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民数記のデボーション

 私があなたをあがめるように

聞け、わたしのことばを。

もし、あなたがたの間に預言者がいるなら、主であるわたしは、幻の中でその人にわたし自身を知らせ、夢の中でその人と語る。

だがわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者。(民数記12:6ー7)

ですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。

モーセが神の家全体の中で忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実でした。

家よりも、家を建てる人が大いなる栄誉を持つのと同じように、イエスはモーセよりも大いなる栄光を受けるにふさわしいとされました。。。

モーセは、後に語られることを証しするために、神の家全体の中でしもべとして忠実でした。

しかしキリストは、御子として神の家を治めることに忠実でした。そして、私たちが神の家です。。。(ヘブル人への手紙3:1ー6)

イエス様、モーセは天の父の家全体の中で、しもべとして忠実でした。だから、彼は栄誉や栄光を受けるにふさわしい人でした。

でも、あなたは天の父の家全体の中で、御子として忠実でした。そういうわけで、モーセよりも、あなたは大いなる栄誉と栄光を受けるにふさわしい方です。

だから、私の言動によって、あなたがあがめられるように。あなたは、私の服従と敬いにふさわしい方です。

私があなたに従わないとき、あなたを敬わないとき、赦してください。

そんなときにも関わらず、あなたが私の大祭司として、私のために忠実にとりなし続けてくださり、感謝します。

あなたの素晴らしい恵みを感謝します。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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ペテロの手紙第一

神様のしもべとして生きる(3)

この手紙の冒頭から、私たちが学んだことは、クリスチャンたちは御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように天の父に選ばれた者である、ということです。

簡単に言えば、私たちは自分自身のためではなく、イエス様のために生きるように選ばれたのです。

今日の箇所では、ペテロは、その真理をどのように私たちの結婚生活に当てはめるかについて話します。

そしてペテロは、まず妻たちにこう言います。

同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。

たとえ、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって神のものとされるためです。夫は、あなたがたの、神を恐れる純粋な生き方を目にするのです。(ペテロの手紙第一3:1-2)

現代では、この教えはあまり受け入れられないメッセージかもしれません。ある人々は、それが当時の時代と文化に限定された教えであると主張します。

確かにその時代、夫や主人たちは今よりも家庭内で大きな権威を持っていました。けれども、パウロもコロサイ人たちへの手紙やエペソ人たちへの手紙で、ペテロと同じことを教えています。

では、特に自分の夫がノンクリスチャンである場合、どうしてクリスチャンの妻たちは彼に従うべきなのでしょうか。その最初の理由は、彼女たちが主のしもべであるからです。そして、イエス様が使徒たちを通してそう命じられたからです。

さらに、そうすることによって、妻たちは自分の夫に対して光となるのです。夫は、自分勝手に暮らしている妻ではなく、主のために生きている妻の姿を見ることになります。

その妻の美しさは、ジュエリーや服装、髪型に基づくものではありません。むしろ、その美しさは新しくされた心から来るものです。その心は、彼女を救ってくださった主を映し出しています。

夫がそれを見ると、妻に対してさらに魅力を感じるかもしれませんし、主にも心を惹かれるかもしれません。神様のしもべとして、そして使節として、それこそが私たちの役割なのです。

時として、妻たちには恐れがあります。それは、自分の夫に従うことで、彼に操られるのではないかという恐れです。残念ながら、そのようなことが現実に起こる場合もあります。

しかし、ペテロは妻たちにサラの模範に従うよう促しています。つまり、恐れに屈することなく、自分の夫に従い、善を行うことです。(6)

そうすれば、神様はあなたを賞賛してくださいます。

ただし、前回の記事でお伝えしたように、あなたが虐待を許容すべきだという意味ではありません。虐待されている場合は、逃げるべきです。そして、自分を守らなくてはいけません。それでもなお、イエス様が示された態度を取るべきです。

(イエス様は)ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。(第一ペテロ2:23)

その反面、クリスチャンの夫たちもまたイエス様のしもべであることを忘れてはなりません。そして、自分の妻が自分のしもべではないことも覚えていなくてはならないのです。

あなたの妻はキリストのしもべであり、キリストにあってあなたの姉妹です。また、彼女はあなたと共にいのちの恵みを受け継ぐ者です。だからこそ、ペテロはこう言います。

同じように、夫たちよ、妻が自分より弱い器であることを理解して妻とともに暮らしなさい。また、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りは妨げられません。(7)

あなたは、自分の妻が自分よりも体力的に弱いかもしれないし、繊細な人かもしれないと思うでしょう。けれども、あなたには妻をいじめる権利はありません。イエス様が彼女を敬われるように、あなたも妻を敬わなくてはならないのです。

