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マタイの福音書のデボーション

産みの苦しみ

また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。

民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。

しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです。(マタイの福音書24:6~8)

イエス様の言葉を読んだとき、私はパウロの言葉を連想しました。

私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。

それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。(ローマ8:22~23)

この世の問題や自分の問題を見るとき、私たちが心の中でうめくことは自然なことです。

でも、私たちは希望を持っています。

被造物のうめきと私たちのうめきは、絶望のうめき、死のうめきではありません。

私たちのうめきは、産みの苦しみのうめき、つまり、命の希望のうめきなのです。

イエス様は、この世にもう一度来られます。そのとき、イエス様は、すべての悪を裁かれます。

そして、イエス様は、ご自分の民を救い、すべてを新しくしてくださいます。(マタイの福音書24:30~31)

それが、私たちの希望です。そして、その希望は確かなものです。なぜなら、イエス様の言葉は確かだからです。

イエス様は言われました。

天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。(マタイの福音書24:35)

だから、この世の問題を見るとき、自分の問題を見るとき、絶望に屈してはいけません。

また、自分の愛が冷えないように、注意しなくてはなりません。

むしろ、神様が私たちに与えてくださった役割を、忠実に果たしましょう。

そして、イエス様を待ち望んでいる間、私たちが一人ぼっちではないことを、覚えていましょう。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。

私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:26~28)

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詩篇

謙遜

詩篇131篇もかなり短い詩篇ですが、この詩篇を通して、ダビデは私たちが神様に近づくときに、どのような心が必要かを教えています。

私たちはどんな心が必要でしょうか。へりくだる心が必要です。ダビデはこう書きました。

主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。(詩篇131:1)

心の中でプライドを持ったら、神様の前に行くのは無理です。私はヨブについて考えます。

彼が苦しんだ時に、彼は神様の正義を疑い始めました。だから、神様の前に行きたがって、神様の正義に関して議論したがりました。

多くの人々はそうします。彼らは神様と同じ知力を持っていると思い、神様と議論したら勝てると思っています。

多くの無神論者はこう思います。「たとえ神様が存在しても、どうして私が神様を信じなかったかを説明できます。」

けれども、彼らが神様の前に来て話す時、ヨブのように彼らの論法が虚しいと実感することでしょう。

しかし、他の人々はヨブの友達のようです。彼らは誇って、他の人々を見下し、すぐに裁きます。けれども、神様はそんな人々にも反対します。なぜなら、彼らの判断は間違っているからです。

しかし、ダビデは彼らとは違いました。神様に対しても、他の人々に対しても謙遜な態度を持っていました。

だから、彼が理解できないことが起きたり、またどうして神様がいろんな試練を許したか理解できない時、彼は謙遜に言いました。

及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。(1b)

ヨブは、悔い改めた時、同じようなことを言いました。

まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。(ヨブ記42:3)

私たちも理解できないことを経験します。どうして神様が災いを許されるか分からないので、私たちは神様と議論したいと考えます。

しかし、ダビデのように、その疑いを置いておいて、神様に信頼しましょう。神様が私たちと共におられ、私たちを愛してくださることを信じ続けましょう。

「乳離れした子が母親の前にいるように」、また自分のニーズに供えられた子のように、神様の前に静まり、信頼しましょう。

ダビデのように私たちはこう言いましょう。

今よりとこしえまで主を待て。(詩篇131:3)

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詩篇

神様を待ち望む

私たちは神様を恐れるなら、他の物を恐れる必要はありません。詩篇27篇で、その真理を見ることができます。

ダビデはこう歌いました。

主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。

悪を行なう者が私の肉を食らおうと、私に襲いかかったとき、私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。

たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。(詩篇27:1-3)

困った時、ダビデの最初の思いは、「神様!助けて!」ではありませんでした。むしろ、彼の最初の思いは、神様を求めることでした。また、救い主との交わりを慕いました。だから、彼はこう祈りました。

