自身の血によって、私たちを贖い出してくださいました。

イエス様は私たちを暗闇の力から救い出し、ご自身のご支配の中に移してくださったのです(コロサイ 1:13)。

さらにこの手紙の著者は、神様との新しい契約を「遺言」にたとえています。遺言が効力を発するためには、それを作成した者が死ななければなりません。

同じように、神様との新しい契約を有効にするために、イエス様は死ななくてはなりませんでした。

この箇所の要点は、私たちが永遠の命を受けるために、イエス様の死が不可欠だったということです。イエス様がその道を選ばれたことによって、聖霊様はイエス様を信じる人々のうちに住まわれ、彼らの心を新しくしてくださいます。

聖霊様は神様の律法を彼らの心に置き、その思いに書き記されるのです(10:16)。

その結果、彼らは自然と神様を喜ばせる者へと変えられていきます。そして神様は、彼らの実について、こう語られます。

わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない(10:17)

だから、この手紙の著者は、こう語っています。

罪と不法が赦されるところでは、もう罪のきよめのささげ物はいりません。(10:18)

そういうわけで、イエス様は十字架の上でこう言われました。「救いの業は完了した。」(ヨハネ19:30)

そのことを思うと、私は改めて驚きに満たされます。

イエス様は、本当に死ななければならなかったのでしょうか。ある意味では、死ぬ必要はなかったのかもしれません。ご自身を救って、私たちをそのままにして、十字架を回避することもできました。

しかし、イエス様は私たちを愛し、私たちのためにご自身を捧げてくださったのです。

だからこそ、十字架と、そこで流されたイエス様の血を仰ぐとき、私たちは深い感謝と畏敬の念をもって心を向けましょう。イエス様は私たちを愛し、想像を絶する代価を支払ってくださったのです。

Amazing love.
驚くべき愛。
How can it be that you my King should die for me?
あなたは私の王なのに、どうして私のために死んでくださったのでしょうか。

Amazing love.
驚くべき愛。
I know it’s true.
あなたが私を本当に愛してくださること知っています。
And it’s my joy to honor you.
あなたをあがめることこそ、私の喜びです。

In all I do, I honor you.
私は、すべての営みの中で、あなたをあがめて生きていきます。

ーークリス・トムリン

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ガラテヤ人への手紙

十字架の躓きを取り除こうとしている?

この前、私は言いましたが、多くの人々はクリスチャンのことを偏狭だと思っています。なぜなら、私たちはキリストの十字架の御業だけによって人が救われると信じているからです。パウロは、その真理を「十字架の躓き」と呼びました。

ユダヤ人のクリスチャンたちは、その十字架の躓きを捨てようとしていました。けれども、彼らの動機は、現代の人々の動機とは異なっていました。

ユダヤ人のクリスチャンたちは、ノンクリスチャンのユダヤ人たちの意見を気にしていました。

ノンクリスチャンのユダヤ人たちは、十字架のメッセージに反発しました。なぜなら、福音は信仰によってイエス様に来るすべての人々を歓迎するからです。クリスチャンたちは、割礼を受ける必要もなく、律法の細かい規定に従う必要もありませんでした。

ノンクリスチャンのユダヤ人たちは、二つの理由で反発しました。

一つ目は、彼らがモーセの律法を真剣に考えていたことです。その律法によって、彼らは神様の民と認められていました。

ところが、パウロによれば、神様の民になる方法は律法に従うことではなく、イエス様に対する信仰です。

だから、パウロはこう言いました。

ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。(ガラテヤ人への手紙3:28)

簡単に言うと、ユダヤ人たちが誇る神様の律法によって、人は神様の民にはなりません。むしろ、イエス様を通して神様に来る人は皆、神様の民と認められます。

けれども、ユダヤ人たちは自分のプライドを捨てたくなかったため、その真理を受け入れることができませんでした。

それが、彼らがイエス様の十字架に反発する二つ目の理由でした。彼らは、神様に選ばれた民であることを誇っていました。神様が彼らだけに律法を与えたので、彼らは自分たちがほかの国民よりも正しいと思っていました。

