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イザヤ書のデボーション

死が滅ぼされる時

(この記事は、2011年に父が亡くなってから一年後に記したものです。昨日、母も天に召されたことを受けて、少し手を加え、あらためて共有いたします。)

多くの人々にとって、死は苦しみを伴うものです。

父の最後の週、私は毎晩、父の部屋でそばに寄り添いながら、静かに待っていました。それは、私がそれまで経験した中でも最もつらい時間でした。

そして母が召された今、私は再び同じような痛みを心に感じています。

それでも、やがて来る日には、死そのものが死に、終わりを迎える時が訪れます。

この箇所でイザヤは、イエス様の再臨について語っています。 彼はそのことに関して、次のように述べています。

この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、永久に死を滅ぼされる。

神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。(イザヤ書25:7-8)

その日、すべての民が神様にこの賛美を歌います。

見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。

この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう。(9)

父が亡くなった時、糖尿病や肺炎を患っていて、すでに目が見えず、足には全く治らない傷がありました。

母も肉体的な問題を抱え、断続的にうつ病と闘っていました。

しかし今、父と母のすべての健康の問題は取り去られ、彼らの苦しみと痛みは勝利に飲み込まれました(第一コリント15:54)。

今、父と母は共に救いの歌を歌い、主の食卓で食事をしています。

だから私は、苦しみの中でも喜ぶのです。

私は、父と母に再び会う日を待ち望んでいます。

There are burdens that I carry every day
私は毎日、重荷を背負って生きています。
Sometimes it makes me want to cry
時に、その重さに心がふさがれて、涙がこぼれそうになります。

In the middle of the darkness in my life
その人生の暗闇の中で
I find the strength to carry on.
私は生き続ける力を見いだします。
I am holding to a promise Jesus made
イエス様がくださった約束にしっかりと握り続けています。
And I know it won’t be long ‘til we’ll be gone.
やがて、私たちがこの世を離れる日が近づいていることを、私は知っています。

In a while, we’ll be gone.
やがて、私たちはこの世を離れる時が来ます。
And we won’t have to cry anymore.
その時、もはや涙を流すことはありません。
All our sorrows left behind.
悲しみはすべて、この世に置いていくのです。

That’s the day that I am waiting for.
その日を待っています。

That’s the day I’m longing for.
その日を願っています。

That’s the day that I am looking for.
その日を待ち望んでいます。

ーー エイミー・グラント

あなたがキリストにある希望を、さらに深く知ることができますように。

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詩篇のデボーション

天国にいるかのように、今を生きる

詩篇100篇を読むと、私に思い浮かんだのは、天国で私たちがそのような人生を送るということです。

イエス様にある私たちの勝利のゆえに、私たちは主に向かって喜びの声をあげます。(詩篇100:1)

私たちは喜びを持って主に仕えます。私たちは主の御前に来て、喜びの歌を歌います。(2節)

私たちは主のものであることを認め、喜びます。(3節)

私たちは感謝と賛美に満ちた心を持って主の御前に来ます。私たちは主の御名をほめたたえます。(4節)

なぜなら、主はいつくしみ深く、その恵みは永遠まで、その真実は代々に至るからです。(5節)

それは素晴らしい天国の描写ですね。

でも、私たちが天国にいるまで待つ必要はありません。毎日、そのような人生を送りましょう。

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ヨハネの黙示録

天国に入れないもの

前回の記事で、私は天国の栄光や神様の民の栄光について話しました。また、天国にある素晴らしいものを見ました。

でも、天国に入ることができないものもあります。それは、罪です。

罪をあえて犯す人や神様に反抗する人は、神様の民に属さず、その遺産を受けることもできません。旧約聖書の時代にも(レビ記18章)、その通りだったし、新約聖書の時代にもそうでした。

でも、どうしてでしょうか。神様は寛容な方ではないでしょうか?

