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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

信仰、望み、愛

私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。(テサロニケ人への手紙第一1:3)

信仰、望み、愛。

天のお父さん、私がするすべてのことが、それらから生まれるようにしてください。

義務からではなく、「我慢しなければ」という感情からでもなく。

むしろ、私の働きが信仰から出るようにしてください。それは、あなたが良い方であることを信じる信仰です。あなたが私を愛してくださることを信じる信仰です。私の最善をご存知であり、それを願っておられると信じる信仰です。

私の苦労が愛から生まれるようにしてください。あなたへの愛。周りの人々への愛。

私の忍耐が望みに支えられるようにしてください。永遠を考慮に入れると、この世の問題、私の問題ははかないものです。イエス様、あなたを知っているゆえに、その望みをもっています。

あなたのゆえに、私の罪は赦されました。私の問題を通して、神様が私を罰しておられるというわけではありません。

むしろ、私は大胆に神様の御前に進み出ることができます。あなたのように、私は天の父に選ばれ、愛されているのです。

私が毎日毎日、一瞬一瞬、その視点を保つことができるようにしてください。

イエス様、あなたを待ち望んでいます。私は待ち望んでいます。

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申命記のデボーション

あなたのようになれるように

天のお父さん、あなたが私に対して心を頑なにされることも、御手を閉ざされることもありません。(申命記15:7)

また、あなたが与えてくださるとき、物惜しみをされることもありません。(10節)

それどころか、あなたは御手を開かれ、気前よく与えてくださいます。(11節)

さらに、2000年前、十字架であなたは負債の免除を布告し、私の罪を赦してくださいました。(申命記15:2;コロサイ2:13-14)

だから、私も周囲の人々に対してあなたのようになれるよう助けてください。つまり、私がいつも手を開き、気前よく、また私に対する相手の罪を赦せるように助けてください。

私はまだまだそのような人にはなれていません。しかし、あなたのようになりたいのです。

どうか私があなたのようになれるよう助けてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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マタイの福音書のデボーション

私のことを考えるとき、人々は何を思い出すのだろうか

マタイの福音書26:6-16では、クリスチャンたちがよく覚えている二人の人物が登場します。

もちろん、私たちはベタニヤのマリアを覚えています。なぜなら、彼女は本当にイエス様を愛していたからです。

イエス様は、彼女についてこう言われました。

まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。(マタイの福音書26:13)

でも14節では、私たちはもう一人の人物を見ます。私たちはイスカリオテ・ユダもよく覚えています。なぜでしょうか。なぜなら、彼はイエス様を裏切ったからです。

私たちが亡くなった後、人々は私たちについて何を思い出すでしょうか。彼らは私たちのことを何と言うでしょうか。彼らは、イエス様に対する私たちの愛を思い出すのでしょうか。

良い知らせは、たとえ私たちが大失敗しても、評価が変わる可能性があるということです。

ペテロは「イエス様を知らない」と三回言いました。もちろん、私たちはペテロの失敗をよく覚えています。でも、私たちはペテロの人生に注がれたイエス様の恵みも覚えているでしょう。

私のことを思い出すとき、人々がその二つのことを思い出してほしいです。つまり、イエス様に対する私の愛と、私の人生に注がれたイエス様の素晴らしい恵みを思い出してほしいのです。

How will they remember me? 
人々は、私について何を思い出すのだろうか。

I hope when they remember they see you.
人々が私のことを思い出すとき、私の中にイエス様を見てもらえるように祈ります。–キム・ボイス

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マタイの福音書のデボーション

収穫の主への祈り

また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。

そこでイエスは弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(マタイの福音書9:36ー38)

収穫の主よ。私の周りで、弱り果てて倒れている人たちは誰でしょうか。希望のない人生を歩んでいる人たちは誰でしょうか。

どうか、私の目を開いてください。あなたがしてくださったように、私も人々のうわべを見抜き、心の深いニーズを見抜くことができるようにしてください。

私に、あなたのあわれみ深い心を与えてください。そして、私を収穫のために送ってください。

私が、希望のない人に希望を届けることができるように。私が彼らに、あなたの赦し、救い、そして愛を宣言することができるように助けてください。(マタイ9:2、22)

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ヨハネの手紙第二のデボーション

真の弟子とは

私たちが御父の命令にしたがって歩むこと、それが愛です。。。

だれでも、「先を行って」キリストの教えにとどまらない者は、神を持っていません。

その教えにとどまる者こそ、御父も御子も持っています。(ヨハネの手紙第二6,9)

ヨハネの手紙を読むと、彼がよくイエス様のことばに思いを巡らしていたことがわかります。ヨハネのことばは、イエス様のことばに基づいています。

あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。

あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネ8:31-32)

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。。。

だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。(ヨハネ14:21,23)

イエス様の弟子の特徴は何でしょうか。何によって、イエス様への愛は現れるのでしょうか。

それは、私たちがイエス様のことばに従うほど、イエス様に信頼することです。

そうすれば、私たちは自由を知るようになります。

しかし、それだけではなく、私たちの神との関係は、より親しくなります。神様は、御自身を私たちにさらに現してくださり、私たちは神様の愛といつくしみを、より深く理解し、経験します。

私は、神様の愛といつくしみを味わい、神様が良い方であることを知るようになりました。だから、私は神様をもっともっと求めたいです。

あなたはどうですか。イエス様のことばに従い、神様の愛といつくしみを味わったことがあるでしょうか。

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ヨハネの手紙第一のデボーション

人を愛しているのか?それとも、つまずいているのか?

光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです。

自分の兄弟を愛している人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがありません。(ヨハネの手紙第一2:9ー10)

たぶん、私たちの多くは、上のことばをよく読み流します。なぜなら、私たちは「私は大丈夫だ。私は誰も憎んでいない」と思うからです。

それはそうかもしれないけれど、私たちがよく裁く人がいるでしょうか。

私たちが許していない人がいるでしょうか。

今日、私は4人の人たちのことを考えていました。私は彼らを憎んでいるわけではないけれど、彼らを思い出すたびに、私はよくつまずいてしまいます。

私は、「私は彼らを本当に愛していないのだろう」と思いました。

だから、彼らに対する私の態度を直せるように祈っています。そのために、私は本当に神様の助けが必要です。

あなたはどうですか。神様は、あなたに誰かについて語りかけておられるでしょうか。

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ローマ人への手紙のデボーション

誰のために生きているのでしょうか

今日の箇所を読んだとき、私はパウロの以前のことばを思い出しました。

ローマ書14章では、パウロはこう書いています。

私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。

私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。

ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。

キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。(ローマ人への手紙14:7ー9)

このことばを読んだとき、ローマ書11章36節から12章1節が思い浮かびました。

すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。

それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

また、ローマ書14章15節では、パウロはこう書いています。

もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。

(そのことばの背景をもっと詳しく知りたい方は、この記事をぜひ読んでみてください。

そのことばを読んだとき、ローマ書第13章のパウロのことばが思い浮かびました。

だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことは別です。他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。。。

愛は隣人に対して悪を行いません。それゆえ、愛は律法の要求を満たすものです。(13:8,10)

たぶん、イエス様が私に尋ねておられるのは、「あなたは誰のために生きているのでしょうか」ということです。

「自分のためだけに生きているのでしょうか。あなたは自分勝手に生きているのでしょうか。それとも、私のために生きているのでしょうか。

特に、私があなたに与えた人々を愛しているのでしょうか。私は彼らのためにも死にました。あなたも彼らに愛を示しているのでしょうか。」

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マタイの福音書のデボーション

神様を本当に知っている?

あなたのことをよくわかっている。(マタイの福音書25:24、英訳)

イエス様の第二のたとえ話で、悪いしもべはご主人にそう言いました。しかし、そのしもべは実際にはご主人のことをよく理解していませんでした。ご主人に関してゆがんだ考え方を持っていたため、ご主人とは全くかかわりたくなかったのです。

そのしもべと同じように、多くの人々は神様に関して、ゆがんだ考え方を持っています。特に、彼らは神様の戒めや罪の裁きを見ると、「神様は良い方、正義の方」とは言わず、「神様がそのような方なら、神様とは全くかかわりたくない」と言います。

また、ある人たちは神様を知っていると主張しますが、自分の行動によって、実際には神様を知らないことを証明してしまいます。つまり、神様を知っている人は、神の民を愛する者です。

羊とやぎのたとえ話において、私たちはその真理を知ることができます。イエス様によれば、私たちが神の民を祝福するとき、イエス様を祝福しているのです。

しかし、神の民を無視したり、虐待したりするとき、実際にはイエス様に対してそうしてしまっているのです。

(マタイ10:40-42と使徒の働き9:4-5に、その原則が示されています。)

もしかすると、ヨハネはそのたとえ話を思い巡らしながら、この言葉を書いたのかもしれません。

この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。(第一ヨハネ3:17)

私たちは本当に神様を知っているでしょうか。

神様が良い方であると信じているのでしょうか。

そして、神の民を愛しているのでしょうか。

愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。

愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。(第一ヨハネ4:7-8)

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ヤコブの手紙のデボーション

自由をもたらす律法に従う歩み

自由をもたらす律法によってさばかれることになる者として、ふさわしく語り、ふさわしく行いなさい。

あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。

あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです。(ヤコブの手紙2:12-13)

主よ、あなたは、自由をもたらす律法、つまり、愛とあわれみの律法に従って生活するように私を召されました。

だから、私が周りの人々に愛とあわれみを与える人になるように。そして、私がその愛とあわれみを与えるにつれて、彼らが解放されるように。

彼らが劣等感から解放されるように。彼らが自分がほかの人々よりも価値がないという考えから解放されるように。(1-4、6節)

でも、それよりも、彼らが罪の鎖から解放されるように。彼らが罪の恥から解放されるように。また、彼らがあなたの裁きの恐れから解放されるように。(ローマ6:5-7、第一ヨハネ4:17-18)

私が周りの人々にあなたの愛とあわれみを与えるにつれて、彼らが神の子供たちの栄光の自由を知るように。(ローマ8:21)

私は完全な信仰を持っていると主張するかもしれないけど、愛がなければ、特に、私の言葉や行いによって表れる愛がなければ、その「信仰」は無益です。私は無に等しいのです。(14-26節、第一コリント13:2)

だから今日、また、毎日、私の人生が、あなたが私に与えてくださった愛とあわれみで特徴づけられますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

私の動機は何だろうか

私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。

神に愛されている兄弟たち。私たちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っています。(テサロニケ人への手紙1: 3ー4)

パウロの言葉を読んだとき、私はこう思いました。「私の動機は何だろうか。それは、私に対する神様の愛だろうか。つまり、神様が愛によって私を選び、養子にしてくださったことですか。」

どうして、私はクリスチャンの生活を送るのでしょうか。神様が良い方であると確信しているからでしょうか。

どうして、主に仕えているのでしょうか。神様に対する愛、また、周りの人々に対する愛のゆえに仕えているのでしょうか。

大変なとき、どうして私は我慢するのでしょうか。イエス様にある私の希望のゆえに、我慢できるのですか。

信仰。希望。愛。それらによって、クリスチャンの生活は重荷ではなく、喜びです。

主よ。私の信仰が毎日成長するように。私をあなたの愛に根差してください。そして、苦しむときに、あなたにある私の希望を思い出させてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ヨハネの黙示録

教会に愛がなければ

今日の箇所では、私たちはエペソにある教会に宛てて語られたイエス様の最初の訓戒を読みます。

実際、イエス様はその教会について、多くの良いことを語っておられます。彼らは神の国のために忠実に励み、さまざまな苦難にも耐え忍び、疲れ果てることはありませんでした(黙示録2:2-3)。

さらに、彼らは偽教師を見抜き、自らを使徒と名乗る者たちも試して、見分けることができました。この教会は、そうした者たちを退け、偽りの教えを拒絶していました(2,6)。

しかし、彼らには重大な問題がありました。イエス様はこう言われました。

けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。(黙示録2:4-5)

残念ながら、多くの教会も同様の問題を抱えています。彼らは、自分の奉仕において熱心に励みます。迫害が訪れると、彼らは忍耐強く耐え忍びます。彼らは聖書の教えを守り抜き、偽教師たちを見抜き、罪に対しても寛容ではありません。

それでも、彼らは最も大切なことを忘れてしまいました。それは、神様への愛、そして人への愛です。その愛がなければ、教会は空っぽな殻のようになってしまいます。

だから、神様は彼らに訓戒されます。「悔い改めなさい。私は、ただ熱心な奉仕者たちだけを求めているのではありません。ただ忍耐を示す殉教者たちだけを求めているのではありません。ただ用心深い兵士たちだけを求めているのではありません。

むしろ私は、私を愛する者たちを求めています。また、世の人々に私の愛を分かち与える者たちを求めています。」

私たちがそのように生きないなら、いったいどうなるでしょうか。

そうせず、悔い改めないなら、わたしはあなたのところに行って、あなたの燭台をその場所から取り除く。(5b)

覚えていてください。燭台とは、人の救いではなく、教会を意味します。だから神様がこう語っておられます。

「もし私の教会であるあなたたちは初めの愛に戻らないと、私はあなたを自分の場所を取り除きます。あなたは礼拝は続けるかもしれないけど、私はあなたをこの世の光として用いません。」

私は第一コリント13章を連想します。その言葉をちょっとパラフレーズにします。

教会が聖書を正しく教え、偽教師や偽りの教えを見抜き、そうした者たちを退け、また聖さを語り、罪を拒んだとしても、愛がなければ、その教会は、騒がしいどらやうるさいシンバルと同じです。

教会の人々が熱心に励み、貧しい者たちを助け、教会の内外でさまざまな良い働きをしたとしても、愛がなければ、その教会は無に等しいのです。

教会の人々が迫害を耐え忍んだとしても、愛がなければ、それは何の益にもなりません。

多くの反キリストたちは、すでにこの世に現れています。そして、最後の反キリストが近づいています。その者が現れるとき、私たちはさまざまな苦難に直面することでしょう。しかし、もし私たちに愛がなければ、私たちはまだ備えができているとは言えません。

あなたの教会はどうでしょうか。その教会は備えができているでしょうか。あるいは、教会はその場所から取り除かれる瀬戸際にあるのではないでしょうか。

あなた自身はどうでしょうか。あなたは、初めの愛から離れていないでしょうか。

イエス様はこう語られました。

耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。(7)

この言葉は、あなた自身と、あなたの教会のために語られています。

イエス様と人々への愛を失わずに、反キリストや苦難、迫害を乗り越えるなら、イエス様はあなたにこう語られるでしょう。

わたしはいのちの木から食べることを許す。それは神のパラダイスにある。(7b)

裁きの日に、イエス様は私たちに何を語られるでしょうか。

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ペテロの手紙第一

神様のしもべとして生きる(3)

この手紙の冒頭から、私たちが学んだことは、クリスチャンたちは御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように天の父に選ばれた者である、ということです。

簡単に言えば、私たちは自分自身のためではなく、イエス様のために生きるように選ばれたのです。

今日の箇所では、ペテロは、その真理をどのように私たちの結婚生活に当てはめるかについて話します。

そしてペテロは、まず妻たちにこう言います。

同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。

たとえ、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって神のものとされるためです。夫は、あなたがたの、神を恐れる純粋な生き方を目にするのです。(ペテロの手紙第一3:1-2)

現代では、この教えはあまり受け入れられないメッセージかもしれません。ある人々は、それが当時の時代と文化に限定された教えであると主張します。

確かにその時代、夫や主人たちは今よりも家庭内で大きな権威を持っていました。けれども、パウロもコロサイ人たちへの手紙やエペソ人たちへの手紙で、ペテロと同じことを教えています。

では、特に自分の夫がノンクリスチャンである場合、どうしてクリスチャンの妻たちは彼に従うべきなのでしょうか。その最初の理由は、彼女たちが主のしもべであるからです。そして、イエス様が使徒たちを通してそう命じられたからです。

さらに、そうすることによって、妻たちは自分の夫に対して光となるのです。夫は、自分勝手に暮らしている妻ではなく、主のために生きている妻の姿を見ることになります。

その妻の美しさは、ジュエリーや服装、髪型に基づくものではありません。むしろ、その美しさは新しくされた心から来るものです。その心は、彼女を救ってくださった主を映し出しています。

夫がそれを見ると、妻に対してさらに魅力を感じるかもしれませんし、主にも心を惹かれるかもしれません。神様のしもべとして、そして使節として、それこそが私たちの役割なのです。

時として、妻たちには恐れがあります。それは、自分の夫に従うことで、彼に操られるのではないかという恐れです。残念ながら、そのようなことが現実に起こる場合もあります。

しかし、ペテロは妻たちにサラの模範に従うよう促しています。つまり、恐れに屈することなく、自分の夫に従い、善を行うことです。(6)

そうすれば、神様はあなたを賞賛してくださいます。

ただし、前回の記事でお伝えしたように、あなたが虐待を許容すべきだという意味ではありません。虐待されている場合は、逃げるべきです。そして、自分を守らなくてはいけません。それでもなお、イエス様が示された態度を取るべきです。

(イエス様は)ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。(第一ペテロ2:23)

その反面、クリスチャンの夫たちもまたイエス様のしもべであることを忘れてはなりません。そして、自分の妻が自分のしもべではないことも覚えていなくてはならないのです。

あなたの妻はキリストのしもべであり、キリストにあってあなたの姉妹です。また、彼女はあなたと共にいのちの恵みを受け継ぐ者です。だからこそ、ペテロはこう言います。

同じように、夫たちよ、妻が自分より弱い器であることを理解して妻とともに暮らしなさい。また、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りは妨げられません。(7)

あなたは、自分の妻が自分よりも体力的に弱いかもしれないし、繊細な人かもしれないと思うでしょう。けれども、あなたには妻をいじめる権利はありません。イエス様が彼女を敬われるように、あなたも妻を敬わなくてはならないのです。

彼女は、あなたと共にいのちの恵みを受け継ぐ者です。それを忘れるなら、神様はあなたの責任を問われます。

ペテロによれば、もしあなたが妻を優しく扱わないなら、神様はあなたの祈りを聞いてはくださらないのです。

だから覚えておきましょう。あなたとあなたの配偶者は共にキリストのしもべです。それを心に留め、互いに敬い合い、そして愛し合わなくてはなりません。

あなたはどのように、自分の配偶者を扱うのでしょうか。

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ヤコブの手紙

人を追い求める信仰

ほかの新約聖書の手紙と比べると、ヤコブの手紙は唐突に終わるように感じられます。けれども、この手紙の締めくくりにあたり、ヤコブは主要なテーマの一つに立ち返ります。それは、真の信仰は愛によって表現されるということです。

特に、兄弟や姉妹が神様から遠く離れてしまったとき、愛はその人を追い求めます。

15ー16節では、ヤコブは身体的な病気のある人だけでなく、霊的な病を抱える人についても語ります。そして、私たちがその人の体と心、魂の癒しのために祈るよう促します。