もちろん、その律法を完全に守ることはできませんでしたが、それでも彼らは誇りを持っていました。

このように、プライドは人とキリストを隔てる大きな壁です。彼らは自分の宗教を誇り、自分の義を誇ります。

そのため、クリスチャンたちが「あなたの宗教は足りません。あなたの義は足りません」と言うと、ノンクリスチャンは怒ります。

けれども、自分の宗教や義にしがみついている限り、彼らは神様に近づくことができません。むしろ、神様から離れてしまっています。

パウロは、「割礼が必要だ」と教えた人について、こう言いました。

しかし、あなたがたを動揺させる者は、だれであろうと、裁きを受けます。。。

あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと切除(つまり、去勢)してしまえばよいのです。(ガラテヤ人への手紙5:10,12)

以前、パウロは偽りの福音を宣べ伝える者は神様に呪われると語りました。(ガラテヤ人への手紙 1:8-9)

この箇所では、パウロは皮肉を用いて、同じことを繰り返しています。「もし、割礼を受けたいと思うなら、いっそ去勢された方がいいでしょう。」

ユダヤ人たちはパウロの言葉を聞いて驚いたことでしょう。なぜなら、モーセの律法によれば、去勢された者は主の集会に加わることが許されていなかったからです。(申命記 23:1)

しかし、それこそがパウロの意図でした。「あなたが割礼を受けるなら、主の集会に加わる資格を失います。あなたは真の神様の民ではありません。」

このように、イエス様の十字架を拒み、自分の宗教と義によって救いを得ようとする者は、神様とその民から離れています。

もしあなたが、クリスチャンのユダヤ人たちのように、他の人を喜ばせるために福音を薄めるなら、あなたも神様とその民から離れるかもしれません。

十字架は、多くの人々にとって躓きです。それでも、私たちは彼らを喜ばせようとしてはなりません。たとえ相手が怒ったとしても、私たちは福音を正しく伝えなければなりません。

だからこそ、自分自身に問いかけるべきです。「私は誰を喜ばせようとしているのか。神様か、それとも周りの人々か。」

パウロの言葉を心に留めておきましょう。

今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。

もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。(ガラテヤ人への手紙1:10)

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全額が支払われた

私が大嫌いなことの一つは、税金を払うことです。毎年、私は税務署に行き、確定申告を提出します。その後、一か月ほどして税務署が少しお金を返してくれます。しかし、その直後には市民税や県民税を支払わなくてはなりません。

私はいつも一括払いで税金を支払います。もちろん分割払いも選択できますが、一括払いの方が自分には合っていると思います。そうすれば、次の年まで税金のことを考えなくても済むからです。

十字架の上で、イエス様の最後の言葉は、まるでその税金を支払うイメージを描写しているようでした。

12時になると、暗闇が全地を覆いました。そして15時ごろまで、その暗闇は続きました。おそらくその間に、神様は私たちの罪をすべてイエス様に負わせたのではないでしょうか。

その暗闇は罪の象徴だったのでしょう。罪によって霊的な暗闇がこの世にもたらされましたが、天の父はその罪をイエス様に負わせられました。

そして、15時ごろ、イエス様は叫ばれました。

わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。(マタイ27:46)

その瞬間、おそらく天の父は、私たちの罪をイエス様に負わせ、イエス様に背を向けられたのではないでしょうか。それにより、天の父とイエス様との関係は初めて壊れてしまったのでしょう。

そしてイエス様は私たちが本来受けるべき罰を経験されました。つまり、イエス様は天の父から離れられたのです。

イエス様は完全な愛の源、喜びの源、そして命の源から離れられました。

そのような状態はまさに地獄そのものです。イエス様は実際に地獄に行かれたわけではありませんが、ある意味で地獄を経験されたのです。イエス様は私たちの罰を受けてくださいました。

そして、死を迎える直前、イエス様は天を仰ぎ、祈られました。

完了した。父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。(ルカ23:46;ヨハネ19:30)

「完了した。」

イエス様の時代、ユダヤ人たちが税金を支払うと、ローマ人はその言葉を請求書に捺印しました。その意味は、「全額が支払われた」ということです。

イエス様の死によって、私たちの罪のためのすべての負債が支払われました。

その結果はどうでしょうか。私たちは神様との新しい関係を持つことができるようになりました。神様は至聖所と聖所の間にかかっていた神殿の幕を、上から下まで真っ二つに裂かれました。(マルコ15:38)

