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士師記のデボーション

後悔のない歩み

ルベンの諸支族の決意は固かった。なぜ、あなたは二つの鞍袋の間に座って、羊の群れに笛吹くのを聞いていたのか。ルベンの諸支族の間には、深い反省があった。

ギルアデはヨルダンの川向こうにとどまった。ダンはなぜ船に残ったのか。アシェルは海辺に座り、その波止場のそばにとどまっていた。(士師記5:15-17)

天のお父さん、人生の終わりに、後悔のない心で自分の歩みを振り返ることができますように。

人々が敵であるサタンから虐げられていたのに、私が自己満足のまま座って彼らを無視していたという後悔。

人々に霊的なニーズが多くあったのに、私が座り、自分のところにとどまっていたという後悔。

天のお父さん、私にあなたの心を与えてください。人々を憐れむ心。人々の人生を滅ぼしている敵と戦う心。

あなたに対する熱心、イエス様が死んでくださった人々に対する熱心を与えてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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コリント人への手紙第二のデボーション

癒しがない?赦しがない?

私たち皆、後悔することがあります。そして、自分の罪と失敗の結果を見ると、罪悪感に圧倒される時もあります。

確かに、私たちの敵であるサタンは、私たちが自分の罪の重さに押しつぶされることを望んでいます。

けれども、神様は何を望んでおられるのでしょうか。

さまざまな意味で、パウロの心は私たちの天の父の心を映しています。

パウロは手紙を書きながら、コリント人たちを彼らの罪のために責めていました。その手紙を読んで、彼らは罪悪感を抱き、悲しみました。

それでも、パウロはその悲しみについて何と言ったでしょうか。

今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。

あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちから何の害も受けなかったのです。(コリント人への手紙第二7:9)

人に傷つけられるとき、私たちはよく、相手が自分の悪さを認め、苦しむことを望みます。相手が罪悪感に押しつぶされるのを見て、私たちは喜んでしまうことがあります。

実のところ、私たちが相手の苦しみによって滅びることを望む時さえあります。

しかし、パウロはそう望みませんでした。コリント人たちが害を受けることを望んだわけではありません。パウロが望んだのは、ただ彼らが悔い改めることでした。

私たちの天の父も、同じことを望んでおられます。

罪の結果は、本当に苦しい時もあります。圧倒的な罪悪感に押しつぶされそうになることもあります。

けれども、神様が私たちを押しつぶしたいわけではありません。むしろ、神様が望んでおられるのは、私たちが悔い改めることです。そして、悔い改めるなら、その結果は死ではなく、癒しです。

パウロはこう言っています。

神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(10節)

もしかしたら、あなたは罪悪感に押しつぶされそうになっているかもしれません。「私には癒しがない。赦しがない。」と思っているかもしれません。

しかし、癒しはあります。赦しもあります。

必要なのは、ただ悔い改めることです。自分の罪を認め、神様の赦しを願うなら、神様は必ず赦してくださいます。

「さあ、来たれ。論じ合おう。」──主は言われる──

「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。 たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ書1:18)

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コリント人への手紙第一

後悔

私たちは皆、後悔を抱えています。もちろん、私も後悔があります。例えば、過去に人を傷つけてしまったことがあり、その出来事を変えたいと思うことがあります。

また、後悔している決断もあります。例えば、私は長い間、日本に来ることについて迷い続けていました。もしもっと早くその決断を神様に委ねていたら、大学で日本語を専攻し、英語を教える授業を受けることができたでしょう。

けれども、自分の過去を変えることはできません。誰も過去を変えることはできないのです。では、どうすればよいでしょうか。

コリントの人々も同じ疑問に直面しました。ある人々はクリスチャンになる前にノンクリスチャンと結婚しましたが、クリスチャンになった後で「ノンクリスチャンとの結婚は避けるべきだ」というパウロの教えを聞きました。

そこで彼らは、「離婚した方がよいのだろうか」と問いかけました。しかし、パウロはこう答えました。

「そんな必要はありません。もし相手があなたと共に住み続けたいと望むなら、離婚してはいけません。」

ほかの異邦人は、クリスチャンになる前にユダヤ教を信じていたため、割礼を受けました。けれども、クリスチャンになった後、「異邦人は割礼を受けるべきではない」というパウロの教えを聞いたのです。