彼女は、あなたと共にいのちの恵みを受け継ぐ者です。それを忘れるなら、神様はあなたの責任を問われます。

ペテロによれば、もしあなたが妻を優しく扱わないなら、神様はあなたの祈りを聞いてはくださらないのです。

だから覚えておきましょう。あなたとあなたの配偶者は共にキリストのしもべです。それを心に留め、互いに敬い合い、そして愛し合わなくてはなりません。

あなたはどのように、自分の配偶者を扱うのでしょうか。

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マラキ書

神様が値するもの

この箇所で、私たちはユダヤ人の主な問題を目にします。その問題はユダヤ人のすべての行動に影響を与えました。

では、その問題は何だったのでしょうか。それは、彼らが神様を敬わなかったことです。神様に対する畏れを全く持っていませんでした。神様は大いなる方であり、大いなる王であるにもかかわらず、ユダヤ人はそのようには考えていなかったのです。

そのため、神様は彼らにこう問いかけられました。

子は父を敬い、しもべはその主人を敬う。もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。(マラキ書1:6)

驚くべきことに、祭司たちはこう尋ねました。「一体何を言っているのでしょうか。どのように私たちはあなたを敬わなかったのでしょうか。どのように私たちはあなたの名前を軽んじたのでしょうか。」

おそらく、彼らはこう考えたのでしょう。「私たちはきちんと仕事をしている。いけにえも捧げている。やるべきことはやっている。この上、神様は一体何を求めておられるのだろう。」

けれども、神様はこう答えられました。

あなたがたは、盲目の獣をいけにえにささげるが、それは悪いことではないか。足のなえたものや病気のものをささげるのは、悪いことではないか。

さあ、あなたの総督のところにそれを差し出してみよ。彼はあなたをよみし、あなたを受け入れるだろうか。――万軍の主は仰せられる――(8)

神様は律法をモーセとイスラエルの民に与えた際、いけにえには傷のない健康な動物を求められました。

ところが、ユダヤ人は神様を敬わず、自分たちが要らない足の不自由なものや病気のものをいけにえとして捧げました。

そのため、神様はこう言われました。

「あなた方は、総督を私以上に敬っている。私はあなたの王であるにもかかわらず。あなたの総督は最も良い物しか受け入れないのに、どうして私がこのような劣った物を受け入れると思うのだろうか。」

それに対し、ユダヤ人はこう言いました。

主の食卓は汚れている。その果実も食物もさげすまれている。。。見よ。なんとうるさいことか。(12-13)

彼らは愛を持って捧げ物をすることはありませんでした。むしろ、捧げ物をすることは彼らにとって面倒な義務となっていました。その結果、彼らは神様を敬わず、その行動によって神様を軽んじました。

しかし、神様は彼らにこう言われました。

わたしが大いなる王であり、わたしの名が諸国の民の間で、恐れられているからだ。(14)

あなた自身はどうでしょうか。神様についてどのように考えているでしょうか。私たちは、神様との関係の中でバランスを取ることが必要です。

イエス様は、「わたしはあなたがたを友と呼びました」と語られました。(ヨハネ15:15)

多くのクリスチャンにとって、その真実は心を打つものです。王の友となることは素晴らしい特権です。

けれども、私たちはイエス様が大いなる王であることを忘れてはなりません。イエス様は私たちの王として、私たちの敬いを受けるにふさわしい方です。

ですから、私たちは最も良いものをイエス様に捧げるべきです。それは、私たちのお金だけではなく、私たちの時間や人生も含まれます。

あなたは、神様に何を捧げているでしょうか。神様がふさわしいとされる敬いを捧げているでしょうか。

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エレミヤ書

敬い、信頼、服従

この箇所をスキップしてしまうのは簡単なことかもしれません。なぜなら、この箇所は安息日についての内容ですし、パウロがコロサイの教会に宛てて書いた時に、次のように言っているからです。

安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。(コロサイ2:16)

私はその理由をここですでに書きました。

しかし、この箇所から、クリスチャン生活の重要な原則を学ぶことができると思います。

どうしてイスラエル人たちは安息日を守らなければならなかったのでしょうか。それは、安息日を通して、彼らが三つのことを示したからです。

第一に、彼らは神様を創造主として敬うことを示しました。彼らは神様の創造の働きを思い起こし、神様が7日目に休まれたことを覚えました。

第二に、彼らは神様への信頼を示しました。安息日に彼らは休むことで、神様が必要を満たしてくださることを信じました。

第三に、彼らは神様への服従を示しました。信頼と服従は深い関係があります。神様を信頼しないと、神様に従うことは難しいのです。

残念なことですが、イスラエル人たちはその三つのことに失敗しました。神様は彼らにこう言われました。

「もし、安息日を守るなら、私はあなたを祝福します。しかし、そうしないならば、裁きが起こります。」

なぜでしょうか。

安息日を守るのは簡単なことでした。それにもかかわらず、彼らは安息日を守らず、神様を敬わず、神様に信頼せず、神様の命令に従いませんでした。

彼らが安息日を守らなかったことは、彼らの心にある大きな問題の兆候だったのです。

あなたはどうでしょうか。神様を敬っていますか。神様があなたのためにしてくださったことを思い起こし、神様を賛美していますか。

神様に信頼していますか。神様はあなたのために最善の道を知っておられ、あなたの最善を望んでおられることを信じていますか。

また、小さなことでも神様に従っていますか。

神様はイスラエル人たちにこれらのことを望まれました。そして、それは私たちにも同じように望まれています。

私たちが神様を敬い、神様に信頼し、従う者となるように。