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詩篇のデボーション

誰のために、栄える木が実を結ぶのか

幸いなことよ、悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人。

主のおしえを喜びとし 、昼も夜も、そのおしえを口ずさむ人。

その人は、流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び  その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄える。(詩篇1:1-3)

詩篇1篇では、詩人は、神様のみ言葉に思いを巡らす人について書いています。彼によれば、その人は栄えて実を結ぶ木のようになります。

でも、私たちが誰のために実を結ぶのか、考えたことがあるでしょうか。私たちが栄えるとき、誰がその益を受けるのか、考えたことがあるでしょうか。

果樹は、自分に栄養や祝福を与えるために実を結ぶわけではありません。むしろ、その木は周囲の人々を祝福し、栄養を与えるために実を結びます。

私たちは、そのような人であるべきです。

多くのクリスチャンは、この箇所を読むとき、このように考えます。「聖書を読んで、その言葉に思いを巡らすと、私は祝福されます。」

もちろん、それが間違っているわけではありません。しかし、もっと大切なのは、私たちが実を結び、神様がその実を通して周囲の人々を祝福してくださることです。

私たち皆がそのような木であり、神様の恵みのパイプラインとなって、周囲の人々に触れるように。

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創世記のデボーション

この世には、苦難があっても

ヨセフは長子をマナセ(意味:「忘れる」)と名づけた。「神が、私のすべての労苦と、私の父の家のすべてのことを忘れさせてくださった」からである。

また、二番目の子をエフライム(意味:「実り多い」)と名づけた。「神が、私の苦しみの地で、私を実り多い者としてくださった」からである。(創世記41:51ー52)

イエス様、あなたは、「世にあっては苦難があります」と言われました。(ヨハネ16:33)

でもヨセフと同じように、ある日、私の苦しみはなくなり、過去が私に影響を及ぼすことはなくなります。(黙示録21:24)

やがて私に啓示される栄光に比べれば、今の時の私の苦難が取るに足りないものであることを感謝します。(ローマ8:18)

私の苦しみの中で、私がどう祈ればいいのかよく分からないとき、御霊が私のために祈ってくださることを感謝します。(ローマ8:26)

あなたを愛する私たち、あなたのご計画にしたがって召された私たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを感謝します。(ローマ8:28)

それが私の希望です。あなたこそが私の希望なのです。

だから苦しみに満ちたこの世にいる間、私はあなたに信頼することを選びます。

私のためにあなたの計画を成し遂げてください。私があなたのために実を結ぶように。あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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ローマ人への手紙のデボーション

あなたの者となるため

ですから、私の兄弟たちよ。あなたがたもキリストのからだを通して、律法に対して死んでいるのです。

それは、あなたがたがほかの方、すなわち死者の中からよみがえった方のものとなり、こうして私たちが神のために実を結ぶようになるためです。(ローマ人への手紙7:4)

イエス様、私はかつて、サタンの国の奴隷でした。でも、私はもはやサタンのものではありません。

私は、もはや自分自身のものですらありません。私は、ただ自分の罪深い心に従って生きているわけではありません。

私は、他の方のものです。私は、あなたのものです。私は、自分の幸せのためだけに生きているのではなく、あなたのために実を結ぶために生きているのです。私は、あなたのために生きているのです。

私への、あなたの素晴らしい愛を感謝します。私があなたと共に歩み、あなたのために実を結ぶことができますように。アーメン。

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マタイの福音書のデボーション

神様が求めておられる実

ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます。(マタイの福音書21:43)

今日の箇所、特に上のことばを読んだとき、私はパリサイ人たちとサドカイ人たちに向けられたバプテスマのヨハネのことばを思い起こしました。

それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。。。 斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。(マタイ3:8ー10)

神様が求めておられる実とは何でしょうか。それは、悔い改めにふさわしい実です。

収税人や遊女たちは、そのような実を結んだからこそ、神の国に入ることができました。しかし、宗教的な指導者たちは悔い改めを拒んだため、神の国に入ることができませんでした。(31ー32)

二人の息子に関するたとえ話では、イエス様はその二つの態度の違いを描写されました。(28ー30)

そして、いちじくの木を呪われたことと、ぶどう園のたとえ話によって、イエス様は悔い改めにふさわしい実を結ばない者たちに警告されました。(18ー19、33ー34)

