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ヨハネの福音書のデボーション

 イエス様は私たちのためにとりなしてくださいます

わたしは彼らのためにお願いします。(ヨハネの福音書17:9)

なぜか、その言葉は私の心に響きました。

イエス様は弟子たちのために祈ってくださいました。

私たちのためにも祈ってくださいました。(20節)

今なお、イエス様は私たちのために祈ってくださいます。(ローマ8:34;ヘブル7:25)

イエス様は、神様が私たちを守ってくださるように祈ってくださいます。(15節)

私たちが神の真理を知り、従うように祈ってくださいます。(17節)

私たちがイエス様と天の父をもっと親しく知るように祈ってくださいます。そして、神との関係が親しくなるにつれて、私たちクリスチャンの互いの関係も親しくなるように祈ってくださいます。(21ー23、26)

でも、それらのためだけではなく、イエス様は愛を持って、私たちのためにさらに具体的に祈ってくださるでしょう。

私たちは、「イエス様は私を愛してくださいます」とよく言います。

でも今日、この真理を噛み締めましょう。その真理が私たちの心に響くように。

「イエス様は私のために祈ってくださいます。」

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使徒の働きのデボーション

あなたが私と共におられるから

私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。

さらに私の肉体も望みの中に安らう。あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。

あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。(使徒の働き2:25-28)

天のお父さん、私がいつも、自分の目の前にあなたを見ることができますように。

あなたを見失うのは簡単なことです。でも、そうなると、私は心配に支配されてしまいます。恐れや怒りに支配されることも、私にとっては簡単なことです。

でも、いつもあなたを自分の目の前に見るなら、私は決して動かされません。なぜなら、あなたにある希望を覚えているからです。あなたの御前にいるという喜びを覚えているからです。

あなたは私に命の道を知らせてくださいました。だから、その道を私と共に歩んでください。

あなたが私と共におられることを知っているので、私は満足です。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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箴言のデボーション

私たちの天の父の心

今日の箇所では、ソロモンは自分の子に書いています。でも、その言葉は、私たちに対する天の父の心を反映しています。

わが子よ。もし、あなたの心に知恵があれば、私の心も喜び、あなたの唇が公正を語るなら、私の心は喜びに躍る。(箴言23:15ー16)

たぶん、多くの親たちはその気持ちが分かるでしょう。私たちの子供たちが知恵を持って生活し、正しいことをする時、私たちは喜ぶでしょう。

そのように、私たちが知恵を持って生活し、正しいことをする時、天の父は喜ばれます。

だから、天の父は私たちにこう言われます。

わが子よ。よく聞いて、知恵を得よ。あなたの心が道をまっすぐ進むようにせよ。(19節)

でも、それだけでなく、天の父は私たちにこう言われます。

わが子よ、あなたの心をわたしにゆだねよ。あなたの目が、わたしの道を喜ぶようにせよ。(26節)

他のどんなものよりも、神様は私たちの心を望んでおられます。なぜなら、私たちの心が神様のものなら、私たちは喜んで神様に従い、その道を行きますから。

天のお父さん、私の心をあなたにゆだねます。

私の心があなたの道をまっすぐ進むように。私の毎日の生活があなたの心を喜ばせるように。あなたを愛しています。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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エペソ人への手紙

私たちの天の父の模範に従う

今日の箇所では、私たちの人間関係が、どのように天の父との関係を映し出しているかが分かります。

エペソ人への手紙5章では、パウロは私たちと神様との関係を結婚に例えています。 教会がキリストに従うように、妻も夫に従うべきです。

そして、キリストが教会を愛し、ご自身のからだの一部として大切にされたように、 夫たちも妻を愛し、自分のからだの一部として扱うべきなのです。 なぜなら、神様の目には、夫婦はすでに一つとされているからです。

6章では、パウロは神様との関係を親子関係に例えています。 パウロはこう語っています

子どもたちよ。主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです。(エペソ人への手紙6:1)

どうして、子どもが自分の両親に従うことが正しいのでしょうか。 それは、神様が子どもたちを両親に委ねられたからです。 子どもが成長する間、神様は子育ての責任を両親に託しておられます。

ですから、たとえ両親の指示や戒めの理由が理解できなくても、子どもたちは両親に従うべきなのです。

もう一つの理由は、親子関係が、私たちと神様との関係を映し出すものだからです。

神様は、私たちの天の父です。 そして、私たちの地上の両親とは違って、神様は常に何が最善であるかをご存じです。 ですから、たとえ神様の指示や戒めの理由が理解できなくても、私たちは御言葉に従うべきです。 そうしてこそ、私たちは神様の祝福を受けることができるのです。

