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詩篇のデボーション

イエス様は治めておられる

「わたしが わたしの王を立てたのだ。わたしの聖なる山 シオンに。」

「私は主の定めについて語ろう。主は私に言われた。 『あなたはわたしの子。 わたしが今日 あなたを生んだ。』」(詩篇2:6~7)

私はこの乱れた世の中を思うとき、この言葉に心強さを覚えます。

イエス様は治めておられます。

ユダヤ人の指導者たちやローマ帝国はイエス様を十字架につけましたが、その真理を変えることはできませんでした。(使徒の働き4:25~28)

サタンもその真理を変えることはできませんでした。(黙示録12章)

イエス様を王座から追い出すことができる者も力も、何ひとつ存在しません。

そして、いつかの日、神様はすべてのものをイエス様の足台としてくださいます。(詩篇2:8~9、ヘブル書1:5~13)

だからこそ、私はニュースでこの世の悪を見るとき、また、自分の問題を心配するとき、この真理を握ることにします。

イエス様はこの世を治めておられます。そして、このイエス様は良い方です。

幸いなことよ、すべて主に身を避ける人は。(詩篇2:12)

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コロサイ人への手紙のデボーション

自分の心を守る

たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい。(コロサイ人への手紙4:2)

前回の記事で私は言いましたが、最近のニュースやSNSを見るとき、私の心が騒ぐのは簡単です。

でも今日、神様は、私が自分の心に注意を払うように思い起こさせてくださいました。 私は常に自分の思いを吟味し、祈って、それを神様に委ねる必要があります。

それだけではなく、私が自分の心を感謝へと導き、主にあって喜ぶことを選ぶようにと、神様は思い起こしてくださいました。

今日、たまたま詩篇17篇も読み、ダビデのことばを通して、神様の語りかけが私にいっそう深く響きました。

あなたは私の心を調べ、夜、私を問いただされました。私を炉で試されましたが、何も見つかりません。私は 、口の過ちを犯さないように心がけました。。。

私は、義のうちに御顔を仰ぎ見、目覚めるとき、御姿に満ち足りるでしょう。(詩篇17:3、15)

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コロサイ人への手紙のデボーション

困難のときの祈り

天のお父さん、ニュースやSNSを見るとき、この世の悪は明らかです。

だから、私たちの心が騒ぐのは簡単です。

でも、あなたは教会を選ばれ、私たちは聖なる、愛されている者です。(コロサイ人への手紙3:12)

私たちがその身分を覚えていられるように助けてください。

それを覚えて、怒り、憤り、悪意、罵りを捨てることができるように助けてください。この世はそれらによって特徴づけられていますが、私たちがあなたのかたちに従って新しくされ続けるようにしてください。(8、10節)

私たちが深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を身に着けるようにしてください。そして、そのすべての上に、私たちが愛を身に着けるようにしてください。

あなたの平和が私たちの心を支配するようにしてください。(15節)

あなたのことばが私たちのうちに豊かに住むようにしてください。私たちが知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心からあなたに向かって歌うようにしてください。(16節)

最後に、言葉であれ行いであれ、何をするときにも、あなたに感謝する心をもって、主イエスの御名によって行うようにしてください。(17節)

この困難に満ちた世界では、私たちが怒りや恐れに支配されるのではなく、あなたの愛、喜び、平和に治められるようにしてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ルカの福音書のデボーション

私たちの王を歓迎する?

もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。。。神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。(ルカの福音書19:42、44)

今日、私は上記の言葉を反芻していました。

私たちの王を歓迎すると、平和を知るようになります。(38節)

ザアカイは王に心の戸を開け、平和と喜びを知るようになりました。

彼に対して、イエス様が嘆かれたパリサイ人たちや他のユダヤ人たちは、その後どうなったのでしょうか。

イエス様、あなたの良い支配を歓迎せず、私の心の戸をあなたに開けないことで、どれほどの平和を失うでしょうか。

私の前に立たれているあなたを認識さえしないことで、どれほどの平和を失うでしょうか。

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ルカの福音書のデボーション

真の平和

いと高き所で、栄光が神にあるように。 地の上で、平和が みこころにかなう人々にあるように。(ルカの福音書2:13ー14)

上記の言葉を読んだとき、私の牧師が最近語られたメッセージを思い起こしました。そのテーマは、イエス様がもたらされる平和がこの世の平和と異なることでした。

天の軍勢が現れたとき、もしかすると、羊飼いたちは天使たちがローマの圧迫を滅ぼすために来たと思ったかもしれません。

恐ろしいことですが、その天使たちが羊飼いたち自身を滅ぼすために来たと思ったかもしれません。神様の栄光によって、人々の罪が明らかにされるからです。

しかし、それどころか、天の軍勢は平和を宣言しました。その平和は羊飼いやユダヤ人たちだけのためではなく、すべての人々のためです。(ルカ2:10)

でも、どのような平和が伝えられたのでしょうか。

それは神様との平和です。

その平和は私たちの人生に入り込み、こう語ります。

「あなたは罪人ですが、恐れる必要はありません。イエス様があなたの罪の代償を支払ってくださいました。だから、あなたは今、恵まれた者です。

エリサベツとマリアと同じように、私の恵みを受けたのです。あなたは私の心にかなう者となりました。」(ルカ1:25、28ー30)

この真理は本当に心に納め、思い巡らすべきものです。(ルカ2:19)

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列王記第一のデボーション

友好関係を保つ?

聖書を読むとき、文脈に注目することは大切です。

特に44節を読むときには、文脈に注目することが非常に重要です。

ヨシャファテはイスラエルの王と友好関係を保っていた。(列王記第一22:44)

一見したところ、それは良いことのように思えます。

ところが、43節では、著者はヨシャファテが主の目にかなうことを行ったとして誉めたあと、高き所を取り除かなかったことを理由に批判しています。

おそらく、ユダヤ人たちはその高き所で神様を礼拝していたのでしょう。しかし、神様はエルサレムだけで礼拝し、特に、いけにえをささげるように命じられました(申命記12:8ー11、13)。

その批判のあと、著者は「ヨシャファテはイスラエルの王と友好関係を保っていた」と記しています。

著者はヨシャファテを誉めることなく、むしろ批判を続けているのです。

では、なぜ著者はヨシャファテを批判しているのでしょうか。

平和は本来、良いことであるはずです。

通常はそうです。けれども、友好関係の保ち方に問題がありました。つまり、ヨシャファテの息子はアハブの娘アタルヤと結婚したのです(歴代誌第二18:1)。

そして、アハブのようにアタルヤは神様に従いませんでした。さらに、列王記第二11章で、彼女はダビデのすべての子孫を殺そうとしました。

今日の話では、アハブの影響によって、ヨシャファテは主の言葉を無視して、アハブと一緒にアラムと戦いました。

ヨシャファテは神の預言者へのアハブの態度を批判したのに、その預言者のことばを無視しました。(列王記第一22:8)

その結果は、ヨシャファテが危うく殺されるところでした。そして、ヨシャファテはユダに帰るとき、他の預言者は彼を厳しく責めました。(歴代誌第二19:2)

それでも、ヨシャファテはそのような失敗をもう二回繰り返してしまいました。(歴代誌第二20:35ー37;列王記第二3章)

