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ヨハネの黙示録

忍耐と信仰の必要性

今日の箇所では、さまざまな出来事があり、聖書学者たちは例によってその意味を議論しています。

竜(つまりサタン)と共に、二頭の獣が現れます。今回の記事では、最初の獣について取り上げ、次回のブログで二頭目の獣について扱います。

第一の獣は海から現れます。それは不思議な存在で、ダニエル書第7章に出てくる四頭の獣の特徴を併せ持っています。

竜の力を授けられたこの獣の七つの頭のうち一つは致命的な傷を負って死にましたが、その傷が癒え、世界の人々は驚きました。その結果として、世界の人々はこの獣と、それに力を与える竜を拝むようになります。

では、この幻の意味は何でしょうか。

ダニエル書では、四頭の獣がバビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマの各帝国を象徴しています。

ある程度、黙示録に登場する第一の獣は、それら四つの帝国に似た性質を持っています。これらの帝国は次々に現れては滅び、別の帝国に取って代わられました。

けれども、その結果はいつも同じでした。すなわち、竜を礼拝する新たな帝国が登場し、神の民を迫害するのです。

このように、黙示録において獣に従う者たちは竜を礼拝し、神の民に敵対します。

興味深いことに、黙示録第17章では、その獣が「昔はいて今はいないが、やがて底知れぬ所から上って来るもの」と描写されています(17:8,11)。

もしかすると、ヨハネはかつて獣を見たが、この書を書いた時点ではその獣がすでに滅びていたことを示しているのかもしれません。つまり、ヨハネは過去の皇帝、ネロについて言及している可能性があります。

いずれにせよ、ヨハネによれば、その皇帝は致命的な傷を受けたものの、いつか別の皇帝が現れ、ネロのように神を冒涜し、神の民を迫害するのです。

ヨハネがそのような意図を持っていたとすれば、獣は単一の人物ではなく、歴史の中に登場した多くの人々を象徴していることになります。ヨハネ自身、「キリスト教が始まってから、多くの反キリストがすでに現れている」と述べています(第一ヨハネ2:18)。

これらの反キリストたちは現れ、死に、そして新たな反キリストが再び登場します。そのパターンは何度も繰り返されてきました。

しかし、ヨハネによれば、最終的な反キリストが現れます。そして、かつての反キリストたちと同様に、人々を竜を礼拝するように導きます。

おそらく、その反キリストは「サタンを礼拝せよ」と直接は言わないでしょう。けれども、かつてのローマ皇帝のように、彼は救い主として人々に礼拝されるのです。なぜなら、一時的な平和と繁栄をこの世にもたらすからです。

ところが、人々は、自分が実際にはサタンの代理者に従っていることに気づいていません。

おまけに、反キリストは神様を冒涜し、多くのクリスチャンが迫害されます(7)。

第7〜8節によれば、クリスチャンでない者たちは喜んで獣に従います。言い換えれば、クリスチャンを迫害し殺害することが、政治的に正しいとみなされる時代になるのです。

それでは、今日の箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。私たちが第一の獣に直面する時、彼は私たちを激しく虐げるでしょう。だからこそ、ヨハネは私たちに警告を与えているのです。

捕らわれの身になるべき者は捕らわれ、剣で殺されるべき者は剣で殺される。ここに、聖徒たちの忍耐と信仰が必要である。(黙示録13:10)

その言葉は、スミルナにある教会の人々に対するイエス様の言葉に似ています。だからこそ、おそらく彼らがこれらの言葉を読んだ時、それは心に深く響いたことでしょう。

しかし、10では、ヨハネは私たちすべてに語りかけておられます。

「心構えをしなさい。迫害は来ます。でも、忍耐と信仰を保ちなさい。そうすれば、あなたたちはいのちの冠を与えられます。また、あなたたちは決して第二の死によって害を受けることはありません。」

このメッセージを私は何度も繰り返してきたので、あなたの耳にはタコができているかもしれません。でも、私たちが反キリストに直接直面しなくても、他者による迫害を受ける可能性はあります。家族や友人、隣人、同僚、そして政府ですら、私たちを迫害するかもしれません。

アメリカでは、クリスチャンたちはこうしたことを経験し始めています。日本の歴史においても、クリスチャンたちは迫害を受けました。今は想像できないかもしれませんが、その時は再び訪れる可能性があるのです。

だから、気持ちを引き締めましょう。信仰を保ちましょう。そして、忍耐を保ちましょう。もしかすると、神様は私たちが迫害を経験するように召しておられるのかもしれません。

それでも、もし迫害を受けるなら、忘れないでください——イエス様はすでに私たちのために迫害を受けておられます。

だからこそ、『へブル人への手紙』の著者は次のように語っています。

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。

この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。(へブル12:2-3)

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ヨハネの黙示録

悪化の末に、救い

私は以前も言いましたが、私たちは聖書の深海に入っていて、これからその海はさらに深くなっていくでしょう。😊

クリスチャンたちはこの章の解釈をめぐってよく議論します。

だから、私は以前にも言ったように、とりあえず私の意見を述べますが、後にその意見が変わるかもしれません。

今日の箇所では、ヨハネは測り竿を与えられ、神殿と祭壇を測り、礼拝している人々を数えるよう命じられます。

しかし、御使いはヨハネにこう言います。

神殿の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはいけない。それは異邦人に与えられているからだ。彼らは聖なる都を四十二か月の間、踏みにじることになる。(黙示録11:2)

それはどういうことでしょうか。

たぶん、御使いはルカ21:24にあるイエス様の言葉に触れているのかもしれません。その箇所で、イエス様はエルサレムが倒れることを預言されました。

西暦70年に、その預言は成就しました。

多くのクリスチャンたちが考えるのは、その預言が西暦70年の出来事だけではなく、将来の出来事にも触れているということです。そうであれば、将来エルサレムに新しい神殿が建てられるはずです。

でも、もう一つの可能性があります。それは、西暦70年の出来事が将来の出来事の象徴であるということです。

つまり、神殿や聖なる都(つまり、エルサレム)は神様の民を象徴しています。(第一コリント3:16-17;黙示録21:2)

