カテゴリー
ルカの福音書のデボーション

深く掘り下げる?

なぜあなたがたは、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。

わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人がみな、どんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。

その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、家を建てた人に似ています。(ルカの福音書6:46ー48)

天のお父さん、 聖書を読むとき、どうか私があなたの御言葉をただ表面的に読むのではなく、その意味を深く考え、思いを巡らすよう導いてください。

私があなたの御言葉を理解し、それを通してあなたが私に何を語られるのかを知ることができるように、求める心を与えてください。

イエス様、私があなたを「主よ、主よ」と呼びながら、あなたの御言葉に従わない者にならないようにしてください。

あなたは私の王です。あなたが良い王であることを信じています。だからこそ、あなたの御言葉に聞こうとする耳と、喜んで従う心を与えてください。

カテゴリー
申命記のデボーション

 私のすべて

あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに守り行いなさい。

右にも左にもそれてはならない。 あなたがたの神、主が命じられた道をあくまで歩み続けなければならない。

あなたがたが生き、幸せになり、あなたがたが所有するその地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。(申命記5:32ー33)

天のお父さん、あなたの御言葉は命です。ですから、どうか私がその御言葉から右にも左にもそれないように助けてください。

私が古い考え方を手放し、あなたの戒めの全体に従うように助けてください。

その一部ではなく、一部さえを除かずに全体に従うように助けてください。

どうかあなたを恐れる心を与えてください。あなたを敬う心を与えてください。

私のすべてをあなたに捧げたいのです。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

神様の言葉を理解する鍵

多くのクリスチャンは、「聖書をもっと理解できたらいいのに」と言います。(あなたも、そう思ったことがあるかもしれません。)

今日の箇所で、イエス様は、私たちが聖書をより深く理解するための道を教えてくださいます。

第一の鍵は、自分の心を神様のみ言葉に開くことです。イエス様は、私たちが理解できる範囲で、みことばを教えてくださいます。(33節。ギリシャ語では、「聞く」という言葉に「理解する」という意味も含まれています。)

しかし、イエス様は二度、同じことを繰り返されます。「聞く耳のある者は、聞きなさい」(マルコの福音書4:9、23)

多くの人々の問題は、理解できるみ言葉を歓迎しないことです。

むしろ、彼らは神様と議論しようとしたり、神様のみ言葉を無視したりします。

だからこそ、イエス様はこう言われるのです。

聞いていることに注意しなさい。あなたがたは、自分が量るその秤で自分にも量り与えられ、その上に増し加えられます。

持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っているものまで取り上げられてしまうからです。(マルコの福音書4:24-25)

聖書を理解する鍵は、ただ知らないことをたくさん学ぶことではありません。理解の鍵は、すでに把握しているみ言葉を実践することです。

もう一度言います。多くのクリスチャンの問題は、聖書についての知識が少ないことではありません。問題は、すでに把握しているみ言葉を実践しないことです。さらに、み言葉に逆らってしまうこともあります。

もし、あなたがすでに把握していることを実践するなら、神様はあなたの聖書理解をさらに深めてくださいます。

しかし、そうしないなら、あなたはイエス様が批判された人々のようになってしまいます。つまり、見るには見るが、知ることはなく、聞くには聞くが悟ることはない者となるのです。(12)

あなたは聖書をもっと理解したいと願っていますか。すでに把握しているみ言葉を、どれだけ実践しているでしょうか。

カテゴリー
ペテロの手紙第二

どうして私たちは神様の御言葉を知らなくてはならないのか

前回の記事で私たちが学んだのは、私たちの信仰が自分の経験だけに基づくだけでなく、神様の御言葉にも基づいているということです。

今日の箇所では、ペテロが、なぜ私たちが神様の御言葉をよく知っていなければならないのかを説明します。

その理由は、教会に入り込む偽教師たちの存在です。ペテロは次のように言いました。

しかし、御民の中には偽預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れます。

彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むようになります。自分たちを買い取ってくださった主さえも否定し、自分たちの身に速やかな滅びを招くのです。(ペテロの手紙第二2:1)