私の兄弟たち。あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すなら、罪人を迷いの道から連れ戻す人は、罪人のたましいを死から救い出し、また多くの罪をおおうことになるのだと、知るべきです。(19-20)

時として、兄弟や姉妹が神様に背を向け、遠ざかってしまうことがあります。悲しいことですが、多くの場合、私たちはそれを目にしながらも、その人を追いません。私たちは相手を裁いたり、哀れんだりすることはあっても、結局、その人を追うことはしないのです。

しかし、愛は簡単にあきらめるものではありません。愛はその人を追い求めます。

例えば、私たちはその人の罪を指摘します。また、私たちはその人がイエス様のもとへ戻るよう促します。そして、その人のために祈ります。では、どのようにその人のために祈るべきでしょうか。

ヤコブが兄弟や姉妹を引き戻す話の前にエリヤの話を取り上げていることは、とても興味深いです。特に、ヤコブは、エリヤがどのような祈りを捧げたかについて語ります。

エリヤの時代、多くの人々は神様に背を向け、遠ざかってしまいました。そこで、エリヤは祈りました。彼は何のために祈ったのでしょうか。それは、雨が降らないようにと願う祈りでした。そして、3年6か月の間、雨はまったく降りませんでした。

その祈りによって、イスラエルの人々はエリヤの言葉に注意を払いました。特にアハブ王は深く関心を持ちました。そして、その祈りを通して、多くの人々が主のもとへ立ち返ったのです。

時には、私たちもそのように祈るべきです。以前にも述べたように、神様は試練を通して私たちを成熟させ、完全にされます。そして、時には試練を通して、神様はさまよっている私たちを引き戻されるのです。

だからこそ、誰かが神様から遠く離れてしまっているとき、私たちは試練がその人を神様へと導くように祈るべきです。

「神様、その人の人生に霊的な干ばつが訪れますように。その人が神のない人生の虚しさを悟ることができますように。その人をあなたのもとへ引き戻してください。」

神様はその祈りに答えてくださるでしょう。

このような祈りは、少し厳しく感じられるかもしれません。けれども、私たちは神様の心を持つべきです。神様は、人が苦しむことを望んでおられるのではありません。むしろ、神様はその人がご自身のもとへ戻ることを願っておられます。

そして、その人が悔い改め、神様へ立ち返るとき、私たちは心から喜ぶのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの友達が神様に背を向け、遠ざかるとき、その人を愛し、追い求める信仰を持っていますか。

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ヤコブの手紙

真の信仰がどのように表現されるか(7)

ヤコブは、人々の心がこの世への愛によって汚される様子を語った後、「舌」の話に戻ります。特に、心がどのように舌を汚すかについて述べています。

ヤコブによれば、この手紙の読み手は、人を殺したり、争ったり、戦ったりしていました。おそらく、彼らは実際に人を殺したわけではないでしょう。けれども、心の中では相手を殺していたのです。(マタイ5:21-22)

では、人々はなぜ殺人を犯すのでしょうか。それは、彼らが自分の心の中で相手を侮っているからです。彼らは相手を神様の似姿として造られた存在として見ていません。

このため、イエス様はこう言われました。

昔の人々に対して、「殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない」と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。

兄弟に「ばか者」と言う者は最高法院でさばかれます。「愚か者」と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。(マタイ5:21-22)

イエス様によれば、心の中で怒りを抱き、人を侮ることは、殺人と似たものです。

ヤコブも同じ考えを持っていたようです。ある人々は、自分より多くのものを持つ者をねたみ、侮るほどまでにこの世を愛していました。その結果、彼らは相手をそしり、裁くようになってしまったのです。

だから、ヤコブはこう言います。

兄弟たち、互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟について悪口を言ったり、さばいたりする者は、律法について悪口を言い、律法をさばいているのです。

もしあなたが律法をさばくなら、律法を行う者ではなく、さばく者です。(11)

「人を裁いてはいけない」と聞くと、私たちはよく「人をその罪のゆえに裁いてはいけない」と考えます。

しかし、ヤコブは単にそのような裁きのことを語っているのではないかもしれません。むしろ、「あなたはばか者だ」「あなたはろくでなしだ」といった判断について話している可能性があります。

例えば、2章でヤコブは、ある人々が金持ちを敬う一方で、貧しい人々を侮っていたことを指摘しました。

だから、ヤコブは彼らにこう言いました。「そのような態度で人を裁いてはいけません。相手が神様の似姿として造られた存在であることを認めなさい。

神様の律法によれば、あなたは自分自身を愛するように、隣人を愛さなくてはなりません。神様の律法は、相手をそしったり、侮ったりすることを禁じています。

そのようなことをすれば、あなたは実際に神様の律法を裁いていることになります。つまり、律法に従うのではなく、それを軽視し、その価値を否定しているのです。」

そして、ヤコブは私たちに警告します。

律法を定め、さばきを行う方はただひとりで、救うことも滅ぼすこともできる方です。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。(12)

つまり、「裁きを行うのはあなたではなく、イエス様です。だからこそ、高ぶる態度を捨て、主の前でへりくだらなければなりません。偉そうな態度を取ってはいけません。なぜなら、あなたは本当に偉いわけではないからです。」ということです。

あなたはどうでしょうか。人を扱うとき、あなたの信仰はどのように表現されているでしょうか。あなたは相手を裁き、「ろくでなし」や「ばか者」と呼ぶでしょうか。それとも、彼らを呪うでしょうか。

あるいは、あなたの信仰は、神様があなたに与えてくださった愛や憐れみ、そして恵みを通して表現されているでしょうか。

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ヤコブの手紙

真の信仰がどのように表現されるか(2)

毎日聖書を読むとき、私たちはよく聖書の書を小さい部分に分けます。もちろん、それでも構いませんが、注意すべき点があります。時々、そのように聖書を読むことで、その書の全体的な流れや意味を見落としてしまうことがあるのです。

例えば、著者が1章から2章まで長い議論を展開しているかもしれません。しかし、私たちはある日に1章を読み、次の日に2章を読むため、1章の内容を忘れ、その議論の重要な部分を切り離してしまうことがあります。

この場合、ヤコブの議論は1:26-27から始まります。その箇所でヤコブが述べているのは、真の宗教、真の信仰は、愛、清い言葉、そして聖い人生へと導くということです。

今日の話では、ヤコブは真の信仰が愛によって表現されることについて語り続けます。パウロもこのことについて述べました。彼はこう言いました。

キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。(ガラテヤ5:6)

特に、ヤコブは私たちが貧しい人や卑しい人をどのように扱うべきかについて語ります。彼らに愛を示さず、逆に見下すならば、私たちは罪人のように振る舞っているのです。

私たちは殺人や姦淫を犯さないかもしれません。しかし、神様の目から見れば、私たちは律法の違反者です。だからこそ、ヤコブは私たちに警告します。「貧しい人や卑しい人を見下してはいけません。むしろ、彼らを憐れみなさい。」

そして、ヤコブはその例を用いて、自らの要点に立ち返ります。それは、真の宗教や真の信仰が、変えられた人生へと導くはずだということです。

ヤコブはこう言いました。

私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。(ヤコブの手紙2:14)

その文脈を覚えていれば、ヤコブが「行為」と言うとき、それが愛の行為を指していることが分かるでしょう。言い換えれば、「もし愛を持っていないなら、どうして自分が信仰を持っていると主張できるでしょうか。」

そして、ヤコブは自らのポイントを具体的に描写します。

兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。

同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。(15-17)

この描写の中で、ヤコブは行為を伴わない言葉の空しさを示しています。

もしある人が貧しい者に「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言えば、その人は優しそうに見えます。しかし、その人が実際に貧しい者を助けなければ、その言葉は心からのものではなかったことを証明してしまいます。それはただの空しい言葉にすぎません。

ヤコブはこのポイントを強調して、こう言います。

あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。(19)

簡単に言えば、真理に同意するだけでは十分ではありません。「私は神様を信じる」と言うことだけでは足りないのです。真の信仰は、いつも変えられた人生へと導きます。その変化の一つは、あなたが周りの人々を愛し始めることです。

その変化には時間がかかるかもしれません。自分が変わるのは難しいかもしれません。しかし、真の信仰を持っているならば、あなたは確実に進歩していきます。

もし振り返ったとき、あなたの人生に神様がもたらした変化を見ることができないなら、もしあなたがより成熟していないならば、自分自身に問いかけるべきです。「私はどんな信仰を持っているのだろうか。」

次の記事では、この話を続けます。

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ヤコブの手紙

真の信仰がどのように表現されるか

ヤコブが強く主張することの一つは、真の信仰は単に「私は神様を信じる」と言うことではないという点です。

多くの人は、「私は神様を信じる」と主張します。しかし、その言葉だけでは、救いに導く信仰を持っていることの証明にはなりません。

救いに導く信仰の結果は、変えられた人生です。以前読んだように、神様が試練を許される理由の一つは、私たちが変えられるためです。つまり、試練を通して、私たちは神様に信頼することを学び、完全な者へと成長していくのです。

この手紙の中で、ヤコブは救われた人々がどのように変わるかについて語ります。ヤコブは三つのことを挙げています。一つ目は言葉、二つ目は愛、そして三つ目は清さです。パウロも、これら三つのことについてテモテに語りました。(第一テモテ4:12)

ヤコブは最初にこう言います。

自分は宗教心にあついと思っても、自分の舌を制御せず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。(ヤコブ1:26)

多くの人々は自分の言葉に注意を払わず、嘘をついたり、人をそしり、言葉で人を傷つけます。しかし、彼らが決して悟らないのは、自分の言葉が心の中にあるものを映し出しているということです。もし、心にゴミがあれば、そのゴミが言葉となって表に出ます。

だから、もし自分がクリスチャンだと主張しているのに、あなたの口からゴミが流れ出るならば、ヤコブによれば、あなたは自分自身を欺いていることになります。その「信仰」はあなたの心を変えていないのです。ゴミがあなたの口から出ているのに、あなたはまったく気づいていません。

ヤコブは続けてこう言います。

父である神の御前できよく汚れのない宗教とは、孤児ややもめたちが困っているときに世話をし、この世の汚れに染まらないよう自分を守ることです。(27)

後にヤコブは、私たちがこの世の汚れに染まらないように、どのように自分自身を守るべきかを説明します。しかし、27節では、ヤコブは真の信仰の証拠の一つについて語ります。それは、周りの人々に対する愛です。

もし私たちが真の信仰を持っているなら、周りの人々を憐れむはずです。例えば、孤児ややもめたちを憐れむべきです。貧しい人を軽蔑し、金持ちだけを尊敬するべきではありません。私たちは人々の見た目で判断せず、神様の目で人々を見るべきです。

私たちが忘れてはならないのは、神様が、この世の人々から退けられた者たちを神様の子供として受け入れたことです。その人々は神様の御国を受け継ぎます。(1:27-2:7)

そしてヤコブはこう言います。

もし本当に、あなたがたが聖書にしたがって、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いは立派です。

しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。(ヤコブの手紙2:8-9)

多くの人々は言います。「もちろん、私はクリスチャンです。私は人を殺さないし、物を盗まないし、姦淫を犯さない。」

けれども、彼らはキリストの愛をもって人々を愛していません。むしろ、周りの人々を見下しています。

だから、ヤコブは彼らに警告します。「あなたが思うほど、あなたは良い人ではありません。神様の目には、あなたは違反者です。なぜなら、あなたは人々を愛していないからです。」

イエス様の時代、パリサイ人たちはまさにそのような人々でした。彼らは人々を愛していませんでした。彼らはさまざまな宗教的なルールを守り、さらには神様が命じていないルールさえ守りました。

しかし、彼らは人々を差別し、裁き、見下しました。だから、イエス様は彼らの偽善を厳しく責められました。

もしイエス様が現代の教会を見るなら、同じ理由でどれほど責めるでしょうか。

だからヤコブはこの話を次のようにまとめます。

自由をもたらす律法によってさばかれることになる者として、ふさわしく語り、ふさわしく行いなさい。あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。

あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです。(2:12-13)

私たちが愛と憐れみの律法に従って生きるならば、人々を自由にし、自分が神様の子供であることを証明するのです。

しかし、人々を裁き、侮るならば、私たちの信仰がそれほど強くないことを証明してしまいます。

あなたの言動は、あなたの信仰について何を表しているでしょうか。

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テモテへの手紙第ー

神の家族として生きる

牧師として、テモテは自分とは異なる年齢層の人々と接しなければなりませんでした。年上の人々、年下の人々、そして同世代の人々に対しても、慎みと知恵をもって関わる必要があったのです。

そこでパウロは、テモテにこう思い出させました。「あなたは彼らの主ではありません。彼らは、あなたが仕えている神の家族なのです。だからこそ、家族として尊敬と愛をもって接しなさい。」

そしてパウロは、こう語ったのです。

年配の男の人を叱ってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。

若い人には兄弟に対するように、年配の女の人には母親に対するように、若い女の人には姉妹に対するように真に純粋な心で勧めなさい。(テモテへの手紙第一5:1-2)

テモテは時に、年配の男性たちを訓戒しなければなりませんでした。パウロは、決して彼らを叱ってはならないと語ったわけではありません。

それでも、偉そうな態度で相手を辱めるような言い方をしてはなりませんでした。むしろ、父親に接するように、深い敬意をもって語るべきだったのです。

同じように、年配の女性たちには母親のように接し、彼女たちを尊び、やさしさをもって扱わなければなりませんでした。

また、若い男性たちに対しては、上から接するのではなく、兄弟として扱わなければなりませんでした。

若い女性たちを扱う時、テモテは注意深く行動しなければなりませんでした。もしかすると、ある女性たちはテモテに惹かれていたかもしれません。

だからこそ、テモテは自分の立場を決して乱用することなく、彼女たちを姉妹として扱わなければなりませんでした。

しかし、これは牧師だけでなく、教会全体にも当てはまります。 私たちは皆、神様の家族に属していることを忘れてはなりません。

私たちは友人を選ぶことはできますが、家族は選べません。そしてキリストにあって、私たちは一つの家族なのです。

ですから、あなたの姉妹や兄弟を見下してはなりません。むしろ、純潔をもって彼らを尊び、何よりも、愛をもって彼らと接しましょう。

あなたは、自分の家族をどのように扱っていますか。

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エペソ人への手紙

本当に分かることができたなら

私たちは、キリストにあってどれほど祝福されているかを理解しているでしょうか。おそらく、私たちはその真理を十分に把握してはいないかもしれません。

もちろん、私たちは神様の愛と恵みについて聞き、それを信じています。けれども、その愛と恵みの深さを本当に理解しているでしょうか。

私は三十年以上クリスチャンとして歩んでいますが、今なお、その愛と恵みという真理の「浅瀬」を歩いているにすぎないと感じています。

もしかすると、だからこそ、パウロはエペソの信徒たちのために、次のように祈ったのではないでしょうか。

どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。(エペソ人への手紙1:17-19)

パウロは、エペソのクリスチャンたちが神様を深く知るために、聖霊様を与えられたと語っています。

もちろん、彼らはすでにある程度神様を知っていましたが、聖霊様はさらに神様を知ることができるように、知恵と啓示を与えてくださいました。聖霊様がおられなければ、私たちは神様を知ることにおいて、すぐに限界にぶつかってしまいます。

けれども、パウロは別の手紙で、このようにも記しています。

それを、神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。

人間のことは、その人のうちにある人間の霊のほかに、いったいだれが知っているでしょう。同じように、神のことは、神の霊のほかにはだれも知りません。(第一コリント2:10-11)

要するに、聖霊様を通して、私たちは本当に神様を知ることができます。私たちは神様についての事実を知るだけでなく、神様ご自身を知ることができるのです。

もちろん、私たちは完全に神様を知り尽くすことはできません。その深さを探るには、永遠の時を要するでしょう。たとえ天国に到達しても、私たちは毎日、神様について新たなことを知ることになるに違いありません。

しかし、聖霊様が私たちのうちに住んでおられ、天の父を私たちに現してくださることによって、私たちは少しずつ神様を知るようになっていくのです。

とはいえ、聖霊様は神様についてだけを教えてくださるわけではありません。パウロはこのように語りました。

しかし私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知るのです。(第一コリント2:12)

神様は私たちに何を与えてくださったのでしょうか。上記のパウロの祈りの中に、その答えが記されています。

また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。(エペソ1:18-19)

私たちは、神様が与えてくださった希望を本当に知っているでしょうか。たとえこの世界が暗く感じられるとしても、「この世界を越えた何かがある」という確かな希望を抱いているでしょうか。

また、イエス様がすべてを治められるという希望を持っているでしょうか。もちろん霊的な領域において、イエス様はすでにすべてを統治しておられます。なぜなら、イエス様は十字架においてサタンに勝利されたからです。

けれども、私たちはある日、すべての人がひざまずき、「イエス様は主である」と告白する時が来ることを望み見ているでしょうか。私たちは、イエス様が最後の敵である死を打ち破ってくださるという希望を持っているでしょうか。

さらに、私たちは神様が豊かに注いでくださるその愛を、どれほど知っているでしょうか。

神様が私たちを「ご自身の栄光に富んだ資産」と呼んでくださっていることを、私たちは知っているでしょうか(※新改訳聖書の18節脚注を参照)。

そして、私たちが罪や病や死から解放され、復活の体を受ける日を神様ご自身が待ち望んでいてくださることを、私たちはどれほど心に留めているでしょうか。

私たちは、神様の力にアクセスできることを本当に知っているでしょうか。

その力こそが、イエス様を死から復活させたのです。その力は、私たちを日々きよめてくださいます。その力によって、私たちは新しい、栄光に満ちた体を受けるのです。その力によって、私たちは目の前の問題や試練を乗り越えることができます。

最後に、私たちは、自分がキリストにあって何者であるかを知っているでしょうか。私たちは、キリストのからだの一部なのです。私たちはこの世に遣わされ、イエス様の臨在を広げるように召されています。私たちは、すべての場所を神様の恵みと愛で満たすように呼ばれているのです。

このすべてのことを、私たちはどれほど理解しているでしょうか。もし本当に理解したならば、私たちの人生はどれほど大きく変えられることでしょうか。

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エペソ人への手紙

神様の愛によって選ばれて、祝福された

エペソ人への手紙1~2章を読むと、神様がイエス様を信じる私たちに何を与えてくださったのか、その驚くべき恵みにあらためて心を打たれます。

パウロは、この手紙を賛美の言葉で始めています。

私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。(エペソ人への手紙1:3)

私たちは、どのような祝福を受けたのでしょうか。

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。

神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ。。。(4-8)

それは、なんと素晴らしいことでしょう。パウロによれば、神様はこの世を造られる前から、すでに計画を持っておられました。神様は、私たちがご自分の御前で聖く、傷のない者となるように、私たちを選ばれたのです。

私たちが罪深く、反抗的な者になることをよくご存じであったのに、それでもなお神様は私たちを選ばれました。

そのため、神様は私たちを救い、ご自分の子として養子にする計画を立ててくださいました。

私たちの罪が赦されるようにと、イエス様をお遣わしになりました。イエス様は十字架で死なれ、私たちの罪の罰を身代わりに受けてくださいました。

イエス様の血によって、神様は罪の奴隷であった私たちを自由にし、ご自分に愛されている息子や娘として、私たちを養子にしてくださいました。

さらに、「聖霊様は、私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」(14節)

聖霊様は私たちを守り、サタンが私たちの神様との関係を壊そうとする試みを阻んでくださいます。また、聖霊様の臨在と、私たちの人生におけるその働きは、天国の片鱗です。なぜなら、天国に行けば、私たちは神様の御業を見、神様のみ顔を仰ぐことができるからです。

なぜ神様はそのように私たちを祝福してくださるのでしょうか。それは、私たちの良い行いへの報いなのでしょうか。いいえ、そうではありません。神様のみこころの良しとされるところに従って、そうしてくださったのです。

神様が選ばれたとき、誰を救い、誰を救わないかを無作為に決められたのではありません。むしろ、パウロによれば、神様は愛をもって私たちを選ばれました。私たちはその愛にふさわしくなかったのに、それでも神様は愛をもって、私たちに豊かな恵みを注いでくださいました。

神様がなぜ私たちを選ばれたのか、私たちには決して分からないでしょう。しかし、神様はご自身のご計画に基づいて、私たちを愛してくださったのです。

そういうわけで、救いの栄光は私たちに属するものではありません。むしろ、この個所で、パウロは三度こう語っています。「このすべては、神様の栄光のためです。」(6、12、14)

簡潔に言えば、私たちは神様の驚くべきご計画の一部です。その計画とは、この反抗的で罪深く、混乱した世界を、イエス様の支配のもとに一つにまとめ上げることです。

率直に言うと、私はこの真理の素晴らしさを十分に伝えることはできないと感じています。

神様とその恵みの素晴らしさを語り尽くせる言葉は、私にはないと思います。

だからこそ、私はしばらく黙って、その恵みを静かに噛み締めたいと思います。

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ガラテヤ人への手紙

豚小屋に戻る?

