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申命記のデボーション

命を選びなさい

私は今日、あなたがたに対して天と地を証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。

あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためである。

まことにこの方こそあなたのいのちで(す)(申命記30:19ー20)

最近、私は私たちの神様との関係について考えていました。その時、鉢植えの花と切り花の違いに思いを巡らしました。

両方とも美しいですが、切り花は実際にはすでに死んだものです。なぜなら、命の源から切り離されているからです。

根元から切り離されたことで、その花はある意味で呪われた存在ともいえます。

私たちの神様との関係も同じです。

神様から切り離されると、私たちは呪われた存在となります。私たちはすでに死んだ者です。

しかし、神様につながり、日々命をいただくならば、私たちは栄えるのです。

では、私たちはどのようにして神様につながることができるでしょうか。

パウロは申命記30章を引用しながら、イエス様を指して、私たちがイエス様を信じ、自分の主とするように促します。(ローマ10:6-13)

ですから、命を選びましょう。

イエス様を選び、毎日愛し、御声に聞き従い、そしてすがりましょう。

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申命記のデボーション

 私のすべて

あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに守り行いなさい。

右にも左にもそれてはならない。 あなたがたの神、主が命じられた道をあくまで歩み続けなければならない。

あなたがたが生き、幸せになり、あなたがたが所有するその地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。(申命記5:32ー33)

天のお父さん、あなたの御言葉は命です。ですから、どうか私がその御言葉から右にも左にもそれないように助けてください。

私が古い考え方を手放し、あなたの戒めの全体に従うように助けてください。

その一部ではなく、一部さえを除かずに全体に従うように助けてください。

どうかあなたを恐れる心を与えてください。あなたを敬う心を与えてください。

私のすべてをあなたに捧げたいのです。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ルカの福音書のデボーション

御霊が私たちの上に臨むとき

聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。(ルカの福音書1:35)

もちろん、御使いはマリアに語り、処女であるにもかかわらず、どのようにして赤ちゃんを産むことができるかを説明しました。

けれども、今日私が気づいたのは、イエス様が昇天される前に、似たような言葉を弟子たちに語られたということです。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。

そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。(使徒の働き1:8)

イエス様が生まれるために、聖霊様がマリアの上に臨み、神の力がマリアを覆ってくださったように、すべての国民が新しく生まれるために、聖霊様は私たちの上にも臨み、神の力が私たちを覆ってくださいます。

あなたは、自分を普通の人だと思うかもしれません。

しかし、マリアも普通の人でした。

弟子たちも普通の人たちでした。

それでも、神様は彼らを用いてくださいました。

同じように、神様は周りの人々に命を与えるために、あなたをも用いてくださいます。

聖霊様、私の上に臨んでください。あなたの力で私を満たしてください。私を用いて、周りの人々に命を与えてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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伝道者の書のデボーション

私たちの人生はただの一息だから

ソロモンがしばしば言う「空しい」という言葉を読むとき、覚えておいた方がいいのは、その言葉が「一息」、また「一時的」という意味もあるということです。

「一息」はとても一時的なものなので、その言葉は空しさの比喩としてよく使われています。

聖書の中では、命はしばしば一息に例えられます。この地上にある私たちの人生はとても短いのですから。

私たちの人生は不確定要素に満ちています。どんな災いが自分に降りかかるか分かりません。

もちろん、不確定要素のために、私たちは伏線を張ることができます。未来に何が起こるか分からないから、そうするのは賢明なのです。(伝道者の書11:1-6節)

でも、以前も言ったように、私たちは皆、死を避けることができません。

では、その真理を知った上で、どうすればいいでしょうか。

1.神様から与えられた賜物である命を喜びましょう。喜ぶことができる神様の賜物はたくさんありますから。(7-9節)

2.壊れた世界に生きていることを覚えておきましょう。どんなに正しい人でも、悪い時は必ず来ます。(8節b)

