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ヨハネの福音書のデボーション

きよい

わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます(別訳:「きよくなさいます」。

あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。(ヨハネの福音書15:2ー3)

今朝、上の箇所を反芻していたとき、イエス様が13章で似たようなことばを語られたことを思い出しました。

水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのです。。。(ヨハネ13:10)

イエス様のことばは私を励ましてくださいました。イエス様は私の心に語られました。

「あなたが私のことばを信じたから、私を信じたから、私の目にはあなたはすでにきよいのです。あなたはすでに天の父に受け入れられているのです。」

この世を歩む中で、私の霊的な足は罪によって汚れてしまいます。

最近、神様は、ある人に対する私の悪い態度を示してくださいました。その態度のゆえに、神様が望まれるほどには、私は実を結んでいません。

それでも、神様は私を決して諦められません。

むしろ、豊かな忍耐と愛と恵みをもって、神様は私をきよめてくださいます。また、私がさらに多くの実を結ぶように、神様は私を刈り込みしてくださいます。

神様はあなたのためにも、同じことをしてくださいます。

神様の鏡、すなわち御言葉を覗くと、あなたも自分の罪や、実を妨げるものを見るかもしれません。でも、あなたへの神様のことばを心に留めておきましょう。

「私の目にはあなたはすでにきよいのです。」

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ヨハネの福音書 ヨハネ15章

イエス様にとどまる必要

前回の記事で、私は私たちの人生における天の父の働きについて話しました。

つまり、私たちの義や実は、自分の努力からではなく、天の父の働きによって生まれるのです。イエス様のみ言葉を通して、天の父は私たちを清めてくださいます(ヨハネの福音書15:3)。

また、私たちが失敗したり、罪を犯したりするとき、天の父は私たちを支え、実を結ぶように刈り込んでくださいます。

では、私たちの実が天の父の働きによって生まれるのであれば、私たちは何もしなくてよいのでしょうか。

そうではありません。私たちがすべきことが一つあります。それは、イエス様にとどまることです。

それはどういう意味でしょうか。

私たちはイエス様との親しい関係を保つべきです。

私たちはイエス様を人生の中心に据えるべきです。

また、イエス様と時間を過ごすべきです。

私たちはイエス様の言葉を聞き、その言葉に従うべきです。

イエス様はこう言われました。

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。

わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。(ヨハネの福音書15:9-10)

以前の記事で私は述べましたが、イエス様は単に「私の言葉に従いなさい」と言われただけではありません。

イエス様は、「私に信頼しなさい。私はあなたを愛しているから。私はあなたの最善を望んでいる」と語られました。

誰かを信頼できなければ、その人との関係を築くことは非常に難しいものです。もし私たちが神様に「あなたに信頼できません」と言うなら、その関係には距離が生まれてしまいます。

けれども、私たちが神様を信じ、その言葉に従えば従うほど、神様との関係はますます親しくなります。

私たちは神様を信頼するからこそ、その言葉に従います。そして、従うことによって神様の祝福を見て、神様が私たちの最善を望んでおられることを悟るのです。

だからこそ、私たちは神様をさらに愛し、信頼し、喜んで神様の言葉にますます従います。そして神様の祝福をさらに経験することで、私たちはますます神様を愛し、信頼するようになります。

このような神様との関係を持つことで、私たちは多くの実を結ぶのです。

しかし、もし私たちが決して神様を信じることを学ばなければ、どうなるでしょうか。私たちは決して実を結ぶことができません。

イエス様はこう言われました。

わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。

枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。

わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。(15:4-6)

あなたはどうですか。あなたは神様と共に歩み、神様を愛し、信頼するでしょうか。そうすることで、あなたは実を結ぶことができます。

もしその関係がなければ、あなたが何をしても、神様を喜ばせることはできません。そして、不信を捨てなければ、ユダのように、枯れて燃えてしまうのです。

しかし、神様と共に歩むなら、あなたは実を結び、喜びを知ることができます。

イエス様はこう言われました。

わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。(11)

