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マルコの福音書のデボーション

神様から与えられた仕事に忠実であること

気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。

それはちょうど、旅に出る人のようです。家を離れるとき、しもべたちそれぞれに、仕事を割り当てて、責任(別訳:権限)を持たせ、門番には目を覚ましているように命じます。

ですから、目を覚ましていなさい。家の主人がいつ帰って来るのか。。。分からないからです。(マルコの福音書13:33ー35)

主人は「しもべたちそれぞれに、仕事を割り当てて、権限を持たせました。」

そのことばが、私の目に留まりました。

イエス様は、いつかこの世に帰って来られます。でもその間、イエス様は私たち一人ひとりに仕事を割り当ててくださり、その仕事を果たすための権限も与えてくださいました。

私たちは、神様から与えられた仕事を果たすのに、他人の許可を求める必要はありません。ただ、その仕事に忠実であるべきです。

最近、私は自分自身のことを考えています。できる限り、神様から与えられた仕事を果たそうとしています。でも、自信がなくて、失敗を恐れて、ためらうことがあります。

その恐れを乗り越えなくてはなりません。その点で、私は成長しようとしています。恐れずに、大胆に、神様から委ねられた仕事を果たしたいのです。

あなたはどうでしょうか。神様は、あなたにどんな仕事を割り当てられたでしょうか。神様があなたに触れさせるために与えた人は、誰でしょうか。あなたは忠実に、神様に仕えているでしょうか。

イエス様、あなたが帰って来られる日を待ち望みながら、私があなたから与えられた仕事に忠実であるように。

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詩篇のデボーション

正しい物の見方を保つ

今朝、詩人の言葉は私の心を打ちました。

主に感謝することは良いことです。いと高き 方よ、あなたの御名をほめ歌うことは。朝に、あなたの恵みを夜ごとにあなたの真実を告げることは。(詩篇92:1-2)

正直に言うと、私はその言葉にもっと従うべきです。

多くの場合、朝に私が起きるとき、私が最初に聞くのはニュースです。でも、そうすると、全然、神様を賛美する気になりません。逆に、多くの場合、ニュースは私の態度に悪い影響を与えてしまいます。

また、寝る前に、私は神様の真実をあまり考えません。

もし、毎朝、私が神様の恵みを喜び、また、毎晩、私が神様の真実を告げるなら、どれだけ、私の態度は変わるでしょうか。起きる時と寝る時だけではなく、私の態度は一日中どれだけ変わるでしょうか。

 

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テモテへの手紙第ー

神の群れを導く

この箇所全体を読むとき、パウロのことばが私の心に深く響いてきます。テモテに語りかけるパウロのことばには、確かな力と緊張感があります。

そのことばによって、テモテは神様の召しに従い、教会のリーダーとして立ち上がるように励まされ、挑戦されたのです。そして現代の牧師たちも、このことばをしっかりと心に留めていなければなりません。

では、パウロは何を語ったのでしょうか。

まずパウロは、神様の御言葉をクリスチャンたちに忠実に教えるよう、テモテに命じました。この世では、神様の教えがねじ曲げられ、多くの人々が善を「悪」と呼び、悪を「善」と呼んでいます。

けれども、パウロは妥協せず、神様の御言葉をはっきりと教えました。だから彼は、テモテにこう語ったのです。

これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたは、信仰のことばと、自分が従ってきた良い教えのことばで養われて、キリスト・イエスの立派な奉仕者になります。(テモテへの手紙第一4:6)

言い換えれば、こういうことです。「あなたは、忠実で立派な奉仕者になりたいと願っているのですか。それなら、神様があなたにゆだねられた神の群れに対して、神様の真理を正しく、余すところなく伝えなさい。」

パウロはこの命令を、さらに力強く語っています。

あなたはこれらのことを命じ、また教えなさい。(11)

テモテが人々に教えるべきであったのは、敬虔な歩みをすることでした。そしてまた、私たちの救い主である神にある希望を示すことでもありました。

けれども、教えるときには、テモテは自分の知恵によってではなく、神様の知恵を土台として語らなければなりませんでした。

そのためにパウロは、彼にこう語ったのです。

私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。(13)

多くの牧師たちは、良いことや聖書的な内容を教えていますが、 そのメッセージの中心が、聖書そのものではなく、自分たちの思いや経験に傾いてしまうことがよくあります。

しかしパウロは、テモテにこう命じました。「聖書の朗読と、勧めと、教えに専念しなさい。聖書から出発し、神様が語られたことを忠実に伝えなさい。自分の意見ばかりを語ることがあってはなりません。」

さらにテモテは、そのことを人々に教えるだけではなく、自らも神様のことばに従って歩まなければなりませんでした。だからこそパウロは、彼にこう語ったのです。

あなたは、年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。むしろ、ことば、態度、愛、信仰、純潔において信者の模範となりなさい。(12)

テモテは、教会の多くの人々よりも若かったようです。しかしパウロは、テモテにこう語りました。「あなたは若いかもしれないが、クリスチャンたちのために良い模範となりなさい。あなたの生き方、愛し方、信仰、純潔において、模範となるのです。」

もしかすると、ある偽教師たちはテモテを威圧し、黙らせようとしたのかもしれません。けれどもパウロは、彼に思い出させました。「神様はあなたに賜物を与えてくださいました。その賜物を軽んじてはなりません。」(14節)

