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ルカの福音書のデボーション

弟子とは

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。(ルカの福音書9:23)

今朝、イエス様の御言葉を反芻していました。その御言葉を言い換えるなら、

わたしの弟子になりたいと思うなら(実際、すべてのクリスチャンは弟子です):

1. 自分中心に生きることをやめなさい。「私の人生」という考え方を手放しなさい。

2. むしろ、毎日すべてを天の父に明け渡しなさい。すべてを捧げ、すべてにおいて従いなさい。(ピリピ2:8)

3. 毎日毎日、一瞬一瞬わたしと共に歩みなさい。わたしから学び、わたしの働きに参加しなさい。御父の良い統治のもとへ人々を招きなさい。

イエス様の言葉を考えると、「日々」という言葉が私の心に響きました。クリスチャン生活は、一週間に一度だけのものではなく、日々のものです。

さらに、イエス様だけではなく、天の父も私たちがイエス様の弟子となるように呼んでおられます。

これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け。(ルカ9:35)

だから、今日私はこのように祈りました。

イエス様、あなたは私の良い王です。どうか、私が毎日あなたに従い、あなたの弟子として生きることができますように導いてください。

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ルカの福音書のデボーション

権威

イエス様、あなたは私の王です。でも、私の人生で、あなたの権威を完全に認めているでしょうか。

百人隊長はあなたの御言葉の権威を認めていました。(ルカの福音書7:7ー8)

私もその権威を認めているでしょうか。

あなたの御言葉は、死人を復活させる力を持っておられます。(ルカ7:14ー15)

そして、いつの日か、あなたの御言葉によってすべての死人が復活し、あなたが彼らを裁かれます。私も裁かれるでしょう。(ヨハネ5:25ー29)

その日、あなたは私に何を語られるでしょうか。私の信仰に驚かれるでしょうか。私が完全にあなたを信頼し、その御言葉に従ったことを喜ばれるでしょうか。

それとも、あなたは「なぜあなたは、わたしを「主よ、主よ」と呼びながら、わたしの言うことを行わなかったのですか。」と尋ねられるでしょうか。(ルカ6:46)

私はあなたを心から信じています。それでも、私たちの信仰を増し加えてください。すべてにおいて、あなたに従うことができるよう導いてください。

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ルカの福音書のデボーション

深く掘り下げる?

なぜあなたがたは、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。

わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人がみな、どんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。

その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、家を建てた人に似ています。(ルカの福音書6:46ー48)

天のお父さん、 聖書を読むとき、どうか私があなたの御言葉をただ表面的に読むのではなく、その意味を深く考え、思いを巡らすよう導いてください。

私があなたの御言葉を理解し、それを通してあなたが私に何を語られるのかを知ることができるように、求める心を与えてください。

イエス様、私があなたを「主よ、主よ」と呼びながら、あなたの御言葉に従わない者にならないようにしてください。

あなたは私の王です。あなたが良い王であることを信じています。だからこそ、あなたの御言葉に聞こうとする耳と、喜んで従う心を与えてください。

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使徒の働きのデボーション

私たちの(良い)主に従う

主よ。あなたは天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた方です。(使徒の働き4:24)

「主よ」。

初期のクリスチャンたちは神様を「主」と呼びましたが、通常はギリシャ語の「クリオス」を使いました。

けれども、この場合、彼らは別の言葉を使いました。それは「デスポテース」という言葉です。

「デスポテース」という言葉は、神様の支配の権利と力を強調します。

残念なことですが、多くの人々は神の支配の権利と力を認めることを拒みます。

ダビデの時代でも、ペテロの時代でも、今でも、人々は神様の支配に抵抗します。(25ー27)

しかし、ペテロとほかのクリスチャンたちは神様を自分の主として認めました。だから彼らは喜んで神様に従いました。(19ー20)

なぜ彼らは喜んで従うことができたのでしょうか。それは、彼らが神様が良い方であることを認めたからです。

興味深いことですが、英語の「despot」、つまり「暴君」という言葉は「デスポテース」に由来します。

けれども、神様は暴君どころか、私たちを愛している創造主であり、天の父です。

神様、あなたは私の主です。あなたは良い主です。あなたはいつくしみ深い主です。

この世は時に乱れているように見えますが、あなたがすべてを支配しておられることを信じます。

また、あなたが私の最善を望むことを信じます。

あなたは私の信頼と服従にふさわしい方です。だから主よ、私は喜んであなたにすべてを明け渡します。

あなたに喜んで従います。あなたを愛しています。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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エレミヤ書

服従からの祝福

多くの場合、私たちは神様の言葉を知っていても、その言葉に従いません。

なぜなら、「楽しいこと」をしたいと思うからです。また、神様の道を歩まずに、自分の道を行けば幸せになれると考えるからです。

ユダの人々もそう考えました。しかし、この箇所では、神様は服従から来る祝福について教えられます。

神様はエレミヤに、ある家族を主の宮に連れて行くよう命じられました。彼らはレカブという人の子孫でした。

他のユダの人々は、この家族を見て少し不思議な家族だと思っていました。なぜなら、ユダの人々は自分の家を建てていたのに対し、レカブ人たちは今でもテントに住んでいたからです。また、彼らは全くお酒を飲まなかったからです。