ソロモンはこのように記しました。

知恵のある者とともに歩む者は知恵を得る。
愚かな者の友となる者は害を受ける。(箴言13:20)

「愚かな者」とは、単に「バカな人」を意味しません。

旧約聖書では、「愚かな者」とは、「神様に反抗する人」を意味します。

もちろん、私たちはそのような人々とできる限り平和を保つべきです。

しかし、私たちは彼らに影響されてはなりません。

そうでなければ、ヨシャファテのように、私たちは害を受けてしまいます。

あなたは誰とともに歩んでいますか。

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ヨハネの福音書のデボーション

自分の疑問の解決がもう気にならなくなる日

あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。

その日には、あなたがたはわたしに何も尋ねません。(ヨハネの福音書16:22ー23)

今日、私は上のことばに思いを巡らしました。日曜日は父の日でした。だから、いつものように、私は12年前に亡くなった父のことを思い出しました。

私の父は、さまざまな苦しみに直面しました。特に、最後の10年間は、多くの健康問題を抱えていました。

もし父が「どうして」と尋ねたとしても、不思議ではなかったでしょう。でも、実際には決してそうは訊きませんでした。

この世を見渡すと、私はよく「どうして」と問いかけます。

ガンで亡くなった友人もいたし、うつ病で自ら命を絶った親戚もいました。「良い人」(実のところ、私たち皆は罪人です)に悪いことが起こるのを見たこともあります。

だから、私は悲しみを知っています。痛みを知っています。そして、まだ理解できない疑問をたくさん抱えています。

でも、イエス様によれば、イエス様の御顔を見る日が来ます。その日、私は喜びに満たされ、イエス様に何も尋ねることはありません。

なぜでしょうか。もしかすると、その日、私は神様のご計画のすべてを知ることになるからかもしれません。

でも、もしかすると、その日、私はもう自分の疑問の解決を気にしなくなるかもしれません。なぜなら、私の目でイエス様を見るからです。そして、イエス様が私と共におられ、私の悲しみと痛みは洗い去られるからです。

とはいえ、今の時点でも、私は天の父にアクセスすることができます。私の願いを神様に委ねることができます。そして、天の父は私の願いを聞いてくださいます。私を愛してくださるからです。

そして、私の良いパパは知恵をもって、私が求めていることが良いと判断されるなら、それを与えてくださいます。(第一ヨハネ5:14ー15;マタイ6:11)

だから、私はイエス様のことばを固く信じます。

これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。

世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33)

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ペテロの手紙第二

この世界は永遠に続くことはないから

今日の箇所で、ペテロがはっきりと言っているのは、この世界が永遠に続くものではない、ということです。彼は次のように言いました。

しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。。。

その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。(ペテロの手紙第二3:10,12)

私たちは普段、このことについて考えることはないでしょう。むしろ、私たちは価値のないものに集中してしまいます。一時的なもの、快楽、仕事、お金などに執着し、人生を無駄にしてしまうことがあります。

しかし、最終的には、それらすべては燃えてしまうのです。その日、この地は消え去り、私たちの心は明らかにされ、神様の裁きに直面します。

だからこそ、ペテロは次のように言います。

このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。(11-12)

簡単に言えば、私たちは自分の優先順位を調整しなければなりません。この世のすべては滅びてしまうのですから、それらを追い求めるべきではありません。むしろ、神様とその御国を追い求めるべきです。

私たちは神様を喜ばせるように生きる必要があります。そして、毎日、神様の御国を広げるために働き、周りの人々に触れ、キリストの愛を分かち合わなければなりません。

では、「神の日の到来を早める」とはどういう意味でしょうか。どうやってその日を早めることができるのでしょうか。それは少し想像しづらいかもしれません。

それでも、私たちにはそれを行うことができます。なぜなら、神様が呼ばれる最後の人がイエス様を自分の主と救い主として受け入れると、教会の使命が完成されるからです。その日、神様はもう待つ必要がなくなり、イエス様を送ることができるのです。

けれども、神様と人間との和解をもたらす前に、私たちは自分自身が神様と和解されているかどうかを確認しなければなりません。そのために、ペテロは次のように言います。

ですから、愛する者たち。これらのことを待ち望んでいるのなら、しみも傷もない者として平安のうちに神に見出していただけるように努力しなさい。(14)

しかし、私たちは自分のために生きるなら、神様との平和を持つことはできません。また、神様の教えを曲げるなら、神様との平和を持つことはできません。

ある人々は、パウロの言葉やほかの聖句を曲げていたようです。けれども、それが彼らを滅びに導きました。(16)

多くの人々は、自分が気に入った聖句だけを受け入れます。けれども、神様の教えが気に入らなければ、その教えを無視したり、捨てたりしてしまいます。また、あえてその教えを完全に変えてしまう人もいます。

もし私たちがそのようなことをすれば、神様との平和を持つことはできません。私たちは、神様をありのままで受け入れなければなりません。神様を変えることはできないのです。

だから、ペテロは、神様のみ言葉を変える人々について、私たちに警告を与えています。

そして、ペテロはこの手紙の冒頭のように、その手紙を締め括ります。

私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。(18)

だから、イエス様とそのみ言葉を曲げるような教えを捨てましょう。むしろ、イエス様に近づき、イエス様から学ぶことを選びましょう。そうすれば、日々の中で、イエス様はますます大きく見えるようになるでしょう

そして、憐れみと平和が、あなたの人生に満ち溢れることでしょう。

イエス・キリストに栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。(18b)

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テサロニケ人への手紙第二

平和を見出すために

テサロニケ人への手紙第一5:23〜24で、パウロはこう語りました。

平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。

あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。(テサロニケ人への手紙第一5:23〜24)

そして、この手紙では、パウロは似たことを言いました。そして、パウロは第二の手紙の中でも、似たことばを語っています。

どうか、平和の主ご自身が、どんな時にも、どんな場合にも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。

どうか、主があなたがたすべてとともにいてくださいますように。(テサロニケ人への手紙第二3:16)

テサロニケの人々は、さまざまな問題に直面していました。迫害を受け、愛する者たちが殺され、その人々が死後どうなったのかと疑問に思ったのです。

さらに、偽教師たちが教会に入り、「イエス様はすでにこの世に戻られた」と教えたことで、彼らは主の再臨を見逃したと思い、混乱に陥りました。

加えて、怠け者たちも教会に入り込み、さまざまな問題を引き起こしました。

パウロはそうしたすべての問題に応答したあと、テサロニケの人々が神の平和を知るようにと祈りました。

試練のただ中での平和のために祈り、愛する者を亡くしたときにも、平安があるように祈り、そして最後には、イエス様が必ずもう一度来られると彼らが確信をもって知り、平和を持つことができるように祈ったのです。

どんな状況に直面していても、神様が望んでおられるのは、私たちが平和を持つことです。では、私たちはどのようにして平和を知ることができるのでしょうか。それは、神様との関係を通してです。

神様が私たちを御自分の子どもとして受け入れておられることを知っているからこそ、私たちは平安を持つことができます。また、神様が始められたことを必ず完成してくださるという確信も与えられています。

それだけではなく、私たちは、神様が私たちを完全に聖なる者としてくださることを知っています。つまり、いつの日か、私たちが完全にイエス様の姿を映し出すようになると信じているのです。

