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コロサイ人への手紙のデボーション

イエス様にしっかり結びつく

かしらにしっかり結びつくことをしません。このかしらがもとになって、からだ全体は節々と筋によって支えられ、つなぎ合わされ、神に育てられて成長していくのです。(コロサイ人への手紙2:19)

「かしらにしっかり結びつくことをしません。」

私はそのことばに心を打たれました。

私はイエス様にしっかりと結びついていたいと願います。

しかし、私は、イエス様に受け入れていただくために、単にルールを守ろうとしているわけではありません。(20~23節)

私はすでに受け入れられています。十字架によって、私の債務証書は無効にされました。(14節)

むしろ、イエス様と結びつくために、私は三つのことを自分に思い起こさせています。それは、

  • イエス様は良いお方です。
  • イエス様はすでに私を愛し、受け入れてくださっています。
  • イエス様は私の最善をご存じで、それを望んでおられます。

だから私は毎日毎日、一瞬一瞬、感謝を込めて、私の主を信頼し、従う道を選び取ります。

このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。キリストのうちに根ざし、建てられ、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。(コロサイ人へ手紙2:6-7)

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ルカの福音書のデボーション

ただ一緒に歩いている?本当に従っている?

さて、大勢の群衆がイエスと一緒に歩いていたが、イエスは振り向いて彼らに言われた。

「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。(ルカの福音書14:25ー27)

イエス様の言葉は厳しく聞こえるかもしれません。しかし、イエス様は彼らに基本的にこう尋ねられていたのです。

「あなたがたは私の国に参加することを本当に望み、心から従っているのですか。それとも、ただ私と一緒に歩いているだけなのですか。」

これは、語られた例え話の一つの要点でした。ある人々は、最初は宴会に参加する意欲を示したものの、最終的には他のものを優先しました。(その宴会は神の国を象徴していました)。(16ー20節)

真の弟子とただ一緒に歩いているだけの人の違いは何でしょうか。

真の弟子たちは、イエス様とその御国を家族、財産、さらには自分の人生さえも上回るほど大切にし、心からイエス様を愛しています。

もちろん、イエス様は私たちに、自分の家族を文字通り憎むことや、すべての持ち物を手放すことを求めておられるわけではありません。

しかし、イエス様はこう問いかけておられます。「あなたにとって、私はどのような価値を持っていますか?私をすべてのものよりも優先しますか?」

イエス様は、すべてを犠牲にするほど私たちを愛しておられました。私たちはそのようにイエス様を大切にしているでしょうか。

イエス様が良い王であり、イエス様に従うことで最終的に命を失うどころか、命を得ることを本当に信じているでしょうか。

Love so amazing, so divine,
驚くほど素晴らしく、神聖な愛は、
Demands my soul, my life, my all.
私の魂、命、そしてすべてを本当に呼び求めます。

O the wonderful cross
ああ、素晴らしい十字架よ
Bids me come and die that I may truly live.
私が来て死ぬように、そして豊かに生きるように招かれています。

–アイザック・ワッツ、クリス・トムリン

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ルカの福音書のデボーション

弟子とは

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。(ルカの福音書9:23)

今朝、イエス様の御言葉を反芻していました。その御言葉を言い換えるなら、

わたしの弟子になりたいと思うなら(実際、すべてのクリスチャンは弟子です):

1. 自分中心に生きることをやめなさい。「私の人生」という考え方を手放しなさい。

2. むしろ、毎日すべてを天の父に明け渡しなさい。すべてを捧げ、すべてにおいて従いなさい。(ピリピ2:8)

3. 毎日毎日、一瞬一瞬わたしと共に歩みなさい。わたしから学び、わたしの働きに参加しなさい。御父の良い統治のもとへ人々を招きなさい。

イエス様の言葉を考えると、「日々」という言葉が私の心に響きました。クリスチャン生活は、一週間に一度だけのものではなく、日々のものです。

さらに、イエス様だけではなく、天の父も私たちがイエス様の弟子となるように呼んでおられます。

これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け。(ルカ9:35)

だから、今日私はこのように祈りました。

イエス様、あなたは私の良い王です。どうか、私が毎日あなたに従い、あなたの弟子として生きることができますように導いてください。

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申命記のデボーション

イエス様に聞き従わなければなりません!

あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。

あなたがたはその人に聞き従わなければならない。(申命記18:15)

ペテロによれば、モーセはイエス様を指していました。(使徒の働き3:19-26)

もしかすると、ペテロは自分、ヤコブ、ヨハネに対する天の父の戒めを思い出していたのかもしれません。

これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。(マルコ9:7)

正直に言うと、私はまだイエス様の言われることに耳を傾けることを学んでいる途中です。

しかし、キリストの弟子として、私たちはこの世の流れに単に従うべきではありません。

モーセもイスラエル人たちに同じような警告を与えました。(申命記18:9-14)

むしろ、私たちはイエス様に聞き従わなければなりません。

日々の生活で決断をするとき、あなたは誰に聞き従っていますか。

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テサロニケ人への手紙第二のデボーション

模範になるなんて、私が?