そしてその後、パウロはさらにこう語ったのです。

これらのことに心を砕き、ひたすら励みなさい。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。(15)

言い換えれば、こういうことです。

「あなたは勤勉に神様のことばを教えなさい。そして、敬虔な歩みを全力で追い求めなさい。 そうすれば、人々はあなたがイエス様の恵みと知識において日々成長している姿を見て、あなたの模範に従うようになるでしょう。」

最後に、パウロは自らの指示を、このように結びました。

自分自身にも、教えることにも、よく気をつけなさい。働きをあくまでも続けなさい。そうすれば、自分自身と、あなたの教えを聞く人たちとを、救うことになるのです。(16)

もう一度パウロは、テモテに注意を促しています。誘惑に気をつけ、聖書を正しく教えることが求められていたのです。なぜでしょうか。それは、牧師として、リーダーとして、彼が担っている責任が非常に大きいからです。

もしテモテが、パウロからの教えに忠実に従うなら、自分自身だけでなく、神様の群れまでも救うことになるでしょう。しかしもし、それを怠るなら、その群れはテモテとともに滅び、神様は彼の責任を問われるのです。

牧師の務めは、軽んじられるべきものではありません。神様によって召された者だけが、その働きに立つべきなのです。もしあなたが、神様から牧師として召されているのであれば、あなたはパウロのことばを心に刻んでいなければなりません。

その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。(第一コリント4:2)

あなたはどうでしょうか。あなたは、忠実な者として歩んでいますか。

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コロサイ人への手紙

忠実

この箇所を一言でまとめるとすれば、それは「忠実さ」です。

テキコは「主にあって愛する兄弟、忠実な奉仕者、そして同労のしもべ」と呼ばれています。

オネシモはかつて不忠実なしもべでした(ピレモンへの手紙参照)が、今では「忠実な、愛する兄弟」となりました(コロサイ人への手紙4:9)。

アリスタルコは忠実な人だったので、主のためにパウロと共に牢に入っていました。

マルコはバルナバのいとこであり、かつてのオネシモのように不忠実な人でした。パウロとバルナバの宣教旅行に同行しましたが、その途中で彼は引き返してしまいました(使徒の働き13:13)。

けれども今、彼は忠実な人となり、ユストと共に、獄中のパウロを励ましています(コロサイ人への手紙4:10ー11)。

エパフラスは忠実にコロサイの人々のために祈りに励んでいました。さらに、彼は彼らのために多くの苦労を重ねていました(12ー13)。

残念ながら、デマスは最終的に不忠実な人となってしまいました。彼はこの世を愛して、パウロを見捨てたのです(第二テモテ4:10)。

そしてこの手紙を締めくくる前に、パウロはアルキポという人にひとこと訓戒を与えました。

主にあって受けた務めを、注意してよく果たすように。(コロサイ人への手紙4:17)

簡単に言えば、それは「忠実に生きなさい」ということです。

あなたはどうですか。あなたは忠実な人でしょうか。

もしあなたが、今の自分は忠実だと思うなら、どうかデマスの例を思い出してください。この世への愛ゆえに、忠実さを失ってしまってはなりません。

反対に、自分はまだ忠実とは言えないと思うなら、マルコやオネシモのことを思い出してください。彼らもかつては不忠実な者でしたが、神は彼らにもう一度チャンスを与えてくださいました。

同じように、神は今もあなたに、もう一つのチャンスを与えてくださるのです。

ですから、忠実に生きましょう。そうすれば、やがて裁きの日に、私たちは神に誉められるのです。

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コリント人への手紙第一

忠実であると認められること

使徒ヤコブは次のように記しました。

私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。(ヤコブの手紙3:1)

私は聖書を教える立場にあるため、それは私にとって少し恐れを感じる言葉です。神様は私にみ言葉を与え、そのみ言葉を教える賜物を委ねてくださいました。だから、パウロの言葉は私の心に深く響きます。

その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。(コリント人への手紙第一4:2)

しかし、私たちすべてが神様から託されたものを持っています。神様は私たちに多くの資源や賜物、才能を委ねてくださいました。そして、神様はそれらを忠実に用いることを私たちに期待されます。

もし私たちがそうしなければ、神様の前で責任を問われることになります。

神様は私たちの裁き主であるため、私たちは他の人以上に神様を喜ばせようとしなければなりません。最終的には、牧師や教会の人々、周囲の誰かではなく、ただ神様だけを喜ばせることが求められるのです。

だからこそ、私たちは常に自分の心を探るべきです。私たちの動機は何でしょうか。私たちは正しい動機を持って神様に仕えているでしょうか。

私自身も、自分の動機について疑問を抱くことがあります。裁きの日にキリストが私に何を語るかを思うと、少し恐れを感じます。イエス様は何を言われるでしょうか。

パウロにはやましいことは何ひとつありませんでしたが、それでも彼は自分の動機について慎重に考えていました。彼は次のように語りました。

しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません。

私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。

ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。

主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。(3-5)

おそらく、パウロの要点の一つは、私たちが自分の心をプライドから守る必要があるということです。自分の動機は正しいと思うかもしれませんが、その自己評価が正しいとは限りません。

預言者エレミヤは次のように記しました。

人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。(エレミヤ書17:9)

主は次のように応答されました。

わたし、主が心を探り、心の奥を試し、それぞれその生き方により、行いの実にしたがって報いる。(エレミヤ書17:10)

だから、どのようなことをするにしても、自分の心を探りましょう。また、主があなたの心を探ってくださるように祈りましょう。さらに、主が私たちの動機を明らかにしてくださるように祈りましょう。

そうすれば、私たちは謙遜な態度を保ち、神様から託されたものを忠実に用いることができるのです。

あなたはどうでしょうか。神様から託されたものを忠実に用いていますか。

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ルカの福音書 ルカ12章

イエス様の再臨に向けて準備できている?