このような理由から、パウロは語っています

「あなたの父と母を敬え。」これは約束を伴う第一の戒めです。「そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」という約束です。(エペソ人への手紙6:2-3)

両親に対する子どもたちの従順によって生まれる祝福は、 私たちの神様への従順によってもたらされる祝福を映し出しているはずです。

ところが、すべての親子関係がその祝福を映しているわけではありません。 どうしてでしょうか。 それは、両親の行いが、必ずしも神様のご性質や行いを正確に表しているとは限らないからです。

ある両親は、子どもたちをきちんと懲らしめません。 または、彼らの懲らしめはあまりにも厳しすぎることがあります。

ある両親は、子どもを褒めることなく、常に批判を繰り返します。 そのようなやり方が、子どものやる気を引き出すと思っているからです。

また、子どもたちが困難に直面しているとき、 彼らに共感を示さない親もいます。

こうした行いによって、親子の関係は壊れてしまい、 子どもたちの神様に対するイメージも歪められてしまうのです。

だからこそ、パウロは両親に命じているのです

父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。(4)

天の父が私たちを愛し、育ててくださるように、 私たちも自分の子どもを愛し、育てなければなりません。

では、次の二つのことを考えてみてください。

1.ご両親があなたを育てたとき、その育て方はどれほど神様のご性質を映していたでしょうか。 もし彼らの模範が良くなかったとしても、彼らから目を離して、神様に目を向けてください。 あなたの両親がどれほど失敗したとしても、神様は決して失敗されません。

2.あなたは、自分の子どもに神様のことを正しく映し出しているでしょうか。 彼らは、あなたのうちに神様を見ることができるでしょうか。

私もまた、失敗するときが多くあります。 ですから、神様が私を変えてくださるようにと祈っています。 すなわち、娘が私のうちに神様を見出せるようにと願っているのです。

あなたは、良い親でしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ12章

イエス様を見るとき、イエス様の声を聞くとき

多くの人々は「神様を信じる」と言いますが、イエス様を信じていません。

しかし、もしあなたが本当に神様を信じるなら、イエス様を拒絶することはできません。この箇所で、イエス様はこう語られました。

わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのです。

わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。(ヨハネの福音書12:44-46)

つまり、イエス様を信じることは、神様を信じることです。イエス様を見ることは、神様を見ることです。

そして、イエス様はこう語られました。

わたしは自分から話したのではなく、わたしを遣わされた父ご自身が、言うべきこと、話すべきことを、わたしにお命じになったのだからです。

わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。(49-50)

だから、イエス様の言葉を聞くことは、神様の言葉を聞くことです。なぜなら、イエス様は神様の言葉を正しく伝えられるからです。

したがって、もしあなたがイエス様の言葉を拒絶するなら、それは実際には神様の言葉を拒絶することになります。さらに、もしイエス様を拒絶するなら、それは神様ご自身を拒絶することなのです。

そこで、イエス様はこう語られました。

わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。(48)

私たちがイエス様の言葉を聞くと、その言葉によって私たちは裁かれます。

もしイエス様を信じるなら、あなたは光と命を見つけるでしょう。 しかし、イエス様を拒絶するなら、あなたが見つけるのは暗闇と裁きです。

あなたはどう選ぶでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ6章 ルカの福音書 ルカ11章

山上の説教:私たちのお父さん

一つの記事で主の祈りについて話そうかなあと思ったけれど、結局少しずつ話した方が良いと思いました。

この箇所では、イエス様は神様をどのように呼ぶべきか教えてくださいます。

マタイの福音書では、イエス様は「天にいます私たちの父よ」と祈ります。

ルカの福音書では、イエス様はもっと簡単な表現で「父よ」と祈ります。

実際、日本では、主の祈り以外で「天にいます私たちの父よ」や「父よ」と祈る人はほとんどいないように感じます。

むしろ、私の教会では「天のお父様」と祈る人が多いです。

その理由は正確には分かりません。私の個人的な意見ですが、クリスチャンがこのような呼び方を使うと、少し神様との距離を感じさせるように思います。

もし、「天のお父さん」や「お父さん」と祈れば、イエス様が意図された意味により近づくのではないでしょうか。

なぜなら、イエス様は私たちが神様に親しみを持ち、近づくべきだと教えることを望まれたのだと思います。

もちろん「主よ」と祈ることも良いことです。神様はまさに私たちの主であり、その呼び方はふさわしいものです。ペテロもそのように祈りました。(使徒4:24)