この手紙の中で、パウロは、救いを得るためには神様の律法にも従わなければならないと考える人々に語っています。

もちろん、パウロは彼らの考えに同意できませんでしたが、彼らの懸念の一つには共感できました。それは、もし私たちがもはや律法の下にないのなら、好き勝手に生きても構わないのではないかという誤った考え方です。

あるガラテヤ人たちは、「もし私たちが律法の下にないのなら、自分のために生きてもいいだろう。恋人と寝てもいいし、娼婦と寝てもいいだろう。どんな罪を犯しても構わないだろう」と考えました。

そのため、パウロはこの考え方について語ります。

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。(ガラテヤ人への手紙5:13)

パウロは言いました。「あなたがたは自由を与えられるために召されました。」

では、神様は私たちを何から自由にされたのでしょうか。

まず、神様は私たちを律法から自由にしてくださいました。神様の子として受け入れられるために、私たちは律法に完全に従う義務を負う必要はありません。また、神様の子供として、私たちが失敗しても、神様の裁きから解放されています。

けれども、神様は私たちをもう一つのものからも自由にされました。それは、私たちを滅ぼす罪深い生活です。クリスチャンになる前、私たちは罪の豚小屋に暮らしていました。そして、自分の罪深い心に従って生きていました。

では、罪深い心とは何でしょうか。その心は神様に反抗し、自分のために生きようとします。けれども、その罪深い心に従った結果、私たちの人生はめちゃくちゃになりました。結婚や人間関係、健康など、すべてが崩れてしまいました。

それでも、私たちを自由にするために、キリストは死なれました。イエス様は私たちの心に手術を施してくださいました。イエス様は、私たちの石の心を取り除き、肉の心を与えてくださいました。(エゼキエル書 36:26)

要するに、イエス様は私たちの反抗的な心を取り除き、神様に従いたい心を与えてくださいました。そして、私たちがイエス様に従うにつれて、イエス様は私たちを滅ぼす罪から自由にしてくださいます。

それでも、私たちの中には罪の名残がまだ残っています。つまり、罪深い態度や習慣が消えずに残っているのです。私たちは生きる限り、それらと戦い続けなければなりません。

だからこそ、パウロはこの言うのです。「その古い態度や習慣に屈服してはいけません。あなたは豚小屋に暮らしていた時、惨めな人生を送ったでしょう。なぜまたその豚小屋に戻りたいと思うのですか。むしろ、愛をもって互いに仕え合いなさい。」

律法と罪からの自由の喜びを本当に知りたいと思いますか。愛をもって人に仕えましょう。神様の愛を楽しむにつれて、その愛を周りの人々に分かち合いましょう。私たちは神様から受けた祝福を周りの人々に分け与えるためにデザインされました。

そうすれば、真の喜びを知るでしょう。豚小屋に戻ることは、喜びにつながりません。

そして、パウロはこう言います。

律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。(14)

言い換えると、もしあなたが本当に律法に従っているかどうかを心配しているなら、愛をもって人々に仕えなさい。自分の自由をそのように用いるなら、自然と律法に従うことになります。

一方で、もし私たちが豚小屋に戻るなら、その結果はどうなるでしょうか。

気をつけなさい。互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。(15)

あなたはどうですか。イエス様からの自由の喜びを知っているでしょうか。もしかすると、豚小屋に戻ってしまったのかもしれません。では、あなたはこれからどうするでしょうか。

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コリント人への手紙第二

真新しい視点

パウロはクリスチャンになった時、まったく新しい視点を与えられました。

救われる前、彼はクリスチャンたちを迫害していました。その時、彼は自分が神様の御心に従っていると信じていました。しかし、救われた後、彼はすべてを新しく認識しました。

パウロはイエス様の真の姿を目の当たりにし、さらにキリストが彼のために十字架で何をされたのかを理解し始めた時、彼の生きがいが根本的に変わりました。

イエス様を愛するようになったことで、イエス様についての彼の考え方も、周りの人々についての考え方も変化しました。

そのため、彼はこう記しました。

ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。

かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。(コリント人への手紙第二5:16)

クリスチャンになる前、パウロはイエス様を単なる人間と見なしていました。さらに、彼はキリストを神樣を冒涜する者と考え、神樣から呪われた存在だと思っていました。

そして、クリスチャンたちを異端視し、異邦人を部外者と見なしていました。

しかし、クリスチャンになった後、パウロは彼らを新しく認識しました。彼らが神樣に愛される民であることを悟ったのです。

同様に、私たちがクリスチャンになる時、キリストについての考え方だけでなく、周りの人々への見方も変わるはずです。私たちは世の基準で人々を判断してはいけません。

この世は、人を美しさ、知性、富、魅力によって評価します。そして、それらを持たない者を切り捨てます。

けれでも、もし私たちがそのような価値観で人を見てしまうなら、極めて重要なことを見失うことになります。人は皆、神の似姿として造られているからです。

もちろん、彼らを見る時、その似姿が大きく歪んでいるように思えることもあるでしょう。それでも、彼らは神の似姿に造られました。

だからこそ、神樣は彼らを大切にされます。そのため、神樣はあなたのためだけでなく、彼らのためにもイエス様を十字架に送られたのです。

それならば、どうして私たちは彼らを軽蔑することができるでしょうか。

正直に言うと、私にとって、そのような考え方を持つのは難しい時もあります。ある人々は、愛することが容易ではありません。それでも、神樣は彼らを愛しておられます。

もし私が彼らを愛せないなら、それは私の心の問題です。彼らを見る時に、神の似姿を認識できないならば、それは私の霊的な目が曇っているのです。

あなたはどうでしょうか。愛するのが難しいと感じる人を知っていますか。

主よ、あなたにあって私は新しく造られた者です。あなたが誰であるかを知るようになりました。どうか、私が周りの人々が誰であるかを理解できるように、私の目を開いてください。

つまり、彼らをあなたの似姿として造られた者として見ることができるように助けてください。彼らを私の愛に値する者として見ることができるように助けてください。

私の傲慢な態度を赦してください。私の心を変えてください。私に新しい目を与えてください。あなたの目を与えてください。私があなたのように愛することができるように助けてください。アーメン。

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コリント人への手紙第一

何が残るか

13章におけるパウロの最後の言葉は興味深いものです。パウロは、私たちがイエス様のみ顔を仰ぐとき、どの賜物がなくなるのかについて語ったばかりでした。

しかし、13節では、天国に残るものについて語ります。

彼はこう言いました。

こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。(コリント人への手紙第一13:13)

天国でも信仰が残るというのは、興味深いことだと思います。なぜなら、私たちは神様のみ顔を直接仰ぐからです。

では、天においても信仰が必要なのはなぜでしょうか。もしかすると、天にある信仰は、この世にある信仰とは異なるのかもしれません。

私たちが地上にいる間、罪深い心のゆえに神様を信じることに苦労します。私たちの心の一部は神様を信じていますが、一部は信じきれていません。

マルコ9章では、ある父が自分の心の中でそのような葛藤を抱えていました。私たちは神様を見ることもできず、御声を直接聞くこともできないため、信じることは難しいのです。

けれども、私たちが天の父のもとへ行くと、神様を信じることがはるかに容易になります。神様のみ顔と愛を直接見ることで、私たちが神様を信じるのは当然のこととなるでしょう。私は今、そのような確信に満ちた信仰を持ちたいと願います。

また、天国に希望があるというのも少し不思議に思えます。何を望むことができるのでしょうか。私たちはすでに救われ、天国にいるのです。

とはいえ、天国にある希望は、この世の希望とは異なると思います。私たちが天国で苦しみ、救いを求めるわけではありません。

むしろ、私たちはすでに喜びを持っており、さらに将来においても深い喜びを抱く希望を持っています。なぜなら、私たちは神様が良い方であると信じているからです。

それでも、パウロによれば、その中で最も優れているのは愛です。なぜでしょうか。はっきりとは分かりませんが、もしかすると、その理由の一つは、希望と信仰は残るものの、形が少し変わるからかもしれません。

今の信仰の大きな要素は、目に見えないものを信じることです(へブル11:1)。しかし、天国では私たちは神様のみ顔を直接仰ぎます。

同様に、希望の大きな要素は、目に見えないものを待ち望むことです(ローマ8:24)。

けれども、キリストを見ると、私たちの最も大きな希望は完全に満たされます。キリストにあってすでに与えられたものと比べると、私たちがまだ望むものは取るに足りないものとなるでしょう。

その一方、天国では私たちの愛の形が変わるのではなく、むしろ、完全なものとなるのです。私たちの嫉妬やプライド、自己中心的な態度はすべて取り除かれ、愛はこれまで経験したどの愛よりも、さらに満ち溢れ、純粋なものとなるでしょう。

私はその日が待ち遠しいです。

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コリント人への手紙第一

御言葉を自分の人生に適用する

私は数えきれないほどこの箇所を読んできましたが、今回は改めてその意味を深く認識しました。つまり、この言葉をこれまでとは異なる方法で、自分の人生に当てはめてみたのです。

おそらく、あなたも聖書の言葉を自分の人生に適用することの大切さを理解していると思います。私たちは聖書を単なる小説や、時代遅れの道徳を説く本として読むのではなく、神様が私たちに語りかける言葉として読むべきです。

今日の箇所を適用すると、多くのクリスチャンは「愛」の代わりに自分の名前を入れて読みます。例えば、「ブルースは寛容であり、ブルースは親切です。」

もちろん、それは良いことです。そうすることで、自分の心を吟味し、その愛の特質を持っているかどうかを考えることができます。

しかし、今日この箇所を読んだとき、私は異なる方法で自分の人生に当てはめようと思いました。

たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、妻に対する愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。

たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、娘に対する愛がないなら、私は無に等しいのです。(1-2)

「妻」と「娘」を考えながら、自分の人生について振り返りました。私は異言では話しませんが、教会でよく説教をします。

しかし、もし私が妻を愛さないなら、私はただの騒がしいどらや、うるさいシンバルにすぎません。

もし私が聖書に精通し、神様の言葉を力強く伝えられたとしても、娘を愛さないなら、私は無に等しいのです。

だから私はこう思い始めました。

「私は本当に妻と娘を愛しているのだろうか。彼女たちに対して、私は寛容だろうか。私は親切だろうか。私は自分の利益を求めていないだろうか。私は苛立っていないだろうか。

私は彼女たちを信じているだろうか。彼女たちの最善を望んでいるだろうか。彼女たちのために私は耐え忍んでいるだろうか。」

正直に言うと、私はいつもそのように振る舞えているわけではありません。

もちろん、私は他の人の名前をこの箇所に当てはめることもできます。私は本当に同僚や教会のメンバーを愛しているだろうか。けれども、まずは妻との関係、そして娘との関係について考えることが重要だと思います。

あなたはどうでしょうか。あなたは本当に家族を愛していますか。

あなたはこの世界で素晴らしいことを成し遂げているかもしれません。また、教会で素晴らしい働きをしているかもしれません。けれども、もし自分の妻や子どもを愛していなければ、あなたは無に等しいのです。

この記事を読んでいるとき、神様はあなたに誰かの名前を思い起こさせているかもしれません。それは、あなたのご両親でしょうか。それとも、心の中に引っかかっている同僚や教会のメンバーでしょうか。

もし神様があなたの心に語りかけているなら、私はあなたが祈ることをおすすめします。その人を真に愛することができるように祈ってください。また、どのようにその人を愛するべきかを知ることができるように祈ってください。

主よ、私はただの騒がしいどらや、うるさいシンバルになりたくありません。どうすれば周りの人を愛することができるか、教えてください。私が妻と娘を心から愛することができるように助けてください。

また、他の人々をも愛することができるように導いてください。私は何度も失敗しますが、あなたのように愛したいと願っています。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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コリント人への手紙第一

神様とはどのような方か、私たちはどのような人になるべきか

この箇所を読んだとき、興味深いことに気づきました。パウロが描く愛の姿は、コリントの人々の行動とは大きく異なっていました。

パウロによれば、愛は寛容であり、親切です。また、愛は礼儀に反することをせず、自分の利益を求めません。

けれども、聖餐式の後の晩餐では、金持ちは貧しい人々を差し置いて先に食事をし、良いものを食べ尽くしてしまいました。残り物があれば、貧しい人々はようやく食べることができました。(コリント人への手紙第一11:17-34)

さらに、良心が傷つきやすい人を気にせずに、コリントの人々は自分の「権利」を利用し、その兄弟姉妹を傷つけてしまいました。(8)

パウロによれば、愛はねたまず、自慢せず、高慢になりません。

けれども、コリントの教会では、メンバーたちは自分がどのリーダーに従うかを誇り、それをめぐって争いました。(1章、3章)

さらに、彼らは自分の持ち物を誇り、その結果、パウロを見下したようです。(4章)

しかし、神様はそのような方ではありません。私たちが何度失敗しても、神様は変わることなく親切であり、寛容です。

そして、神様は人間となられましたが、それは私たちを支配する王としてではなく、私たちの罪のために死ぬしもべとして来られました。

イエス様は悪を見て怒られましたが、真理を受け入れた人々を見て喜ばれました。

そして今、イエス様の十字架の働きによって、天の父は私たちが犯した罪を心に留められません。

むしろ、神様は私たちに恵みを与えてくださいます。神様は私たちを信じ、最善を望まれます。さらに、私たちに対する神様の愛は決して絶えることがありません。

私たちはそのような人になろうと努めるべきです。神様のように、私たちは他の人々を愛し、敬意をもって接するよう努めるべきです。

正直に言うと、私はその基準を満たしていません。けれども、その愛を持っていなければ、私の人生はむなしいものです。だから私は祈ります。「私が愛する者となれるように助けてください。」

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コリント人への手紙第一

どのように霊的な賜物を使うべきか

これは聖書の中で最も有名な箇所の一つです。この箇所は愛について書かれていますが、パウロは特に結婚や恋愛関係について話しているのではありません。

むしろ、これまでの話をまとめています。つまり、私たちの賜物は教会を分裂させるためではなく、教会を成長させるためにあるのです。

だから、この箇所でパウロは、私たちがどのように賜物を用いるべきかを教えています。

パウロはその賜物の使い方を「はるかにまさる道」と呼びます。

そして、彼はこう語っています。

たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。

たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。

たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。(コリント人への手紙第一13:1-3)

簡単に言うと、私たちは世の中で最も素晴らしい賜物を持っていたり、自分自身を犠牲にしたり、すべての持ち物を貧しい人々に与えたりすることができます。けれども、神様への愛、また他の人々への愛を持っていなければ、それらは無意味です。

多くの人々は、神様や他の人々への愛のためではなく、自分のプライドのために賜物を使ったり、自分自身を犠牲にします。彼らが求めるのは、人からの誉れです。

しかし、そのプライドによって、彼らは他の人の賜物に嫉妬し、または自分と同じ賜物を持っていない人を見下します。

その結果、偽善に満ちた分裂した教会が生まれます。そのような賜物の使い方は、神様を喜ばせません。

私たちの賜物は、他者への愛の表現であるべきです。愛を持っていなければ、私たちの賜物の使い方は誤っています。

あなたはどうでしょうか。どのように賜物を使っていますか。

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ローマ人への手紙

返済することができない負債

私はパウロのこの言葉が大好きです。

だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことは別です。(ローマ人への手紙13:8)

「借り」とは何でしょうか。それは、私たちが返済しなければならないものです。私たちは、その金額を返済する義務を負っています。

この箇所で、パウロは「愛」を「借り」と比較しています。つまり、パウロの言葉を言い換えれば、私たちは人を愛する義務を負っているのです。

パウロの言葉について少し考えてみましょう。もし誰かが、「私を愛しなさい。あなたにはその義務がある」と言ったら、あなたはどう反応するでしょうか。

私なら、「いやだ。あなたを愛する義務なんてないよ」と答えるかもしれません。

しかし、パウロは、私たちがその義務を持っていると言います。なぜでしょうか。

第一の理由は、私たちが皆、神様の似姿として造られたことです。だからこそ、私たちは彼らを愛すべきなのです。

第二の理由は、神様が彼らを愛しておられることです。もし神様が彼らを愛しておられるなら、私たちも彼らを愛するに値すると見なすべきです。

それでも、多くの場合、私たちは相手を愛するに値する存在だと見なしていません。なぜでしょうか。

時には、彼らが私たちとは異なる存在だからです。つまり、彼らの身分や性格が私たちと違うのです。

また、時には、彼らの行動にあきれることもあります。

しかし、私たちが決して忘れてはならないのは、神様が彼らを造り、愛しておられることです。だからこそ、彼らは私たちの愛に値する存在なのです。

もし私たちがその愛を与えることを拒むなら、基本的にこう言っているのと同じです。 「神様、あなたは価値のないものを造られました。どうしてあの人を愛しておられるのですか?」