そして、多くのクリスチャンたちは神様に守られますが、他のクリスチャンたちは迫害されます。

私たちはすでに読みましたが、それは黙示録に繰り返し現れるテーマです。

そして、12-13章でそのテーマは再び現れます。(また、ダニエル書7:21および12:7でもそのテーマを見ることができます。)

黙示録では、1260日間や、一時と二時と半時の間という言葉が繰り返し登場します。それらは同じ意味を持っています。つまり、神様の民は三年半ほど苦しむということです。

それは、文字通りの三年半かもしれません。でも、比喩的な数字かもしれません。聖書では、「7」が「完全さ」を表します。

だから、私たちの苦しみは完全なものではなく、短くされるのです。イエス様によれば、神様に選ばれた者たちのために、大きな苦難の日数は少なくされます。(マタイ24:22)

いずれにせよ、ヨハネによれば、将来二人の証人たちが現れ、この世の人々に神様の裁きと救いを宣言します。

クリスチャンたちはその意味についてもよく議論します。

ある人々は、その二人が文字通りの二人の証人だと考えます。ですが、他のクリスチャンたちは、その証人たちが教会全体を象徴すると考えています。

私の意見ですが、その二人は教会全体を象徴していると思います。なぜなら、その二人は、二本のオリーブの木、また二つの燭台に例えられているからです。(黙示録11:4)

そして、2-3章で、教会は燭台に例えられました。

さらに、預言者ゼカリヤによれば、二本のオリーブの木は支配者と祭司を象徴しています。(ゼカリヤ3-4章)

そして、黙示録では、教会はその二つの役割を果たしています。(1:6;5:10)

いずれにせよ、三年半の激しい迫害の間、その証人たちは預言します。しばらくの間、神様は彼らを守り、彼らを通して人々を裁きます。

けれども、その三年半が過ぎると、獣、つまり反キリストが彼らを殺します。そのとき、この世の人々は喜びます。

なぜなら、その証人たちは彼らの説教によってこの世の人々を苦しめ、彼らの祈りによって人々は裁かれていたからです。(黙示録11:5-10)

ヨハネがキリスト教の長い歴史におけるすべての殉教者について語っているのか、それとも将来の殉教者たちについてだけ語っているのかは分かりません。

6節を読むと、私たちはモーセとエリヤを連想するので、もしかすると象徴的な描写であり、二人の証人がすべての殉教者を象徴しているのかもしれません。

とはいえ、それが文字通りの記述だとすれば、おそらく将来の出来事を指しているのでしょう。

ただ、5節によると彼らの口から火が出るため、やはり象徴的な表現なのかもしれません。

いずれにせよ、三日半が過ぎると、神様は彼らの敵の目の前で証人たちを復活させ、天に引き上げられます。

もしその証人たちが教会全体を象徴しているのであれば、ヨハネはキリストの再臨に触れているのかもしれません。その日、神様は死んだクリスチャンのからだを復活させ、私たちは空中で主に会うのです。(第一テサロニケ4:17)

それが私の見解です。なぜなら、その後に七つのラッパが吹かれ、多くの人々が叫びをあげるからです。それは、

この世の王国は、私たちの主と、そのキリストのものとなった。主は世々限りなく支配される。(黙示録11:15)

そして、長老たちは歌い始めます。

私たちはあなたに感謝します。今おられ、昔おられた全能者、神である主よ。あなたは偉大な力を働かせて、王となられました。諸国の民は怒りました。

しかし、あなたの御怒りが来ました。死者がさばかれる時、あなたのしもべである預言者たちと聖徒たち、御名を恐れる者たち、小さい者にも大きい者にも報いが与えられる時、地を滅ぼす者たちが滅ぼされる時です。(17-18)

その後、天にある神の神殿が開かれ、ヨハネは神の契約の箱を神殿の中に見ました。

そして、裁きが始まり、稲妻がひらめき、雷鳴がとどろき、地震が起こり、大粒の雹が降りました。

では、今日の箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

それは、神様の民にとって、物事は段々と悪化するということです。

福音書で、イエス様は私たちにこのことを警告されました。さらに、イエス様は黙示録に登場する7つの教会にも警告されました。そして、今日の箇所でもイエス様は同じ警告を私たちに与えておられます。

迫害は必ず訪れます。けれども、その迫害は永遠に続くものではありません。迫害は短くされます。

そして、イエス様がもう一度この世に来られるとき、私たちは救われます。

やがて、神の正義が訪れます。 もし私たちが迫害に耐えるなら、救われ、大きな報いを受けます。 そして、その日に、私たちのすべての涙はぬぐい取られます。

なぜ私はこのテーマを何度も繰り返すのでしょうか。 それは、このテーマが黙示録全体を貫いているからです。 私たちはすでに以前の箇所で読みましたし、今日の箇所にも登場しました。 そして、この書の後半にも現れます。

では、なぜ神様はこのテーマを何度も繰り返されるのでしょうか。 きっと、私たちの苦しみが激しくなっていくからです。 そして、その苦しみに耐えることは、とても難しいからです。

しかし、神様が私たちに伝えたいのは、「その苦しみは一時的なものだ」ということです。

ですから、黙示録の後半でも、このテーマを探してみましょう。

黙示録の目的は、私たちに未来の出来事を知らせることだけではありません。 神様が望まれるのは、私たちが心構えすることだけではありません。 むしろ、神様は私たちに希望を与えたいと願っておられます。

どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。(ローマ15:13)

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ヨハネの黙示録

御怒りの日、誰が耐えられるか

6章の最後で、イエス様が第6の封印を解かれると、大変な出来事が起こります。この世の偉い人たちも庶民たちも、山々や岩に向かって叫びます。

私たちの上に崩れ落ちて、御座に着いておられる方の御顔と、子羊の御怒りから私たちを隠してくれ。神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。(黙示録6:16-17)

