この箇所では、ユダ王国の没落が間近に迫っています。
エレミヤやエゼキエルは長い間ユダの人々に警告してきましたが、ついにバビロンがユダを攻撃するためにエルサレムに到着しました。
包囲が始まった時、神様はエゼキエルにこう言われました。「これは裁きの日である。この国は罪に満ち、人を殺しておきながらその罪を隠そうともしない。
私はこの国を清めようとしたが、彼らは私の警告を無視し続けた。だから、私の忍耐は尽きた。彼らに憐れみをもう与えない。今は裁きの時だ。」
さらに、神様はエゼキエルに非常に辛い知らせを伝えられました。「あなたの妻が亡くなる。」
それでも神様はエゼキエルにこう命じられました。
嘆くな。泣くな。涙を流すな。声をたてずに悲しめ。死んだ者のために喪に服するな。
頭に布を巻きつけ、足にサンダルをはけ。口ひげをおおってはならない。人々からのパンを食べてはならない。(エゼキエル書24:16-17)
なぜでしょうか。それはエルサレムが倒れると、ユダの人々がそのように反応するからです。
彼らの砦、彼らの栄光、彼らの喜び、そして彼らの子どもたちすべてが取り去られます。その時、彼らの憂いは非常に深くなり、どれだけ泣いても慰められることはありません。
それでもなお、彼らは悔い改めようとしないのです。むしろ、彼らは、
自分たちの咎のために朽ち果て、互いに嘆き合うようになる。(23)
だから、神様はユダ人にこう言われました。
エゼキエルはあなたがたのためのしるしとなり、彼がしたとおりを、あなたがたもするようになる。このとき、あなたがたは、わたしが神、主であることを知ろう。(24)
私たちはここから何を学べるでしょうか。
時には涙を流すことが良いのです。もし私たちの涙が悔い改めへと導き、神様に向かわせるなら、神様は私たちを慰め、癒してくださいます。
イエス様はこのように言われました。
悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。(マタイ5:4)
けれども、ある人は自分の罪によって心が堅くなり、すべてを失っても、またその苦しみに耐えられなくても、悔い改めることがありません。むしろ、彼らは神様を責め、自己憐憫に浸るのです。
ユダの人々も同じようにしました。私たちの心が罪によって堅くなるとき、私たちも彼らと同じような反応をするかもしれません。
あなたはどうでしょうか。あなたの罪のせいで、あなたの心は堅くなっているでしょうか。絶望しているでしょうか。神様を責め、自己憐憫に浸っているでしょうか。
どうか悔い改めてください。あなたの罪の結果に対してではなく、あなた自身の罪そのもののために涙を流してください。
そうするなら、神様はあなたに触れ、あなたを赦し、そして癒してくださるでしょう。
悔い改めるのに決して遅すぎることはありません。かつて、使徒パウロはキリストを冒涜し、多くのクリスチャンを迫害しました。
しかし、クリスチャンになった後、パウロはこう記しました。
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。(第一テモテ1:15-16)
パウロの涙は、悔い改めへと導かれました。あなたの涙もまた、悔い改めへと導かれますように。