けれども、天国とは死も悲しみも叫び声も苦しみもない場所です(21:4)。

もし神様が罪のある者の天国入りを許すなら、死も悲しみも叫び声も苦しみも天国に入ってしまいます。この世を見れば、それがよく分かるでしょう。

あなたは、それらを望みますか?私は望みません。

だから、神様はこう言われます。

しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。(黙示録21:8)

また、

しかし、すべての汚れたもの、また忌まわしいことや偽りを行う者は、決して都に入れない。入ることができるのは、子羊のいのちの書に記されている者たちだけである。(21:27)

また、

犬ども、魔術を行う者、淫らなことを行う者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は、外にとどめられる。(22:15)

ちょっと注目してください。

殺害者だけが天国に入ることができないわけではありません。

嘘をつく人も入ることができません。

偶像礼拝をする人も入ることができません。この世のものを神様よりも大事にする人は、入ることができません。

性的な罪を犯す人も入ることができません。性的な罪とは、異性愛の結婚関係の中でのセックス以外の、すべての性的なふるまいのことです。

さらに、忌まわしいことや偽りを行う者も入ることができません。

しかし、最も重い罪は神様を信じないことです。イエス様とその十字架の働きを信じようとせず、頑なに自分の道を進む人です。

そのような人は、天国に入ることができません。

あなたは、上記の罪を犯したことがありますか?もしそうならば、あなたも天国に入ることはできないはずです。

けれども、あなたの名前が子羊のいのちの書に記されているなら、入ることができます。つまり、自分の罪を悔い改め、心を神様にささげるなら、天国に入ることができるのです。

私が以前に述べたとおり、あなたの永遠の運命は2冊の書物に記されている内容によって決まります。

1冊目は、子羊のいのちの書です。イエス様の十字架の働きを信じる者の名前がそこに記されています。

2冊目の書物には、私たちのすべての行為が記されています。良い行為だけでなく、悪い行為も書かれています。

覚えておいてください。私たちは、良い行為のせいで天国に入れないわけではありません。むしろ、悪い行為のゆえに天国に入ることができないのです。そして、あの書物に悪い行為が1つでも記されているなら、天国に入ることはできません。

残念ながら、悪い行為をひとつも犯していない人は誰もいません。

だから、自分の実績によって天国に入ろうとするなら、入ることはできません。あなたの名前が子羊のいのちの書に記されていてこそ、天国に入ることができるのです。

そのためには、自分の心をキリストにささげ、イエス様を自分の王、そして救い主として受け入れなくてはなりません。

使徒パウロはこう言いました。

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6:23)

あなたはどうされますか。今日、キリストを受け入れませんか。

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ヨハネの黙示録

天国:花嫁が現れた!

いいえ、この記事でこのブログを終えることはありません。私たちは永遠に新しい天と新しい地にいるのですから、数日にわたって、それらがどんなところであるのかについて話していきましょう。🙂

皮肉なことに、最後の七つの災害に満ちた七つの鉢を持っていた七人の御使いのうちの一人がヨハネのもとに来て、「ここに来なさい。あなたに、子羊の妻である花嫁を見せましょう」と言います。

この御使いは、古い天と古い地の破壊に関わっていましたが、 彼は新しい天と新しい地をヨハネに紹介するのです。

前回の記事でも触れましたが、「新しいエルサレム」とは、文字通りの都市なのか、神様の民なのか、それともその両方なのかは分かりません。

でも、この場面を読んでいると、高価な真珠のたとえ話を思い出しました。そこでは、ある人がその真珠を得るために、持っていたものすべてを売り払いました(マタイ13:45〜46)。

イエス様は、十字架でご自分の血によって、教会という高価な真珠を、ご自分の花嫁として買い取られたのです。

パウロによれば、

キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。(エペソ5:26-27)

今日の聖句では、キリストの花嫁が登場し、私たちはその美しさを目にすることができます。ヨハネはこう語ります。

都には神の栄光があった。その輝きは最高の宝石に似ていて、透き通った碧玉のようであった。(黙示録21:11)

ヨハネが花嫁を描写するとき、「12」という数字や「12の倍数」という数字が頻繁に登場し、それらの数字は時に「1000」(完全さを表す数字)と組み合わされています。

なぜ「12」なのでしょうか。その答えは、21章12節と14節にあるかもしれません。

「12」とは、神様の民を象徴する数字です。イスラエルの十二部族は旧約聖書時代の神様の民を象徴し、12使徒は新約聖書時代の神様の民を象徴します。(私たちも新約聖書の時代に生きています。)

旧約の信仰者たちは、新約の信仰者たちと共に神様の民なのです。

そして、花嫁は旧約時代の祭司たちのように宝石で飾られます(出エジプト記28:15〜21)。

エデンの園もまた、宝石で飾られていました(エゼキエル書28:13)。

この花嫁には、神様と出会うために神殿に行く必要はありません。なぜなら、神様ご自身と子羊ご自身が「神殿」だからです(21:22)。

つまり、昔は神殿が神様の臨在を表しましたが、新しい天と地において、神様はご自身が私たちの間におられるため、そのような建物は不要です。その上、神の栄光、そして子羊の栄光が都市を照らしています(21:23)。