悔い改めとは、単に「気が変わる」という意味ではありません。

悔い改めとは、単に神様のことばに同意することを意味するのでもありません。

悔い改めは、必ず変えられた心と、変えられた人生へと至るものです。

私の教会では、「Head, heart, hands」という言葉を用いています。

神様のことばが私たちの頭に入り、心が変えられ、そして人生も変えられていきます。

それこそが、神様が求めておられる実です。

あなたはどうでしょうか。そのような実を結んでいるでしょうか。

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テサロニケ人への手紙第二のデボーション

私が実を結ぶことができるように

こうしたことのため、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか私たちの神が、あなたがたを召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から出た働きを実現してくださいますように。

それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、私たちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。(テサロニケ人への手紙第二1:11-12)

天のお父さん、私をあなたの召しにふさわしい者にしてください。私はよく失敗します。善を求め、あなたのために実を結ぼうと思っても、多くの場合、そうできません。

イエス様、あなたはぶどうの木、私は枝です。あなたの力によって、善を求めるあらゆる私の願いを実現してください。

それは、私が周りの人々の称賛を得るためではなく、あなたの御名があがめられ、あなたの父もあがめられるためです。「よくやった。良い忠実なしもべだ」というあなたの言葉を聞きたいのです。

天のお父さん、あなたの恵みに感謝します。私を選び、召してくださったあなたは真実なお方です。(第一テサロニケ5:24)

また、あなたが私のうちに始められた良い働きを完成させてくださると確信しています。(ピリピ1:6)

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ルカの福音書のデボーション

真の悔い改め

それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。(ルカの福音書3:8)

主よ、私はあなたのようになりたいです。 だから、どうか真の悔い改めの心を与えてください。

あなたの言葉が私の罪を明らかにするとき、私が言い訳をし、その罪を正当化しようとしないようにしてください。

むしろ、私がへりくだり、「私はどうすればよいのでしょうか。あなたは私に何を望んでおられるのでしょうか」と尋ねることができるようにしてください。

そして、あなたに従う力を与えてください。 私が悔い改めにふさわしい実を結ぶように助けてください。 あなたを離れては、私は変わることができません。(ヨハネ15:5)

神よ、私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。

私のうちに、傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:23-24)

私へのあなたの恵みと忍耐を感謝します。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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使徒の働きのデボーション

「普通のクリスチャン」の生活

あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため。。。(ヨハネ15:16)

しかし、主はアナニアに言われた。「行きなさい。」(使徒の働き9:15)

今日の箇所では、私たちはアナニアとタビタという、普通の弟子たちを見ます。

前にも述べたように、使徒の働きにおいて「弟子」とは、クリスチャンという意味です。つまり、今日の箇所では、私たちは二人の普通のクリスチャンを見ているのです。

そして、イエス様が十二人の使徒たちを選び、実を結ぶために任命されたように、イエス様はアナニアとタビタも選び、任命されました。

彼らは毎日、ただ自分の家で神様を礼拝するためだけに選ばれていたわけではありません。むしろ、彼らはこの世界に出て行き、実を結ぶために選ばれていたのです。そして、イエス様の御心は、彼らの実が残ることでした。

アナニアとタビタはそのことを理解し、実際にそう生きました。

アナニアはサウロという人に触れました。そして、サウロを通して、ローマ帝国はイエス様のためにひっくり返されました。

タビタの場合、彼女は毎日、周りの人々にキリストの愛で触れ続けました。

アナニアとタビタは「スーパークリスチャン」ではありませんでした。パウロの証し以外では、アナニアの名前はもう登場しませんし、この章以外では、タビタの名前も出てきません。