イエス様は、偽善や貪欲、この世のものを慕うことに関して警告された後、もう一つの重要なことについて弟子たちに訓戒を与えられました。それは、イエス様の再臨に備えて、彼らがしっかりと準備をしておく必要があるということです。

そして、イエス様はこう言われました。

腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。

主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。

まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。(ルカの福音書12:35-37)

つまり、イエス様の再臨が訪れても、私たちは驚くべきではありません。私たちは常にイエス様を待ち望んでいるはずです。そのため、イエス様が来られたとき、私たちはすぐにその声に応えるべきです。

とはいえ、私は準備ができていないことが多いと認めなければなりません。なぜなら、ときにこの世のものに心を奪われてしまうことがあるからです。

だからこそ、イエス様は私たちに警告を与えられるのです。

ところが、もし、そのしもべが、「主人の帰りはまだだ」と心の中で思い、下男や下女を打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めると、しもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。

そして、彼をきびしく罰して、不忠実な者どもと同じめに会わせるに違いありません。(45-46)

私たちは「イエス様はいつでも戻られるかもしれない」とよく言いますが、その言葉を本当に信じているでしょうか。

私たちは「イエス様は今日戻られない」と明言することはないかもしれません。けれども、私たちがどれほどイエス様が決して再臨されないかのように生きているでしょうか。

だから、私たちは兄弟姉妹を傷つけたり、悪口を言ったりするのでしょうか。または、この世のものに心を奪われ、のめりこんでしまうのでしょうか。そのように生きるなら、私たちは裁かれるのです。

そして、イエス様はこう言われました。

主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。

しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。

すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(47-48)

要するに、あなたが知識を持てば持つほど、その責任も大きくなります。

とはいえ、「私は知らなかった」と言ったとしても、それは言い訳にはなりません。あなたは知るべきだったのです。神様の御心を積極的に求めるべきでした。そうしなければ、あなたは罰せられるのです。

これは非常に厳しい警告ですが、イエス様は希望に満ちた言葉も語られました。

では、主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な賢い管理人とは、いったいだれでしょう。

主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。わたしは真実をあなたがたに告げます。主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。(42-44)

もし私たちが忠実に神様に仕えるなら、イエス様の再臨の際に報いを受けることができます。

あなたはどうでしょうか。神様はあなたにさまざまな責任を委ねられましたが、その務めを誠実に果たしているでしょうか。あなたは忠実に仕えているでしょうか。

イエス様の再臨に向けて準備できているでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:姦淫

前回の記事では、イエス様が殺人について話されました。今回は、イエス様は姦淫について話されています。イエス様がそのことについて話されたとき、その言葉は宗教的リーダーたちの良心を貫いたかもしれません。

私が以前述べたように、パリサイ人たちは、律法の具体的な部分を守り、それを誇りにしました。けれども、彼らはその律法の精神を見逃してしまいました。

一例として姦淫があります。パリサイ人たちの間にもさまざまな派閥が存在しました。例えば、「あざができたパリサイ人」と呼ばれる人たちがいました。(もちろん、この名前は侮辱として使われていました。)

「あざができた」パリサイ人たちは、情欲に対する懸念から、女性が通り過ぎるときに目を閉じました。ところが、目を閉じている間に、しばしば壁にぶつかってしまうことがありました。

また、あるパリサイ人たちは離婚について議論しました。モーセは律法でこう言っています。

人が妻をめとり夫となり、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなり、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ[る]。(申命記24:1)

パリサイ人たちは、「恥ずべき事」について議論しました。では、「恥ずべき事」とは何のことでしょうか。一部の人々は、「恥ずべき事」とは「不品行」という意味だと解釈しました。

一方、他のパリサイ人たちは、例えば妻がうるさかったり、料理を焦がしたりした場合、それも「恥ずべき事」に含まれると主張しました。

けれども、より深刻な問題が存在していたのではないでしょうか。それは、既婚のパリサイ人が不倫をしようと考え始めた時です。

ちょっと造像してみましょう。女性が通り過ぎるとき、そのパリサイ人は最初は情欲を避けようと目を閉じ、壁にぶつかることがあるかもしれません。

しかしその後、その女性をちらっと見てしまい、さらに振り返ってもう一度彼女を見てしまうかもしれません。

そして、やがて彼はずっとその女性のことを考えてしまい、関係を持ちたいと思い始めます。けれども、彼は既婚者で、こう考えるかもしれません。

「姦淫は罪だ。では、どうすればいいだろうか?あ、そうだ。妻と離婚して、あの女性と結婚すればいい。」

実際に、このように「正しい」とされるパリサイ人たちは、頻繁に離婚をしていました。

そのため、イエス様ははっきりと言われました。「あなたが婚外関係を持っていなくても、それだけで無罪とは言えません。」

つまり、

だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。(5:28)

