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マタイの福音書のデボーション

安らぎのある人生

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイの福音書11:28-30)

イエス様の言葉の中でも、それは最も有名なものの一つです。

しかし、イエス様のやり方は、律法の専門家たちのやり方とはまったく異なっていました。イエス様は彼らについて、こう言われました。

おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本触れようとはしない。(ルカ11:46)

クリスチャンとして、私たちが自問自答しなくてはならないのは、「クリスチャンとしての生活を送る中で、私は疲れ果てているだろうか。重荷を負っているように感じているだろうか」ということです。

多くの場合、満たされない期待の重荷を負っているために、私たちは疲れ果ててしまいます。

私たちは、周囲の人々の期待に応えられないという重みを感じています。私たちは、自分自身の期待に応えられないという重みを感じています。さらに、神様の期待に応えられないという重みも感じています。

そうした期待を思い巡らす中で、私たちは「あなたはやっぱりダメだ」という声を聞いてしまいます。

私たちは、周囲の人々からそのようなメッセージを受け取ります。私たちは、自分自身に関してそう思ってしまいます。さらに、私たちは神様がそう言われているのではないかと感じ始めます。

しかし、それは安らぎのある人生ではありません。だからこそ、イエス様は私たちにこう語られます。

「私のもとに来なさい。私から逃げないでください。私のもとに来なさい。

私はあなたの失敗や罪を責めているのではありません。私は、あなたの失敗と罪のために死にました。天のお父さんは、あなたをご自分の子として受け入れてくださいます。

だから、天のお父さんにあなたの価値を証明する必要はありません。

私の恵みの中で休んでください。私の愛の中で休んでください。」

また、イエス様はこう言われます。

「わたしのくびきを負いなさい。他の人の期待のくびきを負ってはいけません。そのくびきは重く、多くの場合、あなたには負いきれません。相手にとって、あなたはどんなに頑張っても、ダメな人に見えるかもしれません。

だから、わたしのくびきを負いなさい。それは裁きのくびきではなく、恵み深いくびきです。

さらに、あなたは一人でそのくびきを負う必要はありません。わたしはあなたと共にそのくびきを負っています。だから、あなたがつまずいても、そのくびきはあなたを潰しません。」

そして、イエス様はこう言われます。

「わたしから学びなさい。あなたは、学びの遅い人かもしれません。でも、わたしは優しく、忍耐強い者です。わたしはあなたのことを決してあきらめません。

わたしの考え方を学びなさい。わたしの生き方を学びなさい。

そして、いつも次のステップを考えて、進みなさい。わたしは急いでいるわけではありません。他のクリスチャンがもっと早く進んでいても、気にしなくていいのです。

わたしたちには、たくさんの時間があります。わたしたちには、永遠があります。」

それこそが、安らぎのある人生です。

あなたはどうでしょうか。

クリスチャンとしての人生を歩む中で、疲れ果てて、重荷を負っていると感じているでしょうか。

それとも、安らぎのある人生を歩んでいるでしょうか。

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ガラテヤ人への手紙のデボーション

神様から離れる

私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移って行くことに。(ガラテヤ人への手紙1:6)

「神様から離れる」という言葉を聞くとき、私たちは、罪の道に戻る放蕩息子のような人をよく考えるでしょう。

もちろん、そのような人は神様から離れているけれど、パウロは違うことについて話しています。

ガラテヤ人たちにとって危険なのは、罪の道に戻ることではなく、ルール中心の生活を送ることです。彼らの場合、割礼を受けなくてはならないし、いろんなユダヤ教の儀式的な律法に従わなくてはならないと教えられました。

でも、その儀式は真の聖さとは何の関係もありませんでした。(コロサイ2:20〜23)

さらに、その律法は一時的なものでした。その律法の目的は、ユダヤ人にキリストを指し、キリストの到来に備えて彼らの心を整えるということです。(ガラテヤ3:19〜25)

私たちはルールではなく、神様に焦点を合わせるべきです。「神様は私の人生とその回りで、何をしておられるだろうか。御霊は私をどこに導いてくださっているだろうか。」

ルールに集中する人生は、自己中心のものです。つまり、私たちはよくこう考えます。「私は神の基準に達しているだろうか。」

恵みの生活は神中心です。「神様はとても良いお方です!神の恵みと愛は素晴らしい!神様はどこに行っておられるだろうか。私も行きたい!神の働きに参加したい!」

だから、神様から離れる人生、特にルール中心の生活を捨てましょう。むしろ、喜びをもって、毎日毎日、一瞬一瞬、御霊に導かれましょう。

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ガラテヤ人への手紙

割り込まれた

私が大嫌いなことの一つは、運転中に突然私の車線に割り込む人がいることです。そのせいで、私は急ブレーキをかけざるを得なくなります。最悪の場合、すぐに別の車線へ移らなければなりません。

今日の箇所で、パウロはこのような例えを用いて語ります。

ガラテヤ人たちはクリスチャンのレースの中で、ゴールを目指し、恵みによって走っていました。

ところが、突然、ユダヤ人のクリスチャンたちが割り込み、ガラテヤ人たちがそのゴールに到達することを妨げました。さらに、ガラテヤ人たちは恵みの道から逸れ、律法の道を走り始めてしまったのです。