3.悪いことも良いことも、この人生にあるすべてがはかないものであることを心に留めておきましょう。

だから、悪いことが起こるとき、それがはかないものであることを覚えておきましょう。私たちの問題は永遠に続くわけではありません。

特に、若い人たちはそれを心に留めておかなくてはなりません。多くの若者は、自分の青春を無駄にしてしまいます。なぜなら、ずっと自分の苦しみにくよくよするからです。(10節)

その反面、良いことが起こったら、喜びましょう。神様に感謝しましょう。でも、良い時もはかないものであり、また悪い時が必ずもう一度来ることを覚えておきましょう。

4.中でも、この地上にある私たちの人生が永遠の準備であることを心に留めておきましょう。そして、ある日、神様が私たち皆を裁かれることを覚えておきましょう。(9節b)

私たちは一時的なものに集中して、たくさんの時間を無駄にすることができます。救えないものに望みを託すこともできます。

だから、そうせずに、神様に向かい、望みを託しましょう。

ダビデと一緒に、こう祈りましょう。

主よ、お知らせください。私の終わり、私の齢がどれだけなのか。私がいかにはかないかを知ることができるように。

ご覧ください。あなたは、私の日数を手幅ほどにされました。あなたの御前では、私の一生はないも同然です。

人はみなしっかり立ってはいても、実に空しいかぎりです。まことに、人は幻のように歩き回り、まことに 空しく立ち騒ぎます。人は蓄えるがだれのものになるのか知りません。

主よ、今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。(詩篇39:4-7)

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ヨハネの福音書 ヨハネ14章

天の父のもとへの道

多くの人々はこの個所を読むと、心が乱され、怒りを感じることがあります。なぜなら、イエス様の言葉を受け入れることが難しいからです。そのため、彼らはその言葉を拒絶してしまいます。

では、イエス様は何を語られたのでしょうか。

背景を少し説明すると、イエス様は弟子たちに「私はあなたがたのために場所を用意しに行く」と語ったばかりでした。そして、イエス様は彼らにこう言われました。

わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。(ヨハネの福音書14:4)

けれども、トマスはイエス様の言葉を理解できなかったため、ごく自然な質問をしました。

主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。(14:5)

イエス様はこう答えられました。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。(14:6)

イエス様は「私は父のみもとへの道を教えます」とは言われませんでした。

イエス様は「父のみもとへ行くために、あなたがたが何をすべきかを教える」とも言われませんでした。

イエス様は「私が父のみもとへの道である」と語られました。 「もし天国に行き、天の父に会いたいと思うなら、私を通して行かなければなりません。」

これは驚くべき主張です。

けれども、少し考えてみてください。

もしアメリカ大統領に会いたいと思っても、自分の意思でホワイトハウスのオーバルオフィスに入ることはできません。

招待状が必要であり、さらに、誰かが扉であなたを迎え入れ、大統領のもとへ案内してくれます。

その人がいなければ、あなたは決して大統領に会うことはできません。その人こそが、大統領のもとへ至る道なのです。

このように、イエス様は天の父のみもとへ至る道です。しかし、イエス様は単なる天国の案内人ではありません。イエス様は神の子です。

イエス様が十字架で死に、私たちの罪の代価を払われたことによって、私たちは神様との関係を持つことができます。

イエス様は私たちを天の父のみもとへ導き、大祭司として私たちのためにとりなしをしてくださいます。(ローマ8:34、へブル10:19-22)

けれども、イエス様の十字架の働きがなければ、また、イエス様が私たちとともにおられなければ、私たちは天国に入ることも、天の父に会うこともできません。

イエス様はトマスにもう一つのことを語られました。「私は真理です。」

多くの人々は真理を求めています。

けれども、最近では多くの人々が、真理は存在しないと考えています。特に霊的な真理はないと感じる人が増えています。

しかし、イエス様は「わたしは真理である」と主張されました。

「私の言葉は真理です。真理は相対的なものではありません。私の言葉は完全な真理です。私から離れてしまえば、あなたは真理を見つけることができません。」

さらに、イエス様は「私は命である」と主張されました。

多くの人々は人生の意義を求めています。彼らは意味のある人生を探し、生きがいのある人生を求めています。そして最終的に、死後の命を求めています。

だから、イエス様は言われました。

「私は命です。あなたは人生の意義を求めていますか。私のもとに来なさい。

意味のある人生を探していますか。生きがいのある人生を求めていますか。あなたは、お金や家族、持ち物、力、結婚、子供などによって充実した人生を得ようとするかもしれません。