そして、第三の理由があります。神様が私たちを愛しておられるゆえに、イエス様をこの世に送られたのです。

私たちを救うために、イエス様は十字架の上で計り知れない代価を支払われました。私たちには、その負債を返済することは決してできません。

それにもかかわらず、私たちは値しない愛と恵みを受けました。そのため、神様に対して負債を負っているのです。それは、私たちが受けた恵みと愛を、周りの人々に惜しみなく与えることです。

たとえ相手がその愛と恵みに値しないと感じたとしても、私たちはなお、その愛と恵みを与えるべきなのです。

イエス様はこう語られました。

あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。(マタイ10:8)

あなたはどうですか。あなたは、無償で受けた愛を周りの人々に無償で与えているでしょうか。

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ローマ人への手紙

私たちが苦しんでも

今日の箇所では、パウロは15-18節の話をまとめています。

15-16節では、パウロは私たちが神様とどのような関係を持っているのかを教えています。私たちは神様を恐れずに、神様の御前に来て「アバ、お父さん」と呼ぶ権利を持っています。

そして、17-18節では、パウロは私たちがこの世界で苦しむこともあると警告しています。

時には、私たちはイエス様に従うゆえに苦しみます。時には、ただこの壊れた世に住んでいることで苦しむのです。

けれども、35節では、パウロは私たちにとても大切なことを思い出させます。私たちは苦しむとき、この言葉を心に留めるべきです。

だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」(ローマ人への手紙8:35-36)

もちろん、その答えは、私たちをキリストの愛から引き離せるものは何もないということです。

私たちが直面する苦難、迫害、災害、飢えなどは、私たちをその愛から引き離すことはできません。たとえ私たちが死んでも、神様の愛から離れることはありません。

けれども、パウロはさらに語ります。

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(38-39)

だから、霊的な力や、私たちの不安や将来への恐れ、この世のどんな力も、私たちをイエス様の愛から引き離すことはできません。

たとえあなたが海底にいようとも、宇宙にいようとも、どこにいようとも、神様の愛はあなたに届くのです。

だから、パウロはこう言うことができるのです。

これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。(ローマ人への手紙8:37)

要するに、イエス様は十字架で勝利を得られたので、最終的に私たちも勝利を得るのです。十字架でイエス様はサタンを打ち破り、その計画を覆されました。

だから、サタンが私たちを誘惑したり、責めたり、苦しめたりしても、神様は変わらず私たちを愛しておられるので、私たちには希望があります。そして、私たちをその愛から引き離せるものは何もありません。

だから、苦しむとき、その愛によって安心しましょう。その愛の慰めを受けましょう。なぜなら、神様の愛は決して私たちを手放さないからです。

そして、どんな試練に直面しても、その愛によって私たちは乗り越えるのです。

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ローマ人への手紙

神様に愛され、呼ばれている

それでは、今日から、私たちは新約聖書の中で最も大切な書のひとつを読み始めます。

なぜ、ローマ人への手紙がそれほど重要なのでしょうか。それは、この手紙の中で、パウロが福音を明確に説明しているからです。

パウロがこの手紙を書いたとき、彼はまだローマに行ったことがありませんでした。だから、ほかのパウロの手紙と違い、ローマの教会の具体的な問題については触れませんでした。

むしろ、パウロは福音を詳しく説明しました。なぜなら、神様が彼を福音を述べ伝える者として召したからです。それこそが、パウロの使命でした。

この手紙の冒頭で、パウロは、神様が彼を使徒として召したことについて説明しています。特に、彼の使命は、異邦人に福音を述べ伝えることでした。

パウロがプライドを持って、「神様は私を選ばれた」と誇ることは容易だったでしょう。

しかし、パウロはこう言いました。

「あなたがたも召されてイエス・キリストのものとなりました。あなたがたは神に愛され、召された聖徒たちです。」(ローマ人への手紙1:6-7)

「あなたがたも。」

私は、この言葉が大好きです。

「あなたがたも。」

パウロはローマのクリスチャンたちに語りました。「あなたがたも召されてイエス・キリストのものとなりました。私たちユダヤ人だけではありません。私たち『特別な人』だけではありません。

あなたがたも特別な人たちなのです。あなたがたも神様に愛されているのです。あなたがたも、召された聖徒たちなのです。」

時々、私たちは「どうして神様は私を愛してくださるのだろうか」と疑問に思うことがあります。

私たちは時々こう思います。「私は全然特別じゃない。いったいどうして、神様は私のことを考えてくださるのだろうか。」

けれども、時間が始まる前から、神様は私たちを知っていて、「あなたを愛している。あなたを選ぶ。」と言われました。

神様は私たちの過ちや罪、弱さをすべて見たうえで、それでも「あなたを私のために選ぶ」と言われました。

それが「聖徒」の意味です。「聖徒」とは、「神様に選ばれた人、そして神様のために選ばれた人」という意味なのです。

私たちの多くは「聖徒」という言葉を見ると、「え?私は聖徒なの?そんなはずがない。」と言います。

なぜなら、「聖徒」という言葉を聞くと、私たちは「完全な人」というイメージを抱くからです。

しかし、あなたが「聖徒」と呼ばれるのは、あなたが他の人よりも聖いからではありません。むしろ、神様があなたを愛し、選ばれたからこそ、あなたは「聖徒」と呼ばれるのです。

それは恵みです。私たちがその愛にふさわしくないのに、私たちが他の人よりも優れているわけではないのに、神様はその愛を私たちの上に注いでくださいます。

そして、私たちは恵みによって愛を受けたからこそ、神様との平和を持っています。

神様が私たちを本当に受け入れてくださるかどうかを疑う必要はありません。もし、私たちが神様の受け入れを得るために努力しなければならないのだとしたら、不安を抱くことでしょう。

けれども、神様は恵みによって私たちを受け入れてくださいます。

この世界が造られる前から、神様はすでにあなたを選び、受け入れてくださっていました。もし私たちがそのことを悟るなら、私たちの人生はどのように変わるのでしょうか。

もはや神様の愛と受け入れを得ようと必死になる必要はなく、ただその中で安らぐことができるのです。

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使徒の働き

ひとつになって、ひとつにする

今日、私はこの箇所を締めくくろうと思いますが、44節と46節の「一つになって」と「心を一つにして」という言葉は、私の心を打ちました。

この言葉は、42節と関係があると思います。つまり、クリスチャンたちは交わりに専念していました。

彼らは他のクリスチャンとの関係を大切にしていたので、積極的に共に時間を過ごそうと努めました。けれども、ただ宮に集まっただけではなく、彼らは自分の家にも集まりました。そして、週に一度ではなく、毎日集まりました。

さらに、彼らは本当に互いに愛し合いました。だから、貧しい兄弟姉妹を常に助けました。

そして、彼らは心を一つにしました。

では、彼らは決して喧嘩しなかったのでしょうか。それは違うと思います。

彼らはいつも意見が一致していたのでしょうか。おそらく、そうではなかったでしょう。

けれども、最終的に彼らは、相手の違いを受け入れ、兄弟姉妹として見なすことができました。彼らは互いに必要であると認め、さらにその関係に専念しました。

クリスチャンが新しい夫婦にアドバイスを与えるとき、しばしばこう言います。

「困難な時にも、この関係を守ろうと努めなさい。相手に対するコミットメントはとても大切です。だから、喧嘩するときも、傷つけられるときも、努力してその関係を守りなさい。」

もちろん、その通りです。

しかし、どれほど多くのクリスチャンが他のクリスチャンと喧嘩し、その関係を捨ててしまうでしょうか。

神様は私たちにこう言われます。

「兄弟姉妹との関係を守りなさい。私はあなたにそのようなコミットメントを望んでいます。」

それにもかかわらず、私たちはこのことをほとんど考えようとしません。辛いときも、喧嘩するときも、傷ついたときも、神様は私たちに忠実なコミットメントを求めておられます。

結婚と同じように、クリスチャンの交わりにはコミットメントが必要です。そして、苦労も伴います。けれども、そのコミットメントを持てば、素晴らしい報いがあります。

そのようなコミットメントがあれば、私たちは祝福されます。さらに、この世の人々は、私たちの互いの愛を見て、イエス様に惹かれるでしょう。使徒の時代にも、そのようなことが起こりました。

神様の民の愛と一致、そして彼らの間で働かれる神様の力によって、教会は成長しました。ルカはこう記しています。

主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。(使徒の働き2:47)

確かに、教会の中にはさまざまな問題があります。教会が人間によって成り立っている限り、問題があるのは当然です。

なぜなら、イエス様は完全な人々のために来られたのではなく、霊的に病んでいる人々のために、また、傷ついた人々のために来られたからです。

牧師や他のリーダーたちが失敗することもあります。教会では、人が人を傷つけることもあるでしょう。

それでも、その関係にコミットメントを持ち続けますか。あなたのプライドを脇へ置き、困難の中でも人間関係の問題に向き合うでしょうか。イエス様のためにそうしませんか。

主の言葉を心に留めておきましょう。

私はあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネ13:34-35)

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ヨハネの福音書 ヨハネ21章

私たちを信じてくれる神

これは、聖書の中で私が特に好きな話の一つです。主人公はペテロ――自信満々なペテロ。大胆なペテロ。

それでも、ペテロはイエス様を知っていることを三度否定しました。その瞬間、彼の自信も、大胆さも失われました。もしかすると、彼は自分自身すら信じられなくなったかもしれません。

復活後、ペテロとイエス様の最初の会話を読んでみたいと思います。残念ながら福音書にはその詳細な会話は記されていません。

ペテロはイエス様の墓へ行ったとき、イエス様の遺体が見つからず、激しく困惑したことでしょう。「ヨハネは、イエス様がよみがえられたと信じている。でも、本当にそれが事実なのだろうか?」

もしかすると、ペテロはこう思ったかもしれません。

「正直、ある意味では、それが本当じゃないほうがいいかもしれない。だって、もし本当なら、私はどうやってイエス様と向き合えばいいのだろうか。」

けれども、突然イエス様はペテロの前に現れました。

ペテロはどう反応したでしょうか。驚きでしょうか。喜びでしょうか。それもあるかもしれません。

もしかすると、ペテロはイエス様のもとにひれ伏し、涙を流しながら何度もこう叫んだのではないでしょうか。

「ごめんなさい……どうか赦してください。」

多分、イエス様はペテロにこう言われたことでしょう。

「大丈夫だ。赦してあげよう。私はあなたのような人々のために十字架で死んだのだから。私は今も変わらず、あなたを愛している。」

それを聞いて、ペテロは慰められたかもしれません。けれども、すぐに疑いが心に浮かんだのではないでしょうか。

「まさか、本当にイエス様は私を赦してくださったのか?たとえ赦されたとしても、イエス様は私を弟子としてもう受け入れられないのではないか?私の失敗はあまりにも大きすぎる。。。」

そして、数日が経ちましたが、ペテロはイエス様と再び会うことがありませんでした。そのため、彼の心は再び沈んだことでしょう。

「やはりダメなのか。。。イエス様は『赦してあげよう』と言ってくださった。でも私はもう、イエス様の弟子として歩み続けることはできないのではないか。元の生活に戻るしかないのだろうか…。」

そこで、ペテロは他の弟子たちにこう言いました。

「私は漁に行く。」

他の弟子たちも、おそらく少し退屈していたので、ペテロと共に漁に出ました。ところが、夜通し漁をしても、何も捕れませんでした。

もしかすると、ペテロの気持ちはさらに沈んだのではないでしょうか。

「私はもう、何をやってもダメだ。。。魚を捕ることすらできない。」

そして、彼らは岸辺から声を聞きました。

「おい!食べる魚がないみたいだね。船の右側に網を打ってみなさい。」

弟子たちがその言葉通りにすると、突然、彼らの網は魚でいっぱいになりました。それを見たヨハネは叫びました。

「あれは主だ!」

ペテロはヨハネの言葉を聞くと、すぐに湖へ飛び込み、イエス様のもとへ泳いでいきました。ペテロが岸に着くと、イエス様は微笑みながら言われたことでしょう。

「ペテロ、何をしているのだ。他の弟子たちを助けなさい。」

ペテロは船に戻り、弟子たちと共に魚を岸辺まで持ってきました。彼らが到着すると、イエス様はすでに魚を焼いて、彼らのために食事を用意されていました。

彼らが食べながら、きっと笑ったり、様々なことを語り合ったりしたでしょう。けれども、食事が終わると、イエス様はペテロに言われました。

「ペテロ、少し話がある。こちらへ。」

その言葉を聞いて、ペテロは内心ひやひやしていたかもしれません。

「やはり。。。イエス様は私を責め、私を捨てるのだろう。弟子としての私の歩みは、もう終わりなのだろうか。。。」

不安を抱えながら、おどおどとペテロはイエス様と共に歩き始めました。もしかすると、無言のまま何分も散歩したかもしれません。そしてついに、イエス様はペテロに問いかけました。

ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、私を愛していますか。(ヨハネの福音書15:15)

新改訳では、「この人たちが愛する以上に」と書かれています。しかし、実際にイエス様の言葉は、それほど明確ではありませんでした。

イエス様が語られたのは、こういうことです。

「これらよりも、私を愛していますか。」

多くの聖書学者によれば、おそらくイエス様は他の弟子たちについて話していたのだろうと考えられています。そのため、新改訳では「この人たちが愛する以上に」と訳されています。

けれども、ペテロの答えを考えると、その解釈には納得できない部分があります。

ペテロはこう答えました。

「はい。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です。」

ペテロは、自分がイエス様を三度否定したことを痛烈に覚えていたはずです。それにもかかわらず、どうして「はい」と答えることができたのでしょうか。

だから、私は異なる視点を持っています。

もしかすると、彼らが歩いているとき、ペテロの船や網、魚が視界に入ったかもしれません。

もしそうなら、イエス様の問いかけの意味は、こうだったのではないでしょうか。

「ペテロ。このものよりも、私を愛していますか?私はほんの少しの間、あなたのもとを離れた。それなのに、その間にあなたはすぐに元の生活へ戻ってしまった。本当に、これらよりも私を愛しているのか?」

この問いかけに対して、ペテロは迷いなく答えたはずです。

「はい。あなたを愛しています。」

すると、イエス様は答えられました。

わたしの子羊を飼いなさい。(15)

彼らはしばらく歩き続けると、イエス様は再び問いかけられました。

「私を本当に愛しているのか?」

ペテロはもう一度「はい」と答えました。

すると、イエス様は言われました。

わたしの羊を牧しなさい。(16)

彼らはしばらく歩き続けると、イエス様はもう一度問いかけられました。

「ペテロ、私を愛しているのか?」

この問いを聞いて、ペテロの心は痛みました。

そこで、ペテロは答えました。

主よ。あなたはすべてをご存知です。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。(17a)

イエス様は答えられました。

わたしの羊を飼いなさい。(17b)

そしてイエス様は続けてこう言われました。

まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若い時には、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。

しかし、年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。(18)

イエス様はペテロの死を預言されました。そして何年か後、ペテロはイエス様への信仰ゆえに、十字架で死ぬことになります。

どうしてイエス様は、そのことをペテロに伝えられたのでしょうか。おそらく、イエス様はこう言いたかったのではないでしょうか。

「ペテロ。私は、あなたが犯した大きな失敗をよく知っている。それでも私は変わらず、あなたを信じているのだ。

実は、あなたは将来、同じような試練に直面することになる。そのとき、あなたは再び選択を迫られる。私を否定するのか。あるいは、私のために命を捧げるのか。

しかし、今度はあなたは、私のために死ぬことを選ぶのだ。」

そして、イエス様はペテロに言われました。

私に従いなさい。(19)

ペテロのように、私たちも皆、失敗することがあります。そのたびに、ペテロと同じように思うかもしれません。

「私は大失敗した。神様は私なんて受け入れてくださるのだろうか。」

しかし、安心してください。

神様はあなたを受け入れ、今もあなたを用いられます。なぜなら、神様はあなたの現在の姿だけを見ているのではなく、あなたが将来どのようになるかをよくご存じだからです。

神様はあなたを信じておられます。

だから、自分の力に頼らないようにしましょう。

また、自分の知恵に頼らないようにしましょう。

神様があなたを受け入れ、あなたを信じておられることを覚え、心を安らかに過ごしましょう。

そして、歩みましょう。イエス様に従いましょう。

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ヨハネの福音書 ヨハネ15章

愛の戒め

私たちクリスチャンが「互いに愛し合いなさい」というイエス様の戒めの意味を本当に理解できているのか、私は疑問に思います。

ひとつの意味は、愛がただの感情ではないということです。

神様でさえ、私たちに自分の感情を変えるよう命じることはできません。

例えば、私があなたに「私に怒りなさい」と言っても、あなたに怒る理由がなければ、怒ることはできないでしょう。

けれども、私があなたを殴れば、当然すぐに怒るでしょう。なぜなら、怒りは感情だからです。私たちの状況によって、怒りは自然に湧き上がります。

また、落ち込んでいる人に「元気になりなさい」と言っても、その人は急に嬉しくなることはないでしょう。私たちは状況によって喜びを感じるからです。

しかし、イエス様は私たちに「互いに愛し合いなさい」と命じられます。

もし愛がただのセンチメンタルな感情であるならば、イエス様は「愛し合いなさい」と命じることはできなかったでしょう。なぜなら、愛は周りの人々との関係によるものだからです。仲が良ければ愛せますが、そうでなければ愛せません。

では、愛とは何でしょうか。それは、私たちが相手を価値ある存在としてみなし、その態度をもって接することです。

イエス様はそのような愛の最高の表現を示されました。

人が自分の友のために命を捨てること、これよりも大きいな愛は誰も持っていません。(ヨハネの福音書15:13)

つまり、最高の愛とは、自分自身よりも相手を大切にすることです。

イエス様は私たちにそのような愛を示してくださいました。イエス様は天を離れ、この世に来られ、私たちの罪のために死んでくださいました。その愛は、私たちが受けるべき罰を代わりに背負われるほどのものでした。

だから、イエス様が私たちを大切にされたように、私たちも周りの人々を大切にするべきです。彼らのために命を捨てるほどに、私たちは彼らを愛するべきです。

「でも、それは無理でしょう。あなたは私が毎日どんな人を扱わなくてはならないか知らないでしょう。私自身を彼らのために犠牲にするべきでしょうか。そんなに彼らを大切にするべきでしょうか。」

はい、そのとおりです。

けれども、それができるようになるためには、新しい心が必要です。そして、私たちがぶどうの木に繋がってこそ、その変化は可能となるのです。

あなたが神様の愛を受けると、失敗や罪があっても、神様があなたを愛してくださることが分かります。その神様の愛を理解すると、相手の失敗や罪があっても、あなたは彼らを愛せるようになります。