その理由は何でしょうか。

その行為を通して、神様は私たちにこう語られたのです。「私たちの間にあった障害は破られた。イエス様を通して、あなたは私に近づくことができる。」

イスラエル人が経験したように(出エジプト記20:18-21)、私たちはもはや神様から遠くに立つ必要はありません。

むしろ、私たちは神様に近づくことが許されています。

だから、神様に近づきましょう。

へブル人への手紙の著者はこう述べています。

こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。

また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。(へブル10:19-22)

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もし私たちがイエス様の十字架を背負わなければならなかったら

クレネのシモンについて、私たちはほとんど知りません。マルコによれば、彼はルフォスという人の父でした。

ローマ書16:13では、パウロがルフォスという人に挨拶していることから、ある聖書学者たちはマルコの福音書のルフォスが同一人物だと考えています。

シモンは、おそらく北アフリカ出身のユダヤ人で、過ぎ越しの祭りを祝うために初めてエルサレムを訪れた巡礼者だったのでしょう。

ところが、エルサレムに到着した彼は、自分が思い描いていた以上の出来事を目撃することになりました。シモンは、まことの過ぎ越しの子羊が自分の罪のために犠牲となる瞬間を目の当たりにしたのです。(第一コリント5:7)

しかしその前に、シモンはイエス様の十字架を背負わなくてはなりませんでした。

最初はイエス様がご自身の十字架を背負われました。けれども、肉体的な苦しみ(イエス様はむち打たれ、大量の血を流され、兵士たちの拳で殴られました)や精神的な苦しみ(イエス様が愛された者たちに裏切られ、捨てられました)のため、その十字架の重さに耐えきれず、倒れてしまわれたのです。

イエス様はその十字架を背負い続けることができなくなられました。そこでシモンが代わりにその十字架を背負うこととなりました。

その出来事を読んで私はこう考えました。

もしイエス様がゴルゴタで「もういいです。私はもうこの苦しみに耐えられません。あなたがこの十字架を背負いなさい。あなたがこの十字架で死になさい。あなたはこの十字架に値するでしょう?私は罪を犯したことがありません。罪を犯したのはあなたです。」と言われたら、私たちはどうなっていたでしょうか。

ある意味で、シモンはそれを少し経験しました。イエス様が十字架を背負うことができなくなられたため、シモンは自分の十字架を背負わなければなりませんでした。

ですが、実際にはそれは本当はイエス様の十字架ではありませんでした。それはシモン自身の十字架だったのです。なぜなら、イエス様は罪を犯しておられませんでしたが、シモンは多くの罪を犯していたからです。

後になって、シモンはその真実を理解したのでしょうか。

「私は実際にはイエス様を助けていませんでした。本当にその十字架に値していたのは私自身でした。

実は、その十字架を背負ったとき、イエス様は私を助けようとしてくださっていました。私はその十字架で死ぬことに値していたのですが、イエス様が私の代わりに十字架で死んでくださったおかげで、私は罪から救われたのです。

でも、もしイエス様が十字架をもう耐えられなくなっていたら、私はどうなっていたでしょうか。私は今どこにいただろうか。」

その答えは?地獄です。なぜなら、私たち皆が地獄に値するからです。

しかし、イエス様は十字架を背負ってくださいました。イエス様は、私たちが値する罰を十字架の上で受けてくださるほど、私たちを愛してくださいました。

だからこそ、私たちの罪は赦され、真の命を得ることができるのです。それは、私たちを深く愛しておられる神様との関係を持つ人生です。

ですから、十字架を当たり前のものだと考えてはいけません。むしろ感謝の心を持って、私たちのために十字架で死んでくださったイエス様を仰ぎ見ましょう。

Jesus Christ,
イエス・キリスト
Praise your name,
あなたの御なをほめたたえます。
Lord I sing without shame.
主よ、私は恥じることなく歌います。

You bore the cross.
あなたは十字架を背負ってくださいました。
So much love.
こんなにも大きな愛で。
All my life, all I need is you.
私の一生、私が必要とするのは、あなたただ一人です。