さらに、たとえ大きな試練の中にあっても、神様は私たちを見捨てておられないと知っています。そしてその試練は永遠には続かず、主は再び来られ、神の正義をもたらされます。この真理によって、私たちは平安を得ているのです。

最後に、私たちは自分の罪を言い表し、神様の力によってその罪を捨てるとき、平和を知ることができます。

あなたは平和を知りたいと願っていますか。平和は、最初から最後まで、神様から与えられるものです。言い換えれば、平和は神様ご自身のうちにこそあるのです。

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ピリピ人への手紙

神の平安に生き、人との関係に平和をもたらす

前回の記事でも触れましたが、この箇所においては、パウロの議論の流れを読み取るのが少し難しく感じられます。

特に、第5〜6節は、理解が難しい部分です。

「主は近いのです。」という言葉は、「あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。」という勧めに繋がっているのでしょうか。

それとも、「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」という命令に繋がっているのでしょうか。

あるいは、この三つの言葉はすべて互いに繋がっているのかもしれません。「主が近い」という真理は、私たちの心のうちにも、私たちの関係にも、平和をもたらします。

いずれにしても、パウロはこう語りました

主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ人への手紙4:5b-7)

多くの場合、私たちは心配に負けてしまいます。たとえば、ユウオディアとシンティケのように、人間関係に問題があるとき、心配に陥りやすくなります。でも、それだけではなく、仕事や子ども、将来のことなど、私たちの心配はさまざまです。

そのような不安に圧倒されてしまうのは、決して珍しいことではありません。

では、どうすればよいのでしょうか。

「主が近い」という真理を覚えていましょう。私たちが問題や心配のただ中にあるときにも、主がともにおられることを、心に留めていましょう。イエス様があなたを深く愛しておられることを、忘れないでください。

さらにもう一つの意味で、主は「近い」のです。つまり、主はまもなく再び来られます。

その日、イエス様はあなたの涙をすべてぬぐい取ってくださいます。悲しみも、苦しみも、悩みも、すべて消え去り、私たちは永遠の平安のうちに歩むようになるのです。言い換えれば、私たちのすべての苦しみは一時的なものに過ぎません。

だから、パウロが語ったように、「何も思い煩わないでください」。むしろ、問題や心配に直面するときこそ、あなたを愛しておられる神様に祈りましょう。そうすれば、神様の平和があなたの心と思いを守ってくださいます。」

原語で「守る」と訳されている言葉は、軍事的な用語です。私たちの思いの中は、まさに戦場です。しかし、神様はどんな敵よりも強い方です。

私はエリシャの出来事を思い出します。彼が敵の軍隊に包囲されたとき、エリシャのしもべは恐れていました。それを見て、エリシャは、「神様、彼の目を開いてください」と祈ります。すると、しもべが再び目を上げたとき、彼は天の万軍に満ちた山を見るのです(列王記第二6章)。

エリシャは、その現実を見ていたからこそ、心に平安を保っていました。

けれども、私たちが心配に心をとらわれ続けるなら、その平安を味わうことはできません。

また、苦々しさや恨みを抱くなら、心は平和に満たされません。

だから、パウロはこう勧めています

最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。(8)

そうすれば、私たちの心は平安に満たされ、神様は私たちの関係の中に平和をもたらしてくださいます。 人間関係に問題があるとき、私たちはしばしば相手の欠点に目を向け、彼らの過ちを思い巡らします。

しかし、パウロは「そのようなことに心を奪われてはならない」と語ります。

むしろ、パウロはこう勧めます── 「すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いこと、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。」

何よりも、イエス様に心を向けてください。なぜなら、これらのすべての徳はイエス様にこそ当てはまるからです。

苦しみの時こそ、イエス様とパウロの模範に従いましょう。

そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。(9)

あなたの心には、神様の平安がありますか。もしかすると、あなたの心は、心配にとらわれ続けていませんか。あるいは、苦々しさや恨みを手放すことができずにいませんか。

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ピリピ人への手紙

教会の一致を保つ(2)

パウロの議論の流れを読み取るのは、時に簡単ではありません。たとえば、第3節と第4節は、まったく異なる話題なのでしょうか?

あるいは、第3〜5節はひとつの流れの中にあるのでしょうか?

もしかすると、第3〜9節全体が繋がっているのかもしれません。

私にははっきりとはわかりませんが、おそらくパウロは、第4〜5節を書いたときも、まだユウオディアとシンティケのことを心に留めていたのではないかと思います。

そしてパウロは、こう語りました

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。(ピリピ人への手紙4:4-5)

要するに、こういうことです──

「神様に焦点を当てなさい。これまであなたがたは自分自身に焦点を当ててきたために、プライドを捨てられず、この争いを解決することができなかったのです。だから、今こそ改めて神様に焦点を当てなさい。

イエス様があなたのために何をしてくださったかを思い起こしなさい。イエス様の十字架の御業を、もう一度、喜びなさい。

そして、イエス様の御業のゆえに、相手に対するあなたの態度を変えなさい。あなたがたの関係の中で、あなたがたの寛容が教会のすべての人に知られるようにしなさい。」

そしてパウロは、こう語ります。「主は近いのです。」

私たちは兄弟姉妹と争っているときこそ、この真理を思い起こすべきです──「主は近いのです。」

では、それはどういう意味なのでしょうか。

1.イエス様は、教会のただ中におられます。だから、私たちが争っている姿をご覧になると、イエス様は悲しまれます。神様との平和をもたらすために、そして兄弟姉妹との平和をもたらすために、イエス様はご自身のいのちを十字架に捧げられたのです。

であれば、どうして私たちは、イエス様の御前で争い続けるのでしょうか。

2.イエス様は、やがて再び来られます。イエス様はこの世に戻られ、私たちを新しい天と新しい地へと導かれます。けれども、もしイエス様が今日来られたとしたら、あなたに何を語られるでしょうか。「よくやった。良い忠実なしもべだ」とおっしゃるでしょうか。

あるいは、こう語られるかもしれません。

「なぜ、兄弟と争い、時間を無駄にしていたのですか。なぜ、姉妹と争い、心を苦くしていたのですか。私はあなたに多くの働きを任せましたが、あなたの怒りと苦々しさは、あなたの人間関係をふさぎ、この世に仕える妨げとなってしまいました。」

私たちが主の御前に立つとき、プライドと争いによって、どれほど恥じることがあるでしょうか。

主は近いのです。だから、私たちの関係において、平和を保ち、一致のために励みましょう。

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エペソ人への手紙

教会の一致を守る

1〜3章で、パウロは「キリストにあって私たちは一つとされた」という真理を語っています。

モーセが受けたシナイ契約によって、ユダヤ人たちは異邦人たちと隔てられていましたが、イエス様の十字架によってその隔ての壁は打ち壊されました。こうして今、ユダヤ人も異邦人も、ただ一人のかしらであるキリストのもとに結び合わされているのです。

そしてその驚くべき一致の真理を語り終えたあと、パウロはこう言いました

さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。(エペソ人への手紙4:1)

言い換えるなら、「神様に召された教会として、その召しにふさわしく歩みなさい」ということです。

では、その召しとは何でしょうか。それは、キリストにあって一つの体となることです。そして、その体を通して、神様はご自身の知恵と栄光をこの世に現したいと願っておられます。