それでも、彼らはこの世界に出て行き、多くの人々に触れ、永遠に残る実を結びました。

クリスチャンとして、私たちはそのような生活に召されています。私たちはこの世界に出て行き、実を結ぶべきです。

それが「普通のクリスチャン」の生活です。

あなたは、そのような生活を送っているでしょうか。

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使徒の働き

素直な心

私たちが「もう知っている」という態度を取るのは、簡単なことです。

例えば、日曜日に牧師のメッセージを聞くとき、「もう知っている」と思ってしまうことがあります。

長い間、教会に通っている人にとって、そのような態度を取るのは特に簡単です。

正直に言うと、私自身もそのような態度を取ったことがあります。今でも、そのような姿勢に注意しなければなりません。

たとえ神様や聖書について多くのことを正しく理解していても、私たちはまだまだ学ぶべきことがたくさんあります。

この箇所では、アポロという人物がイエス様について深い知識を持っており、その理解はある程度正しかったものの、不完全でした。

そこで、プリスキラとアキラというクリスチャン夫婦は、アポロに「神の道をもっと正確に説明しました」(使徒の働き18:26)。

最も重要なのは、アポロが素直な心を持っていたということです。彼は「私はもう知っている」と言って彼らの教えを拒んだわけではありません。

むしろ、常に学ぶ姿勢を保っていたため、彼のミニストリーはさらに力強くなりました。その態度によって、彼は神の国のためにさらに豊かな実を結びました。

あなたはどうでしょうか。あなたは成熟したクリスチャンで、聖書について深く知っているかもしれません。しかし、今でも素直な心を持ち、学ぶ姿勢を取っていますか。

謙遜な態度を持ち、まだ知らないことが多くあると認められるでしょうか。

そのような心を持ち続けることによってこそ、私たちはクリスチャンとして成長し、神様のために豊かな実を結び続けることができるのです。

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ヨハネの福音書 ヨハネ15章

私たちが実を結ぶように祈る

この箇所で、イエス様は非常に驚くべき約束をされます。

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。(ヨハネの福音書15:7)

このイエス様の言葉を読むと、多くの人々は「では、私が長者になるように祈ろう」と考えます。

しかし、イエス様の言葉を注意深く読んでください。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら。。。」

前回の記事で、私はイエス様にとどまることについて話しました。それは、イエス様に信頼する人生を送ることです。つまり、私たちはイエス様が私たちの最善を知り、私たちの最善を求めておられることを信じるのです。

完全に神様に信頼する人は、お金に執着するでしょうか。それはありえないと思います。

お金や持ち物などの一時的なものを求めるのではなく、その人は何を追求するでしょうか。

その人は神様との関係を追求します。また、その人は神様の国のために、周りの人々に触れたいと思います。要するに、その人は神様のために実を結びたいと願うのです。

だから、イエス様は8節でこう言われました。

あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。(8)

私たちが何でも欲しいものを求めるという教えの文脈は、イエス様のために実を結ぶことです。

イエス様は続けて語られます。

あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため。。。(16a)

そう言った後、イエス様はもう一度語られます。

また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。(16b)

実を結ぶ方法のひとつは何でしょうか。他のどんなことよりも、イエス様はこのことを望まれます。

あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。(17)

こうすることで、私たちは周りの人々に神様の性格を示し、この世に触れることができます。そのようにして、私たちは実を結びます。それだけではなく、永遠に残る実を結ぶのです。

もし私たちが変えられた心を持つなら、つまり、一時的なものではなく永遠のものに焦点を当てる心を持つなら、神様は喜んで私たちの祈りをかなえてくださいます。なぜなら、私たちがさらに多くの実を結ぶからです。

あなたはどうですか。あなたはイエス様にとどまっているでしょうか。何よりもイエス様を喜ばせたいと思うでしょうか。イエス様に仕え、この世に触れたいと思うでしょうか。

それとも、一時的なものにまだ執着しているでしょうか。

あなたの心の状態はどうですか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ15章

上げられて、刈り込まれた

キリスト教をほかの宗教と比べると、一つの大きな違いは、私たちの義が自分の努力によるものではないことです。むしろ、神様が私たちの心を変えてくださるので、私たちのふるまいが変わり始めるのです。

旧約聖書において、神様はこの概念を初めて教えられました。神様はエレミヤを通して、こう言われました。

見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。。。

これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。

わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(エレミヤ31:31,33)

また、神様はエゼキエルを通してこう言われました。

あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。

わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。(エゼキエル36:26-27)

そして、今日のヨハネの箇所では、イエス様は神様の働きをさらに詳しく説明されています。

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。

わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。(ヨハネの福音書15:1-2)

イエス様によれば、天の父は実を結ばない枝を取り除き、実を結んでいる枝をさらに多く実を結ぶように刈り込まれます。

では、神様が実を結ばない枝を取り除くとはどういう意味なのでしょうか。

私は、それがクリスチャンが救いを失うということではないと思います。他の聖書の箇所がその考えを否定しているからです。

この意味について、二つの可能性があると思います。

第一に、イエス様はイスカリオテ・ユダのような人々について話しているのかもしれません。

ユダはイエス様のもとに来て、多くのことを学びました。彼は実際に弟子となりました。けれども、最終的に彼は実を結びませんでした。彼はイエス様を心から信じることはありませんでした。だからこそ、彼は取り除かれてしまったのです。