その教師たちは何を教えていたのでしょうか。彼らは基本的に、クリスチャンたちが好き勝手に生きても良いと教えました。彼らは、私たちが自分の情欲に従っても、神様は気にされないと教えました。

その教師たち自身がそのように暮らしていました。彼らは人前で罪を犯しました。教会で皆が一緒に食事をした時、彼らは酔っぱらったそうです。また、彼らは多くの教会の女性たちと寝ました。(13-14)

さらに、彼らはお金に執着していました。彼らが教会で教えた時、彼らの目的は教会の人たちからお金を奪うことでした。(14)

おまけに、彼らは自分の行為を正当化しようとしました。彼らによれば、その生き方によって、私たちは本当の自由を知るのだと主張しました。(18-19)

ペテロは彼らに関してこう言いました。

その人たちに自由を約束しながら、自分自身は滅びの奴隷となっています。人は自分を打ち負かした人の奴隷となるのです。(19)

ペテロによれば、彼らがイエス様を決して聞かないままであった方が良かったのです。なぜでしょうか。

彼らは真理を初めて聞いたとき、自分を奴隷にしていたものから逃れました。しかし、今や彼らはそこに戻ってしまいました。

彼らが真理を知らない間は、まだ真理を聞き、罪から救われる可能性がありました。

ところが、彼らは真理を知るようになり、その真理の甘さを味わいました。それにもかかわらず、彼らは結局、真理を拒絶しました。

では、彼らには救われる可能性があるでしょうか。ほとんどありません。彼らが悔い改めない限り、救われる可能性はゼロです。

さらに、神様は彼らをもっと厳しく裁かれます。なぜなら、彼らは無知によって罪を犯したのではなく、神様の真理を知りながら、あえて罪を犯したからです。(20-21)

ペテロは彼らに関して、こう言いました。

「犬は自分が吐いた物に戻る」、「豚は身を洗って、また泥の中を転がる」という、ことわざどおりのことが、彼らに起こっているのです。(22)

でも覚えておきましょう。彼らの教えに従うと、私たちも同じ落とし穴に落ちてしまうのです。

だから、私たちが自分に問わなければならないのは、どれだけ聖書を知っているかということです。

もし、誰かが嘘を教えると、その嘘を見破ることができるでしょうか。

私たちはどのように嘘を見破ることができるのでしょうか。

銀行員たちは偽札を勉強しません。逆に、彼らは本物の札によく馴染み、偽札に触れる瞬間、何か違うと分かります。

あなたは神様のみ言葉をそれだけ知っているでしょうか。あなたはそれだけ知っているはずです。そうであれば、あなたが騙される恐れはありません。

あなたはどれだけみ言葉を知っているでしょうか。

カテゴリー
ヘブル人への手紙

真の成熟

あるクリスチャンたちは、自分の信仰が成長することを願い、単に福音の初歩だけでなく、聖書のより深い真理を学びたいと望んでいます。

けれども、彼らには一つ、自らに問いかけるべきことがあります。それは──「私の心は、その備えができているだろうか」ということです。

この手紙を読んだ人々の心は、まだその備えが整っていなかったようです。

そのため、この著者は彼らにこう語ったのです。

このメルキゼデクについて、私たちには話すことがたくさんありますが、説き明かすことは困難です。あなたがたが、聞くことに対して鈍くなっているからです。

あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。

あなたがたは固い食物ではなく、乳が必要になっています。(ヘブル人への手紙5:11-12)

「乳」とは何でしょうか。6章において、著者はその意味を明らかにしています。それは、罪を悔い改めること、神様に対する信仰、バプテスマ、手を置く儀式(特に聖霊を受けること)、復活、そして裁きの日などのことです。