とはいえ、イエス様に繋がらず、神様の愛を常に受けていないなら、相手にそのような愛を示すのは難しいでしょう。

あなたの周りに、愛するのが難しい人がいるでしょうか。正直に言うと、私の周りにもそういう人がいます。

けれども、愛はただの感情ではありません。愛は選択です。

しかし、神様の私たちへの愛を理解していなければ、私たちはそのような選択をすることはできません。

だからこそ、神様に近づきましょう。私たちが神様の愛に根ざすことができるように。そうすると、神様の愛が私たちを通して流れ、私たちは愛の実を結ぶのです。

この世は、そのような愛を必死に探しています。

あなたは、どうしますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ14章

私たちが本当にイエス様を愛しているなら

この箇所を読むと、多くの人々は驚くことでしょう。

イエス様はこう言われました。

もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。(ヨハネの福音書14:15)

少し考えてみてください。もし、あなたの恋人や夫、妻が「もし私を愛しているなら、あなたは私の戒めを守るはずです」と言ったら、あなたはどう反応するでしょうか。

多くの人々は「そんなの嫌だ」と答え、その人と絶交するかもしれません。

けれども、私たちのイエス様との関係について、次のことを心に留めておきましょう。

第一に、イエス様は私たちの救い主であるだけでなく、私たちの主でもあるということです。しかし、イエス様は、自分の歪んだ喜びのために私たちの人生を惨めなものにしようとされるのではありません。むしろ、イエス様は私たちを深く愛し、私たちの最善を望んでおられます。

さらに、イエス様は私たちの創造者であり、私たちの人生のデザインを完全にご存じです。そのため、イエス様の言葉に従うなら、私たちの人生は祝福され、うまくいくのです。

だからこそ、イエス様は「私の言葉に従いなさい」と命じるのではなく、こう言われます。「私を信じなさい。あなたが私を愛しているなら、私を信じなさい。私はあなたの最善を知り、それを心から願っているからです。」

残念ながら、私たちの経験では、多くの人々が「こうしなさい」「ああしなさい」と指示するとき、彼らは私たちの最善を求めているのではなく、自分自身の最善を求めています。

そのため、神様が「私を信じなさい。私はあなたの最善を求めている」と言われても、私たちはその言葉を疑ってしまいます。

これは新しい問題ではありません。エデンの時代にも、同じ問題が起こりました。神様はアダムとエバにこう言われました。

「私を信じなさい。私はあなたの最善を求めている。だから、善悪の知識の木の実を食べてはならない。あなたが悪を知れば、深く苦しむことになるから。」

けれども、サタンがエバを欺いたため、彼女は神様の意図を疑いました。

彼女はこう思いました。「神様は私の最善を望んでいないかもしれない。神様は私にこの良いものを与えてくださらないかもしれない。」

そして今もなお、多くの人々が同じように考えています。

もう一つのことを心に留めておきましょう。

私たちが罪を犯すと、神様は傷つかれます。神様は聖なるお方なので、罪をご覧になると深く悲しまれます。

あなたは本当に神様を愛しているでしょうか。神様を悲しませたいと思いますか。それとも、神様を喜ばせたいと願いますか。

少し考えてみてください。もしあなたが妻や夫を愛しているなら、わざとその人を傷つけるでしょうか。「私はこうすれば相手を傷つけると分かっているけど、気にしない」と言うでしょうか。

もちろん、そのような態度は取らないでしょう。むしろ、あなたは相手を喜ばせたいと思うはずです。

それと同じように、私たちは神様を愛するべきです。もし私たちが本当に神様を愛するなら、神様を悲しませるのではなく、神様を喜ばせたいと願うべきです。

イエス様はこの世で生きておられた間、まさにそのような態度を取られました。イエス様は天の父を愛し、信じておられたので、いつも天の父の言葉に従われました。そして十字架に至るまで、天の父の言葉に従われました。

なぜでしょうか。それは、イエス様が天の父は私たちの最善を求められることを信じておられたからです。

あなたはどうですか。あなたはイエス様の言葉に従うほどに、イエス様を信じるでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ13章

全ての人が認めるように

ユダが部屋から出た後、イエス様は残りの弟子たちに向いて、十字架の前の最後のメッセージを始めました。この傲慢なよく喧嘩するグループに、イエス様はこう言いました。

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が見とめるようになります。(ヨハネの福音書13:34ー35)

覚えていてください。この前、この弟子たちは彼らの間に誰が一番偉いか議論していました。彼らのプライドのゆえ、誰もほかの弟子たちの足を洗う気は全然ありませんでした。

だから、イエス様はこの大切の教訓が彼らの心にぐっと来るように望みました。つまり、彼らがお互いに愛し合うことです。

ちょっと気づいてください。イエス様は、「すべての人々を愛しなさい」と言いませんでした。もちろん、イエス様はそのことも望んだけど、そう言いませんでした。

むしろ、イエス様は「お互いに愛し合いなさい」と言いました。

どうしてでしょうか。

その互いの間に愛によって、全ての人はその十一人がイエス様の弟子たちであることを認めるから。

今なお、多くの教会は、そのお互いの愛が欠乏しています。私たちは弟子たちのようにプライドを持って、よく喧嘩します。

だから、ノン・クリスチャンたちが教会に入ると、彼らは「イエス様に従う者はこういうものだろうか。イエス様はこんな人を育てるだろうか。それなら、私はイエス様とその教会に興味ない」と思います。

何年か前、私はある教会に行ったけど、賛美の時間、なぜかワーシップ・リーダーは部屋の後ろに座ったままで、渋い顔をしていました。

だから、ほかの人がビギナーなのに、頑張ってギターを弾き、歌わなくてはなりませんでした。だからその日、礼拝の雰囲気はとても悪いものでした。

後で私が分かったのは、礼拝の前にそのワーシップ・リーダーがほかのリーダーと喧嘩していたということです。

でも、一番悪いのは、その日に新しい人が来ていたということです。彼女はその悪い雰囲気に気づいたので、その教会に決して戻りませんでした。

もし、私たちが互いに愛し合えないなら、どうやって私たちは教会の外の人を愛することができるでしょうか。

もし、私たちがこの世の人々のようにふるまえば、どうやって、彼らは私たちの中にイエス様を見ることができるでしょうか。

あなたはどうですか。あなたは周りのクリスチャンたちの態度を変えることができないけど、神様の助けによって自分自身の態度を変えることができます。

周囲のクリスチャンに対するあなたの態度はどうですか。

あなたは彼らを見下すでしょか。彼らを批判するでしょうか。彼らの欠点についていつも文句を言うでしょうか。もしくは、あなたがイエス様に愛されたように、彼らを愛しているでしょうか。

今度の日曜日、あなたは教会に行くとき、イエス様の言葉を覚えていてください。その言葉に思いを巡らしてください。そして、あなたが周りのクリスチャンを愛せるように、神様の助けのために祈ってください。

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が見とめるようになります。(34ー35)

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神様にとって大切なことを心に留めておく

日本では状況が異なるようですが、最近、アメリカ人が「クリスチャン」という言葉を聞くと、しばしば悪いイメージを思い浮かべることがあります。

ある程度、それはイエス様を愛する人々に対して当然の反応だとも言えます。イエス様はこう言われました。

世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。。。

人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。(ヨハネ18:18,20)

でも時々、私はこう疑問に思います。「どうして彼らはそんな悪いイメージを持っているのでしょうか。それは私たちがイエス様に従っているからなのでしょうか。それとも、私たちが一番大切なことを忘れてしまっているからなのでしょうか。」

アメリカのクリスチャンたちの多くは、毎週の日曜日に教会に行ったり、バイブルスタディーに参加したり、毎日聖書を読んだり、祈ったり、聖書的な価値観を周りの人々に伝えたりしています。

実は、イエス様の時代にも、そのような人々がいました。それはパリサイ人たちと律法学者たちです。しかし、イエス様は彼らについてこう言われました。

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみあわれみと誠実をおろそかにしている。

十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。

目の見えない案内人たち。ブヨはこして除くのに、らくだは飲み込んでいる。(マタイの福音書23:23-24)

ルカ11:24では、イエス様はもう一つのことを加えられました。それは、彼らが神への愛を持っていなかったということです。

また、ある時、イエス様は弟子たちにこう言われました。

互いの間に愛があるなら、その弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネ13:35)

だから、私たちが自分自身にこう訊くべきだと思います。私の人生は神様の愛と憐れみで印されているでしょうか。

周りの人々が私たちを見るとき、私たちからの愛と憐れみを見ることができるでしょうか。私たちが彼らを愛しているのを知っているでしょうか。彼らに対する私たちの憐れみを見ることができるでしょうか。それとも、ただ彼らを責める人を見るだけでしょうか。

私たちの職場では、周りの人々は誠実さのある人を見るでしょうか。また、忠実な人を見るでしょうか。それとも、彼らはできるだけ仕事をサボる人を見るでしょうか。

もし、周りの人々が私たちの中に愛と憐れみと誠実を見ることができないなら、私たちは彼らの批判に値します。残念ですが、私たちのせいで彼らは決してクリスチャンにならないかもしれません。

神様は彼らを裁かれますが、私たちをも裁かれます。なぜなら、私たちの行動によって、「主の敵に大いに侮りの心を起こさせた」からです。(第二サムエル記12:14)

では、あなたはどうでしょうか。あなたの心からは何が出ているでしょうか。愛?憐れみ?正義?誠実?

神様にとって、それが一番大切なことです。

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マタイの福音書 マタイ22章 マルコの福音書 マルコ12章

神の国に入りたいと思うと

イエス様を尋問していた人々の中に、イエス様の言葉に深く感動した一人の人物がいました。そこで、彼はイエス様にこう尋ねました。

すべての中で、どれが第一の戒めですか。(マルコ12:28)

イエス様はこのように答えられました。

第一の戒めはこれです。「聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

第二の戒めはこれです。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」

これらよりも重要な命令は、ほかにありません。(マルコ12:29-31)

この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。(マタイ22:40)

要するに、もしあなたが完全にその二つの戒めを守ることができるなら、実はすべての戒めを守ることになるということです。なぜなら、すべての戒めは、その二つの戒めに基づいているからです。

すると、イエス様に質問した人はこう答えました。

先生、そのとおりです。主は唯一であって、そのほかに主はいない、とあなたが言われたことは、まさにそのとおりです。

そして、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛すること、また、隣人を自分自身のように愛することは、どんな全焼のささげ物やいけにえよりもはるかにすぐれています。(マルコ12:32-33)

この人は、パリサイ人たちや律法の学者たちとは違い、とても重要なことを理解したようです。それは、儀式的な聖さだけでは不十分だということです。

もし私たちが神様を喜ばせたいなら、律法に文字通り従うだけではなく、律法の精神にも従わなければなりません。そして、もし私たちがその二つの戒めに従わないのなら、私たちの他のすべての良い行いには、全く意味がないのです。

その人がそのことをよく理解したので、イエス様は彼にこう言われました。

あなたは神の国から遠くない。(マルコ12:34)

イエス様が言っていないことに気づいてください。

イエス様は「ああ、良かった。あなたがそのことをよく理解しているから、天国へようこそ。」とは言われませんでした。

むしろ、イエス様は「あなたは神の国から遠くない。」と言われました。

どうしてでしょうか。

それは、その人がもう一つの重要なことを理解しなければならなかったからです。それは何だったのでしょうか。

それは、その二つの戒めを完全に守ることができる人は誰もいないということです。だからこそ、私たちには救い主が必要なのです。その人がその必要性を理解し、イエス様を信じていたなら、イエス様はその人に「神の国にようこそ」と言われたでしょう。

私たち皆、この真理を理解しなければなりません。自分の良い行いだけでは、天国に入れる人は誰もいません。いくら努力しても、私たちは完全に神様を愛することや、周りの人々を愛することに失敗します。

そういうわけで、イエス様はこの世に来られました。イエス様は十字架で私たちの罰を受けてくださいました。しかし、三日目にイエス様はよみがえられました。そのため、イエス様を信じてこそ、私たちは救われるのです。

あなたはイエス様を信じていますか。もしイエス様をあなたの主としてまだ受け入れていないのであれば、今日そうしてみませんか。

イエス様、私は罪を犯しました。私は心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くしてあなたを愛してきませんでした。隣人を自分自身のように愛してきませんでした。

むしろ、私の行為を通して、あなたを傷つけ、周りの人々も傷つけました。どうかお赦しください。

あなたが十字架で私の罰を受けてくださったことに感謝します。私の主となってください。アーメン。

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マルコの福音書 マルコ10章

真理を言うほどに、人々を愛している?

この話では、イエス様は意地悪だったのでしょうか。どう思いますか。

この若い役人は必死に神の国に入りたいと願っていましたが、イエス様は彼に不可能とも思える挑戦を与えられました。その人が神様に対する熱心を持っていたのに、イエス様の言葉によって、その熱心は弱まってしまったように見えます。

それでも、マルコは興味深いことを記しています。彼は、イエス様がその役人にどのような感情を抱いておられたかを説明しています。

イエスは彼を見つめ、その人をいつくし[みました]。(マルコ10:2a)

イエス様は彼のうわべだけを見ず、その人の心も見つめられました。イエス様は彼の熱心をよく理解しておられました。けれども、イエス様は彼に欠けているものも見抜かれました。

そこで、イエス様はその人が自分に何が欠けているのかを理解することを望まれたのです。そうすれば、その人はイエス様の助けを求め、永遠の命を見つけることができたでしょう。

そのため、イエス様は彼にこう言われました。

あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っているものをすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。(21b)

要するに、イエス様はこう言われていました。

「さっき、あなたは自分に何かまだ欠けているように感じると言いましたね?その通りです。あなたは神様を愛するよりも、お金に執着しています。

だから、あなたが持っているものをすべて売り払いなさい。そして、あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。持ち物を売って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、あなたは本当の宝を得ることができます。

そして、わたしに従って来なさい。」

その言葉を言われた時、イエス様の願いは、彼が本当の命を見つけることでした。しかし彼は悲しみながら帰っていきました。

イエス様は真理を取り繕うことはされませんでした。イエス様は率直に真理をお伝えになりました。

時として、真理を聞くのは難しいものです。そして時には、人々はその真理を拒絶することもあります。それでも、私たちは真理を伝えなければなりません。

それでもなお、私たちは本当の愛と憐れみをもって真理を伝えなければなりません。

相手がまだ真理を拒絶するかもしれませんが、彼らが私たちの愛を理解するように努めましょう。

彼らが傷つくかもしれませんが、私たちが彼らの最善を望んでいることが伝わるように祈りましょう。

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ルカの福音書 ルカ10章

行動と真実をもって愛するか

この話を読むたびに、ヨハネの言葉が心に浮かびます。

子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。(第一ヨハネ3:18)

このたとえ話を通して、私たちはその深い意味を見いだすことができると思います。このサマリヤ人はどのようにして行動と誠実さをもって愛を示したのでしょうか。

まず一つ目に、彼は自分の文化における偏見を捨てました。

おそらくユダヤ人たちはこの話を聞いた時、非常に驚いたことでしょう。なぜなら、ユダヤ人の泥棒が旅行者を襲い、ユダヤ人の祭司とレビ人(神殿で働く人)がその人を助けなかったからです。

そしてその後、サマリヤ人が登場します。サマリヤ人たちは混血の人々であり(ユダヤ人と異邦人)、本当の神様への礼拝と偽物の神々への礼拝を混ぜたため、ユダヤ人たちから軽蔑されていました。その結果、サマリヤ人たちもユダヤ人を憎んでいたのです。

しかし、この物語の中で、サマリヤ人は怪我をしたユダヤ人を見た時にその人を憐れみました。

しかも、そのサマリヤ人は憐れむだけでなく、具体的な助けを提供しました。もちろん、怪我をした人を憐れむことは良いことですが、助けなければそれは意味を持ちません。

では、そのサマリヤ人は何をしたのでしょうか?

彼はユダヤ人に近寄りました。(34a)

彼はその人の痛みを和らげました。(34b)

彼はその人を宿屋に連れて行き、介抱しました。(34c)

さらに、このサマリヤ人は自分のお金を使ってその人の世話をしました。(35)

そして、イエス様が律法の専門家に言われたように、イエス様は私たちにもこう言われます。

「あなたも行って同じようにしなさい。周りの人々を見て、彼らが必要としているなら、その人を助けなさい。」

とはいえ、言い訳をするのはとても簡単です。

「私は忙しすぎる。」 「助けたいけれど、何もできない。」 「もっと大切なことをしなくてはならない。」

おそらく、祭司とレビ人もそのように考えたのでしょう。もしかしたら、彼らはその人がすでに死んでいると思い、その遺体に触れることで儀式的に不潔になることを恐れたのかもしれません。

(神様の律法では、儀式的に不潔な人は神殿に入ることが許されていませんでした。)

そのため、彼らは自分の義務をその人に対する愛よりも優先させました。

また、彼らはこう思ったかもしれません。「私は医者ではない。これは私の責任ではない。何もできない。」

どのように考えたとしても、彼らは神様の言葉を忘れてしまいました。

わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。(ホセア書6:6)

あなたはどうでしょうか。周りの人々のニーズを見る時、その人を無視するでしょうか。もしかすると、祈るだけで実際に助けることはしないでしょうか。それとも、ただ言い訳をしてしまうでしょうか。

憐れみ深い心を持って生きましょう。なぜなら、神様はそのような心を望んでおられるからです。言葉や口先だけで愛するのではなく、行動と真実をもって愛を示しましょう。

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マタイの福音書のデボーション

聖さの中心

[この記事は、私が伝えた教会のメッセージでした。私の通訳者は、このメッセージを翻訳してくれました。]

SNSを使ってる人はどのくらいいますか?私もSNS使ってます。でも時々、ちょっと怒りを感じる書き込みを見かけるときがあります。そんな時は、つい言い返しそうになる口をぐっと抑えます。正確に言うと、書き返しそうになる “腕を” 抑えます。

最近Facebookでこう言う投稿を見ました。「クリスチャンていうのはさ、『あれは罪、これは罪、なぜなら旧約聖書にそう書いてあるから』って言って人を裁くよね。でも旧約聖書には『シーフードは食べたらいけない。二つの素材が混じった服は着たらいけない。土曜日に働いてはいけない。』と書いてあるじゃないか。でもそれをクリスチャンは今は守ってないことに関しては、どういうつもりなんだい?」という書き込みでした。

この人は何を言いたいんでしょう?「クリスチャンは矛盾してる。旧約聖書から、自分の好きなところだけ選んで従って、それ以外は見ないふりしてる。」ということでしょう。

この指摘は正しいですか?もしあなたがこのように問われたら、何と答えますか?アメリカのある有名な牧師が、このことに関して最近非常に”面白い”回答を導き出しました。「もう旧約聖書の律法はすべて忘れてしまえ」と。

その牧師はこう言ってるんですね。「十戒はもう気にしなくていいんです。汝らはもう十戒に従うことなかれ。なぜならこれらはもはや現代を生きるあなたへの命令ではないんです。」

さらにエスカレートしてこう言います。「ペテロも、ヤコブも、パウロも、クリスチャンの信仰から旧約聖書を切り離すことにしました。つまりこの使徒たちは、教会からこの世の価値観や仕組みから切り離し、旧約聖書の掟すら切り離したんです」。

はっきりさせておかないといけないのは、この牧師は決して、私たちは好きなように生きていい、とは言ってはいません。彼は、私たちに大切なのは愛の律法だ、と言いたいのです。愛の律法とは、「神を心から愛しなさい。自分を愛するように隣人(となりびと)を愛しなさい。」です。これは完全に真実です。でも、だからと言って、愛の律法から十戒を切り離すことはできません。愛の律法と旧約聖書にある倫理的な律法を切り離すことはできません。イエス様はそうされませんでした。イエス様の弟子たちもそうはしませんでした。実際、愛の律法とは旧約聖書の倫理的律法から来ているんです。(レビ19:18, 申命6:5)

じゃあ、私たちにとって旧約聖書って何でしょうか。神様を喜ばせるために、一個一個すべての律法を厳密に守るべきでしょうか。じゃあ食べ物に関しての律法は?着るものに関しては?もっと言えば、いけにえを捧げることは?なぜ私たちはもういけにえを捧げなくていいんでしょうか?このようなことを、皆さんは考えた事ありますか?