この手紙の残りの部分で、パウロは、私たちがどのように「キリストのからだ」として生きるべきかを教えています。つまり、キリストのからだとして、どのようにして神様の栄光と知恵を現していけるのでしょうか。

パウロは、こう語ります。

謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。(2-3)

「謙遜の限りを尽くしなさい。」

私にとって、これは決して簡単なことではありません。子どもの頃からクリスチャンとして育ち、さまざまなことを学んできた私にとって、プライドを抱くのは容易なことです。

でも実のところ、私はいまなお学びの途上にあり、失敗もすれば、罪を犯すこともある者です。だからこそ、周りの人々に接するとき、私は自分の弱さを心に留めていなければなりません。

他の人の失敗や罪を目にするとき、私は謙遜をもって、柔和な心をもって接するべきです。

さらに、神様が私に寛容を示してくださったように、私も他の人々に寛容を示すべきです。だからこそ、私は人々を軽蔑せず、彼らの失敗や弱さ、罪に対しても、憐れみの心で応じる者でありたいのです。

そしてパウロはこう語ります。「御霊による一致を、平和のきずなで熱心に保ちなさい。」

私たちは一つです。神様は私たちを一つの教会とされました。しかし、この一致を守るには、意識的な努力が求められます。私たちの罪深い性質のゆえに、この一致は簡単に壊れてしまうおそれがあるからです。

だからこそ、私たちは平和のきずなを大切にし、積極的にその一致を守り続けていかなければなりません。

私たちは、御霊による一致を熱心に保っているでしょうか。あるいは、兄弟姉妹の罪や過ちを見て、すぐに心の中で彼らを引き離してしまってはいないでしょうか。

このような問いかけの中で、パウロは私たちにもう一度思い起こさせてくれます。

あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです。

主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父である神はただひとりです。(4-6)

簡単に言えば、私たちは一つのからだです。同じ御霊が私たちのうちに住んでおられます。

イエス様にあって、私たちは同じ希望を持っています。私たちは同じ救い主に属し、同じ信仰を持ち、皆がイエス様の御名によってバプテスマを受けました。

私たちは同じ父に属しています。その父なる神は、すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父です。

それが真実なら、なぜ私たちは互いに引き裂き合おうとしているのでしょうか。

サタンは分裂した教会を見ると喜びます。分裂した教会には、神様の知恵と栄光をこの世に現す力がありません。

だからこそ、その分裂的な霊を捨て去りましょう。

神様は私たちを一つとされました。その一致を、熱心に保ち続けましょう。

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ヨハネの福音書 ヨハネ16章

平和と喜びを見つけるために

この箇所を読むと、弟子たちがイエス様の言葉に困惑していることが分かります。なぜなら、イエス様は去って行くと話されたからです。彼らはその言葉に囚われ、イエス様のほかの言葉がかすんでしまいました。

聖霊様の約束や、将来の祝福についてのイエス様の言葉に耳を傾けることなく、彼らは繰り返しこう思いました。「イエス様は去って行かれる。私たちはどうすればいいのか。」

だから、イエス様は彼らを励ますと同時に、警告を与えられました。

まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。

女は子を産むとき、苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。

あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。

そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。(ヨハネの福音書16:20-22)

イエス様の死と復活によって、その言葉は成就しました。

イエス様が十字架につけられたとき、敵は喜びましたが、弟子たちは絶望しました。けれども、よみがえられたイエス様を見たとき、彼らの悲しみは喜びに変わりました。

だから、彼らが迫害やさまざまな苦しみに直面しても、その喜びを奪うことができる者は誰もいませんでした。そして、その喜びを持って、彼らはこの世を変えたのです。

しかし、イエス様の言葉は私たちにも当てはまります。イエス様が再びこの世に来られるまで、私たちは多くの試練に直面します。今は、私たちの悲しみの時です。

パウロはこう書きました。

私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。

それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。(ローマ人への手紙8:22-23)

けれども、イエス様がこの世に戻られるとき、私たちは御顔を直接見て喜ぶでしょう。そして、私たちの喜びを奪うことのできる者は誰もいません。

とはいえ、イエス様が戻られるまで、十字架の御業によって、私たちは神様に近づくことができます。

だから、イエス様のみ名によって、私たちは天の父に何でも求めることができ、神様はそれを与えてくださいます。そして、私たちの喜びは満ち溢れるようになります。(ヨハネ 15:23-24; 26-27)

時々、私たちはイエス様の言葉の例外ばかりを強調しすぎてしまうことがあります。

もちろん、私たちの祈りは神様の御心に沿うものでなければなりません。

確かに、もし私たちが誤って蛇を求めてしまったなら、神様はそれを断る権利を持っておられます。

けれども、その例外に囚われすぎると、私たちは神様に何も願わなくなってしまいます。

しかし、天の父は、私たちにためらわずに願ってほしいのです。

どれほど私たちは祈らないために、神様の祝福を逃しているでしょうか。

どれほど私たちは心の願いを神様に求めないために、喜びを不完全なものにしているでしょうか。

だから、願い求めましょう。

パウロの言葉を心に留めてください。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。(ローマ人への手紙8:26-27)

時々、私たちは弱さのゆえに、何のために祈るべきか分からないことがあります。時には、誤ったことのために祈ってしまうことさえあります。けれども、そのようなとき、聖霊様が私たちのためにとりなし、私たちの益となるように祈ってくださいます。

だから、パウロはこう書きました。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8:28)

だから、この三つのことを覚えて、安心しましょう。

1.私たちの事情がどんなに悪くても、イエス様はこの世に戻り、すべてを癒してくださいます。

2.神様が私たちを愛しているので、私たちは何でも願い求めることができます。そして、聖霊様が私たちのためにとりなし、私たちに良いものだけを与えてくださいます。

3.神様はご自身の計画に従い、すべてのことを私たちの益となるように働かせてくださいます。

この三つの約束を心に留めるなら、イエス様の言葉はあなたの心により深く響くでしょう。

これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。

しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(33)

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ヨハネの福音書 ヨハネ14章

捨てられていない

最近まで、私の娘はよく私と妻の部屋に来て、私たちのベッドに登り、私たちの間で寝ていました。

私たちが「どうしてここに来たの?」と尋ねると、彼女は「寂しかった」と答えました。

おそらく、私たちは皆、寂しさを感じたことがあるでしょう。

イエス様が「わたしは去って行く」と言われたとき、弟子たちは同じように感じたに違いありません。けれども、イエス様は彼らにこう言われました。

そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。

世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。

わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。

しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。

その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。。。

だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。(ヨハネの福音書14:16-21,23)

イエス様の言葉から、私たちは三位一体を知ることができます。また、その言葉を通して、大切な真理を学ぶことができます。三位一体の神様は、私たちと共におられます。

イエス様が約束されたのは、もう一人の助け主、つまり御霊を送ってくださることです。そして、御霊は私たちを教え、イエス様の言葉を思い起こさせてくださいます。

さらに、イエス様はご自身が私たちのもとに来られると約束されました。イエス様は私たちを捨てて孤児にはなさいません。

最後に、イエス様は、天の父が私たちのもとに来て、共に住まわれると約束されました。

しかし、私たちが心に留めておくべきことがあります。私たちは神様の言葉に従わなければなりません。だから、前回の記事の教訓は非常に大切だと思います。

つまり、私たちは神様の言葉に従うほどに、神様を信じることができるでしょうかという問いかけです。だから、ヨハネの福音書14章の冒頭で、イエス様はこう言われました。

神を信じ、またわたしを信じなさい。(1)