しかも、花嫁自身も輝いています。この世の国々は彼女の栄光によって照らされ、国民たちはそれぞれの栄光を彼女にささげます(21:24)。

花嫁は完全に安心しています。侵入者が入る恐れがないため、その都市の門は常に開かれています。アダムとエバが裸でも恥を感じず安心していたように、キリストの民も人間関係において完全に安心しています。

御霊の喜びに満たされるにつれて、私たちの心の奥底から、生ける水の川が流れ出ます(ヨハネ7:37-39)。そのため、私たちはいのちの実を結び、味わいます(22:1-2)。

でも、天国で花嫁にとって最も素晴らしい事は何でしょうか。それは、私たちが神様のみ顔を見ることです(22:4)。

この都市は立方体として描写されています(21:16)。

聖書の中で、他に立方体として描かれているのはただ一つ。それは神殿の至聖所であり、神様がそこに住んでおられました(列王記第一6:20)。

その立方体の意味は?前回の記事で、私たちはその意味を見ました。

見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。(21:3)

また、

もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え。。。彼らは世々限りなく王として治める。(22:3,5)

どうして、私たちはそんな素晴らしい祝福を得ることができるのでしょうか。

なぜなら、2000年前、イエス様は十字架で私たちの罪のために死んでくださいました。イエス様の働きのおかげで、私たちはイエス様の尊い宝石のように輝き、イエス様の花嫁として栄光を持って、イエス様と共におり、共に治めます。

私はその日が来るのを待ちきれません。

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ヨハネの黙示録

天国:聖書の約束がついに成就する時

この10年間、このブログでは、私たちは聖書の初めから終わりまでを読み通してきました。そして、今日の聖句では、歴史の集大成が描かれています。聖書のすべてがその時に成就するのです。

創世記では、私たちはエデンを見ました。アダムとエバが罪に落ちる前、彼らはエデンで神様と共に歩みました。

けれども、彼らが罪を犯し、被造物のすべてが呪われた後でも、神様は人間を見限ることはありませんでした。むしろ、神様はノア、アブラハム、イサク、ヤコブを選び、ご自分の民とされました。

その後、イスラエル人たちは神様の民となり、神様は彼らの神となりました。

そして、イエス様の死と復活の後、神様はその権利をイエス様を信じるすべての人々に拡げ、彼らも神様の民と呼ばれるようになったのです。

21章では、私たちはその物語の集大成を目にします。ヨハネは新しい天と新しい地を見ます。そして、もはや海は存在しないのです。

「海はない」とは、文字通りのことなのか、判断がつきません。

黙示録では、海は悪の象徴とされてきました。たとえば、13章では、獣が海から上がってきました。ですから、ヨハネが意味しているのは、悪とそのカオスが完全に消え去るということかもしれません。

そして、ヨハネはこう語ります。

私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。(黙示録21:2)

もう一度、私はこの描写が文字通りのことなのかどうか、疑問に思います。ヨハネは文字通りの都市を見ていたのでしょうか。 それとも、キリストの花嫁である神様の民だけを見ていたのでしょうか(エペソ5:25〜32)。あるいは、都市とその民の両方を見ていたのでしょうか。

いずれにしても、次の聖句では、私たちは最も大切なことを目にします。

私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。

「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。(3)

神様は、かつてアダムとエバと共にエデンを歩まれました。彼らは神様の民であり、神様は彼らの神でした。けれども、彼らは最終的に罪に落ちてしまいました。

神様がイスラエル人をエジプトから救い出すと約束されたとき、 神様は彼らにこう告げられました。「あなたたちは私の民となり、私はあなたたちの神となります」(出エジプト記6:7)。

そのとき、幕屋は、神様が彼らの間に住まわれることの象徴となりました(出エジプト記40:34〜35)。

彼らが約束の地に入ったとき、神殿は幕屋に代わって神様の住まいとなりました。神殿もまた、神様が彼らの間に住まわれることの象徴でした(列王記第一8:10〜12)。

ところが、イスラエル人が再び罪を犯したため、神様の御霊は神殿から離れられました(エゼキエル書10:18)。

その神殿は破壊されたり、再建されたりしましたが、西暦70年には再び破壊され、今に至るまで再建されていません。

今では、神様の民自身が神様の神殿です。神様は私たちのうちに住んでおられます(第一コリント6:19)。

そして、すべてが成就する日には、私たちは永遠に神様の御前にいて、神様のみ顔を仰ぎ見ることになります。

そのとき、神様は私に希望を与える言葉を語ってくださいます。

見よ、わたしはすべてを新しくする。(5)