「だれがそれに耐えられよう。」

その答えは、7章に記されています。

ヨハネは4人の御使いたちを見ます。彼らは神様の裁きをこの世に実行しようとしています。しかし、もう一人の御使いが現れてこう言います。

私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を加えてはいけない。(黙示録7:3)

その言葉は、エゼキエル書にある言葉に似ています。その時にも、神様はご自身の民を裁こうとしていましたが、その前に、忠実な民をその裁きから守るため、彼らの額に印を押されました。(エゼキエル書9:3-7)

今日の箇所では、神様は、イスラエルの子らのあらゆる部族の十四万四千人の額に印を押されます。

聖書学者たちは、その十四万四千人が誰を指すのかについて、活発に議論しています。

私の意見ですが、おそらく、彼らは救われた人々全体を象徴しているのでしょう。

すなわち、12(イスラエルの部族——旧約の聖徒たち)×12(使徒たち——新約の聖徒たち)×1000(「完全」を意味する数字)=十四万四千。彼ら全体が、イエス様にある新しいイスラエルなのです。

では、なぜ私は、その十四万四千人が文字通りのユダヤ人だとは考えないのでしょうか。

最初の理由は、黙示録のイスラエルの部族のリストが、ヤコブの息子たちのリストと少し違うことです。(ダンは含まれておらず、代わりにヨセフの息子であるマナセが含まれています。)

また、黙示録のイスラエルの部族のリストは、カナンの地を受け継いだ部族のリストとも異なります。(ダンが省かれ、レビが含まれ、エフライムの代わりにヨセフが含まれています。)

さらに、現代のユダヤ人の部族的系統は完全に混ざっています。

こうした理由から、私はヨハネが文字通りのユダヤ人について語っているのではないと考えます。

また、私の意見ですが、その十四万四千人は7:9に登場する大群衆と同じ存在だと思います。その群衆は、すべての国民、部族、民族、言語から構成されており、御座の前と子羊の前に立って叫びます。

救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。(黙示録7:10)

一人の長老はヨハネに、その人々についてこう言います。

この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。

それゆえ、彼らは神の御座の前にあって、昼も夜もその神殿で神に仕えている。御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られる。彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も、彼らを襲うことはない。

御座の中央におられる子羊が彼らを牧し、いのちの水の泉に導かれる。また、神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。(黙示録7:14-17)

その長老は、何を言わんとしていたのでしょうか。

苦難の時は、必ずやって来ます。反キリストが現れると、キリストのために多くのクリスチャンが迫害され、殺されます。けれども、イエス様がスミルナにある教会に言われたように、その苦難は一時的なものです。(黙示録2:8-10)

私たちは、サタンとその反キリストの怒りに直面するかもしれませんが、神様からの印を受け、神様の御怒りとキリストの御怒りから守られます。

そして結局、私たちは神様の御前に立ち、永遠に神様に仕え、礼拝します。私たちはもはや苦しむことはなく、その日には、イエス様の御顔を仰ぎ見るのです。イエス様は、私たちに永遠の命を与え、すべての涙を拭い取ってくださいます。

それは、イエス様を信じる人たちの希望です。

だから、私たちには選択があります。私たちは神様の印を受け、サタンの怒りに直面するのでしょうか。それとも、私たちはサタンの印を受け、神様の御怒りに直面するのでしょうか。他の選択肢はありません。

あなたは何を選ぶでしょうか。

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ヨハネの黙示録

決してのけ者にされない私たち

多くの人が、のけ者にされた経験を持っているのではないでしょうか。

高校生の時、私は級友たちに近づいたところ、一人にこう言われました。「どうしてここに来ているの?出て行け!」

フィラデルフィアの教会のクリスチャンたちも、似たような問題に直面していました。スミルナの教会と同様に、彼らはユダヤ人たちにのけ者とされ、会衆に入ることが許されませんでした。

しかし、イエス様は彼らにこう言われました。「私は、ダビデの鍵を持っている者です。」(黙示録3:7)

言い換えれば、「神様がダビデとその子孫に永遠の国を約束されましたが、その国の鍵を持っているのは私です。私において、その約束は実現されます」という意味です。

そして、イエス様は続けて語られました。「私はあなたのために門を開きました。ですから、ユダヤ人たちはあなたの入るのを阻むことができません。実のところ、彼らは本当のユダヤ人ではありません。むしろ、サタンの会衆に属する者たちです。

あなたがたは、私を信じることによって、真のユダヤ人となりました。そして、いつか彼らはその真理を認めることになるでしょう。」(黙示録3:7〜9)

その後、イエス様は彼らにこう言われました。

あなたは忍耐についてのわたしのことばを守ったので、地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る。(黙示録3:10)

私は以前言いましたが、たぶん、私たちは最後の反キリストと向き合わなくてはならないでしょう。

けれども、教会の中には、この一節を読んで違う結論に至る人もいます。彼らは、試練の前にイエス様が私たちを天国に連れていかれると考えます。

しかし、二つの理由で、私はその意見に同意できません。

最初の理由は、たくさんの聖書の箇所によれば、私たちが反キリストと向き合い、大きな患難を経験しなくてはならないということです。

二つ目は、イエス様がフィラデルフィアのクリスチャンたちに語られたということです。そして、イエス様がそのクリスチャンたちが試練に直面する前に、彼らを天国に連れていかれたと信じる人は、誰もいないと思います。

むしろ、イエス様が約束されたのは、試練の時に、イエス様が彼らを守られるということです。

空いている門や閉じている門を考えると、私はノアの箱舟を連想します。箱舟の戸はノアとその家族のために開いていました。でも、彼らが入ると、神様ご自身がその戸を閉じられました。(創世記7:16)

そして大洪水の時、神様はノアとその家族を天国に連れて来られませんでした。むしろ、その大洪水の中で、神様は彼らを守ってくださいました。

黙示録を読むと、私たちはそのパターンを見ます。私たちが反キリストや大きな患難を経験しても、神様は私たちを守ってくださいます。

だから、患難の時、イエス様の言葉を覚えているべきです。

わたしはすぐに来る。あなたは、自分の冠をだれにも奪われないように、持っているものをしっかり保ちなさい。(11)