神様を信じなければ、神様との関係を築くことはできません。

また、私たちは本当に神様を愛しているでしょうか。神様を喜ばせたいと願うほどに、神様を愛しているでしょうか。罪を避けたいと願うほどに、神様を愛しているでしょうか。

もし私たちが神様を信じ、愛し、従うなら、神様の臨在を深く知ることができます。だから、良いときも悪いときも、神様からの平安を経験することができるのです。

イエス様は弟子たちにこう言われました。

わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。

あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。(27)

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マタイの福音書 マタイ10章

人々を分かつ剣

イエス様が迫害について話をまとめられた言葉を聞くと、違和感を覚えるかもしれません。

わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。

なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。(マタイの福音書10:34-36)

イエス様は「平和の君」と呼ばれます。

なぜイエス様は「平和をもたらすためではなく、剣をもたらすために来た」と言われたのでしょうか。また、なぜイエス様は「剣のように家族を分かつ」と言われたのでしょうか。

もちろん、イエス様は平和の君です。そして、イエス様がこの世に再び戻り、すべてを治められるとき、真の平和が訪れるでしょう。とはいえ、その時はまだ来ていません。

だからこそ、イエス様は警告を繰り返されます。「もしあなたがイエス様に従うなら、あなたの家族でさえもあなたを拒絶するかもしれません。」

日本でも、私はそのような状況を目の当たりにしたことがあります。ある女性は本当に苦しんでいました。なぜなら、そのお父さんに「もしクリスチャンになりたいなら、この家から出て行け。お前はもう俺の娘ではない」と言われたからです。

イエス様に従うことで、家族間の争いが生じることもあります。その時、私たちはどうすれば良いのでしょうか。

信仰を保ちながら、その信仰を隠すべきでしょうか。一部の人はそのようにしましたが、嘘が発覚すると、状況はさらに悪化しました。その上で、イエス様は次のように言われました。

ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。

しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。(32-33)

もし、あなたが愛している人たちの前でイエス様を否定するなら、あなたは本当にイエス様を愛し、イエス様に従っていると言えるでしょうか。

もし一生を通じてイエス様を否定し続けるなら、果たして自分自身がクリスチャンだと胸を張って言えるでしょうか。

もちろん、私たちが弱さを抱える時もあります。ペテロにも弱さがありました。彼はその弱さから、イエス様を三度も否定してしまいました。

けれども、最終的にペテロは自分の信仰のために十字架につけられて命を捧げました。

イエス様は次のように言われました。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。(37-39)

要するに、あなたにとってイエス様は何よりも大切な存在であるべきです。たとえどんなに苦しみを経験しても、イエス様をすべてのものよりも優先しなければなりません。

もし家族の平和を守るためにイエス様を否定するなら、最終的にその家族は地獄に行くことになるでしょう。

しかし、キリストのためにその家族の平和を手放すなら、もしかすると、いつの日か彼らがイエス様に従うようになるかもしれません。

この教えを実践することは簡単ではありません。

けれども、覚えておいてください。もし家族があなたを拒絶するとしても、あなたにはもう一つの家族があります。あなたが苦しむとき、その家族はあなたを愛し、支えてくれるでしょう。なぜなら、教会はただの建物ではなく、神の家族そのものだからです。

だからこそ、家族の平和を守るためにあなたの信仰を否定してはいけません。そしてイエス様を否定しないでください。むしろ、イエス様を他の何よりも優先しましょう。そうすれば、本当の平和を見つけることができます。

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箴言

周りの人々との平和、心の中の平和

この箇所を読むと、次の三つの箴言が私の心に響きます。

罪過のためのいけにえは愚か者をあざけり、正しい者の間には恩恵がある。(箴言14:9)

時々、私のブログを日本語に翻訳するのは難しいです。なぜなら、時々新改訳と英語の翻訳は違うからです。一つの単語にはいろんな意味があり、ヘブル語の文法は英語と日本語の文法と違うからです。

この箇所は一つの例です。

多分、文法的に、日本語の方が正しいでしょう。とはいえ、その意味はちょっと分かりにくいです。

新改訳が正しいなら、多分その意味は、愚か者が自分の罪を思い出すと、彼らは罪悪感があって、苦しむということです。

けれども、多くの英語の聖書では、この箇所はこのように翻訳されています。

愚か者は過去のためのいけにえをあざけり、正しい者の間には恩恵がある。

つまり、愚か者には罪悪感がありません。誰かが彼らに「あなたは罪を犯しました。あなたは悔い改めて、神様にいけにえを捧げるべきです」と言っても、彼らは全然悔い改める気がありません。

けれども、悔い改める人は相手と和解することができます。

私たちはただの人間です。私たちは皆、意図せずに人を傷つけることがあります。多くの場合、あなたが謝ったら、その人と和解できます。しかし、時々謝罪するだけでは足りないこともあります。

例えば、自分の子供と遊ぶと約束したけれど、急用のためにできなかった場合、もちろん謝った方が良いですが、後で、予定を空けて、彼らと遊ぶべきです。正しい人はそのようなことをします。

その一方で、愚か者、つまり、道徳観念のない人は、謝らないし、償いをするのを拒絶します。むしろ、彼らは償いをする必要がないと言い張ります。「相手が気にしすぎだ」と言います。

けれども、周りの人々と平和を望むなら、償いをしなくてはならないのです。

22節では、ソロモンはこう書きます。

悪をたくらむ者は迷い出るではないか。善を計る者には恵みとまことがある。(22)

もちろん、悪をたくらむ人は人間関係を壊します。けれども、私たちが意識して周りの人々を祝福するなら、その関係から恵みと真が生まれます。私たちが相手に親切にするなら、彼らも私たちに親切にしてくれます。

どれくらい、あなたは意識して友達を祝福するでしょうか。どれくらい、あなたの妻や夫を祝福するでしょうか。

例えば、あなたはどれくらい外食に行く時に友達におごったり、あなたの妻にバラを買ってあげたり、そのようなことをするでしょうか。

もちろん、周りの人々との平和は大切なことです。しかし、自分の心の中で平和があることも大事なことです。それに関して、ソロモンはこう言います。

穏やかな心は、からだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ。(30)

この箇所も、翻訳は少し難しいです。新改訳では「激しい」と書いてありますが、別の意味として「嫉妬」があります。

だから、ある英語の聖書はこう書いてあります。

嫉妬は骨をむしばむ。

あなたは満足でしょうか。周りの人々のものを見る時、ねたむことはありますか。彼らの仕事や持ち物、妻や夫を見る時、ねたむことはありますか。

嫉妬すると、骨をむしばみます。決して幸せを得ることはできません。なぜなら、良いものを持っていても、それに感謝できないからです。常に相手のものを見ているからです。

しかし、あなたが満足していれば、平和があり、神様からの賜物を楽しむことができます。

あなたはどうですか。周りの人々と平和がありますか。心の中で平和がありますか。

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詩篇

神様を信頼するとき

詩篇146篇では、神様が私たちの信頼にふさわしい方であることが示されています。この詩篇は、神様に信頼することの結果を私たちに教えています。

イスラエルの民は長い間神様に背き、信頼することを怠ってきました。むしろ、自分自身や偽りの神々、周囲の国々に頼っていたのです。その結果、国は崩れてしまいました。

しかし、エズラ、ネヘミヤ、ハガイ、ゼカリヤのリーダーシップのもとで、彼らは再び神様に立ち返り始めました。こうして、癒しのプロセスが始まったのです。

向かい始めました。だから、癒しのプロセスが始まりました。

詩人はこう書きました。

主はエルサレムを建てイスラエルの追い散らされた者を集める。

主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む。(詩篇147:2-3)

