正直に言うと、民数記に書かれていることは、たまに読みづらいです。特に、神様の裁きの話は、かなり厳しいです。
でも、パウロによれば、神様がその話を書かれたのには理由があります。パウロはこう言いました。
これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。
あなたがたは、彼らのうちのある人たちのように、偶像礼拝者になってはいけません。聖書には「民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた」と書いてあります。
また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、淫らなことを行うことのないようにしましょう。彼らはそれをして一日に二万三千人が倒れて死にました。
また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、キリストを試みることのないようにしましょう。彼らは蛇によって滅んでいきました。
また、彼らのうちのある人たちがしたように、不平を言ってはいけません。彼らは滅ぼす者によって滅ぼされました。
これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。 (第一コリント10:6ー11)
その最初の話は、出エジプト記32章からです。
その他の話は、私たちが最近読んでいる民数記の箇所からです。
どうして神様は、その話を記録されたのでしょうか。
それは、私たちの戒めのためです。
私たちは、その話から何を学ぶことができるでしょうか。
1.神様は、罪を真剣に受け止めておられます。神様は、特に故意の反抗的な罪を真剣に受け止めておられます。
民数記15~17章でも、民数記25:6でも、私たちはそれを見ました。
今日の箇所では、イスラエル人が自分の罪と神様の裁きのために泣いている間、あるイスラエル人は厚かましくミディアン人の女を自分のテントに連れていきました。たぶん、それは性的な儀式のためだったでしょう。
2.罪、特に悔い改めずに犯した故意の反抗的な罪の報酬は死です。
だから、私たちは罪を軽く見てはいけません。
むしろ、私たちは罪から逃げなければなりません。
パウロは、私たちに警告します。
ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。(第一コリント10:12)
私たちは、いつも罪に対して警戒しなければなりません。
でも、良い知らせは、神様が私たちとともにおられ、私たちが堅く立ち、罪に打ち勝つのを助けてくださるということです。
パウロは、こう言いました。
あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。
神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。
むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。(第一コリント10:13)
