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マタイの福音書のデボーション

新しいことを抱く心

それから、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「私たちとパリサイ人はたびたび断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか」と言った。(マタイの福音書9:14)

今朝、私はヨハネの弟子たちについて考えていました。なぜ彼らは、まだヨハネに従い続けていたのでしょうか。

ヨハネは牢に入れられ、自分の奉仕は終わりました。

その一方で、ヨハネが指し示していたイエス様の奉仕はすでに始まっていました。それなのに、どうしてイエス様とその道に従わず、ヨハネとその道にしがみついていたのでしょうか。

神様は新しいことをなさっていました。(マタイの福音書3:11)

けれども、ヨハネの弟子たちの心はそれに向いていませんでした。古い布や古い皮袋のように、彼らの心は柔軟さを失っていて、新しいものを受け入れることができませんでした。

ある弟子たちは、イエス様が死なれ、復活されてから何年も後になっても、心はそのままでした。(使徒の働き19:1~7)

私はそのように生きたくありません。しかし、私の心の中にも、その傾向を見ることができます。慣れたこと、心地よいことを好み、すぐに新しいことを抱くことができないのです。

イエス様は、私をヨハネの弟子たちのように戒められるでしょうか。

イエス様、あなたがなさっている新しいことに対して、私が柔らかい心を保つことができるようにしてください。

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マルコの福音書のデボーション

天のお父さん、私は脆い存在なのでしょうか

まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになります。

新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。(マルコの福音書2:22ー23)

天のお父さん、もしかして私は、古い皮袋のように脆い存在なのでしょうか。私があまりにも脆くて、もしあなたが人々に触れるために、御霊というぶどう酒を注がれると、私は裂けてしまうのでしょうか。

つまり、苦しんでいる人々への、あなたのあわれみと思いやりを欠いていることで、私は脆いのでしょうか。(5、17節)

また、周囲の人々をいつもさばいてしまうことで、私は脆いのでしょうか。(15ー16節)

あるいは、私の霊的な成熟度を他の人と比べることで、私は脆いのでしょうか。(18節)

天のお父さん、どうか、あなたが自由にぶどう酒を注ぐことのできる、新しい皮袋へと私を変えてください。あなたの注がれるぶどう酒が、無駄になることのないように。