どのように私たちを見習うべきか、あなたがた自身が知っているのです。。。

あなたがたが私たちを見習うように、身をもって模範を示す。。。(テサロニケ人への手紙第二3:7、9)

今朝、私はその言葉に心を打たれました。

パウロの言葉はとても大胆です。「どのように私たちを見習うべきか、あなたがた自身が知っているのです。」

正直に言うと、私はそんな大胆さを持っていません。

なぜなら、私は自分の欠点をよく知っているからです。まだ成長しなければならない部分が、私にははっきりと見えています。

いったいどうして、人々が私の真似をしたがるのでしょうか。

それでも、神様は私たち皆に弟子を作るよう命じておられます。牧師や教会のリーダーだけでなく、すべての信者に対して、周囲の人々が見習うべき模範を示すよう求めておられるのです。

模範となるとは、周囲の人々が私たちの長所を見て見習うだけでなく、私たちが自分の欠点や罪を克服しようとしている姿を見るということです。

さらに、彼らが見るべきなのは、私たちが罪や欠点のために罪悪感にさいなまれている姿ではなく、むしろ、毎日毎日、一瞬一瞬、神様の恵みによって歩み、神の子供であるという確信を持って生きている姿なのです。

天のお父さん、私は、人々が見習いたいと思うような人間になりたいです。いろんな意味で、私はふさわしくないと感じています。

でも、人々が私を見るとき、彼らが真似したいと思うような私の長所を見るだけでなく、私が自分の欠点や罪を克服しようとしている姿を通して、私が毎日歩んでいるあなたの恵みを見ることができますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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マタイの福音書のデボーション

賜物を受ける心、大変さを恐れる心

イエスは答えられた。「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から「男と女に彼らを創造され」ました。

そして、「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」と言われました。

ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。

そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません」。。。

弟子たちはイエスに言った。「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです。」(マタイの福音書19:4ー6,10)

我々クリスチャンたちの考え方は、ときどき驚くべきものです。

神様は、私たちに良い賜物を与えたいと願っておられます。でも、私たちは「しなければならない」ということに拘ってしまいます。

神様は、結婚を私たちに賜物と祝福として与えてくださいます。けれども、弟子たちはその賜物を喜ばず、「えっ?妻とずっといなければならないのか」と考えてしまいました。

そのあと、イエス様は青年に、ご自分の弟子になる機会を与えてくださいました。真のいのちを知る機会を与えてくださいました。

しかし、その青年は、「えっ?私のものをすべて貧しい者に与えなくてはならないのか」と思っただけでした。(マタイの福音書19:21ー22)

どうして私たちは、すぐにそのようなことを考えてしまうのでしょうか。

神様は、私たちにこう語っておられます。「私があなたにどれだけ喜びを与えたいのか、知らないの?その賜物がどれほど良いものか、分からないの?」

天のお父さん、あなたは良い神です。私の堅くて愚かな心を赦してください。

「しなければならない」という考え方を捨てるように、私を助けてください。あなたが私に与えてくださる良い賜物を、喜んで抱く心を持ちたいです。

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マタイの福音書のデボーション

弟子?群衆の一人?

その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。(マタイの福音書5:1)

なぜか、私はいつも、イエス様が群衆に教えるために山に登られたと思っていました。でも、実際は、イエス様は群衆から離れようとされたのかもしれません。イエス様が山に登られるときは、たいてい祈るためでした。

もしマタイ5章とルカ6章が同じ出来事だとしたら(そう考える聖書学者もいます)、このときも、イエス様は祈るために山に登られたのでしょう。

そして、イエス様が祈られたあと、最初にみもとに来たのは群衆ではなく、弟子たちでした。(群衆はあとで来たようですけれど)(マタイ7:28)

群衆の多くは、イエス様に癒しを求めて来ました。(マタイ4:24〜25)

でも、弟子たちは、イエス様に教わるために来ました。

1節を読んで、私は考えていました。「どうして、私はイエス様のみもとに行くのだろうか。」

私はただ、イエス様に何かを求めているのでしょうか。イエス様の助け?癒し?祝福?それとも、私は本当にイエス様から学びたいのでしょうか。

私は、群衆の一人なのでしょうか。それとも、私は本当にイエス様の弟子なのでしょうか。

私は、イエス様の弟子になりたいです。私の主から学びたいのです。私は、イエス様のようになりたいです。

心の清い人になりたいです。

義に飢え乾く人になりたいです。

柔和な人になりたいです。

世の光、地の塩になりたいです。

うわべだけの義ではなく、心から溢れる真の義を持ちたいです。

イエス様と同じように人を愛したいです。

天のお父さんが完全であるように、私も完全でありたいです。

今日、ある歌が思い浮かび、それを祈りました。

Lord, I want to be your disciple, an example, the way you were to me.
主よ。私はあなたの弟子になりたいです。あなたが私の模範でいてくださったように、私も回りの人々の模範になりたいです。