今日でも、多くの人々が教会に通い、聖書から学んでいます。ところが、彼らは本当にその言葉を信じることはありません。そのため、彼らもまた取り除かれるのです。

しかし、もう一つの可能性があります。

「取り除く」という言葉は、「上げる」とも訳すことができます。

もしかすると、イエス様が意味されたのは、天の父が実を結ばない枝を日差しにさらすように持ち上げることだったのかもしれません。

そうすることで、その枝はより多くの栄養を受け、健康になり、やがて実を結び始めるのです。

このように、神様は私たちを罪や失敗から引き上げ、私たちが実を結ぶように、私たちの心の中で働かれます。そして、私たちが実を結び始めると、神様はその実の成長を妨げるものを刈り込まれます。

神様はペテロのためにもそのようにしてくださいました。

ペテロはイエス様を裏切ったことで深く落ち込んでいました。けれども、イエス様は彼を引き上げ、励まされました。

イエス様はペテロが自分自身を変えるのを待たれませんでした。むしろ、イエス様はペテロのもとに行き、彼の心に働きかけ、憂鬱から引き上げて、前に進めるように促されたのです。

とはいえ、ペテロが実を結び始めると、イエス様は「では、私の働きは終わりだ」と言われることはありませんでした。

むしろ、イエス様はペテロの偏見を刈り込まれたことで、ペテロはかつて見下していた異邦人にも福音を伝え始めたのです。(使徒の働き10-11)

ところが、その過程はまだ終わっていなかったのです。

ペテロは再び失敗しましたが、イエス様はもう一度ペテロを引き上げ、さらに刈り込まれました。(ガラテヤ人への手紙2:11-14)

あなた自身はどうでしょうか。クリスチャン生活を振り返ると、失望することがありますか。

神様があなたを責めることはなく、決してあきらめることもない、ということを心に留めておきましょう。

むしろ、あなたが完全になるまで、神様はあなたの心の中で働き続けておられます。

だから、神様から逃げず、むしろ神様に近づき、とどまりましょう。そうすることで、あなたは実を結ぶのです。

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ヨハネの福音書 ヨハネ15章

実を結ぶために選ばれました

この有名な箇所で、イエス様は私たちと神様との関係を素晴らしい描写で示されています。

イエス様はご自身を「ぶどうの木」と呼ばれます。

旧約聖書では、神様はイスラエルを「ぶどうの木」として表されました。

本来、イスラエル人は神様のために実を結び、その実を通して周囲の国民が神様に近づくはずでした。けれども、彼らの不従順のために悪い実ばかりを結び、神様は彼らを裁かれました。(イザヤ5:1-7、エレミヤ2:21)

だから、イエス様はご自身を単なる「ぶどうの木」ではなく、「まことのぶどうの木」と呼ばれました。なぜなら、イエス様の実を通して人々が神様に近づくだけでなく、イエス様の働きを通して救われるからです。

そして、イエス様は私たちを「枝」と呼ばれます。

16節で、イエス様はこう言われました。

あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。

それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため。。。(ヨハネの福音書15:16)

実を結ぶとはどういう意味でしょうか。ひとつの意味は、神様に変えられた人生を生きることです。

パウロは、かつての私たちの罪深い生き方について語った後、こう言いました。

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。(ガラテヤ5:22-23)

つまり、私たちが本当にクリスチャンになれば、私たちの人生はそのことを証明するはずです。かつての人生と比べると、私たちの生き方や考え方は変わるはずです。

そして、私たちの人生が変われば変わるほど、私たちは周りの人々に影響を与え始めます。彼らは私たちの中に神様を見て、神様に近づき、救われるのです。

それは、かつてイスラエルのために神様が立てられた最初の計画でしたが、今は、それが私たちのための神様の計画です。

ペテロはこう言いました。

しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。

それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。(第一ペテロ2:9)