最近こういう本をもらいました。「聖書的に生きる1年。」1年間、この本の著者は、聖書に書いてある戒めの一つ一つを厳格に守るということにチャレンジしました。もちろん その中には、人のものを欲しがらない、嘘をつかない、ゴシップをしない、というものも含まれています。そして、安息日に休む事、特定の食べ物は食べないこと、服装のことも、全部聖書の通りに守るようにしました。不貞を働く夫がいれば、その人に石を投げることすらしました。(まあ、石といっても小石ですけど。) 私たちも皆こういうふうに生きるべき?これが聖いってことでしょうか?

先週からSteadfast断固というシリーズが始まりました。聖いという事が、毎日の日常の生活の中ではどういう事なのか、を一緒に考えてみましょう。

イエス様の弟子の一人、ペテロはこのように言いました。

あなたがたを召してくださった聖なる方(神様)にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。(第一ペテロ 1:15-16)

この箇所では、ペテロは旧約聖書のレビ記というところから引用しています。(レビ11:44-45, 19:2; 20:7)レビ記で神様は民に繰り返し語られています。「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」そして、その度に、神様はこうも言っています。あなたがたは周りの人たちと同じことをしてはならない。 (レビ18:3; 24-30, 20:23-26) あなた方は選り分けれたほかとは違う存在なのです。

ペテロが、旧約聖書から引用したということは、実はすごく大事な意味があります。つまり、こと聖さに関して言うと、私たちと旧約聖書は大事な関係がある、ということです。じゃあ、旧約聖書と私たちの関係って本当のところ、何でしょうか。私たちが聖い生き方をしようとするとき、旧約聖書は私たちに何を語っているのでしょうか。イエス様が何と言われたか、見てみましょう。

マタイによる福音書5:17から。

わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。

だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。(17-20)

ここはとても大事なことですが、イエス様は神様のことばに対して、最大限の敬意を払っています。イエス様が律法や預言者について語るとき、それらはすべて旧約聖書から語っています。そしてこう言っていますよね。「わたしが来たのは、律法を廃棄するためではないです。成就するために来たのです。」

どういう意味でしょうか。二つ意味があります。一つ目は、イエス様は神の律法に完全に従いました。大工として30年間を過ごし、3年間は福音を伝える説教者としていきました。その間、一度として神の律法を破ることはありませんでした。神がしなさいということはしたし、神がしてはいけないといわれることは決してしませんでした。私たち「してはいけないことをしてしまうこと」イコール罪と考えがちですよね。でも、実は「しなければならないことをしない」ことも罪です。イエス様はどちらにも従いました。

二つ目は、旧約聖書はイエス様を指し示しているということです。旧約聖書の中にある300以上もの預言がイエス様を指し示しています。 それだけではないです。旧約聖書の中にあるストーリーもイエス様のことを示しています。ノアの箱船や、ヨナと大きな魚や、モーセがイスラエルの民を連れてエジプトを脱出した、これらのストーリーは、すべてイエス様のことを指しています。

律法もそうです。イスラエルの民が捧げたいけにえはイエス様を指し示しています。いけにえは、人の罪は、誰かの死を持って贖わなければならないということを示しました。幕屋もそうです。幕屋は、神がわたしたちの間に住まわれるということを表しました。. 民法もそうです。民法はイエス様の聖さ、正しさ、愛を表しています。そして倫理的律法は、イエス様がいかに罪の無いお方か、ということをを示しています。

預言、ストーリー、律法これら全てがイエス様のことを指し示し、またイエス様によって成就しました。だから、これらは今イエス様が説明したように イエス様の教えに従って、理解するべきなんです。この山上の説教と呼ばれる箇所の最後の部分では、イエスさまの話を聞いていた人々は、イエス様が権威を持って話されることに驚いた、とあります。イエス様はこのことを権威を持って話すことができました。なぜなら、イエス様ご自身ががこれらを作られた方だからです。そしてすべてはイエス様のことを指し示していました。

だから、「どうして旧約聖書の律法のうち、これは守るけど、あれは守らないのはなんでだろう」って思ったら、これを思い出してください。私たちは「イエス様の権威に従う」のです。

なぜならすべての律法はイエス様を指し示しているからです。つまりどの律法が今も有効で、どの律法がそうじゃないのか、それを知りたかったら、一番簡単な方法はイエスさまがそのことについてどう教えたかを、調べることです。

そしてイエス様は、旧約聖書についてご自分の弟子たちに教えましたので、弟子たちが何と言っているか、ということも調べることができます。つまり、弟子たちが、「この律法やあの律法は今は当てはまらない」、と言っていたら、それはつまりそうなんです。

だから、私たちはもういけにえを捧げることはしません。だから今はなんでも食べていいのです。イエス様も、弟子もこう言っています。「それらの律法はイエス様によって成就された。果たされた。それらの律法は私たちにイエス様がなぜ必要なのかを表すpictureとして大切です。でも、もはやあなたたちは律法にしばられてはいないのです。」でも、イエス様もしくは弟子たちがこの律法には従うべきとする時、私たちもその律法に従う必要があります。なぜなら、そこには聖く生きるとはどういうことかが、表されているからです。

だから、イエス様は、「すべてが成就されるまでは、律法の中の1ピースすら廃されることはない。」と言われました。イエス様が再び戻って来られるその日まで、私たちには旧約聖書が必要です。

その理由は二つです。一つ目は、旧約聖書と律法はイエスさまがなぜこの地に来られたのかを証言しています。もう一つは、旧約聖書は私たちがどのように生きるべきかを教えてくれます。

だから「旧約聖書はもういらない」とは言えないんですね。私たちには必要です。そして「あなたがそれを軽く扱うなら、天の御国で一番小さいものと呼ばれる。」とイエス様は言われます。さらに、イエス様やその弟子たちが教えた「戒めを破ったり、破るように人に教えたりするものは、天の御国で一番小さいものと呼ばれます。」と言われます。

注目したいのは、イエス様がこの箇所で聖く生きることについて話すときに、いつも十戒を引用してきているということです。でもただ十戒にだけ目を向けさせたいのではないです。イエス様はあなたの心を指さしています。「あなたの心はどこにありますか?」と聞いています。

聖さの中心は、単にたくさんの律法を守ることではありません。「ここからこっちはアウトだけど、ここからこっちはセーフだよね?」と、安全ラインを見極めようとすることでもありません。聖さの中心は、あなたの心が神様のものかどうか、です。

だからイエス様は続けてこう言いました。「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」

律法学者たちやパリサイ人たちっていうのは、当時とてもちゃんとした、宗教的な人々とされていました。でもそれはとても表面的なもので、彼らの心は神様に向いてはいませんでした。もちろん彼らは律法を一言一句守ろうとしていました。でも同時に、いつも、その律法の抜け穴を探していました。残りの箇所からそれが伺えます。

21-22節を読みましょう。

昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。(21-22)

イエス様はここで十戒から引用していますよね。殺してはならない。すると、律法学者やパリサイ人はこう言います。「私たちは誰も殺してはいない。だから大丈夫だ。」

でもイエスさまは言われます。「それは良かった。じゃあ、あなたの心の中はどうですか?あなたが怒りを感じた時、あなたはその怒りをすぐに水に流しますか?それともあなたの兄弟姉妹に対して怒りをくすぶらせたままでいますか?」

私たちは、感情を持ってるから、怒りを感じることがあるのは当然です。ただ、その怒りを握りしめたままでいませんか?そうするとどうなりますか?私たちは心の中で、人を殺すんです。

その人に刺々しく話すようになる。言葉で攻撃するようになる。場合によっては、その人を自分の人生から締め出そうとします。それを言葉に出さなくても、行動や態度でそれを伝えてしまうんです。 それが伝えるメッセージは「あなたが死んでしまえばいいのに」です。

イエス様が言ってるのは、「心にそんな怒りや憎しみを抱えたままでいるなら、あなたは神様の命令を破っていることになる」です。

だから23節から26節では、あなたが律法を破り、誰かを傷つけたらなら、まず行って、仲直りしなさい、と言っています。ただ教会に来て、我敬虔なり、という顔で、献金をして祈って、賛美をしないで。まず関係を修復しなさい、と。

あなたはどうですか?行って修復しなければならない関係がありますか?

27節、28節を読みましょう。

『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。(27-28)

ここでも十戒から引用しています。ここでも、イエス様は、「もう十戒を守る必要はないよ」と言っているのではなくて、この文字の言葉の向こう側にあるものを見なさい、そして自分の心を探りなさい。あなたは心の中で、姦淫の罪を犯していないですか?」と言っています。

夫である皆さん、妻である皆さん、自分の夫や妻以外の異性を見て、「あー、この人が私の伴侶だったらな」って思ったこと、ありますか?それは、神様の目には、姦淫です。心の中であっても、その人を欲しがることは、十戒を破っていることになります。

男性にとってポルノは大きな誘惑です。それも、心の中で姦淫を犯していることになります。

イエス様は言います。「あなたのその目があなたをつまづかせるなら、えぐりだしてしまいなさい」と言われました。

文字通り、えぐりだせと言っているのではないです。イエス様が言われるのは、心の中をあつかうためには、そのくらい極端でありなさい、と言われました。

最近アメリカのあるクリスチャンの政治家が、あることで批判にさらされました、それは、たとえ仕事であったとしても、女性と二人きりでランチやディナーに行ったりしないというふうに彼が決めたからです。周りの人は彼を批判しました。

「いやいやちょっと待って。あなたの周りの女性がみんなあなたを誘惑しようとしてるとでもいうの?」といって彼を批判しました。

でも彼が言ってるのはそうじゃないですよね。彼が言ってるのは、「僕は自分自身を信用していない。僕は罪人です。だから気をつけていなければ、僕の心が僕をどこに連れて行くか、わからない。」

極端にも見えるかもしれないど、彼は自分の心の弱さを真剣に取り扱いました。私たち全員が彼の真似をする必要はないです。でも罪のことを考える時、私たちもそれを避けるために、そのくらい真剣に向き合う必要があります。あなたはどうですか?

多くの場合、私たちは罪を軽く考えてしまいます。だから、旧約聖書の律法を読むと、罪に対する裁きがあまりにも大きすぎるように、神様が厳しすぎるように感じるんですね。私たちは、神様が真剣に考えてる罪をとても軽く考えている。

でも神様は罪はとてもシリアスなものと考えた。だから、罪のあがないのためにイエス様を十字架に送ったんです。イエス様は殺人や、レイプや、盗みといった罪のために死んだのではありません。あなたの口から出る汚れた言葉のために死んだのです。あなたが誰かを傷つけた言葉のために死んだのです。あなたがついた嘘のためにです。あなたが、私が自己中心だったから、その罪のために死なれたんです。これらは私たちを地獄に送る罪です。決して軽く扱うことはできません。

イエス様は罪を避けるためなら、どんなことでもしなさい、と言われます。あなたの心はどこにありますか?

31節、32節を読みましょう。

また『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ』と言われています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。(31-32)

離婚を経験された人は、この言葉はすごく痛いと思います。ここでイエスさまが伝えようとしていることをまず言いますね、そのあとで、離婚についてもうすこし触れます。

ここでイエスさまが仰っているのは、やはり姦淫についてです。当時、夫が妻に離婚を突きつけることはできました。でもその逆はできませんでした。夫が妻と離婚したいとなったら、その離婚状と呼ばれるものを渡すだけでいいんです。そこには「もうお前は私の妻ではない、誰とでも再婚すればいい。」と書いてありました。

でもイエス様がここで夫たちに言っているのは、夫が妻と不当な理由で離婚する時、それは、妻に対して「好きなように姦淫の罪を犯しなさい」って言ってることになる、ということです。なぜなら神の目には、その離婚は正当なものではなくて、妻はまだその人の妻だからです。だから彼女がもし誰か別の人と結婚するという罪を犯すなら、その責任は元々の夫であるその人にあると。

神様が結婚というものを作られました。それは、いつまでも続く関係としてデザインされたものです。神様がアダムとエバを作られた時、二人は元々永遠のいのちが与えられていたはずでした。永遠に夫婦として生きるはずでした。彼らが罪を犯し、死というものがこの世界に入ってきたそのあとでも、結婚は、死が二人を分かつまで、夫婦を一つに結びつけるものでした。

神様の結婚に対する計画は、最初にそれをデザインされた時と全く変わってはいません。だからもしあなたが、不当な理由で結婚の関係を壊し、他の人と再婚するなら、神様の目には、あなたは姦淫の罪を犯していることになります。

そうなってくるとbig questionが出てきます。じゃあ離婚の、正当な理由って何。

イエスさまがここで言われる様に、相手が自分以外と性的関係を持った時というのがそうです。

パウロはこう言いっています。ノンクリスチャンの伴侶が離れていくなら、離れて行かせなさい。(第一コリ7:15-16)

この二つ以外に、神様が認める離婚の理由はあるでしょうか? あるとしても、私はそれを聖書に見つけることはできません。でも大事なことは、もし他にも正当な理由が あったとしても、この質問自体が正しくないんです。

たとえ、あなたの状況がどうであったとしても、あなたが最初に問うべき質問は、「神様がデザインした結婚から、逃れる方法はありますか」ではあってはいけないです。それはパリサイ人の思考です。だからパリサイ人は神様の結婚への計画からかけ離れたことをしていました。つまりしょっちゅう離婚を繰り返してました。

あなたが神様に聞くべき質問は、「神様、私の結婚を何とかして守る方法はないでしょうか。」「神様、私の心はあなたのものです。あなたは私に何を望まれていますか」。結婚を守ることがいつも可能であるとは言いません。でも夫と妻の両方がその心を持てば、そして神様には対してへり下るなら、希望があります。あなたの心はどこにありますか?

考えて欲しいことはこうです。この中にも、離婚を経験した人がいるでしょう。それはあなたのせいではなかった。あなたの夫や、妻があなたを裏切ったんです。彼らがあなたに背を向けたんです。もしそうなら、どうか自分を責めないでください、なぜならイエス様はあなたを責めません。

でももし、あなたが自分の心を、神に対して、相手に対して頑なにしてしまったが故に、離婚したのなら。もしそうなら、そしてそのことを悔い改めていないなら、どうか、今日、悔い改めてください。悔い改めるなら、あなたは赦しと癒しを受け取ります。神様は離婚のドロドロの醜ささえも、美しいものに変えることのできるお方です。たとえ一度は離婚することになっても、神様が関係を癒してくれて、再度一緒になったっていう夫婦がいることも私は知っています。

もうそうするには遅すぎる人もいるかもしれない。相手はすでに再婚してしまったかもしれないもしくはあなたが再婚しているかもしれない。でも聞いてください。あなたの新しい結婚が良くない形で始まったとしても、神様は、それを贖うことが、修復できるお方です。

聖書にダビデという男性が出てきます。彼はバテシェバという女性と結婚しました。彼のこの結婚は、最も良くない形でスタートしました。ダビデは夫のある女性と関係を持ち、女性を妊娠させました。そして自分が結婚するために、女性の夫を殺しました。でもダビデが心から悔い改めた時、そのことに対する裁きはダビデはもちろん受けましたけれども、神様はダビデの結婚を祝福されました。この結婚がのちに生み出した子孫を知っていますか。イエス様です。神様は結婚を修復してくれます。

あなたの結婚もそうです。でもあなたが悔い改めないなら、最初の結婚を壊した時と同じ態度のままなら、次の結婚もいつか崩れます。もう一度言いますねだから大事な質問は、あなたの心はどこにありますか?

時間がなくなってきたので、もう一つだけ例を見ましょう。43節から45節を開きましょう。

『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。(43-45)

最初の自分の隣人を愛しなさい、は、レビ記に出てくることばですが、後半の自分の敵を憎みなさいは、旧約聖書のどこにも書かれていません。じゃあここ、イエス様は間違ってるの?そうではなくて、律法が歪んだ解釈をされている点を指摘しているんです。

律法学者たちやパリサイ人たちは勝手にこう言いました。「神は自分の隣人を愛しなさいと言われる、ということは、その理屈でいうと、敵は憎みなさいってことだよね。」

なぜこういうふうに考えたのでしょうか。律法が本当に伝えようとしていることを見ようとせずに、表面だけとって、私は誰に対して愛を示すべきだろうか?と考え、そしてその範囲を限定し、じゃあ誰に対しては愛を示さなくてもいいだろうか?と考えるようになりました。そして結論は、「じゃあ敵のことは愛さなくてもいいよね!」でした。

このことは、ヒデさんが先月話してくれた、良きサマリヤ人の話にも出てきました。律法の専門家はイエス様に尋ねましたよね。「私の隣人とは誰のことですか?」

彼の本当の質問はこうなんです。「ここからは愛さないといけない、ここからは愛さなくても良い。その境界線のラインはどこにあるんですか?」

イエス様の答えはよく読んでみると、イエス様はこう言ってることがわかります。「律法学者君、君の質問は間違っています。誰が私の隣人かと聞くのではなくて、私は誰の隣人になれますか?って聞くべきです。そして出会うすべての人の隣人になりなさい。たとえその人たちがあなたを憎んでいたとしてもね。」

この少し後の箇所で、イエス様は言われます。もし自分を愛してくれるものだけを愛したとして、それじゃあこの世界の人々と何も変わりません。誰だってそうします。この世界とは違う、聖いものになりなさい。イエス様はこれらの教えのまとめとして、ペテロがレビ記を引用したことと同じような言い方をされています。

だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。(48)

律法や、十戒や、それらを全て要約した、イエス様と弟子たちが私たちに守る様に言われた愛の律法、いろいろな戒めががありますね。でも聖さの中心とは、これらの戒めを表面を見てただ単に守ることだけではないんです。聖さの中心は、あなたの心が神様のものかどうかです。

今日のメッセージを聞いて、こう感じてる人もいるでしょうか。「私にはそんなの不可能だわ」その通りです。不可能です。だから私たちはイエス様が必要なんです。だから聖霊様に私たちの内側に住んでいただく必要があるんです。この山上の説教の一番最初に、イエス様は何と言われたでしょうか。

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」(5:3)

イエス様は、「超霊的な人たちは幸いです。天の御国はそういう立派な人たちのものだから」とは言われませんでした。イエス様は、心の貧しい人は幸いです、自分の罪のために苦しみの声を上げる人は幸いです。と言われました。なぜなら、天の御国は、まさにその人たちのためのものだからです。

だからイエス様が来られたんです。私たちのすべての失敗を償うために死なれました。でもイエスさまは死からよみがえりました。そして私たちがイエスさまに心を明け渡すなら、イエス様は私たちの心を作り変えてくれます。そしていつか私たちはイエス様のようになります。イエス様は私たちをこう励ましています。

義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。(5:6)

あなたの心はどこにありますか?義に対する飢え渇きはありますか?イエス様のようになりたいと願う心はありますか?それとも何も思わないですか?