これらは、クリスチャンとしての初歩的な真理です。もちろん、私たちはそれらを知らなければなりません。けれども、それらはあくまでも出発点に過ぎません。

その道の終着点は何でしょうか。それは、健全で完全な歩みです。

しかし、そのような人生を得るためには、ただ聖書を聞くだけでなく、それを私たちの生活に適用しなければなりません。

私たちは、神様が私たちを愛し、最善を願っておられることを信じなければなりません。そして、自分が罪に対して死に、イエス様にあって新しく造られた者として生きるように召されていることを信じるべきです。

私たちの行いや思い、そして人生のすべてが神様の愛に彩られるほどに、私たちは神様を愛し、神様の救いの御業を心から感謝すべきです。

簡単に言えば、私たちのうちに働いてくださっている聖霊様の力によって、私たちは罪を捨て、義を身にまとい、日々ますますイエス様に似た者とされるべきです。

それこそが、真の成熟です。

成熟とは、単に神様の深い真理を知っていることではありません。成熟とは、人生のあらゆる面においてイエス様に似た者として生きることです。

言い換えれば、私たちは健全な人、完全な人へと成長していくのです。すなわち、神様が初めから計画しておられたとおりの歩みをすることです。

けれども、未成熟な人たちの内面はまだ不完全なままです。彼らは健全な人生の意味すらも理解できません。この手紙の著者は、そのような人々について、こう語っています。

乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。(13)

これに対して、著者は成熟した人について、こう語っています。

固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。(14)

真に成熟した人は、御言葉を聞いて実践します。そして、その人は御言葉を実践すればするほど、「健全な人生」の意味が分かるようになります。何が善であり、何が悪であるかを見分けることができるようになるのです。

しかし、多くのクリスチャンは学ぶのが遅く、聞くことに対して鈍くなっています。

心はどのように鈍くなるのでしょうか。

たとえば、私たちが御言葉を聞いて心を動かされたとしても、それに何の応答もしなければ、結果として心は固くなります。そして、心を固くすればするほど、ますます鈍くなっていきます。

やがて、御言葉を受け入れられなくなってしまうのです。その結果どうなるでしょうか。私たちは未成熟で、不完全な人生、壊れた人生を送ることになるのです。

あなたはどうでしょうか。あなたは、ただ御言葉を聞くだけですか。それとも、その御言葉を実践していますか。

神様は、私たちが完全で健全な人生を送ることを願っておられるのです。けれども、私たちが心を固くするならば、それは実現しないのです。

あなたは、成熟した人でしょうか。

カテゴリー
詩篇

神様はどのようにご自身を示されるのか

私は、詩篇19篇が大好きです。この詩篇で、神様がどのようにご自身を現されるかを教えてくださいます。

最初に、神様は被造物を通してご自身を現しておられます。ダビデはこう歌いました。

天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。

昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。

話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。

しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。(詩篇19:1-3)

多分、パウロはこの詩篇について考えたとき、この言葉を書いたでしょう。

それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。

神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。(ローマ1:19-20)

時々、人々はこう訊きます。「神様について聞いたことがない人はどうなるでしょうか。彼らはキリストの名前について聞いたことがないのに、裁かれるのでしょうか。」

その答えは、「はい、裁かれます。」

けれども、その理由は、彼らがキリストの名前を聞いたことがないから裁かれるわけではありません。彼らが知っていることによって裁かれます。

つまり、彼らは被造物を見た時、心の中で、この世が偶然の産物ではないと悟ることができます。

また、彼らの偶像がこの世を造ることができなかったと分かったと思います。なぜなら、彼らは自分の手でその偶像を造ったからです。それでも、彼らはその知識を拒絶しました。

人々が神様が与えてくださった知識を拒絶するなら、神様がもっと情報を与える義務はありません。もし、神様がもっと情報を与えるのであれば、それはただ恵みによって与えてくださるのです。私たちはその情報を持つ権利がありません。

実は、神様についての情報のすべては賜物なのです。

しかし、もし福音が届かない国の人が、空を仰いで、「私はこの世を造らなかった。私が知っている人々もこの世を造らなかった。私が作った偶像もこの世を造らなかった。だから、この世を造った方、自分自身を私に現してください。」と言うなら、神様はきっとその人の祈りに応えるでしょう。