あなたは、実を結ぶために神様に選ばれました。あなたは、その実を結んでいるでしょうか。

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エゼキエル書

実りのない人

私は農家でも大工でもありません。それでも、この箇所を通して、私はぶどうの木の枝について学びました。つまり、実を結ばない枝は全く価値がないということです。

実際、私は「この椅子の木材はぶどうの木から来た」と聞いたことは一度もありません。

エゼキエルの時代、ぶどうの木が実を結ばない場合、人々はその枝を薪として使いました。それ以外の用途はありませんでした。

現代では、ぶどうの木には他の使い道があります。インターネットによると、ぶどうの木で花輪を作る人もいるそうです。

また、別のウェブサイトでは、ぶどうの木について興味深い情報がありました。その情報を読んで、なぜぶどうの木が他の使い方に向かないのかが理解できるようになりました。

それは、ぶどうの木の枝を切るとすぐにその枝が枯れ、割れやすくなるということです。

だから、神様はイスラエル人をぶどうの木の枝と比べられました。聖書の中で、神様はイスラエルをしばしばぶどう園に例えられます。

神様は、イスラエルが実を結ぶぶどうの木になることを望まれました。つまり、彼らが周りの国々に神様の栄光を表す存在になることを望まれたのです。

また、彼らが周りの国々に対して祝福となることを望まれました。

しかし、イスラエルの罪と偶像礼拝によって、彼らは実を結ばないぶどうの木となりました。周りの国々に光をもたらすことはなく、むしろ彼らのようになってしまいました。

命の源から離れたことで、彼らは枯れて、割れやすくなり、全く価値のない存在になりました。

そのため、バビロンが来て、彼らの都市、宮殿、神殿、そしてイスラエル人の家を焼き尽くしました。

私たちクリスチャンも気を付けなければ、同じことが起こるかもしれません。

イエス様はこう言われました。

わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。

枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。。。

あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。(ヨハネ15:4-6,8)

神様は私たちがイエス様にとどまることを望まれます。イエス様にとどまるなら、私たちは神様のために多くの実を結びます。そして、私たちは周りの人々に光をもたらし、神様がどんな方であるかを示す存在となります。

しかし、私たちがイエス様にとどまらない場合、私たちは枯れて、割れやすい枝となります。そのような枝では、神様は私たちを用いることができません。

それでも、私たちの救いが失われることはありません。

イスラエルが不忠実だったとしても、神様は忠実で、約束は変わりませんでした。同様に、私たちが不忠実であっても、神様の私たちに対する約束は変わることがありません。

ただし、私たちが悔い改めない場合、神様は私たちを懲らしめられるでしょう。

あなたはどのような枝でしょうか。実を結んでいる枝でしょうか。それとも、枯れてしまった枝でしょうか。

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エレミヤ書

大変な時に実を結ぶ

正直に言えば、私たちの人生は難しいものです。

時々、それは私たちの責任ではない場合もあります。

しかし、私たちの悪い選択によって困難な状況に陥ることもよくあります。

エレミヤの時代、ユダ人たちは悪い選択をしたために困難に直面するようになりました。彼らが神様に背を向け、自分自身の道を選んで進んだ結果、さまざまな問題が起こりました。

そのため、神様は彼らにこう言われました。

あなたは、わたしが与えたあなたの相続地を、手放さなければならない。また、わたしは、あなたの知らない国で、あなたを敵に仕えさせる。

あなたがたが、わたしの怒りに火をつけたので、それはとこしえまでも燃えよう。(エレミヤ書17:4)

けれども、エレミヤは悪いことをしていなかったのに、苦しんでいました。彼が神様に従い、反抗的な人々に神様の言葉を伝えたにもかかわらず、苦しんでいました。

そのため、神様はこう言われました。

主はこう仰せられる。

「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ。

そのような者は荒地のむろの木のように、しあわせが訪れても会うことはなく、荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。

主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。

その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。」(エレミヤ書17:4-8)

この言葉によって、神様はユダ人たちを責められましたが、同時にエレミヤを励まそうとされたのだと思います。

神様はユダ人たちが自分自身に信頼したことを責められましたが、エレミヤにはこう言って励まされました。

「エレミヤ、今あなたが苦しんでいることを知っています。しかし、あなたが私に信頼するなら、私はあなたを祝福します。あなたの状況が辛くても、あなたは私のために実を結びます。あなたの周りの人々が倒れても、あなたは栄えます。」

神様はその約束を守られました。エルサレムが倒れましたが、神様はエレミヤを救い出されました。バビロンの王ネブカドネザルは、エレミヤについてこう命じました。

[エレミヤ]を連れ出し、目をかけてやれ。何も悪いことをするな。ただ、彼があなたに語るとおりに、彼にせよ。(エレミヤ書39:12)

それでも、エレミヤの人生は決して楽なものではありませんでした。けれども、困難な状況の中にあっても、彼は実を結びました。

あなたはどのようなトラブルに直面しているでしょうか。もしかすると、あなたが神様に背を向けた結果、そのトラブルが訪れたのかもしれません。

その場合は、もう一度神様に向かってください。あなたの頑固さと罪を捨てて、もう一度神様に従ってください。

神様に従っているのにもかかわらず、あなたが困難に直面しているでしょうか。そのような時でも、神様に信頼し続けてください。絶望しないでください。

そして、エレミヤのように、あなたも実を結び、この世に良い影響を与えることができます。