しかし、それらはあなたに命を与えることはできません。最終的に、あなたの心は空っぽになってしまいます。私を通してのみ、あなたは生きがいのある人生を見つけることができます。

また、もし死後の命を求めているなら、仏やムハンマド、その他の宗教的な指導者を通してその命を得ることはできません。私を通してのみ、あなたの罪は赦され、永遠の命を受けることができます。」

けれども、多くの人々はこの言葉を信じたくありません。なぜなら、彼らは自分の宝物を手放さなければならないかもしれないからです。また、もはや自分の思いのままに生きることができなくなるからです。

だから、人々はイエス様を嘘つきだと言います。あるいは、イエス様が間違っていたと言います。または、イエス様の言葉が正しく引用されなかったのだと主張します。

しかし、本当の命を見つけたいのなら、イエス様を通してのみ、それを得ることができます。

真理は相対的なものではなく、確かなものです。イエス様のうちにこそ、真理を見つけることができます。

また、もし天国に行き、天の父に会いたいのなら、イエス様があなたの隣におられなければなりません。

だから、イザヤの言葉に耳を傾け、それに従いましょう。

主を求めよ、お会いできる間に。呼び求めよ、近くにおられるうちに。

悪しきものは自分の道を、不法者は自分のはかりごとを捨て去れ。

主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。(イザヤ55:6-7)

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ヨハネの福音書 ヨハネ12章

イエス様に仕えるために

イエス様がエルサレムに目立つ形で入城されたこと、また神殿から業者や両替人を追い出されたことによって、エルサレム中でイエス様は話題となりました。そのため、初めてエルサレムを訪れた人々がイエス様に会いたいと願うのは、自然なことでした。

この話では、ユダヤ教に改宗しようとしていたギリシャ人たちが、イエス様に会いたいと願いました。おそらく、ピリポがギリシャ語の名前だったため、彼らは最初にピリポのもとを訪ねたのでしょう。

そこで、ピリポはアンデレとともに、彼らをイエス様のもとへ連れて行きました。(アンデレは、人々をイエス様に紹介することが多かった人物です。)

イエス様は彼らに会ったとき、次のように語られました。

人の子が栄光を受けるときが来ました。

まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。(ヨハネの福音書12:23-24)

イエス様はご自身の死と復活について語られていました。イエス様がこの世におられる限り、その働きはイスラエルに限定されていました。けれども、イエス様が死んで復活された後、聖霊を通してその働きは世界中に広がり、すべての国と民族に及びました。

そして、イエス様はさらに続けて語られました。

自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む人は、それを保って永遠のいのちに至ります。

わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについてきなさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。

わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。(25-26)

イエス様は、ごく当たり前のことを語ると同時に、非常に逆説的なことも言われました。

では、その当たり前のこととは何でしょうか。イエス様に仕えたいと思うなら、イエス様についていかなければなりません。また、イエス様に仕えたいと思うなら、イエス様がおられる場所にいなければなりません。

もしあなたが常にイエス様から離れているなら、イエス様に仕えることは困難です。だから、イエス様に仕えたいと思うなら、イエス様の近くにいて、イエス様が望まれることを見極めなければなりません。

けれども、イエス様と共に歩みたいと願うなら、ときには愛する者や、執着しているものを手放さなければならないこともあります。だからこそ、イエス様は逆説的なことを言われました。

「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至る。」

もちろん、私たちはすべてを憎むべきだというわけではありません。しかし、ときにはイエス様に従うために、私たちは愛する者や、この世のものを手放さなければならないことがあります。

たとえば、イエス様が「あなたの国を離れ、別の場所へ行きなさい」と言われるなら、私たちはその御声に従わなければなりません。

また、イエス様が「あなたの現在の収入は高いかもしれないが、その仕事を捨て、私に仕えなさい」と言われるなら、イエス様の国のために、私たちはその道を選ばなければなりません。