あなたの義が、ただ表面的に決まりを守るだけの律法学者たちと何も変わらないなら、あなたは天の御国には入れません。神様はあなたの心を求めておられます。あなたの心は神様のものですか?

Plant Group Questions
1. マタイ5:17-22, 27-28, 31-32, 43-48を読もう。

2. 旧約聖書に書かれている法の中で、クリスチャンとして、あるものは今も守り、あるものは守らないことについて、不思議に思ったことはありましたか?メッセージを聞いた今、どのようにほかの人に説明することができるでしょう?

3. 聖書の中に書かれている、神様からの命令について、従うのが難しかったり、つい言い訳をして逃れようとしてしまうものはありますか?もしあるなら、それは何ですか?日曜日のメッセージの中で話された個所のものかもしれないし、それ以外でも構いません。

4. 神様の命令を聖書を通して知りながらも、「でも、神様はこんな状況のときは例外ですよね?あんな状況のときは仕方ないですよね?」と聞き続けることは、どうして良くないのでしょうか?

5. クリスチャンの政治家のとった、極端な行動についてあなたはどう思いますか?(たとえ仕事であっても、女性と二人きりでは会わない)あなたの心の中を探ったとき、あなたも、同じように”極端な”対策をとる必要なことがありますか?もしそうなら、それはどんなことですか?そのためにお互いに祈りましょう。

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ルカの福音書 ルカ7章

あなたの愛はどこでしょうか

この箇所を読むと、私はこう感じます。「私はどれほどイエス様を愛しているのだろうか。」

この話には二人の人物が登場します。

一人は罪深い女性です。私たちは彼女の具体的な罪については知らないものの、周囲の人々は彼女の罪をよく知っていたようです。もしかすると彼女は売春婦だったかもしれません。ただ、それは単なる推測にすぎません。

一方、もう一人はシモンというパリサイ人です。彼は「正しい人」として知られていました。彼の言動は正しく、人生は順調に進んでいました。

そんな中で、シモンは食事にイエス様を招きました。食事の最中、その女性は泣きながらシモンの家に入りました。彼女の涙がイエス様の足にこぼれたため、彼女は自分の髪の毛でその足を拭い、香油を塗ったのです。

これに対するシモンの反応はどうだったでしょうか。それは軽蔑でした。彼女に対する軽蔑であり、イエス様に対する軽蔑でもありました。

そして、シモンはこう考えました。

この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。(ルカの福音書7:39)

けれでも、イエス様はシモンに向かってたとえ話を語られました。

その話では、一人は少額のお金を借り、もう一人は多額のお金を借りましたが、結局、二人ともそのお金を返すことができませんでした。そこで、金貸しは二人の借金を赦しました。

そして、イエス様はシモンにこう問いかけられました。

では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。(42)

多分シモンはこう考えたかもしれません。「イエス様のポイントは何だろうか。これは落とし穴のある質問なのだろうか。」

けれども、最終的に、彼は次のように答えました。

よけいに赦してもらったほうだと思います。(43)

そして、イエス様はこう言われました。「あなたの判断は正しいです。」

ところが、その次のイエス様の言葉は、シモンの心をナイフのように刺しました。

「実は、これは普通のユダヤ人のマナーですが、お客さんが来たとき、良い主人は足を洗う水を提供し、口づけで挨拶し、そのお客さんの頭に油を塗ります。

けれども、あなたは私のために何もしてくれませんでした。一方で、この女性は私が来たとき、私の足を涙で洗い、私の足に口づけし、高価な香油で私の足を塗りました。」

要するに、「シモン、あなたの愛はどこにあるのでしょうか。

この女性は私を深く愛しています。彼女は自分の行動を通して、神様の赦しに対する感謝を示しました。彼女はどれほど赦されたかを理解しているため、その愛は非常に深いです。

その一方、あなたは自分がどれほど赦しを必要としているかを理解していないため、あなたの愛はほとんどありません。さらに、あなたは私を軽んじ、いや、私に対して軽蔑的な態度を取ってしまいました。」

そして、イエス様はその女性に向かってこう言われました。

あなたの罪は赦されています。(48)

多分、周りにいた人々はその言葉を聞いて面食らったことでしょう。なぜなら、罪を赦すことができるのは神様だけだからです。

しかし、イエス様はさらに続けて言われました。

あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。(50)

あなたはどうでしょうか。あなたの愛の深さはどれほどでしょうか。

あなたは、シモンのように、自分の罪の深さを理解していないため、また、どれほど自分が赦されたかを知らないために、イエス様やその十字架の働きを軽んじてしまうのでしょうか。

私たちが神様の赦しを理解していない状態でいると、次の二つの結果が生じます。

1.私たちは独善的な態度を取り、周りの人々を軽蔑し、裁くようになります。

2.私たちの神様への愛は極端に薄くなります。

しかし、私たちが神様の愛をしっかりと理解すれば、私たちの心は神様への愛と感謝で満たされます。そして、その愛と憐れみを周りの人々にも分け与え始めます。

あなたは、どのような心を持っているでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ7章 ルカの福音書 ルカ6章

山上の説教:罪を避けるだけではなく、良いことをする?

マタイの福音書における「黄金律」の箇所は、少し不思議だと感じます。特に、「それで」という言葉で始まるためです。

一般的に、「それで」という言葉は前の内容を指していますが、私にはその関連性が明確には見えません。1-6節との関係があるようには感じますが、7-10節との関係は少しわかりづらいです。

一方、ルカの福音書における「黄金律」の箇所は、もっと自然だと感じます。

その箇所では、イエス様が「敵を愛しなさい。あなたのことを憎む人に親切にしなさい。あなたを呪う人を祝福しなさい。あなたを傷つける人のために祈りなさい。侮辱されても、相手を侮辱するな。自由に相手に与えなさい。」と語られた直後に、話をまとめてこう言われました。

自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。(ルカ6:31)

ほかの文化にも、同じようなことわざがあります。例えば、孔子はこう言っています。「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ。」

では、そのことわざと黄金律の違いは何でしょうか。

実は、イエス様の言葉に従う方がはるかに難しいのです。それは、積極的に相手に親切にしなければならないからです。

相手を傷つけないようにするのは、それほど難しくありません。もし、相手と全く接しないなら、彼らを傷つけることは避けられるでしょう。

けれども、相手と接することが全くなければ、彼らに親切にすることもできません。私たちは積極的に何かをしなくてはなりません。たとえ相手があなたを憎んでも、侮辱しても、利用しても、私たちは彼らに親切にすべきなのです。

それは難しいことですが、それこそが神様の望みなのです。

神様の子供として、私たちは罪を避けるだけでは十分ではありません。積極的に良いことを行うべきです。

私たちは山の上にある隠れることのできない町となるべきです。私たちは、この世を味付けする塩となるべきです。もし憎む人を愛するなら、私たちはその町であり、またその塩となるのです。

なぜなら、この世はそのような愛を理解できず、それを行う力もないからです。

しかし、イエス様に繋がっているクリスチャンはそれができます。それは、イエス様の愛が彼らの心に注がれ、溢れているからです。そして、その愛が自然と相手に流れていくのです。

あなたはどうですか。ただ罪を避けているだけでしょうか。それとも、イエス様の愛で心が満たされ、その愛を通して周りの人々に触れていますか。

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マタイの福音書 マタイ5章 ルカ6章

山上の説教:完全の愛。完全の憐れみ。

おそらく、私たちクリスチャンは、イエス様のこの言葉をよく耳にすることでしょう。

だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。(マタイ5:48)

この箇所の前後は興味深いです。もちろん、私たちは清い人生を送るべきです。とはいえ、この箇所では、イエス様は特に愛について語って言われるようです。私たちの愛は、完全であるべきなのです。

時々、人々は、イエス様の「しかし、わたしはあなたがたに言います。」という表現を誤解します。彼らは、イエス様が神様の律法に反対していると思うのです。

けれども、イエス様は神様の律法に反対されたのではなく、パリサイ人や律法学者の律法に関する間違った解釈に反対されたのです。

前回の記事で、この点について学びました。イエス様は、その正義に関する律法に反対されたわけではありませんでした。「目や歯に害を与えた者を殺してもよい」といった言葉を語られたのではありません。

むしろ、イエス様はこう言われました。「民法によれば、罪に応じた罰を与えるべきです。けれども、あなたがたは律法を乱用し、復讐の言い訳としてその律法を持ち出しているのです。」

もちろん、公平さと正義を求めること自体は良いことです。とはいえ、自分のためにいつも公平さと正義を求めるのではなく、相手に憐れみと愛を与えたら、あなたがたは天の父のようになり、この世でもっと輝く光となるでしょう。」

イエス様は、そのような人生を送られました。もしイエス様が自分のために正義を要求されていたら、十字架で死なれることは決してなかったでしょう。

この箇所では、私たちはさらにもう一つの律法に関する間違った解釈を見ることができます。旧約聖書には「自分の隣人を愛しなさい」という命令が簡単に見つかります。(レビ記19:18)

けれども、「自分の敵を憎め」という命令はどこにもありません。それはユダヤ人たちがそのアイデアを付け加えたものです。

そこで、イエス様はその考え方を訂正されました。

自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)

また、

あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。(ルカ6:27-28)

イエス様は、十字架の上でそうされました。

イエス様の敵が彼を十字架にかけた時、そして彼を嘲笑した時でさえ、イエス様は彼らのために祈られました。

イエス様は彼について祈られたわけではありません。「ほら、彼らはひどいでしょう?」とは言われませんでした。

むしろ、イエス様は彼らのために祈られたのです。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34)

彼らがイエス様を憎んでいたとしても、イエス様は彼らのことを愛されました。そして、イエス様の死によって、私たちは永遠の命への希望を持つことができるのです。

イエス様はこう言われました。「あなたを愛している人を愛するのは簡単なことです。誰にでもできることです。悪い人でさえそれができます。けれども、あなたを憎む人を愛することは本当に難しいのです。」

しかし、神様はそれをされます。私たちが神様を憎んだり侮ったりして背を向けても、神様は毎日私たちにさまざまな祝福を与えてくださいます。

天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。(マタイ5:45)

それに、私たちを罪から救い出すために、神様はご自身の子をこの世に送られました。

だから、神様は私たちにご自身のようになるように呼びかけておられます。私たちの愛は神様の愛のように完全であるべきです。神様が憐れみに富んでおられるように、私たちも憐れみに富むべきです。

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雅歌

伴侶と時間を持つ事

この箇所では、ソロモンとその妻は一緒に時間を過ごしています。7:1-10では、ソロモンはもう一度、自分の妻とその美しさに対する喜びを表現します。そして、ソロモンは彼女に対する彼の性的な感情を言い表します。

ああ、慰めに満ちた愛よ。あなたはなんと美しく、快いことよ。あなたの背たけはなつめやしの木のよう、あなたの乳房はぶどうのふさのようだ。

私は言った。「なつめやしの木に登り、その枝をつかみたい。あなたの乳房はぶどうのふさのように、あなたの息はりんごのかおりのようであれ。あなたのことばは、良いぶどう酒のようだ。(雅歌7:6-9a)

おそらく、現代では私たちはそのような比喩を使いませんが、その意味は分かりやすいと思います。

そして、彼女は喜んで答えます。

私の愛に対して、なめらかに流れる。眠っている者のくちびるを流れる。(9b)

そして、彼女は夫の愛を浴びて、ため息をつきながらこう言います。

私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。(10)

その後、彼女は一緒に外出することを勧めます。彼女の言葉を見ると、その望みがよく分かるでしょう。

私たちは朝早くからぶどう畑に行き、ぶどうの木が芽を出したか、花が咲いたか、ざくろの花が咲いたかどうかを見て、そこで私の愛をあなたにささげましょう。

恋なすびは、かおりを放ち、私たちの門のそばには、新しいのも、古いのも、すべて、最上の物があります。私の愛する方よ。これはあなたのためにたくわえたものです。(12-13)

恋なすびは植木で、催淫剤効果がありました。だから、彼女の意味は、「外出し、新しい場所に行って、一緒に寝ましょう。私は新しいことも準備したので、一緒に楽しみましょう。」ということです。

8章では、彼女は夫に対する愛を言い表し続けます。彼女は夫に対する欲求を示し続け、「兄と接するときのように、人前でも夫と公然と愛情を交わせたらいいのに」と言います。

そして、彼女は愛と結婚に関する母のアドバイスを思い出し、どれほど学んだかを母に示したいと考えています。

そして、2-4節では、もう一度彼女は夫に対する性的な感情を言い表しますが、同時にシングルの人たちに対して自分の純潔を守るように訓戒します。

この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。一つ目は、結婚におけるセックスの重要性です。おそらく、妻たちは夫たちよりもその重要性を覚えておかなければなりません。

なぜなら、男性は身体的に、性的な親しさを望むようにデザインされているからです。

妻たち、もし知らないのであれば、教えて差し上げます。あなたの夫は、しばしばセックスについて考えます。

それぞれの妻は異なりますが、多くの場合、妻たちは夫ほど性的な親しさを望まないかもしれません。それでも、その時間を作ることは大切です。

また、この箇所の女性のように、妻がその時間を勧めることも重要です。さらに、その時間をより楽しめるように何か提案することも大切です。

なぜそれがそんなに大切なのでしょうか。

一つ目は、セックスが夫婦を結び付けるからです。

二つ目は、夫を性的に守るからです。もちろん、妻も性的に守りますが、特に夫を守ります。

パウロはこう書きました。

互いの権利を奪い取ってはいけません。ただし、祈りに専心するために、合意の上でしばらく離れていて、また再びいっしょになるというのならかまいません。あなたがたが自制力を欠くとき、サタンの誘惑にかからないためです。(第一コリント7:5)

また、彼は言います。

妻は自分のからだに関する権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同様に夫も自分のからだについての権利を持ってはおらず、それは妻のものです。(第一コリント7:4)

ソロモンの妻はパウロの言葉をこのように言い直します。

私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。(雅歌2:16)

だから、良い結婚をするためには、夫婦は一緒にいる時間を定期的に取らなければなりません。セックスだけのためではなく、デートのためにも時間を取るべきです。

あなたはどうですか。そうした時間を取れていますか。

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雅歌

まだ見とれている

この箇所を読むと、他のソロモンの言葉を思い出します。

あなたの泉を祝福されたものとし、あなたの若い時の妻と喜び楽しめ。愛らしい雌鹿、いとしいかもしかよ。その乳房がいつもあなたを酔わせ、いつも彼女の愛に夢中になれ。(箴言5:18-19)

この箇所では、ソロモンは自分の意見に従います。結婚して以来、時間が経ちましたが、ソロモンはまだ妻に見とれています。実は、以前よりも、彼は妻に見とれています。

妻に関して、以前言った比喩を使いますが、新しい比喩も使います。彼は彼女をティルツァとエルサレムという都市と比べます。

都市の美しさ全てを発見するために時間をかけて巡らなくてはならないように、妻(また、夫)の深さを発見するためには時間がかかります。それは一生のプロセスです。

ソロモンは妻に「あなたの目はまだ私をひきつける」と言います(雅歌6:5)。

私はその感じがよくわかります。私の妻の目にその愛を見る時、私も引きつけられます。

そして、ソロモンは彼女に「あなたは私の汚れのないものだ」と言います(9)。

時間が経つと、実は私たちは妻と夫が本当に完璧ではないと分かるようになります。しかし、愛の目は、その過ちを見逃します。それに、そのあなたの愛の目によって、相手の魂が今よりも美しくなります。

8節の言葉のため、ある学者は、ソロモンがすでに他の妻と側室がいると考えています。そうかもしれません。または、彼は仮定条件について考えているのかもしれません。

いずれにせよ、彼のポイントは、彼の人生にいる女性の中で、妻が一番大事だということです。

そして、ソロモンが仕事をしているとき、彼はすぐに妻のことを考え始め、なるべく早く家に帰りました。(11-12)

それは良い態度だと思います。もちろん仕事は大切ですし、その仕事を楽しむことができるなら、それは本当に良いことです。それでも、夫は仕事よりも妻を愛するべきです。夫が妻よりも仕事の方が好きなら、それは悪いことです。

もちろん、妻が仕事を夫よりも愛することも悪いことです。

あなたはどうですか。あなたはまだ、妻や夫に見とれていますか。それは理想だけではありません。そのような愛はただの夢ではありません。それは、もともとからあなたと伴侶のための神様の計画です。

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箴言

あなたの妻(夫)を喜ぶ

箴言の中でいくつかの姦淫に関する箇所があります。これはその一つの箇所です。

この世では、多くの人々は結婚の意味が分からなくなりました。だから、彼らはセックスに関しても、分からなくなりました。

結婚というのは、人々は互いに相手を喜び合うことを学んで、一体となることです。それは性的だけではなく、感情的に、また霊的に一体となることです。

二人が一体になると、その関係はほかの人間関係と比べられません。彼らは互いに相手のことを全く知っているけど、全く受け入れ合います。

ある日、私はこんな言葉を書いているTシャツを見ました。”Love is blind.”(愛は盲目です。)

それは間違っていると思います。本当の愛はすべてを見るけど、相手を受け入れて愛します。相手のすべてを見ても、その人を喜びます。

夫婦にそんな関係があれば、彼らはスリルを感じます。なぜなら、彼らは互いに愛し合ったり、受け入れたりするからです。

あなたは相手に裁かれないし、他の人と比較されません。むしろ、あなたはありのままで受け入れられます。それに、あなたの欠点と弱さがあるのに、相手があなたを喜ぶことを知っています。