どうすれば、神様との信頼関係を築き始めることができるでしょうか。

まず、あなたの救いのためにイエス様に信頼することが必要です。

ヨハネはこう書きました。

私たちが御子イエス・キリストの名を信じ(ること)。。。それが神の命令です。(第一ヨハネ3:23)

もしあなたがまだ神様との関係を持っていないなら、今日その関係を始めてみませんか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ15章

上げられて、刈り込まれた

キリスト教をほかの宗教と比べると、一つの大きな違いは、私たちの義が自分の努力によるものではないことです。むしろ、神様が私たちの心を変えてくださるので、私たちのふるまいが変わり始めるのです。

旧約聖書において、神様はこの概念を初めて教えられました。神様はエレミヤを通して、こう言われました。

見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。。。

これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。

わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(エレミヤ31:31,33)

また、神様はエゼキエルを通してこう言われました。

あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。

わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。(エゼキエル36:26-27)

そして、今日のヨハネの箇所では、イエス様は神様の働きをさらに詳しく説明されています。

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。

わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。(ヨハネの福音書15:1-2)

イエス様によれば、天の父は実を結ばない枝を取り除き、実を結んでいる枝をさらに多く実を結ぶように刈り込まれます。

では、神様が実を結ばない枝を取り除くとはどういう意味なのでしょうか。

私は、それがクリスチャンが救いを失うということではないと思います。他の聖書の箇所がその考えを否定しているからです。

この意味について、二つの可能性があると思います。

第一に、イエス様はイスカリオテ・ユダのような人々について話しているのかもしれません。

ユダはイエス様のもとに来て、多くのことを学びました。彼は実際に弟子となりました。けれども、最終的に彼は実を結びませんでした。彼はイエス様を心から信じることはありませんでした。だからこそ、彼は取り除かれてしまったのです。

今日でも、多くの人々が教会に通い、聖書から学んでいます。ところが、彼らは本当にその言葉を信じることはありません。そのため、彼らもまた取り除かれるのです。

しかし、もう一つの可能性があります。

「取り除く」という言葉は、「上げる」とも訳すことができます。

もしかすると、イエス様が意味されたのは、天の父が実を結ばない枝を日差しにさらすように持ち上げることだったのかもしれません。

そうすることで、その枝はより多くの栄養を受け、健康になり、やがて実を結び始めるのです。

このように、神様は私たちを罪や失敗から引き上げ、私たちが実を結ぶように、私たちの心の中で働かれます。そして、私たちが実を結び始めると、神様はその実の成長を妨げるものを刈り込まれます。

神様はペテロのためにもそのようにしてくださいました。

ペテロはイエス様を裏切ったことで深く落ち込んでいました。けれども、イエス様は彼を引き上げ、励まされました。

イエス様はペテロが自分自身を変えるのを待たれませんでした。むしろ、イエス様はペテロのもとに行き、彼の心に働きかけ、憂鬱から引き上げて、前に進めるように促されたのです。

とはいえ、ペテロが実を結び始めると、イエス様は「では、私の働きは終わりだ」と言われることはありませんでした。

むしろ、イエス様はペテロの偏見を刈り込まれたことで、ペテロはかつて見下していた異邦人にも福音を伝え始めたのです。(使徒の働き10-11)

ところが、その過程はまだ終わっていなかったのです。

ペテロは再び失敗しましたが、イエス様はもう一度ペテロを引き上げ、さらに刈り込まれました。(ガラテヤ人への手紙2:11-14)

あなた自身はどうでしょうか。クリスチャン生活を振り返ると、失望することがありますか。

神様があなたを責めることはなく、決してあきらめることもない、ということを心に留めておきましょう。

むしろ、あなたが完全になるまで、神様はあなたの心の中で働き続けておられます。

だから、神様から逃げず、むしろ神様に近づき、とどまりましょう。そうすることで、あなたは実を結ぶのです。

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ヨハネの福音書 ヨハネ15章

実を結ぶために選ばれました

この有名な箇所で、イエス様は私たちと神様との関係を素晴らしい描写で示されています。

イエス様はご自身を「ぶどうの木」と呼ばれます。

旧約聖書では、神様はイスラエルを「ぶどうの木」として表されました。

本来、イスラエル人は神様のために実を結び、その実を通して周囲の国民が神様に近づくはずでした。けれども、彼らの不従順のために悪い実ばかりを結び、神様は彼らを裁かれました。(イザヤ5:1-7、エレミヤ2:21)