だから、パウロはガラテヤ人たちにこう語りました。

あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたの邪魔をして、真理に従わないようにさせたのですか。

そのような説得は、あなたがたを召された方から出たものではありません。(ガラテヤ人への手紙5:7-8)

要するに、「あなたたちはよく走っていたのに、なぜ恵みの道を逸れ、律法の道を走り始めたのですか?それはイエス様の導きではありません。イエス様は、あなたたちがイエス様への信仰によって恵みの道を走るように招かれたのです。」

そして、パウロはこう語りました。

わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませるのです。(9)

この箇所の伝統的な解説では、ガラテヤ人たちが注意しなければ、ユダヤ人クリスチャンたちの教えがすぐに教会に浸透してしまう危険性があるとされています。

けれども、もう一つの応用が考えられます。

もし私たちが「神様に受け入れていただくためには律法を守らなければならない」という教えの種を受け入れるならば、結局その考え方は私たちの思考や生き方を支配してしまいます。

その結果、私たちは「神様の愛に値しないにもかかわらず、神様に受け入れていただいている」という喜びを失ってしまうのです。

むしろ、私たちは律法を完全に守ることができないと気づき、落胆してしまいます。または、律法を守れていると思うことで、プライドを持ち始めてしまいます。

ガラテヤ人の問題は、『スター・ウォーズ』のヨーダの言葉を連想させます。 「もし暗い道を歩き始めると、その道はあなたの運命を支配します。その道はあなたを食い尽くしてしまいます。」

結局、ヨーダの言葉は完全に正しかったわけではありません。アナキン・スカイウォーカーは最終的にその道から脱出しました。しかし、その前に、彼は自らの人生をめちゃくちゃにしてしまいました。

だから、パウロはガラテヤ人たちに警告しました。 「割礼を受けるな。それを受ければ、律法に従う義務はそれだけでは終わりません。むしろ、あなたはすべての律法を守らなければならなくなるのです。

毎日毎日、一瞬一瞬、その律法を完全に守っているかどうかを気にしなければならなくなります。そして、その恐れがあなたの思いを支配し、神様があなたのために望まれた自由と喜びを失ってしまうのです。」

あなたは最終的にその道を抜け出せるかもしれません。しかし、その日が来るまで、あなたのクリスチャン生活は混乱してしまうでしょう。

さらに、律法主義の生き方によって、あなたは周りの人々を裁き始め、彼らの人生も混乱させてしまうかもしれません。

あなたはどうでしょうか。毎日、神様の恵みによって歩んでいるでしょうか。もしかすると、プライドによって歩んでいるかもしれません。または、神様の裁きを感じ、常に罪悪感を抱いているでしょうか。

ほかの人があなたの歩みを妨げることを許さないでください。

神様があなたをご自身の子供として受け入れてくださったことを覚えていてください。そのことを忘れずにいるならば、神様の計画のもとで、あなたは神様の子供として自由と喜びを知ることができるのです。

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ルカの福音書 ルカ11章

律法主義という問題

イエス様はパリサイ人たちを批判された後、律法学者たちにも言及されました。

イエス様はこう言われました。

おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本さわろうとはしない。(ルカの福音書11:46)

この箇所では、私たちは律法主義がなぜそんなに悪いのかを学びます。

第一の理由は、律法主義が人々に耐えられないほどの重荷を負わせ、その重荷を取り除く希望が全くないことです。つまり、律法学者たちは神様の律法に多くの余計な規則を加えたのです。

例えば、律法では安息日に仕事をすることが禁じられていましたが、律法学者たちは「仕事」の定義を極めて細かく設定していました。

例えば、安息日に女性はアクセサリーを付けてはいけませんでした。なぜなら、もし彼女たちがアクセサリーを外そうとすると、それを手に持たなければならず、それが「重荷」とみなされるため、安息日の律法を破ることになってしまいます。

また、安息日に歩く距離にも制限がありました。もし 2.5キロメートル 以上歩いてしまうと、安息日の律法に違反することになってしまいます。

このような余計な規則は何百もありました。そして、これらの規則を破ると、律法学者たちから責められることになりました。

律法学者の規則は今では存在しませんが、今日のクリスチャンたちはどれほど他のクリスチャンに余計な規則を押し付けているでしょうか。聖書には記されていないにもかかわらず、それを守るべきだと考えるのです。

例えば、「酔ってはならない」という戒めではなく、「一切お酒を飲んではならない」と言います。

または、「映画を見てはならない。」

または、「踊ってはならない。」

こうした規則は、もう一つの問題につながります。それは、人を裁く態度です。

つまり、「あなたはその規則を守らないから、良いクリスチャンではない。」という考え方です。

さらに、「私は規則を守っている」と思うことで、プライドを感じます。

しかし、たとえ規則を守ったとしても、パリサイ人のように公義と神への愛と憐れみを忘れてしまいます。彼らは自分を正しい人間だと思いますが、神様の目にはパリサイ人や律法学者たちと変わりません。