大きな患難を考えると、たくさんのクリスチャンたちが恐れるのは、自分が耐えることが出来ないということです。彼らは、自分の冠をなくすと心配します。

でも、イエス様がその教会の人たちに何を言われたか見ましょう。

あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。(8)

この教会の人たちは、自分が弱いと考えました。イエス様ご自身は、「あなたたちが少しばかりの力があります」と言われました。それでも、試練があっても、彼らはしっかり立っていました。

だから、私たちがその試練を耐えるかどうかに関して考えると、大切なのは、私たちの力や意地ではありません。むしろ、大切なのは、神様の恵みです。神様の恵みによって、私たちはしっかり立ちます。

イエス様は、私たちに言われます。

わたしは、勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱とする。彼はもはや決して外に出て行くことはない。

わたしは彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書き記す。(12)

イエス様があなたをのけ者とされることはありません。イエス様はあなたを神様の神殿の柱とされます。イエス様は神様の名前をあなたの上に書き記されます。要するに、あなたは永遠にイエス様の者とされます。

それを考えると、昔から親しまれている賛美歌が思い浮かびます。(日本語では、「主われを愛す。」)

Jesus loves me! This I know.
イエス様は私を愛してくださいます。私はそれを知っています。

For the Bible tells me so.
聖書がそう教えてくれています。

Little ones to Him belong;
小さな者たちはイエス様に属しています。

They are weak, but He is strong.
彼らは弱いですが、イエス様は強い方です。

Yes, Jesus loves me!
イエス様は私を愛してくださいます。

Yes, Jesus loves me!
イエス様は私を愛してくださいます。

Yes, Jesus loves me!
イエス様は私を愛してくださいます。

The Bible tells me so.
聖書がそれを教えてくれています。

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ヨハネの黙示録

直面する試練に心を備えるために

黙示録の中で、最も頻繁に説教される箇所は、2ー3章かもしれません。なぜなら、それらの章は一番わかりやすく、パウロや他の使徒たちの手紙に似ているからです。

けれども、私たちが覚えておかなければならないことがあります。イエス様が七つの教会にメッセージを与えられたのは、最後の日が迫っているからです。

以前にも申し上げましたが、私たちは終わりの時にすでに入っています。実際、使徒たちの時代から、私たちは終わりの時代に生きてきたのです。(使徒の働き2:16-17;へブル書1:2;第一ヨハネ2:18)

使徒ヨハネは自分の手紙の中でこう述べています。やがて、最後の反キリストが現れます。ところが、それ以前にも、多くの反キリストがすでに現れているのです。ヨハネの時代にも、彼らはすでに活動していました。(第一ヨハネ2:18)

そして、反キリストだけではなく、偽預言者や偽教師も現れます。人を欺く者もおり、欺かれる者もいます。さらに、神様の民は迫害を受けるのです。

だからこそ、神様はこの世を裁かれます。ある裁きは人を通して行われます。つまり、戦争や暴力として現れる裁きです。一方で、自然災害や疫病を通して行われる裁きもあります。黙示録には、こうした裁きについて何度も描かれています。

この世を見つめるとき、私たちはそれらの裁きを識別できるでしょうか。教会の長い歴史の中にも、そして今もなお、私たちはその裁きに気づくことができます。

だから、ヨハネの時代の教会に向けられた神様のメッセージは、現代の教会にも当てはまります。神様は、今の教会にも同じことを語っておられるのです。

昔の教会が自らの反キリストに直面したとき、さまざまな問題を抱えました。そして、私たちも自らの反キリストに直面する時、同じような問題に直面します。

ですから、この手紙のことばは平和な時代のための訓戒ではありません。むしろ、私たちが反キリストに立ち向かうために、イエス様はこのことばを与えられました。また、最後の反キリストに直面するその時のためにも、私たちはこのことばを覚えていなくてはなりません。なぜなら、その時、私たちは多くの苦しみを経験するからです。

だから、これから数日間、この七つの手紙に耳を傾けるとき、そのことを心に刻んでおきましょう。

もしかしたら、あなたは、私たちが最後の反キリストと、その苦しみの時代に直面しないと信じているかもしれません。私もそう信じたいと思いますが、その確信はありません。

たとえそう信じていても、忘れないでください。教会はいつの時代も、反キリストや苦しみの時と向き合ってきました。だから、たとえ最後の反キリストが来る前に神様が私たちを天に引き上げられたとしても、その前に、私たちは別の反キリストや苦しみと直面することになるでしょう。その準備のために、ヨハネはこの手紙を書いたのです。

あなたは備えができているでしょうか。備えるためには、私たちはイエス様のことばに耳を傾けなければなりません。

だからこそ、イエス様のことばを心に刻んでおきましょう。

耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。(黙示録2:7)

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ヨハネの手紙第一

サタンが私たちに売ろうとするもの

サタンを吠えるライオンとして考えるのは簡単なことです。また、私たちはしばしばサタンを、私たちを滅ぼそうとする者として想像します。

もちろん、サタンがそのように見える時もありますが、羊のように見える時もあります。特に、この世に現れるとき、反キリストは羊のように見えるでしょう。

「反キリスト」という言葉を聞くと、私たちはこの世を荒らす恐ろしい者を思い浮かべるかもしれません。もちろん、彼はそのような存在です。けれども、この世を荒らす前に、彼はキリストのように見えるでしょう。彼はこの世に平和と救いを約束します。

彼はまだこの世に現れていませんが、長い歴史の中で、ヨハネの時代にもさまざまな反キリストたちが現れました。

最初は彼らが親切で、教会を祝福する者に見えましたが、最終的には教会に毒を広げたため、彼らは追い出される必要がありました。

ヨハネは彼らについてこう言いました。

彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。

もし仲間であったなら、私たちのもとに、とどまっていたでしょう。しかし、出て行ったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためだったのです。(ヨハネの手紙第一2:19)