そして、詩人はイスラエルの民に、神様の偉大さを思い起こさせました。また、なぜ神様が私たちの賛美にふさわしい方であるのかを思い起こさせます。それは、神様がすべてのものを造り、支えておられるからです。(5–9)

また、詩人はイスラエルの民に、神様が人間や動物の力に心を動かされることはないと教えています。むしろ、

主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。(11)

だから、詩人はイスラエル人を励まします。

「あなたの人生において、神様をほめたたえましょう。神様が私たちの門を強め、私たちを祝福し、平和を与え、必要を満たしてくださることを心に留めておきましょう。」

そして、詩人は彼らに、神様がほかの国々にはご自身を現さず、イスラエルにだけご自身を現して祝福してくださったことを思い起こさせます。

しかし、ヘブル人への手紙の著者によれば、神様は預言者たちだけを通してご自分を現されませんでした。今はイエス様を通して、神様はご自分を現してくださいます。だから、私たち皆はイエス様を通して、神様に近づくことができます。

また、神様はイエス様にあって人間となられたので、私たちをよく理解でき、私たちに対して情け深いです。

だから、その確信を持って、神様に近づきましょう。私たちは神様を信頼しましょう。そうすれば、癒しと祝福、そして平和を見いだすことができます。

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詩篇

勝利を与えてくださる神

多分、戦いの前に、ダビデは詩篇144篇を書いたでしょう。けれども、興味深いことは、ダビデがこの詩篇を賛美の言葉で始めたことです。

大変な状況に直面するとき、私たちは普段最初に、「神様、助けてください」と祈ります。しかし、ダビデはこう歌いました。

ほむべきかな。わが岩である主。主は、戦いのために私の手を、いくさのために私の指を、鍛えられる。(詩篇144:1)

私はこの歌を読むと、ヨシャパテの話を思い出します。彼が戦うとき、兵士たちの前に歌手たちを送りました。そして、彼らはこう歌いました。

主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。(歴代誌第二20:21)

この詩篇にも、ダビデは戦うときに、神様に対する信仰を言い表しました。自分の軍隊や盾に頼らずに、神様に頼りました。彼はこう歌いました。

主は私の恵み、私のとりで。私のやぐら、私を救う方。私の盾、私の身の避け所。私の民を私に服させる方。(詩篇144:2)

そして、8篇のように、ダビデはどうして神様が彼を愛しているのかを思い、驚きました。

彼は神様の愛を確信し、神様が戦いの中で彼を助けてくださることを願いました。また、神様が彼を敵から救い、彼の民に平安と繁栄をもたらしてくださるように祈りました。

そして、彼はこう歌って、この詩篇を終えました。

幸いなことよ。このようになる民は。幸いなことよ。主をおのれの神とするその民は。(15)

あなたはどんな戦いに直面しているでしょうか。職場や学校や家庭でも、戦いがあるかもしれません。

一日の始まりに心配事を考えず、まず神様を賛美しましょう。神様があなたを愛していることを覚え、その知識に安心しましょう。

もし、あなたの周りに争いがあれば、神様の平和があなたを通して流れるように祈りましょう。

そして、その戦いがあなたに対しても、周りの人々に対しても、さらに敵に対しても、祝福となるように祈りましょう。

なぜなら、私たちの敵は本当の敵ではないからです。イエス様は彼らのためにも死んでくださったのです。

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詩篇

私たちと共におられる神

詩篇61篇で、ダビデはもう一度敵から逃げています。この詩篇を書いた時、ダビデはすでにイスラエルの王でした。

多分、この詩篇の背景にはアブサロムのクーデターがあるでしょう。アブサロムはダビデの王座を奪い、ダビデを追放しました。

だからダビデは叫びました。

神よ。私の叫びを聞き、私の祈りを心に留めてください。

私の心が衰え果てるとき、私は地の果てから、あなたに呼ばわります。(詩篇61:1-2)

「私は地の果てから、あなたに呼ばわります」という言葉は私の心を打ちます。ダビデは自分の家から遠く離れていて、ダビデが愛した神様の幕屋からも遠かったのです。

けれども、ダビデがどこにいても、神様が彼の声を聞いてくださることを知っていました。だから、ダビデは自分の苦しみの中で神様に叫びました。

どうか、私の及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください。

まことに、あなたは私の避け所、敵に対して強いやぐらです。

私は、あなたの幕屋に、いつまでも住み、御翼の陰に、身を避けたいのです。(2b-4)

言い換えれば、「あなたにあって、私は安心します。あなたを慕い求めるけど、あなたは遠く離れるようです。私をあなたのところに導いてください」ということです。

私たちはどれほどダビデのように感じるでしょうか。私たちは、神様に捨てられたと思うことがあります。神様にあって休みたいけど、神様は遠く離れているように感じます。

時々、私たちはダビデのように誓いをします。「私を助けてくだされば、私はこうします。」

その誓いをすれば、守らなくてはなりません。しかし、そんな誓いは要りません。神様からの私たちの遺産は恵みによって受けるのです。その遺産は、神様を愛し恐れる人のものです。

それは、困難の中の平和と希望の遺産です。

それは、神様が私たちを自分の子供と呼ぶ遺産です。

それは、神様が私たちの叫びに応える遺産です。

それは、いつか私たちがキリストとともに治める遺産です。(第二テモテ2:12)

だから困るとき、また神様が遠く離れると思うとき、その遺産を思い出しましょう。

私たちが想像するよりも、神様は近いです。

神様は聖霊によって、私たちを及びがたいほど高い岩の上に導いてくださいます。その高いところから、私たちのトラブルは小さく見えます。

その時、ダビデのように私たちは神様の御名をとこしえまでもほめ歌います。(8)

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詩篇

私たちの周りにカオスがある時

カオス。

子供が叫んだり、夫が病気だったり、締め切りがあったり、八方からプレッシャーがかけられたりします。

そんな経験をしたことがあるでしょうか。

誰しも人生の混乱を経験します。時々、全世界が私たちの上に落ちてくるように感じます。

また、ニュースを見ると、戦争の話や天災の話をよく聞きます。

だから、神様がだんだん見えなくなって、パニックになってしまいます。そして嵐にいたペテロのように、私たちは溺れ始めます。

詩人の言う解決策は何でしょうか。

やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。(詩篇46:10)

つまり、ちょっと止まってください。あなたの状況を見るのを止めて、少し神様を仰いでください。あなたの問題の大きさについて考えずに、神様の大きさについて考えてください。

そうすれば、何が分かるようになるでしょうか。

神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。

それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。

たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。(詩篇46:1-3)

私たちが見回ったら、

国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。(6)

しかし、

万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。(7,11)