ときには、イエス様についていくことで、私たちの人生は大きく変わります。ときには犠牲を払うこともあるでしょう。けれども、もし私たちがイエス様のもとにいなければ、真に仕えることはできません。

忘れないでください。その犠牲と変化は痛みを伴うかもしれません。しかし、最終的には、その犠牲には大きな価値があります。

私は日本に引っ越したとき、そのことを学びました。もともとハワイを離れる予定はまったくありませんでした。けれども、実際に日本へ来ると、私は以前よりも幸せになりました。イエス様についていき、日本に来たことで、私は新たな命を見出しました。

イエス様についていくなら、あなたも命を見つけることでしょう。

あなたはどうでしょうか。イエス様がおられる場所に、あなたもいるでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ11章

死んだ者に命を与えてくださる方

いつか、この11章を終えることになるでしょう。とはいえ、今日はまだ終えません。😊

この箇所は、真理に満ちた大切な部分だからです。

イエス様がマルタに、「あなたの兄弟はよみがえります。」と言われたとき、マルタはこう答えました。

私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。(ヨハネの福音書11:24)

けれども、イエス様はこう答えられました。

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。

このことを信じますか。(25-26)

つまり、「よみがえりは単なる未来の出来事ではありません。私はよみがえりであり、死んだ者に命を与える者です。もし私を信じるなら、あなたは決して死ぬことがありません」ということです。

そして、イエス様はラザロをよみがえらせることで、ご自身の言葉を証明されました。

イエス様はラザロをよみがえらせたように、イエス様を信じるすべての人をよみがえらせます。

パウロは次のように語りました。

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。

それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり[ます]。(第一テサロニケ4:16)

そして、パウロはこう言いました。

聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。

終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。(第一コリント15:51-53)

ラザロの場合、彼はよみがえらされましたが、再び死を迎えました。しかし、イエス様が私たちを復活させるとき、朽ちることのない体を与えてくださいます。

あなたはどうでしょうか。死後、自分がどうなるか知っていますか。永遠の命を持っているという確信がありますか。

イエス様はよみがえりであり、命です。イエス様を信じるなら、あなたは決して死ぬことはありません。この世を去ると、新しい命が始まります。

だからこそ、イエス様はマルタに問いかけたように、あなたにも問いかけます。 「このことを信じますか。」

あなたがマルタのように答えますように。

はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。(27)

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ルカの福音書 ルカ13章

神様の望み、されないこと、できないこと

これは、本当に胸が痛む箇所です。パリサイ人との対話の後、イエス様はこう言われました。

ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。

見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。わたしはあなたがたに言います。

「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」とあなたがたの言うときが来るまでは、あなたがたは決してわたしを見ることができません。(ルカの福音書13:34-35)

イスラエルの歴史において、その指導者たちは主の言葉と、それを伝えた預言者たちを拒絶しました。だからこそ、イエス様は裁きの日が迫っていることを警告されたのです。

エルサレムの神殿は再び滅ぼされ(西暦70年に実際に起こりました)、ユダヤ人たちは各地に逃れなければならず、その結果、20世紀までイスラエルという国家は存在しませんでした。

そして、イスラエルの民がイエス様をキリストとして受け入れる時が来るまで、イエス様は再臨されません。

とはいえ、この箇所は私たちにとってどのような意義を持つでしょうか。この箇所を通して、私たちは神様が何を望み、何をされず、また何ができないのかを知ることができます。

神様の望みとは何でしょうか。神様は私たちとの親しい関係を望まれます。そして、その愛によって、私たちが平和、喜び、そして満足を見いだすことを願っておられます。

では、神様は何をされないのでしょうか。神様は私たちに神様を受け入れるよう強制されることはありません。

イエス様はユダヤ人の指導者たちにこう言われました。「わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」