そして、恋人のために自分の妻と離婚しようかと考えたパリサイ人に、イエス様はこう言われました。

また「だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ」と言われています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。

また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。(31-32)

つまり、もしあなたが結婚している間に、他の人に恋をし、その人と結婚するために妻や夫と離婚したら、神様の目にはそれが姦淫です。

あなたはどうでしょうか。心の中で姦淫を犯していないでしょうか。恋人と結婚しようと思い、そのために妻や夫と離婚しようと考えているでしょうか。

また、恋人が既に別の人と結婚しているのに、「離婚したら。。。」と勧めているでしょうか。それは姦淫です。そして、神様はそのような罪を裁かれます。

あなたは他の人と肉体関係を持っていないかもしれませんが、妻や夫と一体になっているでしょうか。それは肉体的な結びつきだけでなく、心の一致、霊の一致も含まれるべきです。

私たちが愛する方に忠実でありますように。神様に忠実であり続け、また妻や夫にも忠実でありますように。

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詩篇

私たちは何によって希望があるか

今日私たちは詩篇119篇の中間点を過ぎます。

私は81節が大好きです。

私のたましいは、あなたの救いを慕って絶え入るばかりです。私はあなたのみことばを待ち望んでいます。

時々、私たちは試練を経験します。この詩人もいろんな試練を経験しました。たくさんの人々が、彼を迫害したり、彼を殺そうとしたりしました。(詩篇119:85-87,95)

83節では、彼は「私は煙の中の皮袋のようになった」と言いました。

その時代、人々が砂漠を渡った時、テントの中で火が必要なら、彼らは火の上に皮袋を吊るしました。その皮袋は煙を吸い込みましたが、だんだん縮んで堅くなりました。

そのように、周りの人々の罪によって、詩人は苦しみを吸い込み、縮んでしまいました。だから、彼は叫びました。

いつあなたは私を慰めてくださるのですか。。。

あなたのしもべの日数は、どれだけでしょうか。

あなたはいつ、私を迫害する者どもをさばかれるのでしょうか。(82-84)

それでも、神様の言葉と約束によって彼には希望がありました。最悪な状態になっても、彼はその言葉と約束にしがみつきました。どうしてでしょうか。

主よ。あなたのことばは、とこしえから、天において定まっています。

あなたの真実は代々に至ります。

あなたが地を据えたので、地は堅く立っています。(89-90)

要するに、彼は神様とその約束が決して変わらないと知っていました。人々が不実なのに、神様がいつも忠実であることを知っていました。

だから、何が起きても、彼が信じたのは、神様はいつも彼を助けてくださることです。

あなたはどうでしょうか。人生の暗闇を通る時、あなたは神様の御言葉に従うでしょうか。神様が忠実であることを信じるでしょうか。

試練に直面するとき、「神様の道を行くのは空しいです。自分の道を行った方が良い。」と言うのは簡単です。

だから、私たちの結婚や、私たちの家計はダメになってしまいます。

でも、大変な時が来ても、自分自身に頼らないでください。自分の知恵に頼らないでください。むしろ、神様を待ち望みましょう。

何千年が経っても、神様の言葉は決して変わりませんでした。だから、その言葉を信頼できます。イザヤはこう言いました。

草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。(イザヤ40:8)

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詩篇

全ての国民は礼拝するとき

これは聖書の中で、一番短い章です。けれども、すぐに一番長い章を読みます。だから、私の英語のブログで、私は、「This is the calm before the storm.」と言いました。

つまり、「これは嵐の前の静けさです。」 🙂

とにかく、詩篇117篇はメシアについての詩篇です。なぜなら、詩人はすべての国民が神様を礼拝する日を楽しみにしているからです。彼はこう歌いました。

すべての国々よ。主をほめたたえよ。すべての民よ。主をほめ歌え。(詩篇117:1)

パウロはこの箇所によって、キリストがユダヤ人のためだけではなく、すべての人々のために来てくださったことを証明します。(ローマ15:11)

なぜ、詩人はすべての国民が神様をほめたたえるように招くのでしょうか。二つの理由があります。

一つ目は、神様の私たちに対する大きな恵みです。神様は、十字架でキリストの死によってその恵みを示してくださいました。

その死によって、私たちの罪が赦され、私たちは神様の家族に入ることができます。

その真理を理解したので、ヨハネはこう叫びました。

私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。(第一ヨハネ3:1)

あなたが日本人でも、アメリカ人でも、ユダヤ人でも、あなたがイエス様を信じたら、神様は自分の子供としてあなたを受け入れてくださいます。

二つ目の理由は、神様の忠実さは永遠に続くことです。私たちがどんなに失敗しても、神様は私たちを決して見捨てません。

日本語の聖書では、こう訳されています。

主のまことはとこしえに。(詩篇117:2)

つまり、神様とそのみことばは決して変わることがありません。

神様が気まぐれな方であると心配する必要はありません。神様が何かを語られるなら、その御心が変わることを恐れる必要はありません。

だから、私たちは恐れずに神様に信頼することができます。

だからこそ、詩人は歌います。

ハレルヤ。(2)

