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テモテへの手紙第一のデボーション

敬虔の訓練はどこから始まるか

敬虔のために自分自身を鍛錬しなさい。(テもテへの手紙第一4:7)

もし、やもめに子どもか孫がいるなら、まずその人たちに、自分の家の人に敬愛を示して、親の恩に報いることを学ばせなさい。それが神の御前に喜ばれることです。(5:4)

私の母は未亡人なので、上の言葉は私の心に響きました。特に、母は今、うつ病で苦しんでいるからです。

私は母から遠く離れて暮らしているので、今はあまり多くのことができませんが、定期的に母と話したり、母と一緒に祈ったり、母のために祈ったりしています。

でも、正直に言うと、このようなときにパウロの言葉に従って母に仕えることは難しいです。私は神様の恵みを本当に必要としています。でも、それこそが私の敬虔の訓練の一部なのです。

そして、自分の母が未亡人でなくても、パウロの言葉は私たち皆に当てはまります。つまり、私たちの敬虔の訓練は家庭から始まるということです。私たちは教会や職場だけで敬虔を示すのではなく、

両親、兄弟姉妹、夫や妻、子どもたちにも敬虔を示さなくてはなりません。

そうすれば、私たちの天の父は喜ばれます。

しかし、家庭で敬虔を示すのは難しいときもあります。特に、家に帰って疲れているときです。また、家族にイライラさせられるときに敬虔を示すのは、なおさら難しいのです。

でも、私たちを愛しておられる天の父のようになりたいのなら、家庭において敬虔のために自分自身を鍛錬しなければなりません。

天のお父さん、私はあなたのようになりたいです。私が母に敬虔を示すことができるように助けてください。また、私の妻にも、私の娘にも敬虔を示すことができるように助けてください。

彼女たちへの私の愛によって、あなたを喜ばせたいのです。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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テモテへの手紙第二

うわべだけの敬虔さ

この世では、たくさんの宗教的な人たちがいます。彼らは教会やお寺や神社などに行って、儀式を行い、祈り、聖句を読み、献金さえもささげます。彼らは非常に敬虔な人のように見えます。ところが、神様は実際には彼らを受け入れておられません。

なぜでしょうか。なぜなら、彼らの敬虔さはうわべだけのものだからです。彼らは、敬虔な見かけを持っていますが、その敬虔さは自分の努力によるものです。

また、ある人は自分の心の中の偽善を隠しています。けれども、その皆が、自分の生活で神様の力を否定しています。

ある人々は神様自身を否定します。彼らはイエス様にある真理を拒絶します。むしろ、彼らは仏やムハンマドや他の宗教的なリーダーたちの教えに従います。

もちろん、そのリーダーたちの教えの中で真理の部分もありますが、彼らが否定するのは、イエス様が天の父へのただ一つの道であることです。

その皆がイエス様とその十字架の働きを拒絶するので、神様の目には、彼らの義はみな、不潔な着物のようです。(イザヤ64:6)

さらに、彼らは、自分たちを本当の義人に変えることができるイエス様の復活の力を拒絶します。

他の人たちは自分がクリスチャンと自称し、イエス様に従うと主張します。けれども、彼らはただクリスチャンのふりをしています。

彼らは実際に、自分だけを愛し、金銭を愛し、大言壮語し、高ぶり、神を冒瀆し、両親に従わず、恩知らずで、汚れた者です。

また、彼らは情け知らずで、人と和解せず、中傷し、自制できず、粗野で、善を好まない者です。

さらに、彼らは人を裏切り、向こう見ずで、思い上がり、神よりも快楽を愛します。(テモテへの手紙第二3:2-4)

それでも、彼らは敬虔な見かけを持っています。彼らは教会に行ったり、微笑んだり、祈ったり、歌ったり、献金をささげたりしますが、彼らは空っぽで、神様の力を全然知らない者です。

その人々の間に、教師たちもいます。

パウロはその人たちをヤンネとヤンブレというエジプトの呪法師たちと比べます。ヤンネとヤンブレはエジプトの神々の力を振るうと自慢しましたが、彼らが生きておられる神と向き合うと、彼らの主張は空しいものと証明されました。

他の人たちは「弟子」と称しますが、彼らはいつも学んでいるのに、いつまでも真理を知ることができません。なぜなら、彼らは実際に心の中で真理を拒絶しているからです。彼らは自分が聞きたいことを受け入れますが、それ以外を捨ててしまいます。