そこで、彼らは問いかけました。「割礼の跡をなくした方がよいでしょうか。」

しかし、パウロはもう一度答えました。「その必要はありません。」

また、別の人々は、クリスチャンになる前に借金のために自分自身を奴隷として売りましたが、後になって後悔しました。けれども、パウロは彼らにこう言いました。

「自分の自由を得られるなら、もちろんその自由を得てください。しかし、もし自由を得られないなら、心配しないでください。」

要するに、パウロの教えはこうです。

それぞれ自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。(コリント人への手紙第一7:20)

要するに、過去の決断によって困難な状況にあったとしても、その後悔に囚われないようにしましょう。たとえ今その状況に置かれていても、神様はあなたを用いることができます。

おそらく、割礼や奴隷になったことを後悔する人はもういないでしょう。

けれども、ノンクリスチャンと結婚しているクリスチャンは今もいます。神様は彼らに語ります。

「その結婚から逃げてはいけません。あなたを通して、私はあなたの家族に触れるのだから。」

また、あるクリスチャンは離婚し、別の人と再婚しました。あるいは、元夫や元妻がすでに再婚しているかもしれません。

そのような人々に神様は語ります。

「心配しないでください。むしろ、今の配偶者に仕え、子供の世話をしなさい。そして、周りの人々にも私のために触れなさい。」

他のクリスチャンの中には、自らの罪のゆえに刑務所にいる人もいます。神様は、そうした人々にも語りかけておられます。

「それで大丈夫です。もし仮釈放が許されるなら、それは素晴らしいことです。しかし、もしそれが叶わないなら、そのまま刑務所にとどまりなさい。なぜなら、私は刑務所の中でもあなたを用いることができるのだから。」

要するに、どのような状況にあっても、どれほど過去に失敗していたとしても、神様はあなたを用いることができます。

だから、パウロはこう語ります。

ただ、それぞれ主からいただいた分に応じて、また、それぞれ神から召されたときのままの状態で歩むべきです。私はすべての教会に、そのように命じています。(17)

また、

兄弟たち、それぞれ召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。(24)

だから、自分の後悔に囚われないようにしましょう。むしろ、神様が今語っていることに心を向け、それに従いましょう。過去に起こったことよりも、今の神様の導きがより重要なのです。

パウロの言葉を借りるなら、

重要なのは神の命令を守ることです。(19)

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エズラ記

喜びと後悔

この箇所では、私たちはいくつかのことを見ます。

一つ目は、ユダヤ人たちがもう一度いけにえと捧げ物を捧げ始めたということです。また、何年かぶりに彼らは仮庵の祭りを祝いました。

二つ目は、彼らが主の宮を再建し始めたということです。そして、神殿の礎を据えたとき、彼らは大いに喜びました。

11節には、こう書かれています。

そして、彼らは主を賛美し、感謝しながら、互いに、「主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と歌い合った。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな、主を賛美して大声で喜び叫んだ。(エズラ記3:11)

けれども、同時に、泣いている人もおり、その涙は喜びのためではありませんでした。

しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、最初の宮を見たことのある多くの老人たちは、彼らの目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。

一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。そのため、だれも喜びの叫び声と民の泣き声とを区別することができなかった。民が大声をあげて喜び叫んだので、その声は遠い所まで聞こえた。(12-13)

どうして彼らは泣いていたのでしょうか。おそらく、彼らにはほろ苦い思いがあったのだと思います。彼らは愛する宮の再建を見て、喜びました。それでも、ソロモンの宮と比べると、その新しい宮には栄光がありませんでした。

時々、私たちの悪い決断によって、私たちの人生はめちゃくちゃになります。つまり、私たちの罪によって、私たちの結婚や、健康や、家計を壊してしまいます。

そして、私たちが悔い改めると、神様は私たちを赦してくださいます。また少しずつ、神様は私たちの人生を癒し始めます。その癒しによって、私たちは喜びます。

しかし同時に、私たちは振り返って後悔します。私たちが人生の被害を見て、だんだん私たちの関係や、私たちの人生は癒されているけれど、そのプロセスは苦しいです。そして、私たちが再建するものは以前のものほど、あまり良くないと思います。

それでも、あなたの後悔によって圧倒されないようにしましょう。私たちが悔い改めると、神様は私たちが自分の失敗とその結果に焦点を当てることを望んでおられません。

むしろ、私たちが神様の赦しと恵みに休んで、未来に焦点を当てることを望んでおられます。そうすれば、神様は私たちのすべての涙をすっかりぬぐい取ってくださり、神様の栄光は私たちを通してもう一度輝き始めます。

パウロの言葉を覚えておきましょう。

神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせます。。。(第二コリント7:10)