彼らはどんな「毒」を広げたのでしょうか。今なお、その毒はこの世に広まり続けています。それは、イエス様を否定することです。

日本は事情が異なるかもしれませんが、アメリカでは、多くの人々が「神様を信じる」と言います。そして、もしあなたが「私は神様を信じています」と言っても、彼らは全く気にしません。

けれども、もしあなたが「イエス様だけが神です」と主張すると、彼らは非常に怒るでしょう。

しかし、ヨハネはこう言います。

偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否定する者、それが反キリストです。

だれでも御子を否定する者は御父を持たず、御子を告白する者は御父も持っているのです。(22-23)

言い換えると、イエス様を否定するなら、神様を信じると主張することはできません。なぜなら、イエス様を否定することは、神様を否定することだからです。どうしてでしょうか。それは、イエス様ご自身が神だからです。

イエス様の時代、ユダヤ人たちはそれを理解できませんでした。つまり、神様が約束されたメシアが神であるということです。

ところで、ギリシャ語では、「キリスト」とは「メシア」を意味します。キリストは名前ではなく、肩書です。その広い意味は「王と救い主」です。

とにかく、ユダヤ人たちがキリストが神であることを理解していなかったために、イエス様が「もしキリストがダビデの子であるなら、なぜダビデはキリストを主と呼ぶのか」と尋ねると、彼らは答えることができませんでした。(マタイ22:42、45)

その答えは、人間として、キリストはダビデの子であり、同時にキリストご自身が神であるということです。(ヨハネ8:58、10:30-33)

しかし、多くの人々は故意にその真理を否定します。彼らはイエス様を善良な人、預言者、または神の子と呼びます。

もちろん、イエス様についてそう言うことは正しいです。けれども、それだけではありません。イエス様は永遠から永遠まで神なのです。それを否定する者は、まさにサタンが売る毒を飲み込んでいます。

だからこそ、ヨハネはこう言います。

あなたがたは、初めから聞いていることを自分のうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いていることがとどまっているなら、あなたがたも御子と御父のうちにとどまります。

これこそ、御子が私たちに約束してくださったもの、永遠のいのちです。(24-25)

最終的な質問は、「あなたがたはキリストについてどう思いますか。彼は誰の子ですか。」

あなたの永遠の運命は、その答えに基づいています。(マタイ22:42)

あなたはどう思いますか。

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テサロニケ人への手紙第二

苦難のただ中にある希望

私は前にも述べましたが、クリスチャンたちは反キリストを見ることになり、迫害を受けると信じています。

そして私は、イエス様が反キリストを滅ぼすために来られるまでは、ご自身の民を集められないと信じています。

どうして私がそう信じているのでしょうか。この箇所の言葉が、その理由の一つです。

一部のクリスチャンたちは、反キリストが現れる前に、イエス様がご自身の民を集めて天に連れて行かれると考えています。

彼らの主張によれば、もしキリストの再臨に先立って、ある「しるし」が成就しなければならないのだとすれば、「イエス様がいつでも来られる」とは言えなくなってしまう、というのです。

だから彼らの理解では、その「しるし」を見るまでは、私たちは特に準備をしなくてもよい、ということになります。

私は、その考えに対して二つの答えを持っています。

一つ目は、イエス様がご自身の民を集められる前に、いくつもの出来事が起こらなくてはなりませんが、それでもイエス様は、いつでもあなたを天に連れて行かれるかもしれません。

イエス様は、あなたに明日のいのちを約束しておられません。あなたは交通事故で死ぬかもしれません。また、犯罪者によって命を奪われるかもしれません。

そうしたことが起こったとき、あなたは何らかの備えをしているでしょうか。もしかしたら、イエス様のたとえ話に出てくるように、神様が突然あなたを裁くために呼ばれるとき、あなたは何の備えもしていないかもしれません。(ルカ12:13〜21)

二つ目は、その議論がパウロの言葉と矛盾しているということです。パウロ自身がこう言いました。「イエス様はまだ来られていません。その前にあるしるしが成就されなくてはなりません。」

パウロの時代から今日に至るまで、何かが変わったでしょうか。何も変わっていません。イエス様はまだ来られていません。そして、私たちはイエス様がいつ来られるのかを知りません。

ですから、もしパウロが今も生きていたら、私たちに同じように語るはずです。「イエス様はまだ来られていません。まだ、あるしるしが成就されなくてはなりません。」

もちろん、クリスチャンが反キリストを見ることは、不穏なことです。特にこれまで、私たちクリスチャンが反キリストを見ることは決してないと信じていた人々にとっては、そのような話は聞きたくないと思うかもしれません。

しかし、私たちには希望があります。

パウロによれば、酷い苦難の時、つまり反キリストの時代には、この世の人々が神様の御怒りを受けますが、私たちはその御怒りを受けることはありません(第一テサロニケ5:9)。

また、ペテロはこう語っています。

主はこのようにされたのですから、敬虔な者たちを試練から救い出し、正しくない者たちを処罰し、裁きの日まで閉じ込めておくことを、心得ておられるのです。(第二ペテロ2:9も別訳、脚注を調べてください)。

さらに、パウロはテサロニケの人々にこう語りました。

しかし、主に愛されている兄弟たち。私たちはあなたがたのことについて、いつも神に感謝しなければなりません。

神が、御霊による聖別と、真理に対する信仰によって、あなたがたを初穂として救いに選ばれたからです。

そのために神は、私たちの福音によってあなたがたを召し、私たちの主イエス・キリストの栄光にあずからせてくださいました。(テサロニケ人への手紙第二2:13-14)

要するに、あなたは試練に遭うかもしれませんが、神様がすでにあなたを選んでおられるので、必ず救ってくださいます。そして、あなたはイエス様の栄光にあずかるのです。

そういうわけで、パウロはこう言います。

ですから兄弟たち。堅く立って、語ったことばであれ手紙であれ、私たちから学んだ教えをしっかりと守りなさい。

どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、永遠の慰めとすばらしい望みを恵みによって与えてくださった方ご自身が、あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。(15-17)