And as I see your humble perfection, let me be a mirror of your heart.
あなたの謙遜と完全さを見るとき、私があなたの心を映す鏡となりますように。

I want to walk in the image of you, like a child imitating what his Father would do.
あなたのかたちに倣って歩みたいのです。お父さんの真似をする子どものように。

A mirror of your heart. — Chris Christian
あなたの心を映す鏡になりたいのです。――クリス・クリスチャン

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使徒の働きのデボーション

主とその弟子たち

さて、ダマスコにアナニアという名の弟子がいた。主が幻の中で「アナニアよ」と言われたので、彼は「主よ、ここにおります」と答えた。(使徒の働き9:10)

私にとって驚くべきことは、イエス様には何億人もの弟子たちがいるけれど、一人一人の名前を知っておられるということです。イエス様は私たちを大切にしておられるので、私たちの名前をよく知っておられるのです。

アナニアはまったく有名なクリスチャンではありませんでした。22章では、パウロが証しを語ったときにアナニアの名前に言及しますが、それ以外に聖書には彼の名前は登場しません。

それでも、イエス様はアナニアを知っておられ、名前を呼ばれました。

私の心を打ったもう一つのことは、イエス様に対するアナニアの態度です。イエス様がアナニアを呼ばれたとき、アナニアはすぐに答えました。「主よ、ここにおります。」

アナニアはいつもイエス様の声に耳を傾けていました。

彼はイエス様の命令が理解できないときもありましたが、最終的には「はい、従います」と答えて従いました。

私はそのような弟子になりたいです。私の耳をいつも主に傾け、「はい、従います」という態度を取りたいのです。

あなたはどうですか。

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ヨハネの福音書のデボーション

弟子のしるし

イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。(ヨハネの福音書8:31)

その言葉を読んだとき、イエス様は私の心に語りかけられました。

弟子のしるしの一つは、もちろん愛です。(ヨハネ13:34〜35)

しかし、イエス様によれば、もう一つの弟子のしるしは、私たちがただイエス様を信じることだけではなく、そのことばにとどまることです。つまり、私たちはいつもそのことばに心を開き、受け入れ、従うということです。

37節では、イエス様はユダヤ人たちにこう言われました。

わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかし、あなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。

ある英訳には、こう書かれています。

私のことばは、あなたのうちで前進していません。

口語訳も非常に興味深い表現をしています。

わたしの言葉が、あなたがたのうちに根をおろしていないからである。

それを読んだとき、神様が私たちにこう問いかけておられるように感じました。「あなたは、私のことばに心を開いているでしょうか。私のことばは、あなたのうちで前進しているでしょうか。」

私たちが神のことばに心を開くと、そのことばによって私たちは変えられます。私たちの考え方も、私たちの行いも変えられます。私たちはイエス様のように考え、生き始めます。神の子どもたちのように考え、生き始めます。

そして、イエス様によれば、私たちが神のことばにとどまり、心を開き、そのことばを信じ、受け入れ、従うなら、その真理は私たちを自由にします。(32節)

あなたはどうでしょうか。あなたは神のことばに心を開いているでしょうか。そのことばは、あなたのうちで前進しているでしょうか。

天のお父さん、あなたのことばは、私のうちでどこまで前進しているでしょうか。時々、私は「どうかなぁ」と思います。

私が、あなたのことばに開かれた心を持つことができますように。

教会のメッセージを聞くとき、聖書を読むとき、兄弟姉妹があなたのことばを分かち合うとき、そのことばが厳しくても、そのことばを聞きたくなくても、私がそのことばを聞き、受け入れ、従うことができますように助けてください。

なぜなら、私はあなたが良い方であることを信じているからです。また、あなたのことばによって、私が自由と喜びを知ることができると信じているからです。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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使徒の働きのデボーション

弟子の心

ピリポとエチオピア人の話を読むとき、私はたいていピリポのことを考えます。特に、「私はピリポのように御霊に導かれたらいいなあ」と思います。

でも、今日私はエチオピア人の心に感動しました。なぜなら、彼は真の弟子の心を持っていたからです。

つまり、彼は謙遜に学びたいという態度を持っていたのです。今日の話では、彼は聖書を読んでいましたが、その言葉が理解できませんでした。

ピリポが「あなたは、読んでいることが分かりますか」と訊いたとき、エチオピア人は自分のプライドを保とうとしませんでした。「もちろん分かっていますよ」とは答えなかったのです。

むしろ、彼は謙遜に「預言者の言葉が分かりません」と認めて、ピリポに助けを求めました。

イエス様の弟子たちも同じ態度を持っていました。イエス様がたとえ話を語られたとき、その後に弟子たちは何度もイエス様に「私たちはその話の意味が理解できません。教えてください」と言いました。