もし私たちがユダヤ人の指導者たちのように神様を拒絶するなら、神様は私たちの決断を受け入れられます。

では、神様には何ができないのでしょうか。もし私たちが神様から離れるなら、神様は私たちに喜びや平和や満足を与えることができません。

それは、神様が与えたくないのではなく、与えることができないのです。

なぜなら、私たちは神様との関係のために創造されたからです。だからこそ、神様から離れると、私たちの心には常に空虚さが残ります。

私たちはその空虚を、お金や所有物、仕事や人間関係で満たそうとするかもしれません。けれども、それらでは決して満たされません。結果として、私たちの人生はむなしさに包まれてしまいます。

神様抜きの人生とはそのようなものです。なぜなら、本当の愛、本当の平和、本当の喜びは神様から来るものだからです。神様から離れるということは、愛と平和と喜びから離れてしまうことなのです。

あなたが「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」と言うことができるようになるまで、あなたは真の愛と平和と喜びを得ることはできません。

あなたはどうでしょうか。イエス様を救い主として受け入れていますか?

もしかすると、神様から離れたまま、平和と喜びと愛を求めているのではないでしょうか?

そのような人生は最終的にむなしさに終わります。イエス様こそが唯一、本当の満足をもたらしてくださるのです。

今日、イエス様を受け入れてみませんか?

イエス様、私はこれまであなたに背を向けて生きてきました。あなたから離れ、自分の力で生きようとしていましたが、私の人生はむなしさに包まれました。

どうか赦してください。あなたが私の罪のために死んでくださり、よみがえられたことを信じます。私はあなたを私の主、そして救い主として受け入れます。

どうか私をあなたへと引き寄せてください。あなたとの親しい関係を望みます。アーメン。

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ヨハネの福音書 ヨハネ5章

私たちを裁く方。私たちに命を与える方。

この箇所では、私たちは、天の父と神の子の関係を垣間見ます。天の父とイエス様が同じ方だと言うカルトもありますが、クリスチャンはそう言いません。

天の父とイエス様(と聖霊様)は一つの神であるけれども、天の父はイエス様ではなく、イエス様は聖霊様ではなく、聖霊様は天の父ではありません。彼らは互いに愛し、話し合い、一緒に協力しています。

そして、イエス様がこの世に住んでおられた時、イエス様は天の父に頼られました。イエス様は天の父が何をなさっているかをご覧になり、その働きに参加されました。(ヨハネの福音書5:19)

それに、イエス様は、いつもご自身を喜ばせようとは思われず、天の父を喜ばせようと思われました。そして、イエス様の言葉と御業は天の父の力と知恵に基づいていました。(30節)

その反面、天の父はイエス様に驚くべき力と権威を授けられました。どうしてでしょうか。すべての人々が天の父を敬うように、イエス様を敬うためです。だから、彼らがイエス様を敬わなければ、天の父も敬われませんでした。(23節)

そういう意味で、イエス様は天の父と対等である。(18)

イエス様はどのような権威と力を持っておられるのでしょうか。

1.イエス様は命を与える力を持っておられます。イエス様は死人に命を与えられます。

イエス様はこう言われました。

父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。(ヨハネの福音書5:21)

イエス様は、何度もその力を使われました。特に、イエス様はラザロを復活させられました。さらに、イエス様はこう言われました。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。

それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。。。

このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。(25-26、28-29)

私たちは、もう一つのことを心に留めておかなくてはなりません。イエス様は、クリスチャンたちだけを復活させられるのではありません。イエス様は、すべての人々を復活させられます。

どうしてでしょうか。それは裁きのためです。それが、二つ目のポイントです。

2.イエス様は、すべての人々を裁く権威を持っておられます。

イエス様は、こう言われました。

また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。(22)

イエス様は、人々を裁かれるとき、どのような宣告を宣言されるのでしょうか。

善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。(29)

つまり、イエス様の裁きには、永遠の結果があります。その日、誰が天国に行くか、誰が地獄に行くかが決まります。

どうしてイエス様はその裁く権威を持っておられるのでしょうか。それは、イエス様が人間となられたのに、決して罪を犯されなかったからです。

どのような目安でイエス様は、誰が天国に行くか、誰が地獄に行くかを決められるのでしょうか。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(24)