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エゼキエル書

姦淫

この箇所はホセア書に似ています。ホセアがイスラエルを姦淫する妻と例えたように、エゼキエルもエルサレムを姦淫する妻と例えています。

まず、エゼキエルはエルサレムに対する神様の愛について語ります。

悪人、つまりエモリ人とヘテ人がエルサレムを建て、その都市が嫌われる存在となったにもかかわらず、神様はエルサレムを世話し、美しく整えてくださいました。

ダビデがエルサレムの王となったとき、彼は契約の箱をエルサレムへ運びました。

その後、ソロモンが神様のために宮を建てました。この時、神様はエルサレムを祝福し、御自分のものとされました。

ソロモンの時代、エルサレムは大いに栄え、銀はほとんど価値がないほどでした(列王記第10:21)。

けれども、すぐにエルサレムの没落が始まりました。ソロモンが多くの女性と結婚し、その妻たちの影響によって、ソロモンは偶像を礼拝するようになったのです。

偶像礼拝はたちまちイスラエル全土に広がりました。彼らは神様から与えられたものを他の神々を礼拝するために使いました。さらには、神様の宮で他の神々を礼拝することさえありました。

また、彼らはエジプト人、アッシリヤ人、バビロン人と同盟を結び、神様を拒絶して、その国々の神々を礼拝しました。

神様はこう言われました。

遊女には、すべて代価が支払われるのに、あなたは、自分のほうから持参金をすべての愛人たちに与え、彼らに贈り物をして、四方からあなたのところに来させて姦淫をした。

だから、あなたの姦淫は、ほかの女の場合と反対だ。だれもあなたを求めて姦淫をする者はいなかった。

あなたが報酬を支払い、だれもあなたに報酬を支払わなかった。だからあなたは反対のことをしたのだ。(エゼキエル16:33-34)

その罪を犯しても、エルサレムの人たちは「私たちはそんなに悪くはない」と言いました。

しかし、神様はこう言われました。

「あなたは北イスラエル王国の首都サマリヤよりも悪い。あなたはソドムよりも悪い。私は彼らを裁いたが、あなたと比べれば、彼らは正しい者だった。」(46-52)

だから、神様は「あなたを裁く」と言われました。

しかし、神様はもう一つのことも言われました。それは、いつの日か神様が彼らを癒し、彼らの罪を赦してくださるという約束です。また、神様は彼らの恥を取り去ることをも約束されました。

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

一つ目は、神様が私たちのためにしてくださったことを決して忘れるべきではないということです。

神様は私たちを罪と恥から救い出し、私たちにイエス様の義と美しさを着せてくださいました。

私たちが赦されるためにイエス様が十字架で成し遂げた働きを思い出し、感謝を捧げましょう。そして、私たちを恥ずかしくするものに戻って霊的な姦淫を犯すことがないようにしましょう。

二つ目は、自分が自分自身を救ったと思って、自分を欺くことがないようにするということです。「自分の力と知恵によって祝福された」と思い上がることは避けましょう。

ヤコブはこう書きました。

すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。(ヤコブ1:17)

「誰も私に何も与えてくれなかった。私はその物のためにちゃんと働いた」と思うかもしれません。

けれども、神様はあなたの命、才能、力を与えてくださいました。すべては神様からのものです。

三つ目は、私たちが自分自身を周りの人々と比べるべきではないということです。つまり、「私はその人ほど悪くはない」と言うべきではありません。

なぜなら、多くの場合、私たちの標準は神様の標準とはかなり異なるからです。

私たちは自分の行動がそれほど悪くないと思うかもしれませんが、神様はその行動を罪と呼ばれるのです。そして、神様の目には、私たちの行動が他の人々の行動よりも悪いと映ることもあります。

四つ目は、私たちがどんなに失敗しても、神様の約束は決して変わらないということです。私たちが忠実でなくても、神様は常に忠実です。(第一テモテ2:13)

エルサレムの人々は完全に失敗しましたが、結局、神様は彼らを癒されました。同じように、神様はあなたをも癒してくださいます。

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エレミヤ書

服従からの祝福

多くの場合、私たちは神様の言葉を知っていても、その言葉に従いません。

なぜなら、「楽しいこと」をしたいと思うからです。また、神様の道を歩まずに、自分の道を行けば幸せになれると考えるからです。

ユダの人々もそう考えました。しかし、この箇所では、神様は服従から来る祝福について教えられます。

神様はエレミヤに、ある家族を主の宮に連れて行くよう命じられました。彼らはレカブという人の子孫でした。

他のユダの人々は、この家族を見て少し不思議な家族だと思っていました。なぜなら、ユダの人々は自分の家を建てていたのに対し、レカブ人たちは今でもテントに住んでいたからです。また、彼らは全くお酒を飲まなかったからです。

その家族は宮に行き、ハナンという人の息子たちが住んでいる部屋に入りました。そこで、エレミヤは彼らにお酒を差し出しましたが、彼らはこう言いました。

「私たちはぶどう酒を飲みません。それは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じて、『あなたがたも、あなたがたの子らも、永久にぶどう酒を飲んではならない。