私たちが自分の問題に焦点を当てると、神様がすべてのことをコントロールしていることを忘れてしまいがちです。神様の力はすべての問題を乗り越えます。

神様が声をかければ、この世は解けるでしょう。神様が「終わり」と言われれば、すべての戦争が終わり、すべての人々が裁かれます。

だから、主の前に静まりましょう。恐れを静め、疑問を止めましょう。そして、神様の大きさを見てください。

神様は私たちの中におられ、私たちは倒れることがありません。神様が私たちを助けてくださることを信じましょう。

神様の御霊は川のように私たちの中で流れ、私たちの人生の中で働いて、私たちを通して周りの人々に触れてくださいます。

だから、あなたはどんな問題に直面しても、神様の喜びと平和を知ることができます。

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詩篇

平和

この混迷の世にあっては、平和を見つけるのが難しい時もあります。特に、皆があなたに反対している時には、平和を見つけるのは一層難しくなります。

サウルやアブサロムがダビデを攻めた時、ダビデもそのように感じたと思います。

だからこそ、ダビデは神様に向かって叫びました。

私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神。あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。

人の子たちよ。いつまでわたしの栄光をはずかしめ、むなしいものを愛し、まやかしものを慕い求めるのか。(詩篇4:1-2)

ダビデの苦しみの中で、周りの人々はダビデの信仰をからかっていたかもしれません。「神様はあなたを救えない。神様は本当に存在しているのだろうか。」

現代でも、人々は同じようなことを言います。彼らは偽りの神々を礼拝し、お金の「神」や、セックスの「神」や、力の「神」を追い求めます。

だからこそ、私たちが問題に直面する時、彼らは私たちが神様に従うことをからかいます。

けれども、ダビデはその敵にこう言いました。

知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。(3)

つまり、「あなたは私の信仰をからかうかもしれないけど、私は神様のものです。結局、あなたはそのことを知ります。神様は私の祈りに応えてくださるから。」

そして、自分自身に、また苦しんでいる私たちにこう言います。

恐れおののけ。そして罪を犯すな。床の上で自分の心に語り、静まれ。(4)

私たちが怒ることは悪いことではありません。イエス様も怒ったことがあります。

しかし、怒るときには、罪を犯さないようにする必要があります。

そのため、神様の前に静まり、自分の心を探り、自分の態度を見直すべきです。そして、神様が私たちの心を汚すものを清めてくださるように祈るべきです。

特に、苦々しい思いに気を付けなければなりません。私たちが苦々しい思いを持ち続けると、その苦々しい思いは、がんのように私たちの人生に広がるからです。

だからこそ、神様がその苦々しい思いを取り去ってくださるように祈るべきです。

そしてダビデはこう言いました。

義のいけにえをささげ、主に拠り頼め。(5)

イエス様によれば、義のいけにえを捧げたいなら、健康な人間関係を保つべきです。イエス様はこう言われました。

だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。

それから、来て、その供え物をささげなさい。(マタイ5:23-24)

時々、人々が私たちを傷つけ、私たちが仲直りしようとしても、彼らが傷つけ続けることがあります。その場合、私たちは神様がふさわしい時にその人を扱ってくださると信頼すべきです。私たちは復讐してはいけません。

それでも、できるだけ、その人から距離を保つ方が良いです。

サウルがダビデを殺そうと思った時、ダビデはサウルから逃げました。けれども、ダビデのように、その人に対して苦々しい思いを持たないようにしましょう。むしろ、神様に信頼し、その状況とその人を神様の手に委ねるべきです。

そして、苦しむ時、神様の愛と慈しみを疑わないでください。むしろ、ダビデのように、こう祈りましょう。

どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください。(6)

言い換えるなら、「主よ。私に向かってください。あなたが私とともにおられることを現してください。また、私たちに対するあなたの愛を現してください。なぜなら、あなたの光が私を照らす時、私の周りのものは、ただ陰になるから。」

その態度を取れば、神様の喜びはあなたを満たし、あなたはダビデのように言うでしょう。

平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。(8)

あなたはどうですか。神様の平和を知っているでしょうか。

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イザヤ書

平和へと導く道

神様は、反抗したイスラエルの民を叱った後、へりくだっている人々に憐れみを注がれました。そして、神様はこう言われました。

盛り上げよ。土を盛り上げて、道を整えよ。わたしの民の道から、つまずきを取り除け。(イザヤ書57:14)

この箇所では、神様は追放されたイスラエルの民がバビロンから帰還することを預言しています。それゆえ、神様はこう言われました。

「私の民の帰還のために道を整えよ。つまずきを取り除きなさい。」

そして、神様はクロス王の心を動かし、彼がイスラエルの民を自分の国に帰らせました。

しかし、この預言には二つ目の意味もあるのではないでしょうか。つまり、イスラエルの民が神様のもとに帰る道にもつまずきがありました。そして、神様ご自身がそのつまずきを取り除かれたのです。

神様は、私たちが義人になるのを待たれていたのではありません。それどころか、その前にイエス様をこの世に送り、イエス様が私たちの罪のために十字架で死なれました。

その働きによって、私たちは赦され、神様との関係が回復されたのです。

では、私たちはどうすればよいのでしょうか。へりくだって悔い改めましょう。そうすれば、神様は私たちにこう言われます。

いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。

「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。

わたしはいつまでも争わず、いつも怒ってはいない。わたしから出る霊と、わたしが造ったたましいが衰え果てるから。

彼のむさぼりの罪のために、わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。しかし、彼はなおそむいて、自分の思う道を行った。

わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、慰めを報いよう。

わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう」と主は仰せられる。(イザヤ書57:15-19)

わたしはいつまでも争わず、いつも怒ってはいない。

私はその言葉が大好きです。多くの人々は神様を恐れ、罪を犯すと神様からの罰を待っています。

しかし、悔い改めるならば、神様はすぐに赦してくださいます。神様は私たちを義の道に導き、慰め、そして私たちの傷を癒してくださいます。その結果は――

平和です。

それでも、多くの人々は自分の道の虚しさに気づきません。そのため、彼らは自分の心を頑なにし、悔い改めることなく、自分の道を歩み続けます。

神様はそのような人々について、こう言われます。

しかし悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水が海草と泥を吐き出すからである。

「悪者どもには平安がない」と私の神は仰せられる。(20-21)

あなたはどうでしょうか。あなたの心には平和がありますか。神様があなたの罪を赦してくださった平和を持っていますか。神様がもうあなたに対して怒っておられないことを、本当に知っていますか。

へりくだった心の平和を経験したことがありますか。悔い改めた心の平和を味わったことがありますか。あなたは自分自身の道を離れ、神様の道を歩んでいますか。それは平和へと導く道です。

あなたは、どの道を選びますか。

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イザヤ書

平和の道

私たちはしばしば平和を探しますが、見つけることができず、「どうして」と問いかけます。

イスラエルの民も同じでした。けれども、17-18節で神様は彼らに答えられます。

あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。

あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようになるであろうに。(イザヤ書48:17-18)