要するに、私たちは、イエス様の言葉を聞き、信じ、イエス様を送られた天の父を信頼しなくてはなりません。

そうすれば、あなたは永遠の命を受けることができます。そうしなければ、あなたは地獄で永遠に裁かれることになります。

あなたはどうでしょうか。命を与える力やあなたを裁く権威を持っておられるイエス様を信頼しているでしょうか。

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ゼカリヤ書

勝利、命、光を与える方

ゼカリヤ書の最後では、私たちはイエス様がこの世に戻られる様子を見ることができます。また、イエス様がこの世を治める1000年の時代についても描かれています。

将来、周辺の国々がエルサレムを攻撃し、エルサレムの民の半分が追放されることが起こります。けれども、その時、イエス様はすぐに戻られるのです。

その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。

オリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。(ゼカリヤ書14:4)

その時、世の光は無くなりますが、神様はご自身の栄光でこの世を照らされます。夜になっても、光があります。(6-7)

ヨハネはこう書きました。

都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。(黙示録21:23)

それだけではなく、エルサレムから湧き水が流れ出ます。おそらく、エゼキエル47:3-11も同じことについて言及しています。

神様はイスラエルのために戦い、その敵に災害を送られます。12節を読むと、神様が国々の核兵器を彼ら自身に向けて使われるのではないかと考えます。そうかもしれませんが、はっきりとは分かりません。

それでも、その患難の後、世のすべての人々は神様を王として認め、神様の正義と恵みを喜びます。

かつて、ユダヤ人たちは仮庵の祭りを祝いました。その時、彼らは神様に感謝を捧げました。なぜなら、神様は彼らをエジプトの奴隷生活から救い出し、砂漠を越える間、守ってくださったからです。

同じように、私たちも神様を賛美します。なぜなら、神様は私たちをサタンの国の奴隷生活から救い出し、私たちの試練を通して導き、守ってくださったからです。

しかし、悔い改めない人々には裁きが待っています。

ここから、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

1. 神様は勝利を与えてくださるお方です。

サタンは神様に逆らい、私たちを攻撃しますが、最終的に勝利を収めるのは神様です。実際、神様はすでに勝利しておられます。イエス様が十字架で死なれた時、神様は勝利されました。

とはいえ、サタンはその勝利を認めたくありません。それでも、どんな試練に遭っても、私たちは勝利を得ることを確信できます。それだけではなく、私たちは罪と死に対しても勝利を得るのです。

パウロはこう書きました。

しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。(第一コリント15:57)

2.神様は命を与えてくださるお方です。

エルサレムから水が流れて、死海を魚が生きる場所に変えるように、聖霊様は私たちの人生に流れ込み、命を与えてくださいます。

しかし、神様から離れている人は命を離れ、惨めな人生を送ることになります。

3.神様は光を与えてくださるお方です。

私たちの人生が暗く、希望が見えない時、神様は私たちに光を照らし、希望を与えてくださいます。また、私たちが迷い、どの道を進むべきか分からない時、神様は正しい道に光を当ててくださいます。

主よ。あなたが私たちに勝利と命と光を与えてくださり、感謝します。どうか毎日、私たちがあなたにすがりつき、聖なる人として歩めるよう助けてください。

そして、毎日、私たちがあなたの目的のために生きることができますように。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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イザヤ書

命の鍵

この箇所の5-6節が私は大好きです。

主はいと高き方で、高い所に住み、シオンを公正と正義で満たされる。あなたの時代は堅く立つ。

知恵と知識とが、救いの富である。主を恐れることが、その財宝である。(イザヤ書33:5-6)

この時、イスラエル人は本当に困難な状況にありました。彼らがエジプトや他の国々と結んだ同盟は失敗に終わり、アッシリヤは攻撃のために迫っていました。

それでも、神様はこう言われました。

「私はすべてに勝る力を持っています。この世の力よりも私は力強いのです。私はあなたの基礎であり、あなたの時代を堅く立たせます。私の知恵と知識は、あなたの救いの富です。」