あなたがたは家を建てたり、種を蒔いたり、ぶどう畑を作ったり、また所有したりしてはならない。

あなたがたが寄留している地の面に末長く生きるために、一生、天幕に住め』と言ったからです。

それで、私たちは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じたすべての命令に聞き従い、私たちも、妻も、息子、娘たちも、一生、ぶどう酒を飲まず、住む家も建てず、ぶどう畑も、畑も、種も持ちません。

私たちは天幕に住み、すべて先祖ヨナダブが私たちに命じたとおりに、聞いて行なってきました。(エレミヤ書35:6-10)

ネブカデネザル王がユダを攻撃し、その家族が自分の土地を離れてエルサレムに逃れなければならなくなったとしても、彼らはヨナダブの命令に忠実に従い続けました。

そのため、神様はこう語られました。

イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。行って、ユダの人とエルサレムの住民に言え。

『あなたがたはわたしのことばを聞いて懲らしめを受けようとしないのか。――主の御告げ――レカブの子ヨナダブが、酒を飲むなと子らに命じた命令は守られた。彼らは先祖の命令に聞き従ったので、今日まで飲まなかった。

ところが、わたしがあなたがたにたびたび語っても、あなたがたはわたしに聞かなかった。(13-14)

つまり、「ヨナダブはただの人間であるにもかかわらず、その子孫たちは彼の言葉に従い続けています。私はあなたがたの神です。それなのに、あなたがたは私の言葉に従いません。なぜ、私の言葉に従わないのですか。」

そして、神様はレカブ人たちにこう語られました。

エレミヤはレカブ人の家の者に言った。「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。

『あなたがたは、先祖ヨナダブの命令に聞き従い、そのすべての命令を守り、すべて彼があなたがたに命じたとおりに行なった。』

それゆえ、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。

『レカブの子、ヨナダブには、いつも、わたしの前に立つ人が絶えることはない。』」(18-19)

レカブ人たちはその先祖と神様に忠実であったため、ユダが裁きを受けた時も、神様は彼らを祝福されました。

あなたはどうでしょうか。神様に従うことで祝福されると信じていますか。

私は以前言ったように、神様に従うことで、あなたの人生が必ずしも楽になるわけではないかもしれません。しかし、神様に従うなら、どんな試練の中にあっても、喜びと満足を見いだすことができます。

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イザヤ書

神様のために私たちの心を準備する

それでは、新約聖書を始めましょう。

もしかすると、今日のタイトルを見て少し混乱したかもしれません。

「イザヤ書は新約聖書ではなく、旧約聖書だよ」と思ったかもしれません。

けれども、ある人々は、イザヤ書が聖書全体の要約であることに気づきました。

聖書には66の書がありますが、イザヤ書にも66の章があります。

そして、聖書は二つの部分に分かれています。旧約聖書(39の書)と新約聖書(27の書)です。

同じように、イザヤ書も二つの部分に分かれています。最初の部分には39章、後半の部分には27章が含まれています。

旧約聖書のように、イザヤ書の最初の部分では、人々の罪と神様からの裁きをよく見ることができます。

しかし、40章からは、メシヤの出現とその救いの働きが描かれています。そして、黙示録のように(聖書の最後の書)、イザヤ書66章では、最後の裁きと新しい地と天を見ることができます。

だから、私が言ったように、「新約聖書」を始めましょう。😊

イザヤ書の第二部の冒頭では、バプテスマのヨハネが引用した言葉を見ることができます。

荒野に呼ばわる者の声がする。

「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。

このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の御口が語られたからだ。(イザヤ書40:3-5)

イザヤの叫び、またバプテスマのヨハネの叫びは、現代においても適切です。

この霊的な砂漠や、神様がいらっしゃらない荒れ地のような私たちの心に、主のための道を整えなくてはなりません。私たちは自分自身の心にも、この世界にも、主のための道を備える必要があります。

では、どのようにその道を整えるでしょうか。それには、二つのことを思い出さなければなりません。

一つ目は、

すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。

主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。(6-7)

つまり、私たちの人生が一時的なものであることを思い出さなくてはなりません。この世界の物のほかに、永遠の何かが存在するのです。また、私たちが得た栄光は、最終的にはすべて消え去ります。

だからこそ、私たちの優先順位を正しく定める必要があります。つまり、私たち自身を一番にするのではなく、神様を一番にしなければなりません。

私たちの計画だけを追い求めるのではなく、まず神様とその御国を第一に求めましょう。

二つ目は、このことを思い出しましょう。

草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。(8)