あなたはどうでしょうか。聖書の中に理解できない言葉があるとき、「もういいや」と思ってしまうでしょうか。

それとも、誰かに助けを求めるでしょうか。「これはどういう意味でしょうか。私は分かりません」と訊くでしょうか。

しかし、弟子は聖書の言葉を理解しただけでは満足しません。むしろ、その人は御言葉に従います。

エチオピア人はそのような態度を持っていました。彼は福音を理解した後、たまたま水のある場所を見つけると、「バプテスマを受けてもよいでしょうか」と尋ねました。

彼はまったくためらうことなく、その言葉に従ったのです。

謙遜、学びたいという態度、従順。それが弟子の心です。

あなたはどうでしょうか。弟子の心を持っているでしょうか。

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使徒の働きのデボーション

喜びに満たされた

弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。(使徒の働き13:52)

私はいつもすぐに忘れてしまいますが、使徒の働きにおいて「弟子」とは、「普通のクリスチャン」を意味します。

だから、「弟子たちは喜びと聖霊に満たされた」と書かれているとき、著者であるルカはパウロとバルナバのことを語っているのではありません。ルカは、彼らのメッセージによって救われた新しいクリスチャンたちのことを語っているのです。

自分たちのリーダーが迫害され、その地方から追い出されたのに、どうしてそのクリスチャンたちは喜びに満たされたのでしょうか。

おそらく、二つの理由があったと思われます。

一つ目は、彼らが自分の救いを喜んでいたということです。それまで、彼らは部外者と呼ばれていました。神様に受け入れられるためには、ユダヤ人にならなければならないと教えられていたのです。

しかし、パウロとバルナバが彼らに教えたのは、イエス様を信じることによって、彼らがすでに神様に受け入れられているということでした。

さらに、彼らが学んだのは、この世界が造られる前から、神様が彼らを愛し、選んでおられたということでした。(使徒の働き13:48、エペソ1:4〜6)

でも、もう一つの理由があったと思います。彼らは、パウロとバルナバがどのように迫害されたかを見ました。彼らは、パウロとバルナバの試練を目の当たりにしました。そして、その試練の中での彼らの喜びも見たのです。

私たちが自分の困難にどう反応するかによって、周りの人々は影響を受けます。

もし私たちが試練の時に、神様が私たちを愛し、選んでくださったという真理に根差しているなら、私たちは喜びを保つことができます。そして、周りの人々はそれに気づくのです。

私たちの子どもたちや友人、同僚たちは気づきます。

そして、クリスチャンたちは私たちを見るとき、励まされます。一方で、ノンクリスチャンたちはそれを見て、なぜ私たちが喜びに満たされているのか疑問に思うのです。

この世の多くの人々は、喜びを見つけることができません。もし彼らが私たちの人生の中にその喜びを見いだせないなら、いったいどこで見つけることができるでしょうか。

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使徒の働きのデボーション

クリスチャン?弟子?

多くのクリスチャンたちは、「弟子」という言葉を聞くと、「特別なクリスチャン」というイメージを思い浮かべます。つまり、彼らにとって「弟子」とは、ただの信者ではなく、もっと高いレベルのクリスチャンということです。

でも、今日の箇所を読んだときに私が気づいたのは、使徒の働きの著者であるルカが「弟子」と言うとき、イエス様の十二人の弟子に限定して話していないということです。

ルカはいつもその十二人を「使徒」と呼びます。(2節、また、9章26〜27節を参照してください。)

むしろ、ルカが「弟子」と言うとき、それはすべてのクリスチャンを指しています。そして、ルカはその言葉を男性にも女性にも当てはめています。(使徒の働き9章10節、36節)

「クリスチャン」という言葉が初めて使われたとき、それはすべての弟子たちに当てはめられていました。(使徒の働き11章26節)

だから、使徒の働きを読んで「弟子」という言葉を見るとき、「十二人の弟子たち」や「特別なクリスチャン」と考えてはいけません。

むしろ、「クリスチャン」と考えるようにしましょう。

もっと大切なのは、自分自身を「弟子」として考えることです。私たちはある成熟のレベルに達してから弟子になるのではありません。イエス様を信じ始めた瞬間から、弟子としての歩みが始まるのです。

だから、イエス様の弟子として、イエス様にとどまることを学びましょう。毎日、神様に近づき、その愛と力を受け取りましょう。毎日、イエス様を信頼し、イエス様に頼りましょう。毎日、愛をもって、イエス様とその導きに従いましょう。

そうすれば、私たちは神様のために実を結び、この世の人々に触れることができます。(ヨハネ15:1〜8節)

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詩篇のデボーション

弟子の祈り

味わい、見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを。(詩篇34:8)