その家族は宮に行き、ハナンという人の息子たちが住んでいる部屋に入りました。そこで、エレミヤは彼らにお酒を差し出しましたが、彼らはこう言いました。

「私たちはぶどう酒を飲みません。それは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じて、『あなたがたも、あなたがたの子らも、永久にぶどう酒を飲んではならない。

あなたがたは家を建てたり、種を蒔いたり、ぶどう畑を作ったり、また所有したりしてはならない。

あなたがたが寄留している地の面に末長く生きるために、一生、天幕に住め』と言ったからです。

それで、私たちは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じたすべての命令に聞き従い、私たちも、妻も、息子、娘たちも、一生、ぶどう酒を飲まず、住む家も建てず、ぶどう畑も、畑も、種も持ちません。

私たちは天幕に住み、すべて先祖ヨナダブが私たちに命じたとおりに、聞いて行なってきました。(エレミヤ書35:6-10)

ネブカデネザル王がユダを攻撃し、その家族が自分の土地を離れてエルサレムに逃れなければならなくなったとしても、彼らはヨナダブの命令に忠実に従い続けました。

そのため、神様はこう語られました。

イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。行って、ユダの人とエルサレムの住民に言え。

『あなたがたはわたしのことばを聞いて懲らしめを受けようとしないのか。――主の御告げ――レカブの子ヨナダブが、酒を飲むなと子らに命じた命令は守られた。彼らは先祖の命令に聞き従ったので、今日まで飲まなかった。

ところが、わたしがあなたがたにたびたび語っても、あなたがたはわたしに聞かなかった。(13-14)

つまり、「ヨナダブはただの人間であるにもかかわらず、その子孫たちは彼の言葉に従い続けています。私はあなたがたの神です。それなのに、あなたがたは私の言葉に従いません。なぜ、私の言葉に従わないのですか。」

そして、神様はレカブ人たちにこう語られました。

エレミヤはレカブ人の家の者に言った。「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。

『あなたがたは、先祖ヨナダブの命令に聞き従い、そのすべての命令を守り、すべて彼があなたがたに命じたとおりに行なった。』

それゆえ、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。

『レカブの子、ヨナダブには、いつも、わたしの前に立つ人が絶えることはない。』」(18-19)

レカブ人たちはその先祖と神様に忠実であったため、ユダが裁きを受けた時も、神様は彼らを祝福されました。

あなたはどうでしょうか。神様に従うことで祝福されると信じていますか。

私は以前言ったように、神様に従うことで、あなたの人生が必ずしも楽になるわけではないかもしれません。しかし、神様に従うなら、どんな試練の中にあっても、喜びと満足を見いだすことができます。

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エレミヤ書

敬い、信頼、服従

この箇所をスキップしてしまうのは簡単なことかもしれません。なぜなら、この箇所は安息日についての内容ですし、パウロがコロサイの教会に宛てて書いた時に、次のように言っているからです。

安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。(コロサイ2:16)

私はその理由をここですでに書きました。

しかし、この箇所から、クリスチャン生活の重要な原則を学ぶことができると思います。

どうしてイスラエル人たちは安息日を守らなければならなかったのでしょうか。それは、安息日を通して、彼らが三つのことを示したからです。

第一に、彼らは神様を創造主として敬うことを示しました。彼らは神様の創造の働きを思い起こし、神様が7日目に休まれたことを覚えました。

第二に、彼らは神様への信頼を示しました。安息日に彼らは休むことで、神様が必要を満たしてくださることを信じました。

第三に、彼らは神様への服従を示しました。信頼と服従は深い関係があります。神様を信頼しないと、神様に従うことは難しいのです。

残念なことですが、イスラエル人たちはその三つのことに失敗しました。神様は彼らにこう言われました。

「もし、安息日を守るなら、私はあなたを祝福します。しかし、そうしないならば、裁きが起こります。」

なぜでしょうか。

安息日を守るのは簡単なことでした。それにもかかわらず、彼らは安息日を守らず、神様を敬わず、神様に信頼せず、神様の命令に従いませんでした。

彼らが安息日を守らなかったことは、彼らの心にある大きな問題の兆候だったのです。

あなたはどうでしょうか。神様を敬っていますか。神様があなたのためにしてくださったことを思い起こし、神様を賛美していますか。

神様に信頼していますか。神様はあなたのために最善の道を知っておられ、あなたの最善を望んでおられることを信じていますか。

また、小さなことでも神様に従っていますか。

神様はイスラエル人たちにこれらのことを望まれました。そして、それは私たちにも同じように望まれています。

私たちが神様を敬い、神様に信頼し、従う者となるように。