そして、天の父は、十字架上でイエス様が語られた言葉に少し似たことを語ってくださいます。

事は成就した。(6a)

イエス様が「完了した」と語られたとき、イエス様が意味されたのは、私たちの罪の罰が支払われたということです。

けれども、天の父が「事は成就した」と語られたとき、神様が意味されたのは、神様の救いの計画のすべてが成就し、私たちがついに神様の家にいるということです。

そして、アルファであり、オメガであり、初めであり、終わりである方がこう語られます。

わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。(6b-7)

私たちは皆、苦しみの時を経験します。時に、その苦しみは絶え間なく、また耐えがたいもののように感じられます。

それでも、その苦しみは永遠に続くものではありません。神様はすべてのことを支配しておられます。神様は初めからすべてを支配しておられ、決してその支配を失われません。

神様はすでにこの物語の結末を書いておられます。その結末とは、私たちが永遠に神様と共にいることです。

ですから、神様から目を離さないでください。あなたの試練は永遠ではないことを覚えておきましょう。神様はあなたを、ご自分の家に導いてくださいます。

その日に関して、ヨハネはこう語ります。

神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。(4)

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コリント人への手紙第一

将来の片鱗

この箇所を読んだとき、新たな気づきが私の心に響きました。それは、私たちの霊的な賜物が天国の片鱗であるということです。

パウロはこう語りました。

愛は決して絶えることがありません。

預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。

私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。(コリント人への手紙13:8-10)

パウロが語る賜物は、「不完全な賜物」です。おそらく、天国ではいくつかの賜物は続くでしょう。例えば、奉仕の賜物や、治める賜物、音楽の賜物は続くかもしれません。

けれども、預言はなくなります。なぜでしょうか。預言とは、基本的に神様の言葉を人々に伝えることです。ところが、天国では神様が直接私たちに語られるからです。

異言もなくなります。異言を通して、私たちは神様の御心に従って祈ることができます。けれども、天国では私たちはすでに神様の御心を知っています。

また、異言を通して、私たちは外国語で神様の栄光を伝えることができます。しかし、天国ではすべての人が神様を知っており、私たちは完全に互いを理解し合っています。

私たちの知識も不完全です。特に神様に関する知識は限られています。けれども、天国では私たちは神様のみ顔を直接仰ぎ見るのです。

この三つの賜物は、天国の片鱗です。今、私たちはある程度神様の声を聞くことができますが、天国でははっきりと聞こえるようになります。

神様とのコミュニケーション、そして周りの人々とのコミュニケーションも、今は限られています。しかし、天国では私たちのコミュニケーションは完全なものとなります。

私たちは今、部分的に神様を知っていますが、天国では神様を完全に知るようになります。

言い換えると、

今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。(12)

私たちがこの世で目にするもののすべては、天国からのかすかな映しです。けれども、イエス様のみ顔を仰ぐとき、私たちはイエス様を完全に知るようになります。そして、神様が私たちに備えておられた本来の人生の計画を理解するようになるのです。

だから、私は希望を持っています。時として、この世界は悲しみに満ちた場所のように感じられます。

とはいえ、この世は、私たちの未来のぼんやりとした映しに過ぎません。さらに、この世は永遠にこのまま続くわけではありません。

だからこそ、私たちの霊的な賜物を見るとき、また、周囲の人々や被造物を見るとき、それらはただぼんやりとした映しであることを心に留めましょう。私たちには確かな希望があります。それは、

愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。

やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。(第一ヨハネ3:2)

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マタイの福音書 マタイ13章

網のたとえ話:迫っている裁き

福音書の中で、イエス様は天国について語られましたが、実際には天国よりも地獄について多く教えられました。この箇所では、イエス様は迫り来る裁きについて語られています。

以前にも述べたように、この世の悪を見るとき、私たちはしばしばフラストレーションを感じ、「なぜ神様が何もしないのか」と疑問に思うことがあります。

けれども、この箇所では、イエス様はその日が必ず来ると語られます。すべての人々は、たとえ死者の魂であっても、あるいはまだ生きている者であっても、神様の前に立ち、裁きを受けます。