ーージェームズ・ガブリエル

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ヨハネの福音書 ヨハネ3章

福音のもう一つの側面

多分あなたはもうご存じかもしれませんが、「福音」という言葉は「良い知らせ」という意味です。

しかし、私たちが「悪い知らせ」を知らなければ、その「良い知らせ」を本当に理解することはできません。その悪い知らせとは何でしょうか。

[イエス様を]信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。(ヨハネ3:18b)

最初の人間アダムの時代から、すべての人々は神様のみ前で裁きを受けることとなりました。なぜでしょうか。それは、私たちが皆、神様を信頼せずに神様に背を向け、自分の道を選んだからです。

では、なぜそれがそれほど重大な問題なのでしょうか。

使徒パウロがその答えを教えています。

罪から来る報酬は死です。(ローマ6:23)

私たちは「死刑囚となるかもしれない」という状態ではありません。実際には、私たちはすでに死刑囚なのです。なぜなら、私たちは皆罪を犯し、すでに裁きを受けたからです。

そのため、17節にはこう書かれています。

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではな[い]。

なぜヨハネは、「イエス様はこの世に私たちを裁くために来られたのではない」と言うことができたのでしょうか。それは、イエス様がこの世に来られる以前に、私たちはすでに裁かれていたからです。

これが福音のもう一つの側面です。とはいえ、多くのクリスチャンはこの側面についてあまり語りたがりません。

もしあなたがイエス様を信じないのなら、将来神様に裁かれるというわけではありません。あなたはすでに裁かれているのです。

私たちはこのことをどのくらい深く考えているでしょうか。今、あなたの家族や友人、そして同僚がイエス様を知らないのであれば、彼らはすでに裁かれています。もし、あなたがイエス様を信じないのであれば、あなたもまた神様に裁かれているのです。

これは本当に恐ろしい事実です。けれども、幸いにも、素晴らしい良い知らせがあります。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(3:16-17)

私たちが神様に背を向けたにもかかわらず、神様は私たちを変わらず愛しておられました。だからこそ、神様はイエス様をこの世に送り、イエス様は十字架の上で私たちの罪の罰を引き受けてくださいました。

そのため、今、神様はあなたに問いかけておられます。「私を信じ始めますか。私の子イエスと、その十字架での働きを信じますか。」

あなた自身と、あなたが愛している人々は死刑囚であるかもしれません。そして、解放される方法はただ一つしかありません。赦される道もただ一つです。それはイエス様を信じることです。

ヨハネはこう記しています。

御子を信じる者はさばかれない。(18a)

イエス様とその十字架での働きを信じるなら、神様はあなたを赦してくださいます。その赦しは私たちの良い行動によるものではありません。むしろ、それはイエス様の十字架での働きによるのです。

神様はそれを見て、私たちにこう語られます。「私の子イエスがあなたの罪の罰を支払いました。だから、私はあなたを裁きません。」

実際のところ、神様がこれを語られる時、それは将来のことだけを指しているのではありません。今この瞬間においても、神様の前であなたは裁かれていないのです。

使徒パウロはこう述べています。

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)

しかし、もしあなたがイエス様を拒絶するなら、あなたはすでに死刑囚なのです。そして、裁きの日が次第に迫っているため、ヨハネはあなたにこう語っています。

[イエス様を]信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。(ヨハネ3:18b)

あなたはどうしますか。

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詩篇

高い御位に座る神、身を低くして覧になる神

多分、神様に関して最も驚いたことは、神様は威光ある方でありながら、私たちを愛しておられることです。

詩人は詩篇113篇の最初から私たちを礼拝するように呼びかけます。

ハレルヤ。主のしもべたちよ。ほめたたえよ。主の御名をほめたたえよ。

今よりとこしえまで、主の御名はほめられよ。

日の上る所から沈む所まで、主の御名がほめたたえられるように。(詩篇113:1-3)

そして、彼は歌います。

主はすべての国々の上に高くいまし、その栄光は天の上にある。

だれが、われらの神、主のようであろうか。主は高い御位に座し。。。(4-5)

要するに、「神様は偉大な方です。神様を他のものと比べられません。神様が私たちの賛美に値する方だから、ほめたたえましょう。」

けれども、6節で、詩人はこう言います。

「神様は」身を低くして天と地をご覧になる。(6)