つまり、神様はいつもご自身の約束を守られます。神様の言葉は決して変わりません。だからこそ、その言葉を私たちの人生の基礎としましょう。

私たちの人生は、常に変化しています。試練は行き来し、良い時もまた、去っては戻ってきます。

しかし、神様は決して変わることがありません。

もし神様の言葉を私たちの基礎とするならば、変わりゆく風が吹いても、私たちの人生は安定します。人生の嵐が押し寄せても、堅く立ち続けることができるのです。

あなたはどうでしょうか。主の帰還に向けて準備をしているでしょうか。

イエス様が帰られるとき、あなたにこう言われるでしょうか。「よくやった。良い忠実なしもべだ。」

イエス様の再臨の日まで、私たちが忠実に生き続けることができますように。

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ホセア書

不実

この世では、多くの人々は夫が妻に不実になり、妻も夫に不実になることが当たり前だと考えています。

けれども、そのように考えると、不倫が結婚にどれほど破壊的な影響を与えるかが分からなくなります。また、あなたの伴侶をどれほど深く傷つけるかが見えなくなります。

私たちの神様との関係も同じです。神様は私たちとの関係を結婚に例えられます。

クリスチャンである私たちはキリストの花嫁です。そのため、私たちが神様に不実であれば、神様を深く傷つけ、その関係に大きな打撃を与えることになります。

この箇所で神様はそれを指摘されます。何度も、神様はイスラエルに対するご自身の愛と忠実さを語られました。

例えば、イスラエル人の祖先であるヤコブが詐欺師であり、神様と戦ったにもかかわらず、神様はヤコブに愛と憐れみを注がれました。また、神様はイスラエル人をエジプトから導き出し、彼らが砂漠を越える時にモーセを通して彼らを養い、世話されたのです。

しかし、イスラエル人は自分たちの土地に定着して力を持つようになると、高慢になりました。彼らは神様に不実になり、自ら作った偶像を礼拝し始めました。

時間が経つにつれて、彼らの堕落はますます深刻になり、最もひどいのは、自分の子供たちをいけにえとして捧げたことです。

さらに、敵が彼らを攻撃すると、彼らは神様に立ち返らず、他の国々と同盟を結びました。

神様がイスラエルを責められる言葉を読むと、その深い痛みが伝わってきます。神様は裏切られた夫のように悲しまれました。

わたしは、エフライムの偽りと、イスラエルの家の欺きで、取り囲まれている。(ホセア書11:12)

ヤコブが妻を得るためにそのお父さんに代価を支払ったように、神様もイスラエルのために代価を支払われました。また、神様はずっとイスラエル人を世話されました。

しかし、それにもかかわらず、イスラエルは主の怒りを引き起こしました。(12:12-14)

そのため、神様は将来の裁きについて警告されました。

神様は、「その裁きが来るとき、救いは来ない」と警告されたのです。

彼らの王は彼らを救うことができず、神様も彼らを救われません。なぜなら、彼らは自分の「夫」であり救い主である神様から離れたからです。

だから、神様は言われました

わたしはよみの力から、彼らを解き放ち、彼らを死から贖おう。(13:14a)

この箇所はヘブル語から翻訳するのが少し難しいです。そのため、英語の聖書には二つの翻訳があります。

一つは、この日本語の翻訳と同じ意味を持っています。けれども、もう一つの翻訳はより優れており、それは以下のようなものです。

わたしはよみの力から、彼らを解き放ちましょうか。彼らを死から贖いましょうか。

そして、神様の答えは、「違います。そのようにはしない。」でした。

そのため、神様はこう言われました。

死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか。あわれみはわたしの目から隠されている。(13:14b)

パウロは第一コリント15章でこの箇所を引用し、神様がキリストの死に対する勝利によって、いつか死のとげと墓の針を取り除かれることを教えました。

ところが、この箇所ではホセアは全く異なるメッセージを伝えています。

すなわち、神様は「死よ、お前のとげはどこにあるのか。よみよ(すなわち墓)、お前の針はどこにあるのか」と言い、死のとげと墓の針をイスラエル人の上に落とすように呼びかけました。

なぜでしょうか。それは、彼らが神に不実だったからです。

神様は彼らをまだ愛しておられたでしょうか。もちろんです。最終的に彼らを回復されたでしょうか。それもその通りです。なぜなら、私たちが不実であっても、神様は忠実な方だからです。

不実があっても結婚が続く場合があります。しかし、一人が不実であれば、相手は深く傷つき、苦しみます。それだけでなく、不実な人自身も最終的に苦しむことになるのです。

私たちの神様との関係も同じです。イスラエルはこの重要な教訓を学びました。

私たちは、自分が不実であるとき、どれほど神様を傷つけるかを考えるべきです。私たちはこの世の物をどれほど愛し求め、神様の愛と忠実さをどれほど踏みにじっているのでしょうか。

私たちが不実で夫や妻を傷つけるのと同じように、神様に対して不実であれば、神様も深く傷つかれるのです。

そのような行動を避けましょう。そして、いつも忠実な神様に対して、私たちも忠実であり続けましょう。

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ホセア書

神様の忠実な愛

「神様は私を本当に愛しているだろうか。」

多くの人々の心にこの質問は響いています。けれども、もう一つの質問が、さらに深く傷ついている人々の心に響いています。

「神様は私をまだ愛しているだろうか。」

時々、人々が私たちの弱さや欠点を見たときに、彼らの愛がすぐに冷めてしまうことを経験します。そのため、私たちはこう思うことがあります。「もし人間の愛がすぐになくなるのなら、神様も私を見捨てるのではないか。」

この箇所には、その答えがあります。

ここでは、神様がどのようにイスラエル人を愛しておられたかを思い起こさせます。つまり、神様は愛によってイスラエルをエジプトの奴隷生活から救い出し、砂漠で彼らを導き、彼らのすべての必要を満たされました。

しかし、彼らは神様に背を向けて、バアルを礼拝し始めました。神様に従うことなく、神様から逃げる道を選んだのです。

そのため、神様は彼らに将来の裁きについて警告されました。けれども、その警告の中で、神様は自分の心を表されたのです。

エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ。。。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。

