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弱い

サタンが優しい存在だと言う人は誰もいません。サタンは私たちの肉体的な弱さや精神的な弱さを見つけると、すぐに攻撃してきます。

この箇所では、それがはっきりと分かります。イエス様と弟子たちがゲツセマネに着いたとき、イエス様は彼らに警告されました。

誘惑に陥らないように祈っていなさい。(ルカ22:40)

その時、弟子たちはすでに精神的に疲れ果てていました。彼らはまだイエス様の言葉を理解しようとしていました。つまり、イエス様が裏切られること、そしてイエス様が彼らのもとを去っていくことを、受け入れられなかったのです。

そのため、彼らは肉体的に、精神的に、そして霊的に弱くなりました。(ルカ 22:45)

だからこそ、イエス様が「わたしと一緒に目を覚ましていなさい」と言われたのに、彼らは眠ってしまいました。イエス様は何度も彼らに警告し、願われましたが、彼らは1度だけではなく、3度も眠ってしまいました。

その結果どうなったのでしょうか?イスカリオテのユダとユダヤ人の指導者たちがやって来ると、彼らは逃げ去ってしまいました。

しかし、イエス様はさらに過酷な試練に直面されました。イエス様は十字架を背負い、すべての人々の罪を担われました。その時、天の父はイエス様に背を向けられました。

この箇所では、イエス様の祈りをほんのわずかしか見ることができません。けれども、イエス様の最初の祈りは約1時間続き、その後さらに2度祈られました。

イエス様が祈るとき、その苦しみはあまりにも深く、汗が血のしずくのように地に落ちました。(ルカ 22:44)

さらに、その時、弟子たちは眠っていたため、イエス様には精神的な支えがありませんでした。

けれども、イエス様が弱さの中におられた時、天の父はイエス様を力づけてくださいました。

そして、天の父はイエス様を支えるために天使を遣わされたのです。(ルカ22章43節)

だから、捕らえられた時、イエス様は冷静に、最後の試練に直面する覚悟を決められました。

では、なぜ弟子たちは目を覚まして祈ることができなかったのに、イエス様はできたのでしょうか。

おそらく、イエス様は生前、毎朝目を覚まして祈ることを習慣としていたからです。 それは朝だけでなく、夜にも行われました。(マルコ 1:35、マタイ 14:23)

そのため、イエス様は最も弱い時に、日々の訓練によって培われたように自然に反応されたのです。

けれども、弟子たちはその訓練を積んでいなかったため、弱さの中で失敗してしまいました。

あるアメリカの有名なアメリカンフットボールの監督は、自分の選手たちと試合のビデオを見る際、相手チームの選手について語りました。 そのチームのある選手は、何度も同じミスを繰り返していました。そこで、その監督はこう言いました。

「その選手は練習の時、自分の技術について、きちんと気をつけなかったのだろう。 たぶん、彼はこう思ったのかもしれない。「正しいやり方はもうよく知っている。だから、今は気をつけなくても、試合の時にはちゃんとできるだろう」”

けれども、疲れ果てた時、人はただ反応するだけだ。 そして、その反応は、自分が普段どのように訓練してきたかによって決まるのだ。」

霊的な世界においても、これは同じです。

もし、あなたが 「私は困った時、何をすべきかよく知っている。だから、その時が来たらちゃんと祈るだろう」 と思っていたとしても、 毎日その訓練をしていなければ、肉体的に、そして精神的に疲れた時に、 あなたは本当に祈ることができるでしょうか。

そして、試練が訪れた時、弟子たちのようにあなたも自分の弱さに負けてしまうかもしれません。

しかし、もしイエス様のように、毎日神様を求め、目を覚まして神様と語るならば、 試練に直面した時、あなたは迷うことなく、すべきことを行い、固く立つことができるのです。

あなたはどうでしょうか? あなたは、毎日目を覚まして神様と語っていますか?

誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。(マルコ14:38)

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エレミヤ書

私たちが思うよりも

今日からエレミヤ書を始めます。

エレミヤ書は、少し不思議な書です。つまり、この書は全く年代順に書かれておりません。

エレミヤはヨシヤ王について話し、それから急にゼデキヤ王(ユダの最後の王)について話し、さらにエホヤキム(ヨシヤの息子)について話し、またゼデキヤについて話します。

このブログではいつも通りに、年代順に進めます。そのため、エレミヤ書のあちこちを飛び回ることになります。

この箇所では、神様はエレミヤにこう言われました。

わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。(エレミヤ書1:5)

その時、エレミヤが何歳だったか分かりません。けれども、エレミヤには全く自信がありませんでした。そのため、彼はこう答えました。

ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。(6)

つまり、「私ですか。私はできません。私は若すぎますし、知恵がありません。それに、私はスピーチをするのが苦手です。別の人を呼んだら良いのではないでしょうか。」

しかし、神様はこう答えられました。

まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。

彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。――主の御告げ――」

そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。

「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる。」(7ー10)

神様は何を言われているのでしょうか。

「あなたが思うよりも、あなたは貴い人です。なぜなら、私は、あなたを貴くしたからです。私はあなたの口に私の言葉を入れ、あなたを通してこの世界に影響を与えます。」

多くの人々はエレミヤのように思います。

「私は特別な人ではありません。あまり賢明ではありません。神様が私を呼んでおられるかもしれませんが、そんな資格はありませんし、才能もありません。」

時々、私も自分自身についてそのように思います。

けれども、神様は私たちにこう言われます。

「自分自身を見下さないでください。私はあなたと共にいます。あなたがどのような人であるかは問題ではありません。

大切なのは、私がどのような者であるかということです。そして、私はあなたを用いることができます。あなたを通してこの世に影響を与えます。」

では、私たちはどうすれば良いでしょうか。神様が言われることにただ従うだけです。神様は私たちができないことを命じられることはありません。

そのため、神様はエレミヤに簡単なことを命じられました。

次のような主のことばが私にあった。「エレミヤ。あなたは何を見ているのか。」

そこで私は言った。「アーモンドの枝を見ています。」

すると主は私に仰せられた。「よく見たものだ。わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っているからだ。」(11ー12)

神様は簡単な幻を見せ、簡単な質問をされました。エレミヤが正しく答えたので、神様はこう言われました。

「ほら、できるでしょう。そして、私があなたに与える言葉を、私は必ず実現します。」

エレミヤがその幻を思い出すために、神様はダジャレを使われました。ヘブル語では、「アーモンドの枝」の発音は「見る」の発音に似ています。

そのように、神様は最初に簡単な仕事を私たちに与えられます。そして、私たちが上手になると、もっと大きな仕事を与えられます。

しかし、一番大切なのは、神様がいつも私たちと共におられることです。

神様はエレミヤにこう言われました。

さあ、あなたは腰に帯を締め、立ち上がって、わたしがあなたに命じることをみな語れ。

彼らの顔におびえるな。さもないと、わたしはあなたを彼らの面前で打ち砕く。

見よ。わたしはきょう、あなたを、全国に、ユダの王たち、首長たち、祭司たち、この国の人々に対して、城壁のある町、鉄の柱、青銅の城壁とした。

だから、彼らがあなたと戦っても、あなたには勝てない。わたしがあなたとともにいて、――主の御告げ――あなたを救い出すからだ。(17ー19)

神様は私たちに同じようなことを言われます。

「私の仕事のために準備しなさい。立ち上がって、私があなたに命じることを行いなさい。

ある人々はあなたに反対するかもしれませんが、あなたに勝つことはできません。

サタンもあなたを攻撃するかもしれませんが、あなたに勝つことはできません。なぜなら、私はあなたと共におり、あなたを救い出すからです。」

あなたは自分についてどう思うでしょうか。弱い者だと思うでしょうか。取るに足らない者だと思うでしょうか。価値がない者だと思うでしょうか。

神様の目には、あなたは本当に貴い人です。

神様に従えば、そのことが分かるようになります。神様に従いませんか。