私たちがどのようなことを経験しても、たとえ反キリストに直面するとしても、パウロは私たちにこう語っています。

「あなたが受けた真理にしっかりとしがみつきなさい。何よりも、イエス様にしがみつきなさい。なぜなら、最も暗いときにこそ、イエス様は私たちに励ましと希望と力を与えてくださるからです。」

実のところ、もし私の考えが間違っていて、私たちが反キリストに会う必要がないのだとすれば、それは私にとって本当に喜ばしいことです。

しかし、もし私たちが反キリストを見ることになるのなら、イエス様にしがみつきましょう。イエス様は、私たちがその試練を乗り越えることができるように助けてくださいます。

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主が戻られるまで

この箇所では、イエス様はご自身が戻られるまでにどのような出来事が起こるかを説明されています。そしてイエス様のお言葉によれば、この世界は次第に悪化の一途をたどります。最終的には非常に厳しい状況になるでしょう。

戦争が起こり、地震や様々な災害が発生します。その混乱の中で、偽預言者たちが現れ、希望を語るメッセージを伝えるものの、多くの人々を欺きます。

さらに、反キリストも登場します。

その結果として、迫害が生じます。特にユダヤ人やイエス様に従う人々が迫害されるため、多くの人々が信仰を捨ててしまうのです。

現在、多くの人々は自分をクリスチャンだと主張しますが、イエス様に従わず自分の道を歩んでいます。しかし、迫害の時代が訪れると、このような「クリスチャン」はいなくなるでしょう。迫害を受ける前に、自らの「信仰」を捨てると考えられます。

また、周囲の邪悪さのため、多くの人の愛が冷えていきます。信頼は薄れ、人々は互いに、特にクリスチャンたちを裏切るようになります。そしてさらに災害が続くことで、人々の恐怖は増していきます。

ところが、この災厄が頂点に達するとき、イエス様が現れて、邪悪なものを終わらせ、ついに神の国が来るのです。

これらの言葉の後、イエス様は私たちを励ますと同時に警告もされています。

イエス様の最初の警告は、偽のキリストが現れるということです。

イエス様がこの世に戻られるとき、雲の中から偉大な力と栄光を伴って現れ、全世界が一斉にイエス様を目にするでしょう。だから、噂を信じてはなりません。

しるしや不思議を行う偽のキリストも現れますが、そのような人物を信じてはなりません。なぜなら、反キリストもまたしるしや不思議を行い、多くの人々を欺くからです。(第二テサロニケ2:3-9)

さらに、イエス様は私たちが厳しい試練に直面しても希望を失わず、イエス様を待ち望み、神様の御心に従い続けるよう励まされています。イエス様は次のように言われました。

これらのことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの贖いが近づいているからです。(ルカ21:28)

要するに、迫害や災害などが起こっても、思い悩まないでください。絶望しないでください。なぜなら、その出来事はイエス様の戻りのしるしだから。

でもイエス様は私たちに警告します。

あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。(ルカ21:34)

その試練が訪れるとき、周囲の不正を目にして絶望に陥ることは容易です。だからこそ、イエス様は私たちが絶望に陥らないよう注意を促されています。

また、邪悪なものを見る際には皮肉的な心を持たないよう気をつけなければなりません。「イエス様はもう戻ってこられないのではないか」と思い始めてはいけません。

むしろ、イエス様を待ち望み続け、イエス様に仕え続けましょう。そうすれば、あなたは報いを受けることができます。しかし、そうしない場合、あなたは懲らしめを受けることになります。(マタイ24:46-51)

もしかすると、「この話は私には関係ない」と思うかもしれません。なぜなら、その試練が訪れる前、反キリストが現れる前に、あなたがすでにイエス様とともにいると思っているからです。

以前にも述べたように、私もそれを信じたいと願っています。けれども、もし反キリストを目にして、自分が誤っていたことに気づいたなら、そのときは、私が述べたことを思い出してください。

そして、どのような試練に直面しても、どれほどの苦しみを経験しても、主が戻られるまで、イエス様を待ち望み、忠実に仕え続けましょう。

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将来を現すしるし

前回の記事では、この箇所が非常に難解であると述べました。その理由の一つは、マタイ、マルコ、そしてルカが同じ話を伝えているものの、それらを統合するのが難しいという点です。

イエス様が神殿が破壊されると言われた際、弟子たちは大変な衝撃を受け、いつそのことが起こるのかを尋ねました。また、世の終わりのしるしがどのようなものなのかも尋ねました。

彼らの視点を考えてみてください。

その質問をした時点では、彼らはまだイエス様が十字架にかかり、死を迎え、そして復活しなければならないことを理解していませんでした。

さらに、復活された後にイエス様が天国へ帰られる必要があることについても全く分かっていませんでした。

そのため、彼らがイエス様の到来について尋ねた際、その質問はイエス様が天国から戻って来られる時期を指しているのではありませんでした。おそらく、彼らが意味していたのは、イエス様が自身の王国を築くのはいつなのかということだったのでしょう。

彼らは子供の頃から「主の日」について何度も聞いてきた経験がありました。その日は、主が国々を裁き、イスラエルを再び王国として確立される日とされています。

しかし、イエス様は彼らに、神殿が破壊されることを告げられました。それが起こる前に、確かに「主の日」は来ないでしょう。

加えて、その週の初めにイエス様と弟子たちがエルサレムに到着した際、多くの人々が「ホサナ。祝福あれ、主のみ名によって来られる方に。」と叫びました。

この出来事を踏まえて、弟子たちは非常に混乱していたのです。

とにかく、ルカによれば、イエス様は将来、偽のキリストが現れたり、戦争や様々な災害が起こったりするだろうと言われました。

けれども、それが起こる前に、イエス様は弟子たちに、彼らが迫害され、殺されることもあると警告されました。『使徒の働き』を読めば、そのことを目の当たりにすることができます。

また、彼らが捕まえられた時、イエス様が約束されたように、聖霊様が彼らに何を言うべきかを教えられたので、彼らの敵はその証言に対してどのように反論すべきか分からず困惑しました。