だから、イエス様はご自身を単なる「ぶどうの木」ではなく、「まことのぶどうの木」と呼ばれました。なぜなら、イエス様の実を通して人々が神様に近づくだけでなく、イエス様の働きを通して救われるからです。

そして、イエス様は私たちを「枝」と呼ばれます。

16節で、イエス様はこう言われました。

あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。

それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため。。。(ヨハネの福音書15:16)

実を結ぶとはどういう意味でしょうか。ひとつの意味は、神様に変えられた人生を生きることです。

パウロは、かつての私たちの罪深い生き方について語った後、こう言いました。

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。(ガラテヤ5:22-23)

つまり、私たちが本当にクリスチャンになれば、私たちの人生はそのことを証明するはずです。かつての人生と比べると、私たちの生き方や考え方は変わるはずです。

そして、私たちの人生が変われば変わるほど、私たちは周りの人々に影響を与え始めます。彼らは私たちの中に神様を見て、神様に近づき、救われるのです。

それは、かつてイスラエルのために神様が立てられた最初の計画でしたが、今は、それが私たちのための神様の計画です。

ペテロはこう言いました。

しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。

それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。(第一ペテロ2:9)

あなたは、実を結ぶために神様に選ばれました。あなたは、その実を結んでいるでしょうか。

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エゼキエル書

実りのない人

私は農家でも大工でもありません。それでも、この箇所を通して、私はぶどうの木の枝について学びました。つまり、実を結ばない枝は全く価値がないということです。

実際、私は「この椅子の木材はぶどうの木から来た」と聞いたことは一度もありません。

エゼキエルの時代、ぶどうの木が実を結ばない場合、人々はその枝を薪として使いました。それ以外の用途はありませんでした。

現代では、ぶどうの木には他の使い道があります。インターネットによると、ぶどうの木で花輪を作る人もいるそうです。

また、別のウェブサイトでは、ぶどうの木について興味深い情報がありました。その情報を読んで、なぜぶどうの木が他の使い方に向かないのかが理解できるようになりました。

それは、ぶどうの木の枝を切るとすぐにその枝が枯れ、割れやすくなるということです。

だから、神様はイスラエル人をぶどうの木の枝と比べられました。聖書の中で、神様はイスラエルをしばしばぶどう園に例えられます。

神様は、イスラエルが実を結ぶぶどうの木になることを望まれました。つまり、彼らが周りの国々に神様の栄光を表す存在になることを望まれたのです。

また、彼らが周りの国々に対して祝福となることを望まれました。

しかし、イスラエルの罪と偶像礼拝によって、彼らは実を結ばないぶどうの木となりました。周りの国々に光をもたらすことはなく、むしろ彼らのようになってしまいました。

命の源から離れたことで、彼らは枯れて、割れやすくなり、全く価値のない存在になりました。

そのため、バビロンが来て、彼らの都市、宮殿、神殿、そしてイスラエル人の家を焼き尽くしました。

私たちクリスチャンも気を付けなければ、同じことが起こるかもしれません。

イエス様はこう言われました。

わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。

枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。。。

あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。(ヨハネ15:4-6,8)

神様は私たちがイエス様にとどまることを望まれます。イエス様にとどまるなら、私たちは神様のために多くの実を結びます。そして、私たちは周りの人々に光をもたらし、神様がどんな方であるかを示す存在となります。

しかし、私たちがイエス様にとどまらない場合、私たちは枯れて、割れやすい枝となります。そのような枝では、神様は私たちを用いることができません。

それでも、私たちの救いが失われることはありません。

イスラエルが不忠実だったとしても、神様は忠実で、約束は変わりませんでした。同様に、私たちが不忠実であっても、神様の私たちに対する約束は変わることがありません。

ただし、私たちが悔い改めない場合、神様は私たちを懲らしめられるでしょう。

あなたはどのような枝でしょうか。実を結んでいる枝でしょうか。それとも、枯れてしまった枝でしょうか。