そして、詩人は、どうやって神様が弱いもの、貧しいもの、子供のいない女性(その時代、それは本当に恥ずかしいことでした)を引き上げ、祝福してくださることについて話します。(7-9)

神様は私たちを見るために身を低くし、私たちに触れられました。

しかし、それだけではなく、神様は人間として、この世に来られ、私たちと共に住まわれました。パウロはこう書きました。

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現われ[た]。(ピリピ2:6-7)

だから、神様は私たちのことを本当に理解しておられます。

さらに、神様は私たちの最大の必要を見て、十字架で私たちの罪のための罰を受けられました。

イエス様は死に値しなかったのに、私たちを愛し、この世に来て、私たちのために死んでくださいました。

だから、詩人が歌ったように、

日の上る所から沈む所まで、主の御名がほめたたえられるように。(3)

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詩篇

キリストの叫び

詩篇69篇はダビデの経験について書かれていますが、この詩篇の大部分はキリストのことも表しています。新約聖書において、この詩篇はキリストによく当てはめられました。

つまり、ここではイエス様の十字架の苦しみが見えます。その時、イエス様は死の泥沼に沈まれました。イエス様は天の父に叫ばれたけれども、返事は来ませんでした。イエス様はのどが渇かれ、衰え果てられました。(詩篇69:1-3)

ゆえなくイエス様を憎む者は多く(4)、イエス様の兄弟たちもイエス様をからかい、拒絶しました(8)。

イエス様が主の宮を清められた時、その父の家に対する熱心さが見えます。(9)

周りの人々はイエス様をそしり、侮辱しました。(19)

そして、イエス様が飲み物を頼まれたとき、彼らはイエス様に酢を飲ませました。(21)

それに、使徒の働き1章で、ペテロは詩篇69:25節をユダに当てはめました。

だから、この詩篇では、私たちは十字架でイエス様の叫びを見ることができます。けれども、それだけではなく、私たちの救いも見えます。なぜなら、イエス様の十字架の働きを通して、私たちのすべての罪が支払われたからです。

十字架でイエス様が苦しまれ叫ばれましたが、今、私たちはイエス様が歌われた賛美を歌うことができます。

私は神の御名を歌をもってほめたたえ、神を感謝をもってあがめます。

それは雄牛、角と割れたひづめのある若い雄牛にまさって主に喜ばれるでしょう。

心の貧しい人たちは、見て、喜べ。神を尋ね求める者たちよ。あなたがたの心を生かせ。(30-32)

そして、詩人は歌います。

まことに神がシオンを救い、ユダの町々を建てられる。こうして彼らはそこに住み、そこを自分たちの所有とする。

主のしもべの子孫はその地を受け継ぎ、御名を愛する者たちはそこに住みつこう。(35-36)

新しいエルサレムが来ます。それはユダヤ人だけのためではなく、イエス様の十字架の働きを信じ、その御名を愛する人のために来ます。その新しいエルサレムで、私たちの救いは成就されます。

主よ、あなたが私の救いのために多大な代価を払ってくださったことに感謝いたします。あなたは罪を犯されることなく、私のために死んでくださいました。

私が決してそのいけにえを軽んじることのないように、私の人生があなたに対する賛美となるようにお導きください。私の人生と言葉で周りの人々にあなたの御業を宣言するように助けてください。アーメン。

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詩篇

救い主の歌

このダビデの詩篇では、私たちはダビデの苦しみと救いを見ることができますが、イエス様の十字架の苦しみと復活も見ることができます。

最初に、ダビデは自分の救いについて神様を賛美します。

私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は私のほうに身を傾け、私の叫びを聞き、

私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。

主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。(詩篇40:1-3)

そのように、イエス様は十字架とその苦しみを振り返ります。天の父はイエス様の忍耐に報いて、イエス様をよみがえらせました。だから、イエス様はもう死にません。

それに、イエス様の十字架の働きによって、「多くの者は見、そして恐れ、主に信頼します」(3)

ダビデの預言は成就しました。2000年もの間、人々はイエス様の十字架の働きを見て、救われてきました。

そして、ダビデは歌いました。

幸いなことよ。主に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は。(4)