さらに、イエス様は彼らに、「軍隊がエルサレムを包囲するのを見たら、すぐに逃げなさい」と警告されました。エルサレムが破壊され、その住民が捕虜になる日が来るからです。イエス様は、妊娠中の女性たちにとってその日は特に困難でひどい時になると語られました。

西暦70年に、イエス様の預言は成就しました。その時、多くのクリスチャンはイエス様の警告を覚えていて逃げ延びましたが、他のユダヤ人たちはエルサレムに留まりました。彼らはエルサレムが最も安全な場所だと信じていたからです。

ところが、イエス様が言われた通り、彼らは殺されるか、捕虜として連れ去られました。

また、マタイとマルコは「荒らす忌まわしいもの」について言及しています。

ダニエルもその出来事を預言しており、アンティオコス4世エピファネスによってその預言が一度成就しました。彼はゼウスの偶像を神殿に立て、祭壇で豚を捧げました(豚は神様の律法によれば汚れたものとされています)。

西暦70年には、そのような具体的な出来事は起こりませんでしたが、一部の聖書学者たちは、ローマ人たちが神殿に入った際、別の方法で神殿を汚し、それがイエス様の預言の成就だったと考えています。私もその意見に同意します。

イエス様はこれらの出来事に関して、次のように語られました。

それらの日には、神が創造された被造世界のはじめから今に至るまでなかったような、また、今後も決してないような苦難が起こるからです。(マルコ13:19)

最近まで、私はイエス様が西暦70年の出来事について語っておられないと思っていました。なぜなら、反キリストが来るとき、クリスチャンたちはさらに大きな苦しみに直面すると考えていたからです。

けれども、今ではその確信は揺らいでいます。なぜなら、歴史を振り返ると、エルサレムが倒れた際にユダヤ人たちが味わった苦しみは本当に深刻だったからです。

それでも、おそらく2000年前の出来事は将来のしるしだと思います。実際には、その出来事は現代の状況にも関連していると感じます。

今でも私たちは戦争や戦争のうわさを耳にします。飢饉や地震、様々な災害を目の当たりにします。偽のキリストが現れることもあります。そして、クリスチャンに対する迫害が続いているのです。

さらに、イエス様がこの世に戻られるまで、これらの出来事は続くでしょう。しかし、イエス様が戻られると、天に現れて、全世界がイエス様を見るでしょう。その時、イエス様はご自身の民を呼び集められるのです。(マタイ24:30-31)

多くのクリスチャンたちは、反キリストが現れる前にイエス様がご自身の民を召し、彼らが反キリストを決して目撃しないと信じています。

私もそれを信じたいのですが、その考え方は誤りだと思います。

ただし、その考えについて何を信じるにしても、次の一点を覚えていてください。

エルサレムに関するイエス様の預言はすべて成就しました。そして、イエス様のその他の預言も今なお成就しつつあります。ですから、イエス様は必ずこの世に戻られるでしょう。イエス様はそのように約束されたからです。

イエス様は次のように言われました。

天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。(ルカ21:33)

だから、私たちがどれほどの苦しみを経験しても、私たちの心を整え、希望を持ってイエス様の御再臨を待ち望みましょう。

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ダニエル書3

思慮深い人

多くの人々にとって、特に聖書を信じない人々にとって、この箇所は最も信じがたい部分かもしれません。それは、この預言が非常に具体的であり、すべてが成就されたからです。つまり、ダニエルはペルシャ帝国とギリシャ帝国の将来について語っています。

まず、クロス王の後に続く3人のペルシャの王について言及します。それはカンビュセス2世、ガウマタ、そしてダリヨスです(ここでのダリヨスはダニエル書のダリヨスではなく、エズラ記6章に出てくるダリヨスです)。

ダリヨスの息子はアハシュエロス(クセルクセス1世)であり、エズラ記とエステル記に登場するアハシュエロスです。

アハシュエロスは他のペルシャの王よりも裕福でした。その理由は、莫大な税金を徴収し、多くの国を征服したからです。彼はギリシャを攻撃し、最初は成功を収めましたが、最終的にはその海軍が敗北を喫しました。

その後、彼の軍隊もプラタイアの戦いで敗北を喫しました。(ダニエル書11:2)

その後、ギリシャでアレクサンダー大王(つまり、アレクサンドロス3世)が王となりました。けれども、彼の死後、その帝国は4つに分割されました。ただし、アレクサンダーの子孫が支配していたわけではありません。むしろ、アレクサンダーの4人の将軍がそれらを治めました。(ダニエル書11:3-4)

さらにダニエルは具体的に、ギリシャで何が起こるかを預言します。彼はプトレマイオス1世とアンティオコス2世の時代から、プトレマイオス12世とアンティオコス4世の時代まで預言しています。(ダニエル書11:5-34)

歴史的な本を読めば、その預言がどのように成就されたかがよく分かるでしょう。あるいは、ウィキペディアにも関連した情報があるかもしれません。

いずれにせよ、ダニエル書11:36から最後までは、ダニエルが終わりの日と反キリストについて預言している箇所です。反キリストは他の神々を礼拝せず、「すべてにまさって自分を大きいものとする」とあります。(ダニエル書11:37)

おそらく、彼は「私は神である」と主張するのかもしれません。

また、彼は「砦の神」を崇めると記されています。つまり、力の神、あるいは戦争の神を崇めることを意味しています。この反キリストは力を好み、戦争を始める者であることを示唆しています。そして、イエス様が再臨されるまで反キリストは支配を続けます。

その時代には多くの困難が起こりますが、神様はご自身の民を救い出し、終わりの日の復活の時に、神様を愛する者は復活して永遠に生きます。

しかし、神様を憎み逆らう者はそしりと永遠の忌みを受けることになります。(ダニエル書12:1-3)

私たちは何を学ぶべきでしょうか。

ダニエル書11:33-35では、アンティオコス4世とマカバイ戦争について言及されています。その時、ユダヤ人は迫害されましたが、ダニエルはそのユダヤ人について次のように記しています。