主よ。私は慈しみを味わったことがあります。でも、あなたの慈しみをもっともっと味わいたいと思います。

聖書を読むとき、私があなたの慈しみを味わうように。

私が祈って、あなたの御声を聞くとき、私があなたの慈しみを味わうように。

あなたが私の祈りに応えてくださるにつれて、私があなたの慈しみを味わうように。

私がもう一度失敗して、罪に落ちるとき、あなたの赦しの甘さを知って、あなたの慈しみを味わうように。

試練に直面して苦しむとき、私の弱さと力不足を見るとき、私があなたの恵みは私に十分であり、あなたの力が弱さのうちに完全に現れることが分かるにつれて、あなたの慈しみを味わうように。

私が社会に出て、周りの人々に触れるにつれて、彼らがあなたの慈しみを味わうように。

私を通して、私の家族があなたの慈しみを味わうように。

私を通して、私の友人や同僚や隣人があなたの慈しみを味わうように。

私を通して、あなたの民があなたの慈しみを味わうように。

そして、不完全な神の子供である私を通してあなたが人々に触れてくださるにつれて、私があなたの慈しみを味わうように。

私が毎日、何かとあなたの慈しみを味わうように。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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マタイの福音書 マタイ8章 ルカの福音書 ルカ9章

イエス様に従う?

イエス様に従うとはどういう意味でしょうか。

この話では、三人の人々が「弟子であることの意味」を知りました。

律法学者がイエス様のもとへ来て、こう言いました。

先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。(マタイ8:19)

この人物は、他の律法学者たちとは異なっていました。多くの律法学者はイエス様に反対しましたが、この人は熱心にイエス様に従おうとしました。

もちろん、熱心であることは良いことです。けれども、イエス様は彼に警告されました。

狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。(マタイ8:20)

要するに、イエス様はこう言われました。

「私は楽な人生を約束しません。私に従うことは時に困難です。あなたが家を離れれば、戻る機会は限られるでしょう。もしかすると、一度も結婚しないかもしれません。それでも、あなたはまだ私に従いたいのですか。」

そして、イエス様は別の人にもこう言われました。

「わたしについて来なさい。」

しかし、その人はこう答えました。

まず行って、私の父を葬ることを許してください。(ルカ9:59)

おそらく、その人の父親はまだ生きていたでしょう。イエス様が「私について来なさい」と言われたのは、葬儀の最中ではなかったはずです。

もしかすると、その父親は病気で死にかけていたのかもしれません。いずれにせよ、あるいはとても元気ではあるものの、年老いていたのかもしれません。いずれにせよ、その人は父親が亡くなるまで待ちたいと考えました。

さらに、その父親がイエス様に反対していたため、その人がイエス様に従うならば、父親に拒絶される可能性もあったのです。

そこで、イエス様はこう言われました。

死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。(ルカ9:60)

おそらく、イエス様が意味されたことは、「霊的に死んでいる者たちが霊的に死んでいる者たちを葬らせなさい」ということだったのでしょう。

時に、人々はこう考えます。「私はクリスチャンになりたくありません。なぜなら、私の両親はすでに亡くなっており、もし私がクリスチャンになるなら、彼らが地獄に行ったと認めなければならないからです。」

しかし、イエス様が伝えたかったのは、あなたにそのことを決定する権限はないということです。霊的に死んでいる者たちがあなたの霊的な運命を決めることを許してはなりません。

また、霊的に死んでいる者のために、神様の働きを避けるべきではありません。なぜなら、あなたが他の霊的な死人に福音を伝えれば、その人は救われる可能性があるからです。

けれども、もしあなたが家族の意見を恐れて福音を伝えないなら、その人々も地獄へ行ってしまうかもしれません。

そのとき、もう一人の人がイエス様のもとへ来て、こう言いました。

主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。(ルカ9:61)

でも、イエス様はその人にこう言われました。

だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。(ルカ9:62)

なぜイエス様はこのように言われたのでしょうか。おそらく、イエス様はその人の心を見抜いておられたからでしょう。

つまり、彼は家族への愛ゆえに、心を尽くしてイエス様に従うことができませんでした。そのため、たとえイエス様について行っても、すぐに家へ戻ってしまうでしょう。

もし私たちがいつも過去を振り返ってばかりいるならば、イエス様に従うことは非常に困難になります。イエス様は私たちの心のすべてを求めておられます。一部分だけを望まれるのではありません。

そのため、時には良いことであっても手放さなければならないことがあります。なぜなら、私たちはより優れたものを求めているからです。

その三人の人々がイエス様の言葉にどのように反応したのか、私たちには分かりません。おそらく、福音書の著者たちは、私たち自身が心を探るように意図したのでしょう。

たとえ困難でも、あなたはイエス様に従うでしょうか。

家族や友人がイエス様に従うことを拒んだとしても、それでもイエス様に従うでしょうか。

イエス様に従うために、すべてを捨てるでしょうか。

もしイエス様が「わたしについて来なさい。」と言われたなら、あなたはどうするでしょうか。

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弟子づくり、霊的な教え、実用的な教え

イエス様が弟子を育てる際には、霊的な指示だけでなく、実用的な指示も教えられました。

まず、イエス様は弟子たちに霊的な真理を教え続けました。例えば、山上の垂訓や平地の説教を説かれました。また、数々のたとえ話を用いて教えられました。

けれども、弟子たちを奉仕に送り出す際には、実用的な指示も与えられました。

例えば、弟子たちはサマリヤ人や異邦人のところへ行かず、ユダヤ人の町だけを訪れるべきだと教えられました。それはなぜでしょうか。パウロが語ったように、福音は最初にユダヤ人に届けられるべきものだったからです。(ローマ1:16)