アダムとエバが罪に落ちてから、人々は救いのために偽物の神々を求めました。もしくは、自分自身を救おうと思いました。けれども、ダビデが言ったのは、偶像はあなたを救うことができないし、あなたが自分自身を救うことができない、ということです。

むしろ、救い主を仰いで信頼する人は救われます。

それは、初めから神様の計画でした。この世を造る前に、神様はその計画を立てられました。

そして、6-8節でダビデは歌います。

あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。

そのとき私は申しました。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。

わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」(6-8)

ヘブル人への手紙の著者は、この箇所を引用して、説明します。「神様の律法によれば、そのいけにえや捧げものは要求されました。しかし、それらはイエス様の十字架の働きのただの陰でした。」(ヘブル10章)

ちょっと何かを説明しなくてはなりません。詩篇では、「あなたは私の耳を開いてくださいました。」と書かれています。

けれども、ヘブル人への手紙では、「わたしのために、からだを造ってくださいました。」と書かれています。

その理由は、ヘブル人への手紙の著者がギリシャ語の翻訳から引用したということです。しかし、なぜヘブル語とギリシャ語がそれほど異なっているのでしょうか。

いろんな意見がありますが、まず一つの意見を紹介します。

神様の律法によって、もし奴隷が自由になる時間が来ても、その奴隷が主人を愛していて、ずっとその主人に仕えたいなら、彼の耳をきりで刺し通しました。それは、生涯のしもべのしるしでした。(申命記15:16-17)

もしかしたら、ギリシャの翻訳者はその詩篇の箇所をパラフレーズしたのかもしれません。つまり、ダビデは自発的に神様に供えられた体で、神様に永遠に仕えようと思いました。なぜなら、ダビデは神様を愛して、喜ばせたかったからです。

そのように、イエス様が天の父を愛して、喜ばせたかったので、天の父はイエス様に人間の体を備えられました。

そして、イエス様は私たちの罪のために十字架で死んでくださいました。しかし、イエス様はよみがえられて、永遠に天の父に仕えられます。(ローマ6:10;第一コリント15:24-27)

だから今、イエス様は神様の義、救い、真理、愛を全ての人々に述べ伝えます。(9-10)

この詩篇の最後の箇所では、十字架とイエス様の苦しみの話に戻ります。ダビデは自分の罪のために苦しんでいましたが、イエス様は十字架で私たちの罪を背負って、私たちのために苦しまれました。

そして、ダビデのように、イエス様は神様に願われます。「私を忘れないでください。私を憎む人々を裁いてください。また、あなたを愛する人によって、あなたの名前がほめたたえられるように。」(13-17)

天の父はイエス様の祈りに応えられたので、イエス様の働きによって、私たちはその救いを喜んで、「主をあがめよう」と叫ぶことができます。

アーメン。主をあがめよう。

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詩篇

苦しみを理解しておられる神

苦しみについてのメッセージで、私の牧師はこう言いました。

「神様は私たちの苦しみを取り除いてくださらないかもしれないけど、それは神様がおられない理由ではありません。時々、神様は私たちの望み通りに祈りに応えられないかもしれないけど、それは神様が私たちを愛しておられないわけではないのです。」

詩篇22篇では、その真理を見ることができます。ダビデは叫びました。

わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。

わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。(詩篇22:1-2)

神様が遠く離れたようで沈黙しておられた時でも、ダビデはこう言います。

けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。

私たちの先祖は、あなたに信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。

彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。

彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。(3-5)

つまり、「あなたがまだ存在しておられるのを信じます。あなたは私の先祖が信頼した神で、彼らはあなたに信頼すると、結局恥を見ませんでした。だから、私はあなたが見えなくても、あなたが何をされているか見えなくても、私はあなたに信頼し続けます。」

それでも、ダビデは自分のトラブルについて神様に伝え続けました。

しかし、この詩篇で、私たちはもう一つのことを見ます。この詩篇はイエス様の苦しみも預言しています。

この詩篇は、十字架でイエス様の状態を預言しています。(14-17)

また、イエス様がからかわれることを預言しています。(7-8)

また、人々がイエス様の着物をくじ引きにすることを預言しています。(17-18)

そして、イエス様の犠牲からの勝利や、救いや、祝福を預言します。(22-31)