わたしは燃える怒りで罰しない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ。(ホセア書11:8-9)

つまり、私たちがどんなに神様から離れても、神様は私たちのことを諦めることはありません。私たちを懲らしめることがあっても、私たちを捨てることはありません。

神様の愛は人間の愛とは全く違います。神様の愛は変わることがなく、なくなることもありません。神様の愛は忠実で永遠です。神様はいつも私たちに手を差し伸べ、私たちが戻るのを待っておられます。

神様の愛を疑っていますか。神様がもうあなたを愛することができないと思っていますか。

エレミヤの言葉を思い起こしましょう。

私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。」(哀歌3:22-23)

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ホセア書

祭司たちは祭司として振る舞わないと

「どうしてこの世界のモラルはだんだん悪くなっているのでしょうか。どこに行っても、誠実さがなく、愛がなく、誰も神様を認めません。殺人や姦淫や嘘が蔓延しています。全てのモラルの境界線は超えられてしまいました。」

このような言葉を聞いたことがありますか。ホセアは約2700年前に同じことを語っていました。時が経っても、何も変わらないのですね。

神様は全てのイスラエル人を裁かれましたが、特に祭司たちを責められました。彼らは神様を礼拝すると言っていましたが、実際にはヤロブアム1世の金の子牛を通して神様を「礼拝」していたのです。おそらく彼らはバアルも礼拝し始めていたのでしょう。

だから、7節にこう書いてあります。

彼ら(つまり祭司たち)はふえるにしたがって、ますます、わたしに罪を犯した。わたしは彼らの栄光を恥に変える。(ホセア書4:7)

だから、神様についての知識は失われ、または、その知識が歪められてしまいました。そこで、神様は祭司たちにこう言われました。

わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしはあなたを退けて、わたしの祭司としない。(6節)

そして、神様はこう言われました。

だから、民も祭司も同じようになる。わたしはその行ないに報い、そのわざの仕返しをする。(9節)

神様は今でも、このようなことを言われるかもしれません。しかし、私は悪い牧師や祭司について話しているのではありません。クリスチャンについて話しています。私たち全員が神様の祭司なのです。(第一ペテロ2:9)

もし私たちが霊的な不貞を犯すとしたら、つまり、自分自身のために生きたり、この世のものが私たちの神になったりしたら、どのような祭司になるでしょうか。私たちはこの世界に良い影響を全く与えられません。

私たちがこの世界に神様についての本当の知識を与えず、神様の教えを妥協したとしたら、この世の悲惨な状態を見ても驚くことができるでしょうか。

この世の人々は地獄に行くかもしれませんが、もし私たちが祭司として不忠であったならば、神様は「これはあなたのせいです。どうしてあなたが私の祭司でありながら不忠だったのでしょうか」と尋ねられるでしょう。

あなたはどのような祭司でしょうか。

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列王記第二

不実な私たち、忠実な神

この箇所では、もう一人の北イスラエル王国の悪い王について取り上げます。彼の名前はヤロブアム二世です。

けれども、彼は他のイスラエルの王とは少し違った点がありました。それは、彼が悪い王であったにもかかわらず、神様が彼を助けてくださったのです。

ヤロブアムの人生を見ると、彼はまったく神様を求めていなかったようです。

しかし、この世の基準に照らし合わせると、彼は非常に成功した王でした。彼はイスラエルを41年間治め、北イスラエル王国の歴史において最も長い治世を持ちました。

そして彼はイスラエルの領土を回復しました。

ところが、聖書によれば、ヤロブアムは神様に忠実ではない王でした。それにもかかわらず、神様は彼を助けてくださったのです。

なぜ神様は彼を助けてくださったのでしょうか。

主がイスラエルの悩みが非常に激しいのを見られたからである。そこには、奴隷も自由の者もいなくなり、イスラエルを助ける者もいなかった。

主はイスラエルの名を天の下から消し去ろうとは言っておられなかった。それで、ヨアシュの子ヤロブアムによって彼らを救われたのである。(列王記第二14:26-27)

つまり、私たちが不実であっても、神様はいつもご自身の約束を守ってくださいます。

しかし、私たちが心に留めておかなければならないことがあります。 それは、私たちの人生がうまくいっていても、必ずしも神様が私たちを喜んでおられるとは限らないということです。

神様はヤロブアムを喜んでおられませんでしたが、彼を祝福してくださいました。けれども、ヤロブアムが死んだ後、神様はその悪い行いのゆえに必ず彼を裁かれたことでしょう。

だから、私たちが祝福されているときでも、この問いを自分に向ける必要があります。

「どうして私は祝福されているのだろうか。神様に従っているからだろうか。それとも、私の人生が罪深いのに、それでも神様は私を祝福してくださっているのだろうか。」

もう一つ覚えておくべきことがあります。

それは、時として私たちの罪のせいで私たちは落ち込み、神様が私たちを赦してくださらない、また用いてくださらないと思い込んでしまうことです。

そのような時こそ、神様が忠実であられるお方であることを心に留めてください。

私たちが悔い改めるならば、神様は確実に私たちを赦し、回復してくださいます。

私たちが不実であっても、神様は忠実な方です。(第一ヨハネ1:9)

パウロが言ったように、

私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。(第二テモテ2:13)