もちろん、イエス様は時々異邦人やサマリヤ人を癒し、教えることもされましたが、彼らに福音を伝える時期はまだ来ていなかったのです。

イエス様はさらに具体的な指示を弟子たちに与えられました。

イエス様は、弟子たちが何を持つべきか、持たないべきかを教えられました(マタイ10:9-10)。

また、彼らがどこに泊まるべきかを教えられました(マタイ10:11-13)。

さらに、彼らが拒絶される場合や迫害される場合の対処方法についても教えられました(マタイ10:14,23)。

そして、イエス様は弟子たちに厳しく警告されました。「信頼できない人もいるので注意しなさい。もちろん、悪を行うことは避けなさい。それでも、相手を賢く扱うように。」(マタイ10:16-17)

このように、イエス様は霊的な教えも並行して教え続けられました。

例えば、神様はスズメの必要を日々備えておられるので、弟子たちの必要も必ず備え、彼らを守られるということです。なぜなら、神様はスズメ以上に彼らを愛し、大切にしてくださるからです。そのため、彼らは神様を全面的に信頼すべきでした(マタイ10:9-10;29-31)。

また、彼らは神様を何よりも愛するべきだと教えられました。イエス様は弟子たちにこう語られました。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。(マタイ10:37-39)

私が伝えたいのはこれです。私たちが人々を奉仕のために訓練する際には、霊的なことと実用的なことの両方を教えるべきだということです。

もちろん、彼らはミニストリーや日常生活における霊的な原則を学ぶ必要があります。

しかし、それと同時に、彼らにどのようにミニストリーを行うべきかという実践的な側面も教える必要があります。

イエス様もそのようにされました。まず、弟子たちはイエス様がどのようにミニストリーを行うかを目の当たりにしました。そして、イエス様は必要な指示を簡潔に与え、弟子たちを送り出されました。

弟子たちが戻ると、イエス様は彼らの報告を聞き、必要に応じてフィードバックを与えられました。私たちも、同じようにして人々を訓練するべきではないでしょうか。

もちろん、彼らが私たちと全く同じようにミニストリーを行う必要はありません。私たちが基本的なことを教えた後は、その基礎の上に彼らが神様の導きに従って、自分のミニストリーを築いていくべきです。

けれども、残念なことに、多くの場合、訓練はどちらか片方に偏りがちです。

例えば、霊的な訓練だけを与える一方で、ミニストリーに関する実用的な訓練を与えない場合、その弟子は大きな失敗をし、そのミニストリーは早々に崩れてしまうことがあります。

逆に、ミニストリーに関する実用的な指導だけを与えると、最初は順調に見えても、弟子自身がプライド、罪、その他の霊的な落とし穴に陥り、結果的にそのミニストリーも崩壊してしまうことがあります。

ですから、弟子たちを訓練する際には、このような失敗を避けるべきです。霊的な訓練と実用的な訓練の両方を与えましょう。そうすることで、神様は彼らと私たちを用いて、神の国を成長させてくださるでしょう。

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イエス様と一緒にいるように呼ばれた。出て行って、この世に触れるように呼ばれた。

この箇所では、私たちはイエス様の高まる人気を目にすることができます。おそらく、増え続ける群衆とその必要のために、イエス様は12人の弟子たちを選び、訓練を始められました。

人間としてのイエス様は、ある瞬間には一つの場所にしかおられることができませんでした。そのため、多くの人々に触れるには助けが必要でした。

とはいえ、イエス様が選ばれたのは、本当に多種多様なグループでした。

漁師たち、ローマ帝国と協力していた元収税人、そしてローマ帝国を憎む愛国者もいました。

また、彼らはそれぞれ異なる性格を持っていました。大胆なペテロ、懐疑的なバルトロマイ(つまり、ナタナエル)やトマス、そして短気なヤコブとヨハネもいました。

イエス様は、このように様々な背景や性格を持つ人々を選ばれました。そしてイエス様は、彼らに3つのことを求められました。

そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。(マルコ3:14-15)

一つ目は(そして一番大切なのは)、彼らがイエス様の近くにいることです。彼らはイエス様と時間を過ごし、イエス様から学びました。

そして今もなお、イエス様はそのような人を求めておられます。イエス様は、私たちがイエス様の生活に参加し、イエス様をもっと知り、そしてもっとイエス様のようになることを望んでおられます。