一方で、不倫する人はどうですか。彼らはそんな関係ができません。

もし、彼らが自分の夫か妻を捨てて、あなたと不倫すると、いつか彼らはあなたを捨てて、ほかの人と不倫するかもしれません。

彼らがそうしなくても、あなたはその疑いと不安を感じるでしょう。もし、彼らが現在の夫か妻をあなたと比較するなら、将来、彼らはあなたをもっと素敵な人と比べ始めるかもしれません。

その不倫する人は自分の愛が彼らをどこに連れていくか知りません。彼らはただ自分の感情についていくからです。また、彼らは自分の道がどんなに曲がったか知りません。

ソロモンはそんな人に関して、こう書きました。

その女はいのちの道に心を配らず、その道筋は確かでないが、彼女はそれを知らない。(箴言5:6)

そんな人とは長期の関係ができません。最初、その関係は楽しいかもしれないけど、最終的にその関係はあなたの口に苦い味を残してしまいます。

ソロモンはこう書きました。

他国の女のくちびるは蜂の巣の蜜をしたたらせ、その口は油よりもなめらかだ。しかし、その終わりは苦よもぎのように苦く、もろ刃の剣のように鋭い。

その足は死に下り、その歩みはよみに通じている。(箴言5:3-5)

それに、姦淫の道は永遠の死に導くかもしれません。この個所では、ソロモンは私たちに警告します。神様は私たちを見て、私たちの罪を裁かれます。

それだけではなく、姦淫は物理的な死に導くかもしれません。例えば、嫉妬深い夫か妻の手であなたは殺されるかもしれません。もしくはエイズやほかの性病によってあなたは死ぬかもしれません。

また、姦淫によって、あなたは経済的に苦しむかもしれません。そして、どれぐらい、人々は自分の夫か妻を捨てた後で、すぐ自分の恋人に振られるでしょうか。

だから、ソロモンはこう言いました。

あなたの水ためから、水を飲め。豊かな水をあなたの井戸から。

あなたの泉を外に散らし、通りを水路にしてよいものか。それを自分だけのものにせよ。

あなたのところにいる他国人のものにするな。

あなたの泉を祝福されたものとし、あなたの若い時の妻と喜び楽しめ。愛らしい雌鹿、いとしいかもしかよ。その乳房がいつもあなたを酔わせ、いつも彼女の愛に夢中になれ。(箴言5:15-19)

つまり、あなたの時間とエネルギーを不倫するために使わないようにしましょう。その関係は最終的に幸せに導かないからです。

むしろ、あなたの夫を喜びましょう。あなたの妻を喜びましょう。彼らの愛に夢中になりましょう。

神様が彼らを愛しておられるように、私たちも彼らを愛することを学びましょう。また、神様があなたを愛しておられるように、あなたも彼らに愛されることを学びましょう。

そうすれば、結婚における満足、そして性的な面でも満たされるようになるでしょう。

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箴言

愛と忠実さ

愛と忠実さ。この世では、その二つのものは見つけられません。だから、たくさんの人間関係、特に結婚の関係は壊れています。

ソロモンはこう書きました。

恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ。神と人との前に好意と聡明を得よ。(箴言3:3-4)

その恵みは「変わらない愛」という意味です。そして、たくさんの英語の翻訳は「誠」という言葉を「忠実さ」と翻訳します。

神様に対する愛と忠実さはどういう意味でしょうか。それは、神様に信頼するので、従うという意味です。

簡単に言うと、あなたに対する神様の愛の確信を持って、あなたがその信仰によって生きることです。

ソロモンはその真理をもっと説明します。

心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。

あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。(5-7)

私たちが神様を愛するなら、私たちは全く神様に信頼します。私たちが何をしても、私たちがどこにいても、私たちは自己中心の生活を送らず、神様中心の生活を送ります。そして私たちの知恵に頼らずに、神様の知恵に頼ります。

時々、それは難しいです。正直に言うと、多くの場合、それは難しいです。

特に難しいところは、私たちの家計です。ソロモンはこう書きました。

あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ。そうすれば、あなたの倉は豊かに満たされ、あなたの酒ぶねは新しいぶどう酒であふれる。(9-10)

あなたが十一献金が新約聖書の教えであることを信じるかどうか分かりませんけど、はっきりしているのは、あなたのお金は実はあなたのものではないことです。あなたは、代価を払って買い取られたのですから(第一コリント6:20)。

そして、もし、自分の体をもって、神の栄光を現わすべきなら、お金によって、神の栄光を現わすべきです。

十一献金に反対する多くの人々は、自分の心で「これは私のお金です。私は好きなように使える権利がある。」と思います。

もちろん、あなたの給料の10%は神様に属しません。実は、すべては神様のものです。あなたは、ただその神様が与えてくださるお金の管理人です。

だから十一献金を捧げても、捧げなくても、あなたはこう聞かなくてはならない。「神様、私がどうやってこのお金を使えば良いか教えてください。これはあなたのものだから。」

そして、私たちは神様の懲らしめを謙遜に受け入れなくてはなりません。ソロモンはこう書きました。

わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。

父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる。(11-12)

私たちが聖書を読むとき、また教会の説教を聞くとき、厳しいことを聞くこともあります。その時、聖霊様は私たちを懲らしめてくださいます。

例えば、私たちの結婚の関係に関して、また、子供との関係に関して、神様は私たちに話してくださいます。もしくは、私たちの家計や仕事に関して話してくださいます。

そして、神様の懲らしめを聞くのは辛くて、私たちはその言葉を全然聞きたくないです。

けれども、私たちが本当に神様を愛するなら、その言葉に従います。私たちの知恵に頼らずに、神様の道を選びます。

そうすれば、神様は私たちが命と平和を得ると約束してくださいます。(16-18)

また私たちはその知恵にしがみつき、神様を恐れると、ほかのものを恐れる必要がないです。(21-26)

しかし、私たちは周りの人々にも愛と忠実さを与えるべきです。ソロモンはこう言いました。

あなたの手に善を行なう力があるとき、求める者に、それを拒むな。

あなたに財産があるとき、あなたの隣人に向かい、「去って、また来なさい。あす、あげよう」と言うな。(27-28)

つまり、周りの人々を祝福する機会があれば、待たないでください。すぐにその人を祝福してください。

また、彼らを裏切らないでください。なぜなら、神様はあなたを見ておられるし、そんな人々に反対されるからです。

最後に、ソロモンはこう言いました。

あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける。

知恵のある者は誉れを受け継ぎ、愚かな者は恥を得る。(34-35)

私たちが神様の知恵をあざけり、自分の道を行くことを決めたら、蒔いたものを刈り取ります。つまり、恥や悲しみや死を刈り取ります。

けれども、あなたが謙遜に、神様の懲らしめを受け入れて、神様の道を行くなら、神様はあなたに命や、恵みや、平和や、誉れを与えてくださいます。

あなたはどうするでしょうか。

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詩篇

苦々しい心と許し、憐れみと正義

詩篇109篇は「呪いの詩篇」です。

時々、詩篇の中で、ダビデは自分の敵を呪ったり、その敵に対する神様の裁きを求めて祈ります。

多くの人々は(私も)こんな詩篇を読む時、気持ちがよくありません。なぜなら、イエス様は私たちに自分の敵を赦しなさいと命じられたからです。

以前、このブログでこのことについて説明したことがあるけど、繰り返した方が良いと思います。

王として、ダビデは正義の大切さをよく知っていました。彼は悪が続くことを許しませんでした。だから、ダビデはその悪者が自分が蒔いたものを刈り入れるように祈りました。

ダビデは無実なのに敵に責められたので、ダビデは彼らが裁かれるように祈ったのです。

「どうか、悪者を彼に遣わしてください。なじる者が彼の右に立つようにしてください。」という言葉は少し難しいです。

もしかしたら、ダビデは彼らも不公平に責められる経験を知ることを望んだのかもしれません。

そして、ダビデは祈ります。

その子らはみなしごとなり、彼の妻はやもめとなりますように。

彼の子らは、さまよい歩いて、物ごいをしますように。その荒れ果てた家から離れて、物ごいをしますように。(詩篇109:9-10)

それは酷い祈りです。とはいえ、その悪者は他の家族をそのように苦しませたのです。

最近、私はニュースを見て、ある殺人者が刑務所で自殺したことを聞きました。彼は婚約者と娘を残しました。

私たちの罪は自分自身に影響を与えるだけでなく、私たちが愛する者にも影響を与えてしまいます。

そして、私たちが悔い改めないなら、神様の赦しを決して知ることがありません。

けれども、このことを覚えていてください。私たちは正義を望むかもしれないけど、苦々しい心を持ってはいけません。なぜなら、苦々しい心は相手を傷つけるよりも、自分自身を傷つけるからです。

興味深いのは、ペテロがこの詩篇をユダに当てはめたことです。ユダは理由もなくイエス様を裏切り、善にかえて悪を与え、愛にかえて憎しみを返しました。

そして、彼が決して悔い改めなかったため、神様は彼を赦されませんでした。その結果、彼の人生は短く終わり、彼の務めと立場は他の人に引き継がれました。

しかし、イエス様はユダに対して苦々しい心を持っておられませんでした。むしろ、最後の晩餐ではユダの足を洗い、彼にパンを与えられました。

そして、ユダが裏切るためにゲツセマネの園に来た時も、イエス様は苦々しさを示されませんでした。むしろ、イエス様はユダに対して情け深く接しておられました。

イエス様は騙されやすい方ではありませんでした。イエス様はユダの性格と動機をよく知っておられました。

それでも、イエス様はユダに憐れみと愛を示されました。その愛と憐れみによって、イエス様は彼の頭に燃える炭火を積まれたので(箴言25:21-22)、結局ユダは自分の罪悪感を感じて、自殺しました。

けれども、イエス様は苦々しさに汚れませんでした。

ダビデも苦々しさに汚れませんでした。一回だけ、ダビデは苦々しい心を持って、誰かを殺したいと思いました。

けれども、彼は本当の正義を思い出して、その苦々しい心を手放し、その人に憐れみを与えました。そして、彼が神様の正義を見たとき、この詩篇のように、彼は喜びました。

私は、この口をもって、大いに主に感謝します。私は多くの人々の真ん中で、賛美します。

主は貧しい者の右に立ち、死刑を宣告する者たちから、彼を救われるからです。(30-31)

だから、苦々しい心を手放しましょう。むしろ、憐れみ、赦し、そして正義を大事にしましょう。

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詩篇

神様の愛とあわれみ

詩篇103篇では、ダビデは神様の愛と憐れみについて歌います。

いつダビデがこの詩篇を書いたかは分かりませんが、多分バテ・シェバとの罪の後かもしれません。

もしかしたら、ダビデはイスラエル人の人数を数えた罪の後に、この詩篇を書いたかもしれません。

とにかく、彼の罪が赦された後に、彼は歌います。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。(詩篇103:1)

私はこの箇所を読むと、イエス様の言葉が思い浮かびます。つまり、多くの罪が赦された人は神様をより多く愛します。(ルカ7:47)

ダビデは、多く赦されたので、彼の神様に対する愛はより大きかったのです。

彼は酷い罪を犯しても赦され、彼の健康が回復され、死から救われました。それに、彼が何回失敗しても、神様は彼に恵みとあわれみとの冠をかぶせてくださいました。(2-4)

そして、ダビデは神様がモーセに何を言われたかを思い出しました。神様はご自身についてこう言われました。

主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。(8)

ダビデはその言葉に加えました。

主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。

私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。

天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。

東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。(9-12)

その言葉が大好きです。

「絶えず争ってはおられない。」

あなたのお父さんやお母さんが、何度もあなたを責めたことがあるかもしれません。彼らがあなたを決してほめず、いつも批判していたかもしれません。だから、あなたは神様もそのような方だと思ってしまうかもしれません。

しかし、神様は絶えず争う方ではありません。

そして、私たちが悔い改めると、神様はご自身の怒りを心の中に持ち続けることはありません。

時々、人々は「あなたを許してあげる」と言いますが、私たちがもう一度失敗したら、彼らは私たちの以前の失敗も思い出させます。

神様はそうなさいません。神様は私たちを赦す時、私たちの罪をもう思い出されません。

それに、神様は私たちの弱さを知っておられるので、私たちをあわれんでくださいます。

神様は人間になられたので、私たちの弱さをよく知っておられます。私たちのようにイエス様は誘惑されましたが、決して罪を犯されませんでした。しかし、その経験によって、私たちの誘惑が分かるようになりました。

だから、私たちは悔い改め、神様を敬うと、神様の恵みは永遠から永遠まで私たちの上にあります。(13-17)

だから、ダビデは天の者と全地の者が神様をほめたたえるように招きます。ダビデも賛美してこう歌いました。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。(22)

主よ、あなたの愛とあわれみを感謝します。私が弱くて、罪を犯しても、あなたが私をまだ愛してくださることを感謝します。あなたは私を争わずに、恵み深い目で見てくださいます。

どうか、その恵みとあわれみを周りの人々にシェアするように助けてください。アーメン。

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ゼカリヤ書

偽の敬虔

多くの人々は、クリスチャンをその偽善のために批判します。確かに、クリスチャンがその批判に値する時もありますが、そうではない時もあります。しかし、神様は偽善を非常に深刻に考えられるお方です。

この箇所では、バビロンから追放され、イスラエルに戻ってきたユダヤ人たちが、ゼカリヤに質問をしました。

私が長年やってきたように、第五の月にも、断食をして泣かなければならないでしょうか。(ゼカリヤ書7:3)

でも、神様はゼカリヤにこう答えられました。

この国のすべての民と祭司たちに向かってこう言え。この七十年の間、あなたがたが、第五の月と第七の月に断食して嘆いたとき、このわたしのために断食したのか。

あなたがたが食べたり飲んだりするとき、食べるのも飲むのも、自分たちのためではなかったか。(5-6)

つまり、「あなたたちはその宗教的な儀式を行いましたが、心からではありませんでした。そのため、それは全く意味のないものとなり、ただのショーに過ぎませんでした。」

英語の「hypocrite」、つまり「偽善者」という言葉はギリシャ語に由来します。ギリシャ語では、「偽善者」という言葉は「舞台俳優」を意味します。

そのユダヤ人たちは俳優のような存在でした。彼らは敬虔な人々のように振る舞いましたが、実際には心からの敬虔さを持っていませんでした。

その結果、神様は彼らに対し、追放前に彼らの先祖に与えられた命令を思い起こさせました。

万軍の主はこう仰せられる。「正しいさばきを行ない、互いに誠実を尽くし、あわれみ合え。やもめ、みなしご、在留異国人、貧しい者をしいたげるな。互いに心の中で悪をたくらむな。」

それなのに、彼らはこれを聞こうともせず、肩を怒らし、耳をふさいで聞き入れなかった。(9-11)

神様はそのユダヤ人たちに警告されました。「あなたたちの先祖は自分の心を堅くし、その結果として追放されました。」

「呼ばれたときも、彼らは聞かなかった。そのように、彼らが呼んでも、わたしは聞かない」と万軍の主は仰せられる。(13)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。神様は私たちの敬虔な儀式に感動されるわけではありません。神様にとって重要なのは、私たちが日々どのように生きるかということです。

私たちはどのように周りの人々を扱うでしょうか。彼らに憐れみを与えているでしょうか。正義を求めているでしょうか。

3年ほど前、私は「アメイジング・グレイス」という映画を観ました。この映画は、ウィリアム・ウィルバーフォースについての物語です。彼はイギリスで奴隷貿易を廃止するために戦いました。

ウィルバーフォースが奴隷に情けを示したように、私たちも周りの人々に憐れみを示すべきです。それが神様の望みです。

私たちはウィルバーフォースのように全国的な影響を与えることはできないかもしれません。しかし、私たちは周りの人々に影響を与えることができます。家庭でも、職場でも、近所でも、私たちは人々に影響を与えられます。

周りの人々は私たちの中にキリストの憐れみを見ているでしょうか。それが神様の望みです。もしキリストの体である私たちが、周りの人々に愛と憐れみを示すなら、この世界全体が変わるでしょう。

だから、偽善者にならないようにしましょう。ただ教会に行き、聖書を読み、祈るだけではなく、神様の愛と憐れみで私たちの心を満たしましょう。そして、私たちはキリストのために、この世の人々に触れましょう。

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ミカ書

空しい宗教

この箇所では、イスラエルの民は神様の裁判所に立たされていました。そして、神様は彼らを被告として召喚し、問い詰められました。

わたしの民よ。わたしはあなたに何をしたか。どのようにしてあなたを煩わせたか。わたしに答えよ。(ミカ書6:3)

そして、神様はご自身の証言をされました。「私はあなたたちをエジプトから救い出しました。また、私はあなたたちを荒野で守り、私が約束した土地に導きました。」(4-5)

ところが、イスラエルの民はその言葉を聞いて苛立ちました。

彼らは答えました。

「しつこいですね。それでは、私たちに何を望んでおられるのですか。子牛や雄羊のいけにえですか。それとも、私たちの子供をいけにえとして捧げることでしょうか。一体何を求めておられるのですか。」

現代でも、多くの人々は同じような態度で神様に向き合います。彼らは、神様が宗教的な儀式を求めておられると誤解しています。例えば、神様が彼らに教会に行くことや献金を捧げることを望んでいると考えています。

多くの人々はイースターの六週間前からタバコや砂糖、肉を控えます。(これを四旬節と言います。)

けれども、その年の残りの期間は、まったく神様のことを考えず、自分自身のために生きるのです。

イスラエルの民も同じでした。彼らは神様の怒りを収めるためにいけにえを捧げることには同意しましたが、その後は自分自身のために生き続けたいと考えていました。

しかし、ミカはこう答えました。

主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。

それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(8)

神様は空しい宗教に興味を持っておられません。空しい宗教とは、神様を愛さずに宗教的な行為だけを行うことです。つまり、ある日は宗教的なことを行うけれど、その残りの日々は自分自身のために生きることです。

イスラエルの民の場合、彼らは日々の商売でお客さんを騙し、暴力や不正に満ちた生活をしていました。

それゆえ、神様は怒られました。イスラエルの民は宗教的な儀式を行ったにもかかわらず、神様が本当に望んでおられることは全く行いませんでした。すなわち、正しいことを行い、誠実を愛し、へり下って神様と共に歩むことです。

神様はそれを日々求めておられたのです。一週間に一度だけそのような態度を取ることを望んでおられたのではありません。

あなたはどうでしょうか。神様を喜ばせることは何だと思いますか。

それはお金だけではありません。それは教会に行くことだけではありません。それは宗教的な儀式を行うことだけでもありません。

イエス様が最も重要な戒めについて語られたとき、犠牲や献金、儀式については全く言及されませんでした。

むしろ、イエス様はこう言われました。

「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」

次にはこれです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」この二つより大事な命令は、ほかにありません。」 (マルコ12:30-31)

あなたは神様を喜ばせたいと願っていますか。

空しい宗教的な行動だけでは、神様を喜ばせることはできません。

もし神様を喜ばせたいと願うなら、毎日神様を愛し、周りの人々を愛するべきです。

それが神様の望まれることなのです。