民の中の思慮深い人たちは、多くの人を悟らせる。

彼らは、長い間、剣にかかり、火に焼かれ、とりことなり、かすめ奪われて倒れる。彼らが倒れるとき、彼らへの助けは少ないが、多くの人は、巧言を使って思慮深い人につく。

思慮深い人のうちのある者は、終わりの時までに彼らを練り、清め、白くするために倒れるが、それは、定めの時がまだ来ないからである。(ダニエル書11:33-35)

神様はご自身の民が決して苦しまないとは約束されませんでした。むしろ、思慮深い人たちが周囲の人々に神様の方法を教えるために、「彼らは、長い間、剣にかかり、火に焼かれ、とりことなり、かすめ奪われて倒れる」と記されています。

しかし、その苦しみの中には、神様のご計画があります。つまり、その試練を通して、「彼らを練り、清め、白くする」とされています。

そして、12章によれば、彼らは苦難の時代から救い出され、復活します。その時、

思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。(12:3)

そして、ダニエルはこう書きました。

多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。悪者どもは悪を行ない、ひとりも悟る者がいない。しかし、思慮深い人々は悟る。(12:10)

そして、天使はダニエルにこう言いました。

あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。(13)

この箇所を読むと、希望に満たされます。たしかに、戦争は起こり、将来には様々な困難や試練が訪れます。

けれども、それらを通して、神様は私たちを清め、白くし、練り上げてくださいます。そして、終わりの日の復活において、私たちを救い出してくださった神様の御前で、私たちは星のように輝くのです。

だからこそ、私たちは思慮深い人になるよう努めましょう。毎日神様を求め、周囲の人々を神様のもとへ導きましょう。

そうすれば、ダニエルのように、私たちは休みを得た後に復活し、自分の割り当てられた地に立つことができるでしょう。

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ダニエル書3

メシヤが来られること、反キリストが来ること

この箇所は、本当に素晴らしい預言です。

以前、私は他のダニエル書の預言について話しました。つまり、バビロン帝国、ペルシャ帝国、ギリシャ帝国、そしてローマ帝国についての預言です。

多くの人々はその預言を見ても信じません。彼らは、「その預言はきっと本物ではない。その出来事が起こった後に、誰かがダニエルの名前を使ってこの預言を書いたのだろう」と言います。

彼らは超自然的なことを全く信じず、そのようなことを言うのです。

けれども、この9章の箇所はその考えを覆すのではないかと思います。なぜなら、この箇所はイエス様の生涯と働き、さらにはエルサレムの没落を預言しているからです。

旧約聖書全体が紀元前3年から1年の間にギリシャ語に翻訳されたことを考えると、エルサレムの没落の後にダニエル書を編集することは不可能でした。

神様はダニエルにこう言われました。

あなたの民とあなたの聖なる都(つまり、エルサレム)については、七十週が定められている。(ダニエル書9:24)

その「70週」というのは70の7年期間を指します。その間に、

  • 神様はそむきをやめさせます。
  • 神様は罪を終わらせます。
  • 神様は咎を贖います。
  • 神様は永遠の義をもたらします。
  • 神様は幻と預言を確証します。
  • 神様は至聖所(つまり、主の宮)に油を注ぎます。

その最初の7年間がいつ始まるのかについて、聖書学者たちは議論を続けています。おそらく、その始まりはエズラ記7章に記されている出来事だと思われます。

その時、ペルシャの王アルタシャスタが祭司エズラに主の宮を立て直し、飾るよう命じました。その箇所の焦点は宮を立て直すことにありますが、エズラ記9:9によれば、イスラエル人はエルサレムの城壁を立て直す許可も与えられたようです。

その後、ネヘミヤがエルサレムの城壁がまだ崩れていることを聞き、非常に落胆した場面があります。

いずれにしても、この預言によれば、最初の7年期間で苦しみの時代にエルサレムは立て直されると書かれています。(25節)

エズラとネヘミヤの時代、それは確かにその通りでした。彼らは主の宮とエルサレムの城壁を立て直そうとしましたが、数々の反対に直面しました。

それだけでなく、エステルの時代には、誰かが全てのユダヤ人を殺そうと計画したことがありました。(エステル記をぜひお読みください。)

その時から、62の7年期間(つまり、434年間)を数えると、それは紀元27年頃になります。その時、「油そそがれた者」が現れました。

私たちはいつもイエス・キリストと言いますが、「キリスト」は名前ではありません。「キリスト」という言葉は、「油そそがれた者」という意味です。

したがって、この箇所はイエス様について語っています。そして、紀元27年頃にイエス様はご自身のミニストリーを始められました。

その62の7年期間の後、「油そそがれた者」(つまり、イエス・キリスト)は断たれました。直訳すると、キリストは殺されました。また、「彼には何も残らない」と書かれています。

おそらく、その意味は、弟子たちがキリストを捨てたということでしょう。

その時、イエス様は十字架で私たちの罪をあがなわれました。その後、紀元70年にエルサレムと主の宮は滅びました。(26節)

最後の7年期間は将来の出来事です。その時、反キリストが現れるでしょう。彼は多くの者(つまり、ユダヤ人)と契約を結びますが、半週(3年半)の間にその契約を破り、ユダヤ人のいけにえとささげ物をやめさせます。

けれども、最終的に反キリストは倒され、その時、神様は罪を終わらせ、永遠の義をもたらされます。そして、新しい宮に油を注がれます(おそらく、エゼキエル書40-44章に記されている宮でしょう)。この預言はすべて成就されます。

この箇所には数多くの預言が含まれています。しかし、大切なのは、神様が未来を完全に支配しておられるということです。

もし、神様が帝国の興亡、イエス様の来臨、エルサレムの没落を正確に預言されたのであれば、私たちは反キリストや将来の神の国についての預言も信じることができるでしょう。

だから、将来が困難になったとしても、心配しすぎないでください。神様はすべてを支配しており、神様が約束されたすべてのことは必ず成就されるからです。