だから、イエス様は十字架にかけられた時、こう叫ばれました。「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)

その時、イエス様はこの詩篇を自分の状況に当てはめられました。

私たちは、この箇所から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちが苦しむ時、神様が遠く離れたように感じ、また神様が私たちを愛しておられないと思うかもしれませんが、それはただ私たちの感情です。そして、その感情は現実とは異なります。

現実は、神様がまだ私たちと共におられることです。また、神様は私たちをまだ愛しておられます。

だから、ダビデは歌います。

まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。(24)

あなたは苦しむ時、この箇所を思い出しましょう。神様は私たちの悩みを軽く見ておられません。神様は私たちから隠れません。むしろ、神様は私たちの叫びを聞いてくださいます。また、神様は私たちの苦しみをよく理解しておられます。

どうして、私はそんなことが言えるのでしょうか。なぜなら、イエス様は苦しまれたからです。イエス様にも神様に捨てられた感じもありました。イエス様も苦しみをよく経験されました。

しかし、私たちが神様に信頼し続けると、神様はイエス様の苦しみを神様の栄光のために利用されたように、私たちの苦しみも神様の栄光のために利用されます。

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イザヤ書

なぜイエス様は来たのか

不思議なことに、イエス様が生まれる何世紀も前に、この預言は書かれていました。この箇所では、イエス様の命と死についての重要な真理を学ぶことができます。

彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。

彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。(イザヤ書53:2)

もし私が神様だったら、イエス様を王族の家に生まれさせたかもしれません。また、イエス様をとてもハンサムな姿にしたかもしれません。

けれども、イエス様は貧しい大工の息子としてこの世に来られました。

さらに、イザヤによると、イエス様の外見はごく普通であり、特にハンサムというわけではありませんでした。イエス様の容姿で、女性たちを惹きつけることはなかったようです。

それに加えて、イエス様は人々から拒絶されることもありました。

彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。

人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。(イザヤ書53:3)

時々、私たちはこう考えることがあります。「イエス様は本当に私のことを理解してくださるのだろうか。」

なぜなら、私たちは特別にハンサムでも美しくもないし、時には拒絶されることもあるからです。しかし、イエス様には私たちのことがよく理解できます。

それだけではありません。イエス様は私たちを本当に深く愛しておられます。たとえ私たちがイエス様を拒絶したとしても、それでもなお、イエス様の愛は変わりません。それでも、

彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ書53:5)

私たちがイエス様を求めていなかったにもかかわらず、イエス様は私たちのために命を捨てられました。私たちがイエス様から逃げ続けていたにもかかわらず、イエス様は私たちを深く愛しておられました。

イザヤ53:6には、次のように書かれています。

私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。

しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。(6)

それは本当に不思議なことです。私たちはイエス様を拒絶し、イエス様から背を向けて逃げました。それにもかかわらず、イエス様は私たちの罪のために、言葉で表現しきれないほどの苦しみに耐えられたのです。

彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。。。

多くの者があなたを見て驚いたように、――その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。(イザヤ書53:7-8、52:14)

そして、十字架で、

彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。。。

彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。(イザヤ書53:8、12)

そのあとで、

彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。(イザヤ書53:9)

しかし、それで話が終わりではありません。

もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。

彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。

わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。(イザヤ書53:10-11)

つまり、死はイエス様の終わりではありませんでした。むしろ、イエス様は苦しみの後に「見ました。」つまり、イエス様はよみがえられ、末永く生き、子孫を見られたのです。

その子孫とは誰でしょうか。それは私たちクリスチャンです。私たちがイエス様を受け入れるならば、神様の子供となります。(ヨハネ1:12)

イエス様はその目的のためにこの世に来られました。私たちはイエス様を拒絶し、イエス様から逃げました。それでも、イエス様は私たちを愛し、救うために来られたのです。

ですから、十字架の御業を通して、私たちは永遠の死から救われ、神様の子供として新しい命をいただきます。

私たちがするべきことはただ一つです。イエス様とその御業を信じることです。それによって、私たちは本当の命を知ることができます。

このことをどうか忘れないでください。イエス様は私たちを理解されており、何よりも私たちを愛し、あがなうために来られたのです。

だからこそ、その素晴らしい知らせを周りの人々に伝えましょう。