その日、神様は悪者と正しい者を分けられます。正しい者は報いを受け、永遠に神様とともにいることができます。

その一方、悪者について、イエス様は次のように語られます。

この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。(マタイの福音書13:49ー50)

なぜイエス様はこのことを教えられたのでしょうか。その一つの理由は、私たちに希望を与えるためです。つまり、この世の悪は永遠に続かないということです。この邪悪な世界の中で、私たちにはそのような希望が必要だと思います。

二つ目の理由は、私たちに警告を与えるためです。つまり、神様の忍耐は永遠に続かないということです。

神様は誰も滅びることを望まれません。しかし、人々があえて神様とその福音を拒絶した場合、神様は彼らの意志を尊重されます。つまり、彼らは永遠に神様から離れて生きることになります。

けれども、その日が来ると、彼らは神様から離れていることが、どれほど惨めな状態かを悟るでしょう。だからこそ、彼らは永遠に絶望して苦しむことになります。

多くの人々は、神様が彼らの喜びを奪おうとしていると思い込み、神様から逃げます。しかし、実際には、神様から離れると、本当の喜びは全く存在しません。

ですから、この邪悪な世界を見るとき、心に留めておきましょう。裁きの日は迫っています。あなたは準備ができていますか。つまり、信仰によって神様の救いを受け入れましたか。

もしあなた自身が準備できているなら、自分にこう問いかけましょう。「私が愛する人々は準備ができているだろうか。」

もし彼らが準備できていないなら、どうしても彼らに福音を伝えましょう。

地獄は現実です。イエス様はそう教えられました。あなたは信じていますか。そして、信じているならば、福音をあなたが愛する人々に伝えているでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ3章

どのように新しく生まれることができるのか

ヨハネ3章の前半では、イエス様はニコデモに、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われました(3節)。

つまり、私たちがこの世に生まれるように、私たちは神様の国に生まれなくてはなりません。どんなに良い行動をしても、それによって天国に入ることはできません。

人がこの世に生まれるのは、主に母の働きによるものです。人が神様の国に生まれるのは、御霊の働きによるものです。

ニコデモは旧約聖書をよく知っていたにもかかわらず、この概念を理解することができませんでした。彼は天国に入るために、懸命に神様の律法に従おうとしていました。けれども、イエス様は「その考え方は間違っている」と言われました。

そのため、ニコデモは質問しました。

どうして、そのようなことがありうるのでしょう。(9)

つまり、「私はよく分かりません。ずっと律法に従おうと努力してきました。しかし、あなたは天国に入るために私自身の働きによるのではなく、御霊の働きによると言われているのですか。」

今でも、多くの人々は同じ質問を抱えています。彼らは、神様を喜ばせるために良い行動をしなければならないとずっと教えられてきました。そのため、救いがただであるという話を聞いても、彼らは信じられません。それが簡単すぎると感じてしまうのです。

いずれにせよ、イエス様はニコデモを少し叱責されました。

あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。(ヨハネの福音書3:10)

もしニコデモが預言者たちの言葉を正しく理解していたならば、イエス様の言葉も理解できたはずです。(特に、ニコデモは預言者エレミヤやエゼキエルの言葉を知っていたに違いありません。昨日の記事をご覧ください。)

けれども、ニコデモがそれを理解できなかったため、イエス様はさらに古い聖書の話を取り上げて語り始められました。ユダヤ人にとって非常によく知られた話です。

イスラエル人がエジプトから救い出された後、砂漠を旅していました。ところが、その途中で彼らはモーセと神様に対して不平を言い始めました。その反抗的な態度の結果として、神様は多くの蛇を送り、人々の多くが噛まれて死んでしまいました。

イスラエル人が悔い改めた時、神様はモーセにこう命じられました。

あなたは燃える蛇(つまり、青銅の蛇)を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。(申命記21:9)

彼らは救われるために、多くの良い行動をする必要はありませんでした。ただ、神様の約束を信じるべきだったのです。神様の約束を信じた人々は救われましたが、神様に対する不信を持ち続けた人々は亡くなりました。

イエス様はニコデモにこう言われました。

「同じように、永遠の命を得るためには、働かなくてもよいのです。モーセが荒野で蛇を掲げたように、私も十字架で掲げられなければなりません。私はあなたの罪のために死ぬのです。そして、あなたが私を仰ぎ見て信じるなら、あなたは救われます。」