私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。(4)

多くの場合、私たちは困った時に、「助けてください」と祈ります。けれども、ダビデが祈ったのは、「あなたを知りたいです。あなたを仰ぎます。あなたとの関係が欲しいです。」ということです。

どうして、彼はそう祈ったのでしょうか。なぜなら、自分自身を神様の手に委ねたら、神様が彼を守ってくださることを知っていたからです。ダビデはこう歌いました。

それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。

今、私のかしらは、私を取り囲む敵の上に高く上げられる。私は、その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、歌うたい、主に、ほめ歌を歌おう。(5-6)

私は8節が大好きです。

あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ」と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。

神様は私たちを呼びます。「私の顔を慕い求めなさい。」

どれほど、私たちがそうしないことで心の中に平和がないでしょうか。むしろ、私たちは自分の問題に焦点を当てるので、圧倒されます。

もし、私たちがその問題に焦点を当てずに、神様に焦点を当てたら、どれほど私たちの人生は良くなるでしょうか。

他の人々は私たちを裏切ったり、がっかりさせたりするかもしれませんが、神様は決してそうされません。だから、ダビデは歌いました。

私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。(10)

そして、神様の導きと神様からの救いのために祈った後、ダビデはこれを宣言しました。

ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら――(13)

良い時に、「神様は良い方」と言うのは簡単なことです。けれども、悪い時に、どれほど私たちは神様が良い方であることを宣言するでしょうか。

ダビデは神様を見つめたので、辛い時でも、「神様は良い方」と言うことができました。

だから、ダビデは苦しんでいる人にこう言います。

待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。(14)

主よ。苦しむ時に、私があなたを待ち望むことを助けてください。私があなたが良い方であることを信じ続けることを助けてください。あなたが見えなくても、あなたの臨在を感じなくても、私があなたが私と一緒におられることを思い出すように。

私の一つの願いはあなたを知ることです。だから、あなたが呼ぶ時、私があなたの声を聞くことができるように。そして、私にあなたを求める心を与えてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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イザヤ書

希望の力

希望。

未来に直面するとき、私たちに必要なのは希望です。希望がなければ、残るのは絶望だけです。

このイザヤ書の箇所では、イスラエルの民もそう感じていました。彼らは絶望し、人生は混乱し、神様が遠くにおられるように感じていました。だから、彼らは叫んでいたのです。

私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。(イザヤ書40:27)

つまり、こう問いかけるのです。

「神様、どこにおられるのですか。あなたは本当にここにおられるのですか。私を愛しておられるのですか。それとも、私を愛しておられても、私を助ける力がないのですか。」

しかし、神様は答えられました。

あなたは知らないのか。聞いていないのか。

主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。(28)

神様が言われるのは、こういうことです。

「何を言っているのですか。もちろん、私はあなたを助けることができます。私がすべてのものを造ったことをご存じではないのですか。

あなたとは違って、私は決して疲れることがなく、たゆむこともありません。私の英知は、人間の知恵よりも遥かに優れているのです。」

そして、神様はこの慰めの言葉を言われます。

疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。

若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。

しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。(29-31)

神様はあなたにこう訊かれます。「あなたは疲れているのですか。私は疲れた人に力を与えますよ。あなたにはもう精力がないのですか。私はあなたに活気を与えますよ。」

その力と活気を得る鍵は何でしょうか。

それは神様を待ち望むことです。神様の憐みを思い出しましょう。神様の愛を思い出しましょう。そして、神様があなたのために計画を持っておられることを思い出しましょう。

もしそのことを思い出し、そして神様を待ち望むならば、何が起こっても、それを乗り越える力を受けることができます。それだけではなく、あなたは鷲のように翼を広げて上がることができるのです。

あなたは希望を失いましたか。この箇所を暗記して、その言葉の意味をよく考えてみましょう。

そして、パウロが言ったように、

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。(ローマ15:13)