二つ目は、彼らがイエス様から学んだメッセージを周りの人々に伝えることです。

多くのクリスチャンは聖書を読み、神様との関係において成長します。けれども、それだけでは足りません。

神様は、私たちが聖書のメッセージを周りの人々に伝えることを望んでおられます。なぜなら、私たちがそれをしなければ、彼らは神様からの喜びを決して知ることができないからです。

三つ目は、彼らが霊的な戦いに参加することです。あなたは悪霊を追い出す経験がないかもしれませんが、毎日私たちは霊的な力と戦っています。パウロはこう書きました

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12)

イエス様は、私たちが人と戦うのではなく、サタンと悪霊と戦うように召されています。彼らは人々を欺き、地獄に行かせようと働いているからです。そのため、私たちはその魂のために戦わなければなりません。

毎日、多くの人々が死にかけていて、地獄へと向かっています。しかし、神様はそのようなことを望んでおられません。神様は私たちに彼らのために立ち上がり、戦うことを望んでおられるのです。私たちがその使命を果たせば、その人たちは救われるかもしれません。

それがキリストの弟子の姿です。私たちがイエス様と共にいること、福音を伝えるために出ていくこと、そして霊的な戦いに参加することです。

あなたはどうでしょうか。キリストの弟子として、あなたはそのように歩んでいるでしょうか。

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イエス様について行くように呼ばれた

しばらく聖書の部分を飛ばしてしまっていたので、今日はその箇所に戻りたいと思います。実は、これは非常に重要な箇所です。この箇所では、イエス様が初めて弟子たちを招かれました。

以前にもお話ししましたが、福音の出来事を年代順に進めようとしています。とはいえ、時にはその順番を推測しなくてはならない場合があります。

おそらく、このルカの箇所の出来事が最初に起こり、その2~3日後にマルコとマタイの出来事が起こったのだと思われます。

ある日、イエス様は群衆を教えようとされました。けれども、群衆がイエス様に押し迫ってきたため、イエス様はペテロとその仲間の船をご覧になり、すぐにその船に乗られ、彼らに陸から少し漕ぎ出すように頼まれました。そしてイエス様は、その船から群衆に教えられました。

ペテロとその仲間たちが進んでイエス様を助けたかどうかは分かりません。彼らは徹夜で漁をしていましたが、何も獲れませんでした。イエス様が彼らを呼ばれたとき、彼らは網を洗っているところでした。

おそらく彼らは、網を洗い終えたら帰ってすぐに眠ろうと思っていたのではないでしょうか。それでも彼らはイエス様を助けました。

その後、イエス様が教え終えられると、ペテロとその仲間に「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われました。

ペテロにとってそれは限界でした。彼は疲れ果てており、これ以上漁をしたいとは思っていませんでした。さらに、経験豊富な漁師である彼にとって、大工であるイエス様からの漁についての指示を受けるのは気が進まなかったのではないでしょうか。

それでも、ペテロはこう答えました。

先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。(ルカ5:5)

おそらく、イエス様はその言葉を聞いた時、何も言われずに、ただペテロをじっと見つめて待っておられたのでしょう。そうしている間に、結局ペテロは口ごもりながら言いました。

でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。(ルカ5:5)

だから、ペテロとその仲間たちは恥ずかしさを感じながら漁に出ました。なぜ彼らが恥ずかしかったのでしょうか。それは、誰も昼間に漁をすることがなかったからです。魚がいるはずがないと考えられていたためです。

おそらく、他の船に乗っている友人たちは笑ったかもしれません。「ペテロは愚かだね。なぜその大工の言葉に従うんだろう」と思った可能性もあります。

しかし、ペテロたちが網を下ろした時、大量の魚が網にかかりました。魚が多すぎたため、ペテロは他の船の友人たちを呼んで助けを求めました。それでも魚はあまりにも多く、二つの船が沈みそうになりました。

最初のうち、ペテロは大いに興奮したことでしょう。けれども、すぐに彼は自分たちの目の前で何が起こったのかを実感しました。そして、イエス様が普通の先生ではないことを悟りました。だから、ペテロはイエス様の足もとにひれ伏し、大声で言いました。

主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。(ルカ5:8)

でも、イエス様はこのように答えられました。

こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。(10)

これはあくまで私の推測ですが、もしかすると、ルカは話を少し簡潔にまとめたのかもしれません。そしてその後、皆が自宅に戻った可能性があります。

おそらく、イエス様は彼らにその日体験したことやご自分の言葉を深く考えてほしいと思われたのではないでしょうか。

そして翌朝、ペテロとアンデレが漁をしているのを見られた時、またヤコブとヨハネが網を繕っているのを見られた時、イエス様は改めて彼らを招かれました。

わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。(マタイ4:19)