しかし、その財宝の鍵は何でしょうか。それは、主を恐れることです。

つまり、他のどんなものよりも、神様を敬うことです。

また、神様と比べると、私たちがどれほど小さな存在であるかを思い起こすことです。

さらに、一言で言えば、神様が私たちを滅ぼすことのできる方であることを思い起こすことです。

それでも、私たちが主の御前で謙遜にへりくだる時、神様が私たちに愛と憐れみを注いでくださることを思い起こすことです。

だから、神様はこう言われます。

「遠くの者よ。わたしのしたことを聞け。近くの者よ。わたしの力を知れ。」(13)

多くの人々にとって、神様に面と向かうことは恐ろしいものです。だから、14節にはこう書いてあります。

罪人たちはシオンでわななき、神を敬わない者は恐怖に取りつかれる。(13a)

だから、彼らはこう叫びます。

私たちのうち、だれが焼き尽くす火に耐えられよう。

私たちのうち、だれがとこしえに燃える炉に耐えられよう。(13b)

しかし、神様はこう答えられます。「誰にでもできるよ。」

正義を行なう者、まっすぐに語る者、強奪による利得を退ける者、手を振ってわいろを取らない者、耳を閉じて血なまぐさいことを聞かない者、目を閉じて悪いことを見ない者。。。(15)

そのような人々に神様はこう言われます。

このような人は、高い所に住み、そのとりでは岩の上の要害である。

彼のパンは与えられ、その水は確保される。あなたの目は、麗しい王を見、遠く広がった国を見る。(16-17)

そして、私たちが振り返ると、かつて恐れていたもののすべてが一掃されることが分かります。

その結果、私たちの人生は安らかな住まいとなり、取り払われることのない天幕となります。(20)

また、

そこに住む民の罪は赦される。(24)

私たちは何を恐れるでしょうか。人々は実に多くのことを恐れます。

最近、熊本で大きな地震がありました。そのため、皆は地震などの災害が起こることを心配しています。

多くの人々は日本の経済についても不安を感じています。

さらに、自分の将来を恐れている人も少なくありません。

しかし、私たちが神様を恐れるならば、他のものを恐れる必要はありません。

そして、イザヤはこう言いました。

しかも、そこには威厳のある主が私たちとともにおられる。。。

まことに、主は私たちをさばく方、主は私たちの立法者、主は私たちの王、この方が私たちを救われる。(21-22)

だから、神様が与えてくださった鍵を持って、神様を恐れましょう。そうすれば、私たちは生き残るだけでなく、繁栄することができます。

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列王記第二

命を与えてくださる神

この話は非常に短いですが、大変興味深いものです。

エリシャが死んで葬られた後も、イスラエル人にはまだ多くの敵やさまざまな問題がありました。例えば、モアブの略奪隊がイスラエルに侵入していました。

ある日、イスラエル人たちが友人を葬ろうとしていたその時、略奪隊を見かけました。彼らは慌てて、一番便利な場所にその死体を置いて立ち去りました。

偶然、その場所はエリシャの墓でした。その死体がエリシャの骨に触れると、死者がよみがえったのです。

恐らく、その出来事を通して、神様はヨアシュ王とイスラエル人にメッセージを伝えようとされたのです。

それは、「私は生ける神である。私のしもべエリシャが死んでも、私はなお生きて働いている。そして、私は死者に命を与えることのできる神である。」というメッセージでした。

つまり、自分の罪によってイスラエル人が死にかけても、モアブ人やアラム人がイスラエル人を攻撃していても、神様にはイスラエル人に命を与える力を持っておられます。

イスラエル人がしなければならなかったのはただ一つ、それは神様に向かって悔い改めることです。

しかし残念なことに、彼らはそうしませんでした。その結果、彼らの状況は徐々に悪化していきました。

あなたはどうでしょうか。あなたの罪によって、大変な状況に陥っているのではないでしょうか。

もしあなたが悔い改めるなら、神様にはあなたに命を与える力を持っておられます。

ですから、悔い改めてください。イスラエルの王たちのように頑固にならないでください。

むしろ、へりくだって祈り、神様を求め、罪から離れてください。

そうすれば、神様はあなたを癒してくださいます。