けれども、律法主義の最も恐ろしい問題は、律法が正しいことと悪いことを教える一方で、正しいことを行う力を与えないことです。むしろ、人が失敗すると、律法は彼らを裁くばかりです。そのため、人々は何度も失敗し、やがて絶望してしまうのです。

イエス様の時代、多くの人々がそのように感じていました。彼らは律法学者の規則を守ろうとしましたが、できませんでした。

そして、彼らが律法学者に「どうすればよいでしょうか」と尋ねると、「もっと努力しなさい」と言われました。

つまり、律法学者たちは彼らを決して助けようとはしなかったのです。

たとえあなたが余計な規則を捨て、モーセの律法だけを守ろうとしても、その律法にはあなたを救う力はありません。最終的に、あなたはパウロのようにこう叫ぶでしょう。

私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ7:24)

しかし、イエス様の時代の人々とは異なり、パウロは希望を持っていました。

私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。(ローマ7:25)

律法主義はあなたを救うことができません。律法はあなたを救うことができません。

でもイエス様は、十字架の働きを通して、あなたを救うことができます。イエス様は十字架で私の罰を受けたから。だから、パウロはこう言いました。

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(8:1)

だから、律法主義を捨てましょう。プライドと絶望も捨てましょう。むしろ、イエス様とその十字架に向かいましょう。

そうすれば、私たちは赦され、神様を喜ばせる力を受けるのです。

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マタイの福音書 マタイ15章 マタイ16章 マルコの福音書 マルコ8章

律法主義?それとも、この世を愛する?

私は、このブログで何度も言っていることですが、牧師のメッセージを聞くときも、ポッドキャストを聞くときも、クリスチャンの本を読むときも、その教えを必ず聖書と比べるべきです。

実際、このブログの記事も同様です。私が書く内容も、聖書と比べて確認する必要があります。(あなたがこのブログを読まれる際、ぜひ聖書の箇所も読んで、私の言葉を確かめてみてください。)

さて、この箇所では、私たちがなぜ人々の教えを聖書と比べるべきなのか、その重要性を学ぶことができます。

この箇所では、イエス様が5000人にパンを与える奇跡を繰り返されます。けれども、この出来事はまったく別のものです。人数も異なり、パンと魚の数も違っています。

その奇跡の後、パリサイ人たちとサドカイ人たちがイエス様のもとに来ました。(もしかすると、サドカイ人たちの中にはヘロデ王に従う者も含まれていたかもしれません。)

彼らは再びイエス様に天からのしるしを求めましたが、イエス様はそれを断られました。そして、その会話の後、イエス様は弟子たちにこう言われました。

パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。(マタイ16:6)

(マルコによれば、イエス様は「ヘロデのパン種に十分気をつけなさい」と言われました。多分、イエス様はヘロデに従うサドカイ人たちについて話されたのでしょう。)

いつものように、弟子たちは混乱しました。

「私たちはパンを持っていない。でも、もしかすると、パリサイ人やサドカイ人からパンを買うことは禁止されているのではないでしょうか。」

しかし、イエス様は彼らを叱られました。

「なぜ、パンについて話しているのですか。あなたたちは、私が5000人にパンを与えた時、また、4000人にパンを与えた時のことをもう忘れてしまったのですか。私は、そんなパンについて話しているのではありません。」

そして、マタイはこう記しています。

彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。(マタイ16:12)

彼らの教えは何だったでしょうか。

パリサイ人の教えは律法主義でした。彼らは、自分の良い行動によって神様の国に入ることができると考えました。だから、彼らは律法を勉強し、その律法に従おうと懸命に努力しました。

ところが、彼らは神様の律法に多くのルールを加えたため、人々に神様が意図されなかった重荷を負わせました。それだけでなく、彼らは自分たちが加えたルールを守らない人々を批判しました。

さらに、彼らは神様の律法に反するルールさえも作り上げました。

それだけではなく、彼らは律法の細かな点に集中しすぎたため、その律法の精神を見逃してしまいました。その結果、彼らは誤って人々を裁き、本当の正義と憐れみを忘れてしまったのです。他の箇所を読むと、そのことがより明確にわかります。

一方、サドカイ人たちは富と力に強い関心を持っていました。そのため、彼らはローマ帝国(およびヘロデ王)と協力しました。また、彼らは復活を信じていませんでした。そのため、永遠の物ではなく、一時的な物事に重点を置いていました。

だからこそ、イエス様は律法主義とこの世を愛することに対して警告を発せられたのです。どちらもパン種のように教会の中に広まり、やがて神様がその教会を用いられなくなる原因となるからです。

残念ながら、その時代の多くの人々は、パリサイ人とサドカイ人の教えを吟味しませんでした。

そのため、彼らは律法とルールに押しつぶされ、神様に裁かれると感じました。また、別の人々は永遠の物に目を向けることなく、一時的な物のためだけに生きていました。

では、あなたはどうでしょうか。あなたは、この二つの罠に陥っていないでしょうか?