その時、彼らはすべてを捨てて、イエス様に従い始めました。

この話から、私たちはどんな教訓を学べるでしょうか。

まず第一に、イエス様の恵みがペテロの失敗と罪を覆ったように、その恵みは私たちの失敗と罪も覆います。イエス様はペテロの罪を責めることはせず、むしろ新しい人生を始めるようにペテロを招かれました。

第二に、イエス様に従うために特別な資格は必要ありません。神学校に行く必要もありません。ペテロとその仲間たちは特別な教育を受けていませんでした。それでも、イエス様は彼らを弟子として招かれました。

第三に、最も重要なのは、イエス様を信頼し、イエス様の言葉に従うことです。たとえイエス様の言葉を完全に理解できなくても、「あなたがお命じになるので、私は従います」という信仰と従順の態度を取るべきです。

また、イエス様に従うために、私たちが愛するものを喜んで手放す態度を持つべきです。

最後に、イエス様の弟子として、イエス様の働きに参加する姿勢を持つべきです。つまり、人々を神様の御国へ導くことです。

あなたはペテロとその仲間たちの模範に従いますか。イエス様からの召しに応えますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ1章

あなたのおられるところにいたいのです

バプテスマのヨハネが自分の弟子たちをイエス様に向かわせた時、彼らはすぐにイエス様について行きました。

彼らにとって、ヨハネのもとを離れるのは簡単なことではなかったでしょう。もちろん、彼らはヨハネを愛し、強い関係を築いていましたが、ヨハネが彼らに教えることのできることには限界がありました。そのため、彼らが次のステップに進む時が来たのです。

なぜヨハネの教えには限界があったのでしょうか。ヨハネより優れた預言者はいなかった(マタイ11:11)ものの、彼はただの人間でした。一番偉大な人であっても限界があります。

だからこそ、彼らは次の段階に進み、神様の弟子となる必要がありました。イエス様こそ肉において現れた神様です。

彼らがイエス様に近寄った時、どんな気持ちだったのでしょうか。エデンで神様が約束されたメシアに、どう話しかけたらよいか分からず、たぶん不安で、少し怖がっていたかもしれません。こんな会話があったかもしれません。

ヨハネ:「あなたがイエス様に話しかけたらどうですか。」

アンデレ:「いや、どうぞお先に。」

結局、イエス様は彼らに気づいて声をかけられました。彼らはおそらく足を止め、心の中でこう考えたかもしれません。

「イエス様は私たちを拒絶されるのではないだろうか。私たちには何の資格もない。それでも、イエス様は私たちを受け入れてくださるだろうか。」

おそらくそんなことを考えている間に、イエス様は彼らに尋ねられました。

あなたがたは何を求めているのですか。(ヨハネの福音書1:38a)

彼らはこのように答えました。

ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。(38b)

私たちの文化では、初めて人に会う時、このような質問をするのは少し奇妙に感じるかもしれません。私たちの文化では、「はじめまして。アンデレとヨハネです。よろしくお願いします。」と言うのが一般的です。

しかし、彼らの文化では、この言葉の背後に込められた意味は次のようなものでした。

「私たちはイエス様の弟子になりたいです。イエス様がおられるところに、私たちもいたいです。イエス様から学びたいです。イエス様の教えだけでなく、イエス様の毎日の生活からも学びたいです。」

2千年が経った今でも、この本質は変わっていません。もしイエス様の弟子になりたいなら、イエス様の弟子としての態度を持たなくてはなりません。それは、イエス様と共にいたいという心です。

あなたはどうですか。この態度を持っていますか。毎朝、イエス様の足元で聖書を読み、祈り、イエス様の声を聞く時間を取っていますか。また、一日中、イエス様と共に歩む心の姿勢を持っていますか。

多くのクリスチャンは朝にイエス様と時間を過ごしますが、その後にこう言います。「じゃあ、またね。今行かなくちゃ。」

そして、次の日までイエス様について一切考えないことがあります。

しかし、私たちはどこに行ってもイエス様を連れて行くべきです。一日中イエス様の声を聞き、イエス様の導きに従うことを学ぶことが必要です。それこそが本当の弟子の姿です。

私が毎日そうしていると言えればいいのですが、正直に言うと、まだできていません。私は今も、毎日毎日、一瞬一瞬イエス様と共に歩むことを学んでいる途中です。

あなたも私と一緒に、この道を歩み始めませんか。

私はある賛美の歌がとても好きです。

I just want to be where you are.
あなたのおられるところにいたいです。
Dwelling daily in your presence.
毎日あなたと共に過ごしたいです。
I don’t want to worship from afar.
遠くから礼拝したくないです。
Draw me near to where you are.
どうかあなたのそばに私を近づけてください。

I just want to be where you are.
あなたのおられるところにいたいです。
In your dwelling place forever.
永遠にあなたの住まいにとどまりたいです。
Take me to the place where you are.
あなたのおられる場所まで私を導いてください。
I just want to be with you.
ただあなたと共にいたいのです。