どうして私はそう信じるのでしょうか。それは、パウロがこう書いたからです。

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。(第一テモテ2:4)

そのことを疑うなら、コルネリオの話を読んでください(使徒の働き10章)。

彼はイエス様を救い主として受け入れなくてはならないことを知りませんでした。けれども、彼は神様について聞いたことを信じたので、神様はもっと情報を与えました。

つまり、神様はペテロを送って、ペテロがコルネリオとその家族にイエス様のことを伝えたので、彼らは信じて救われました。

神様は被造物を通してご自身を現されますが、御言葉を通しても現されます。そして、被造物の知識のように、人々はその御言葉を信じるかどうか選ばなくてはなりません。

私たちは、その言葉が完全で確かなものであることを信じるかどうか選ばなくてはならないのです。(7)

神様の御言葉が正しいものであることを信じるかどうか選ばなくてはならない。(8)

神様の言葉が私たちに喜びと光を与えるものであることを信じるかどうか選ばなくてはならない。(8)

ダビデは信じることを選びました。けれども、多くの人はその選択をしません。

しかし、私たちが神様の御言葉をどのように考えるかは、私たちが神様をどのように考えるかに影響を与えます。もし神様の言葉を拒絶すると、私たちの神様についての考え方は間違ってしまいます。

けれども、私たちが神様をありのままに見ると、私たちは神様を愛し、喜ばせたいと望むようになります。ダビデもそうしました。だから、彼はこう祈りました。

だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。

あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。

私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。(詩篇19:12-14)

カテゴリー
エレミヤ書

燃えさかる火のような言葉

「もう黙った方が良いんじゃない?あなたが神様の言葉を述べ伝えると、いつもトラブルが起こるから。」

エレミヤの家族は、エレミヤにそのようなことを言ったかもしれません。また、エレミヤ自身もそのように考えたかもしれません。

ある日、神様はエレミヤに、民の長老と年長の祭司のうちの数人の前で土の焼き物の壺を壊すように命じられました。その際、エレミヤは彼らに裁きについて警告しました。つまり、ユダがその壊れた壺のようになることを伝えたのです。

エレミヤは彼らに警告した後、宮の庭に行き、皆の前で同じメッセージを伝えました。

しかし、祭司パシュフルはエレミヤの言葉を聞くと、彼を打ち、足かせにつないだのです。

そのため、エレミヤは神様に文句を言いました。

主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました。あなたは私をつかみ、私を思いのままにしました。

私は一日中、物笑いとなり、みなが私をあざけります。

私は、語るごとに、わめき、「暴虐だ。暴行だ」と叫ばなければなりません。

私への主のみことばが、一日中、そしりとなり、笑いぐさとなるのです。(エレミヤ書20:7-8)

でも、エレミヤはこう言いました。

私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。(エレミヤ書20:9)

この箇所では、エレミヤの感情は非常に混乱しています。

11-13節では、エレミヤは主への信仰をもって、こう語りました。

主は私とともにあって、横暴な勇士のようです。ですから、私を追う者たちは、つまずいて、勝つことはできません。彼らは成功しないので、大いに恥をかき、それが忘れられない永久の恥となりましょう。。。

主に向かって歌い、主をほめたたえよ。主が貧しい者のいのちを、悪を行なう者どもの手から救い出されたからだ。(エレミヤ書20:11,13)

でも、14節では、彼はこう言いました。

私の生まれた日は、のろわれよ。母が私を産んだその日は、祝福されるな。

しかし、エレミヤは黙ることができませんでした。なぜなら、神様の言葉がエレミヤの心の中で燃えさかっていたからです。

あなたはどうでしょうか。神様の言葉はどれほどあなたの心の中で燃えさかっていますか。その言葉は消えやすい火花でしょうか。それとも、消されることのない燃えさかる火でしょうか。