けれども、依然と言ったように、その呼び方は、神様と私たちの間に距離があることを暗示します。もちろん、王様としもべには関係がありますが、親しい関係ではありません。そのしもべは、いつでも王様と話すことができるわけではありません。

しかし、王様の子供は、いつでもそのお父さんと話すことができます。その子は、王に仕えるしもべにはないアクセスを持っています。それに、その子は、父の愛を確信しています。

私たちの天のお父さんは、大いなる王です。神様は、この世界、この宇宙を支配されています。それでも、神様はいつでもあなたのために時間を割いてくださいます。なぜなら、神様はあなたの王だけではなく、あなたのお父さんでもあるからです。

残念なことに、多くの人々は「天のお父さん」と祈っても、その言葉の意味を深く理解していません。なぜなら、彼らの実のお父さんが不完全だったからです。

そのお父さんは、彼らの話を聞いてくれず、愛してくれず、養ってくれなかったかもしれません。また、中にはお父さんから虐待を受けた人もいます。

だから彼らは、その否定的なイメージを天のお父さんに投影してしまいます。

しかし、神様はそのようなお父さんではありません。たとえあなたの実のお父さんが欠点を抱えていたとしても、神様にはそのような欠点はありません。

神様は、あなたを愛してくださいます。神様は、あなたの祈りを聞いてくださいます。神様は、あなたのニーズに備えてくださいます。そして、神様は、決してあなたを捨てられることはありません。

あなたが「天のお父様」と祈るとき、どんなイメージを持っていますか。

もし否定的なイメージを持っているなら、神様があなたの実のお父さんとは異なる存在であることを心に留めてください。そして、次のように祈ることをおすすめします。

神様が、あなたの実のお父さんによって受けた傷を癒してくださるように。あなたが実のお父さんを赦せるように。そして、神様があなたの「天のお父さん」へのゆがんだイメージを正してくださるように祈りましょう。

神様は完全なお父さんです。あなたが天のお父さんを本当に知ることができますように。

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詩篇

神様のようになる

ダビデが困った時、つまり、人々が彼を殺そうとしたとき、彼は詩篇17篇を書きました。

何度も、人々はダビデを殺そうとしましたが、ダビデは決して彼らのレベルに降りませんでした。つまり、ダビデは彼らのようになることを拒絶しました。彼はこう書きました。

あなたは私の心を調べ、夜、私を問いただされました。あなたは私をためされましたが、何も見つけ出されません。

私は、口のあやまちをしまいと心がけました。人としての行ないについては、あなたのくちびるのことばによりました。

私は無法な者の道を避けました。私の歩みは、あなたの道を堅く守り、私の足はよろけませんでした。(詩篇17:3-5)

私たちは、よく、「私には選択肢などない。私を憎む人を扱うなら、ルールをちょっと曲げなくてはならない。そうしないと、彼は私をずっとひどく扱うことになるだろう。」と思います。

しかし、ダビデは神様の言葉に従い続け、復讐を神様の手に委ねました。彼は叫びました。

神よ。私はあなたを呼び求めました。あなたは私に答えてくださるからです。

耳を傾けて、私の申し上げることを聞いてください。あなたの奇しい恵みをお示しください。

立ち向かう者から身を避けて右の手に来る者を救う方。私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。

私を襲う悪者から。私を取り巻く貪欲な敵から。(6ー9)

そして私たちは、ダビデの最も深い望みを見ます。彼は言いました。

「主よ。私の敵はこの世の物を求めているので、その物をどうぞ与えてください。けれども、私が求めるのは、あなたの顔を見ることです。また、私は目覚める時、私があなたのようになるなら、満足します。」(14-15)

だから、神様はダビデについてこう言われました。「彼はわたしの心にかなった者です。」

私は若い時、この歌を聞いて、本当に気に入りました。

私が大きくなると、あなたのようになりたいです。
あなたが愛するように、私も愛することを学びたいです。

周りの人々が微笑んで、私についてこう言ってほしいです。
「その人はきっと天の父の子です。」

私は大きくなったら、あなたのようになりたいです。

神様は私たちのために同じことを望んでおられます。

パウロはこう書きました。

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。

これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(第二コリント3:18)

私たちの目的がこの世の物を得ることではなく、また、私たちを憎む人のようにならないようにしましょう。

むしろ、私たちは私たちを愛している天の父のようになることを目指しましょう。そうすれば、周りの人々が私たちを見ると、天の父を見ることができるでしょう。