イエス様を拒絶すると、あなたは自分の敬虔さを自慢することはできません。もし、自分の敬虔さがただ心の中の罪を隠すだけなら、それは本当の敬虔ではありません。

パウロは困難な時代が来ると警告しました。パウロによれば、その時代にはうわべだけの敬虔を持っている人たちがたくさんいます。実は、その時代はもう来ています。

そして、イエス様が帰って来られると、麦と毒麦を分別されます。つまり、本当の敬虔さを持っている人たちとうわべだけの敬虔さを持つ人たちを分別されます。

本当の敬虔さを持っている人たちは、神様の力でだんだんイエス様の形のように変えられていきます。

イエス様が帰って来られてあなたを見ると、イエス様はあなたについて何と言われるでしょうか。

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テモテへの手紙第ー

何を求め、何を待ち望んでいるのか

この世の人々は、さまざまなものを追い求めています。

名声、力、安心――その中でも、最も熱心に追い求められているのは、お金でしょう。名声はしばしば金銭的な利益につながり、お金は快楽や力、さらには安全さえも手に入れる手段と見なされているからです。

さらに、福音を通して裕福になろうとする牧師や伝道者たちさえいます。実際、パウロの時代にもそのような人物が存在していました。

けれども、パウロはそのようなものを追い求めてはならないと教えています。

むしろ、彼はこう語ったのです。

しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。(テモテへの手紙第一6:6)

さまざまな意味で、「満ち足りた心」と「敬虔」は深く結びついています。

敬虔な人々は、この世のものによって満たされているのではありません。むしろ、神様との平和を持っているからこそ、彼らの心は満ち足りているのです。だから彼らは、何よりもまず神様ご自身を求め続けます。彼らにとって本当に必要なのは、神様だけなのです。

その一方、不敬虔な人々にとって、満足することは極めて難しいのです。彼らは常に、より多くの物を欲しがります。そして、持てば持つほど、その心はますます空しさを感じるようになります。

ある人は、一時的に神様から離れても満足できると思うかもしれませんが、最終的にはすべてを失ってしまうのです。

パウロはこのことをよく知っていて、次のように語りました。

私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。(7)

やがて来る裁きの日、人々が神様の御前に立つとき、その地位や財産は何の意味も持たなくなります。神様はそのとき、こう尋ねられることはありません。

「あなたはどれほどの財産を持っていたか。私に何を捧げることができるか。」

むしろ、神様が尋ねられるのは、ただ一つの問いです。

「あなたは、私のひとり子との関係を持っていたか。」

だから、パウロはテモテに命じました。「お金を追い求めてはなりません。お金を愛することがあらゆる悪の根であり、ついには永遠の滅びに至ります」(9〜10節)。

今の世においても、お金への愛によって、多くの人々が自らの人生を壊しています。

たとえば、ギャンブルによって家庭や生活を崩壊させたり、金銭を追い求めるあまり過労し、家族関係や心身を壊してしまったりします。お金への愛が原因で、多くの人が多くの苦しみによって自らを刺し貫いてきたのです。

だから、パウロはこう語ったのです。

衣食があれば、それで満足すべきです。(8)

では、私たちは何を追い求めるべきなのでしょうか。

私たちは、義、敬虔、信仰、愛、忍耐、そして柔和を追い求めるべきです(11節)。それこそが、神の人にふさわしい歩みなのです。

もし私たちがこれらのものを心から追い求めるなら、どれほど人生が祝福されることでしょう。私たちの結婚生活や人間関係はどれほど豊かになるでしょう。私たちの神様との関係は、どれほど親密になるでしょうか。

そのような生き方には、はかり知れない益があります。

このあと、パウロは金持ちに対して、非常に実用的な助言を与えました。というのも、裕福な人にとって、自分の財産に頼るのは容易なことだからです(実際には、金持ちでなくても多くの人がそうしてしまいます)。

しかし、パウロはテモテにこのように命じました。

今の世で富んでいる人たちに命じなさい。

高慢にならず、頼りにならない富にではなく、むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置き、善を行い、立派な行いに富み、惜しみなく施し、喜んで分け与え、来たるべき世において立派な土台となるものを自分自身のために蓄え、まことのいのちを得るように命じなさい。(17-19)

お金は、それ自体が悪いものではありません。正しく用いるなら、実に多くの善を行うことができます。私たちは、たくさんの人々に触れることができます。

お金をそのように用いるなら、私たちは決して朽ちることのない資産を天に蓄えることになるのです。そしてその中で、私たちの人生の真の意味を見いだすことができるでしょう。

では、あなたはどうでしょうか。あなたは今、何を追い求めていますか。あなたの希望は、どこに置かれているでしょうか。