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ヨハネの福音書のデボーション

イエス様が私たちに与えたいもの

イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」。。。

イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6:26,35)

どうして、私たちはイエス様を求めるのでしょうか。どうしてイエス様のもとに行くのでしょうか。それは、私たちが単にイエス様から何かを求めているからでしょうか。それとも、私たちはイエス様に出会いたいのでしょうか。イエス様をもっと知りたいのでしょうか。

もちろん、イエス様は私たちのニーズに備えたいと願っておられます。でも、イエス様は他のどんなものよりも、ご自身を私たちに与えたいと願っておられます。なぜなら、イエス様こそが私たちの魂の飢えと乾きを満たすことができる方だからです。

良い知らせは、私たちがイエス様のドアを叩けば、イエス様はいつもそのドアを開けてくださるということです。そして、イエス様はこう言われます。

わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。(37)

イエス様、今日、私はあなたのもとに来ます。私は、あなたから何かを求めているわけではありません。私が欲しいのは、あなただけなのです。

あなたをもっと知りたいのです。あなたがいつも私にドアを開けてくださることに感謝します。

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ヨハネの福音書 ヨハネ6章

本当のパンのために働く?

聖書の中では、これは本当に印象的な箇所の一つですが、少し難しい箇所でもあります。

イエス様が5000人にパンと魚を与えられた後、その群衆はイエス様を王にしようと思いました。そのため、イエス様はすぐにその場を立ち去られました。

彼らがイエス様を見つけると、イエス様は彼らを訓戒されました。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。

なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。

この人の子を父すなわち神が認証されたからです。(ヨハネの福音書6:26-27)

要するに、「あなたたちは私を捜していましたが、あなたたちの動機は間違っています。あなたの霊的な必要を求めず、ただ物理的な必要を求めています。

私はあなたたちにパンを与えましたが、一時的なものを優先してはいけません。永遠の命に至るもののために働きなさい。」

そして、ユダヤ人たちはこう答えました。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」(28)

おそらく、彼らはこんな答えを予想していたでしょう。「聖書を覚えていなさい。十戒やほかの律法に従いなさい。」

なぜなら、彼らは律法学者たちやパリサイ人たちからそんなことをよく聞いていたからです。

しかし、イエス様は意外な答えを与えられました。

あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。(29)

つまり、「永遠の命を得るために私を信じなくてはなりません。ほかの方法はありません。律法によってあなたは永遠の命を得ることはできません。私を信じないなら、永遠の命を得られません」ということです。

ユダヤ人たちは、それを聞いて、少し違和感を覚えたかもしれません。だから、彼らは天からのしるしを求めました。

例えば、モーセはイスラエル人に天からのパンを与えてくれました。そのしるしによって、イスラエル人はモーセが神様のしもべだと分かりました。

けれども、イエス様は彼らの間違った考え方を訂正されました。モーセではなく、神様がイスラエル人にパンを与えてくださいました。

さらに、そのパンはただの象徴でした。つまり、神様は彼らに「まことのパン」を与えたいと思っておられました。その「まことのパン」は世の民に一時的な命を与えるのではなく、永遠の命を与えます。

そして、イエス様の次の言葉は彼らを驚かせました。

わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。(ヨハネ6:35)

ところで、35節は6章の鍵です。イエス様は物理的なパンについて話しておられませんでした。(つまり、イエス様は聖餐式のパンについて話していたのではありません。)

だから、あなたがイエス様のもとに来てイエス様を信じたとしても、あなたはまだ毎日ご飯を食べなければなりません。イエス様は霊的なことについて話しておられるのです。

イエス様の肉を食べるということは、イエス様のもとに来るという意味です。イエス様の血を飲むということは、イエス様を信じるという意味です。35節を読めば、そのことが明らかになると思います。

もし、イエス様のもとに来てイエス様を信じるなら、神様との関係を持ち、あなたの霊的な飢えと渇きはなくなります。

6章を読むと、そのテーマを何度も見ることができます。

イエス様はユダヤ人の問題を指摘されました。

「私がまことのパンなのに、あなたたちは私をまだ信じていません。私の奇跡を見、私の教えを聞いたにもかかわらず、あなたたちは私をまだ信じていません。」(36)

けれども、イエス様は続けてこう言われました。

父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。(37)

また、

事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。(40)

また、

父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。(45)

また、

信じる者は永遠のいのちを持ちます。(47)

また、

わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら(つまり、私に来るなら)、永遠に生きます。

またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。(十字架で、イエス様は自分の体をささげたので、私たちは永遠の命を得ることができます。)(51)

また、

これは天から下って来たパンです。。。このパンを食べる者(つまり、私に来る者)は永遠に生きます。(58)

そして、イエス様はこう言われました。

人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ(私に来て、私を信じなければ)、あなたがたのうちに、いのちはありません。

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者(私に来て、私を信じる者)は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。(53-54)

また、

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者(私に来て、私を信じる者)は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。(56)

最後に、イエス様はこう言われました。「物理的な食べ物は、結局虚しいものです。なぜなら、そんな食べ物は永遠の命を与えることができません。しかし、私の言葉を信じるなら、永遠の命を受けます。」(63)

私たちはこの箇所から何を学ぶことができるでしょうか。本当の満足を求めるなら、神様との関係が必要です。

けれども、そうするために、イエス様のもとに来て、イエス様とその十字架の働きを信じなければなりません。

あなたも、今日そうしませんか。