日本語の翻訳では「しあわせ」と書かれていますが、別の翻訳では「平和」と訳されています。

英語の翻訳では「平和」と表現されています。つまり、神様は平和の青写真を持っておられます。

それは当然のことだと思います。神様は人間を造られました。私たちをデザインされ、私たちの人生がどのように上手くいくかを完全にご存じです。

だからこそ、私たちが神様に従うなら、平和を見出し、私たちの人生は上手くいくのです。

しかし、多くの人々は神様とその言葉に従うと言いながらも、実際にはその言葉を無視して、自分の道を進みます。イスラエルの民もそのような人々でした。

それゆえ、神様はこう言われました。

これを聞け。ヤコブの家よ。あなたはイスラエルの名で呼ばれ、ユダの源から出て、主の御名によって誓い、イスラエルの神を呼び求めるが、誠実をもってせず、また正義をもってしない。

確かに彼らは聖なる都の名を名のり、イスラエルの神――その名は万軍の主――に寄りかかっている。(イザヤ書48:1-2)

イスラエルの民は、神様に従うと言っていました。神様の御名によって誓い、神様を呼び求めました。「あなたは私たちの神です」と告白していました。

けれども、彼らの態度や行動は、彼らの心の本当の姿を明らかにしていました。

だから、神様はこう言われました。

あなたがかたくなであり、首筋は鉄の腱、額は青銅だと知っている。。。

あなたは聞いたこともなく、知っていたこともない。ずっと前から、あなたの耳は開かれていなかった。

わたしは、あなたがきっと裏切ること、母の胎内にいる時からそむく者と呼ばれていることを、知っていたからだ。(4、8)

それは厳しい言葉です。けれども、神様は私たちについてこのように言われるでしょうか。私たちは神様とその御言葉に対して心を堅くしているでしょうか。神様の御言葉を拒絶しているでしょうか。

私たちはしばしば、「どうして私の人生はめちゃくちゃになっているのだろうか」と考えます。

「どうして私の結婚は上手くいかないのだろうか。どうして他の人間関係が上手くいかないのだろうか。どうして私のキャリアは上手くいかないのだろうか。」

しかし、私たちは神様の御言葉を読むと、それを無視します。そして、「従っても、私の問題は解決しない」と言い、「難しすぎる」とも言います。

そのため、私たちは自分の道を行き続けます。

その結果はどうなるでしょうか?

「悪者どもには平安がない」と主は仰せられる。(22)

私たちが神様に従うなら、私たちの人生はどれほど良くなるでしょうか。聖書の青写真に従うなら、私たちの人生はどれだけ豊かになるでしょうか。

あなたはどうでしょうか。平和がないと感じていますか。

自分の知恵に頼るのをやめ、堅い心を柔らかくしてください。神様の道を求めてみてください。そうすれば、あなたの魂には平和の川が流れ始めます。

あなたは、どのように応えるでしょうか。

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ミカ書

平和を与える方

平和。

あなたは平和を得るために、どれほどの代価を払うつもりですか。ミカの時代、多くのイスラエル人がそのように考えていたかもしれません。

現代でも、多くのユダヤ人が同じように考えているかもしれません。

この箇所では、ミカはエルサレムの崩壊について預言しました。その日、ユダの王が打たれ、倒れます。

とはいえ、ミカが伝えたのは、それがイスラエルの終わりではないということです。むしろ、ミカはこう言いました。

ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。(ミカ書5:2)

もちろん、これはイエス様についての預言です。ヘロデ王がメシアがどこから来るのかを尋ねたとき、祭司たちと律法学者たちはこの箇所を引用しました。(マタイ2:6)

ミカはイエス様についてこう預言しました。

彼は立って、主の力と、彼の神、主の御名の威光によって群れを飼い、彼らは安らかに住まう。今や、彼の威力が地の果てまで及ぶからだ。(5:4)

5節では、英語の翻訳と新改訳は少し異なります。実は、この箇所では、日本語のリビングバイブルと英語の翻訳が一致しています。このように書かれています。

その方は私 たちの平和となる。(5)

ミカ時代のイスラエル人は、この言葉を聞いて慰めを受けたかもしれません。なぜなら、彼らは長い間トラブルを経験してきましたが、平和を与える方が来るという希望があったからです。

皮肉なことに、イエス様は来られました。しかし、イスラエル人は平和を与える方を受け入れず、十字架につけてしまいました。

今でも、人々はあまり変わっていません。

どれほど私たちは、恐れと痛みと戦っているでしょうか。どれほど私たちは、平和を望んでいるでしょうか。それにもかかわらず、私たちは平和を与える方を拒絶します。私たちは、自分の心の王座をイエス様に捧げることを拒否するのです。

ある日、イエス様は再びこの世に戻られます。その日、イエス様はこの世を治め、すべての人々が平安のうちに住むようになります。

しかし、もし私たちが今、自分の心の王座をイエス様に捧げるなら、どんなトラブルがあったとしても平和を得ることができます。たとえ周りに多くの苦しみがあったとしても、私たちの魂は平安を保つのです。

2000年前、イエス様がエルサレムのために泣かれたように、イエス様は私たちのために涙を流されます。イエス様はこう言われました。

ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。(ルカ13:34)

それで、エルサレムはどうなりましたか。

見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。(ルカ13:35)

今でも、その結果は変わりません。もしイエス様に背を向けるなら、私たちの人生は荒れ果てたままとなり、希望や平和を全く知らないままとなってしまいます。

あなたはどうでしょうか。希望がないと感じていますか。人生に意味がないと感じていますか。平和がないと感じていますか。その解決は、2000年が経っても変わることはありません。それはイエス様です。

イエス様はあなたを抱きしめ、あなたに平和と希望、そして人生の本当の意味を与えたいと願っておられます。

あなたの人生をイエス様に捧げてみませんか。

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ミカ書

永遠までじゃない

多分、世界で一番戦争を嫌う国は日本ではないでしょうか。もし日本人にインタビューをしたら、彼らが他の先進国の民よりも戦争に対して嫌悪感を持っていると感じるでしょう。なぜなら、自分たちの目で戦争がどれほど恐ろしいものかを見たことがあるからです。

残念なことに、多くの国々はそのようには感じていません。

長い間、私たちは冷戦を経験しました。その時代、人々は核戦争が起こることを恐れていました。

今では少し状況が改善されていますが、人間が国々を治め続ける限り、戦争は決してなくならないでしょう。なぜなら、人々は常に持っていないものを求めたり、さらなる力を欲しがったりするため、本当に酷いことをし続けるからです。

とはいえ、この状態が永遠に続くわけではありません。ある日、神様が神様に背く人々からその力を取り去り、全世界の王となられるのです。そして、サタンとその民は裁かれ、その日から、この世には正義と平和が訪れます。

ミカはこのように書きました。

終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、国々の民はそこに流れて来る。。。

主は多くの国々の民の間をさばき、遠く離れた強い国々に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。

彼らはみな、おのおの自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下にすわり、彼らを脅かす者はいない。まことに、万軍の主の御口が告げられる。(ミカ書4:3-4)

その日が来る前に、私たちは自分自身にとって非常に重要な質問をしなければなりません。「私たちは誰の味方なのだろうか。」

もし私たちが神様の味方であるならば、その日が来たとき、ついに平和を知ることができます。しかし、もし神様の味方でないならば、あなたにとっては裁きしか残されていません。

ですから、今こそ神様を求めましょう。裁きの日を待つのではなく、今、この瞬間に応えましょう。

さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。(2)

また、

まことに、すべての国々の民は、おのおの自分の神の名によって歩む。しかし、私たちは、世々限りなく、私たちの神、主の御名によって歩もう。(5)

あなたは誰の味方でしょうか。