ギリシャ語では引用符が存在しないため、イエス様の言葉がどこで終わり、ヨハネの言葉がどこから始まるのかが明確ではありません。おそらく、15節でイエス様の言葉が終わり、16節からヨハネがその話の意味を解釈しているのでしょう。

いずれにせよ、この箇所は聖書の中で最も有名な箇所の一つです。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(3:16)

どうすれば、私たちは新しく生まれることができるのでしょうか。それは、イエス様を信じることによって実現します。つまり、イエス様が十字架であなたの罪の罰を引き受けてくださったことを信じる必要があるのです。

罪とは、「神様、私はあなたを信頼しません。」という態度そのものです。ですから、罪の解決方法は良い行動を積むことではありません。罪の解決方法は、神様に対する不信の態度を捨てることです。

そして、その最初の一歩は、「神様、私はあなたの救いの計画を信じます。あなたの国に入るために、私の働きに頼るのではなく、イエス様の十字架での働きに頼ります。」と告白することです。

このような祈りをしたことがありますか。

天のお父様、私は自分が罪を犯したことを認めます。つまり、私はずっとあなたを信頼せず、あなたの道を歩まず、自分勝手な道を選んできました。どうか私を赦してください。

イエス様、あなたが私の罪のために死んでくださったことを感謝します。私の主となってください。これから私は、私の人生のすべてにおいてあなたを信頼し、あなたの道を歩みたいと願います。

御霊様、どうか毎日私を導いてください。特に、私が毎日イエス様のようになることができるように導いてください。私の心を変えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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イザヤ書

死が滅ぼされる時

2011年に、私の父は入院して、健康状態が非常に悪いと聞きました。私の母と姉はどれぐらい父が生き続けるか分かりませんでした。

それを聞いて、私の家族は父を見舞うためにハワイに帰省しました。私たちがハワイにいる間に、私の父は亡くなりました。

多くの人々にとって、死は苦しいことです。

父の最後の週に、私は毎晩父の部屋にいて、待ちました。彼はずっと寝て、全然起きなくて話しませんでした。それでも、私は父とよく話しました。

父は私の言うことが聞こえていたかどうか分かりません。本当に辛かったです。

ある日、私は午前12時に兄の家に戻り、姉が私の代わりに父の部屋で待ってくれました。5時間後、父は最後の息を引き取りました。

死は本当に苦しいことです。

でもある日、死も無くなります。

この箇所ではイザヤはイエス様の再臨について話します。イザヤはその事についてこう言いました。

この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、永久に死を滅ぼされる。

神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。(イザヤ書25:7-8)

その日、皆は神様にこの賛美を歌います。

見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう。(9)

父が亡くなった時は、糖尿病や肺炎を患っていたし、もう目が見えなかったし、足に全然治らない傷がありました。

でも、今その健康の問題は全部無くなりました。父の苦しみと痛みのすべては勝利に飲まれました。(第一コリント15:54)

だから、父は大きな声で天国の皆と一緒に救いの歌を歌っています。毎日、父は主の食卓で食べています。

もう一度私の父に会うことを楽しみにしています。

私はある歌が大好きです。その歌を聞くと、父のことを思い出します。そして、私たちの希望についても思い巡らします。

There are burdens that I carry every day
毎日私は重荷を背負っています。
Sometimes it makes me want to cry
時々私は泣きたくなります。
Hopeless feelings harbored deep inside my heart
私の心の中に絶望の思いがあります。
And I find it hard to hold my head up high.
だから、私の頭を上げることは難しいです。

In the middle of the darkness in my life
その人生の暗闇の中に
I find the strength to carry on.
私は生き続ける力を見つけます。
I am holding to a promise Jesus made
イエス様の約束を握っているからです。
And I know it won’t be long ‘til we’ll be gone.
そろそろ私たちはこの世から去ると知っています。

In a while, we’ll be gone.
もうすぐ私たちはこの世から去ります。
And we won’t have to cry anymore.
その時、私たちはもう泣く必要がないのです。
All our sorrows left behind.
私達の悲しみはこの世に残ります。

That’s the day that I am waiting for.
私はその日を待っています。

That’s the day I’m longing for.
その日を願っています。

That’s the day that I am looking for.
その日を待ち望んでいます。

ーー エイミー・グラント

あなたがキリストにある希望を見いだすことができますように。