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列王記第一のデボーション

神様の柔和さ

主は、あわれみ深く、情け深い。 怒るのに遅く、恵み豊かである。

主は、いつまでも争ってはおられない。とこしえに、怒ってはおられない。。。

父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。

主は、私たちの成り立ちを知り、私たちが土のちりにすぎないことを心に留めてくださる。(詩篇103:8ー9,13ー14)

列王記19章を読んだとき、神様は上の言葉を私に思い出させてくださいました。

エリヤは本格的な「かわいそうパーティー」を開いていました。

神様は「死にたいのか?それなら死になさい」と言われることもできたはずです。

しかし、神様は逆に愛をもって、エリヤに御使いを遣わし、焼きたてのパンと水を与えてくださいました。

そして、山の上での神様とエリヤの会話について、少し考えてみましょう。

神様が「外に出て、山の上で主の前に立て」と命じられたとき、エリヤはどう感じたでしょうか。

彼はおそるおそる外に出て、神様の反応を恐れたでしょうか。痛烈な叱責を予想していたでしょうか。

もしそう感じていたのなら、エリヤが見たものは安心させるものではありませんでした。

彼は激しい大風も、地震も、火も見ました。

ところが、注意深く見たとき、神様がその大風や地震や火の中にはおられないことに気づきました。

むしろ、神様がもう一度語りかけられたとき、かすかな細い声で優しく語りかけられました。

とはいえ、神様はエリヤがその「かわいそうパーティー」に居続けることを許されませんでした。

むしろ、神様はエリヤに、その「かわいそうパーティー」から離れて、ご自身の奉仕に戻るように命じられました。

多くのクリスチャンは神様の怒りを恐れます。彼らは失敗したとき、神様がいつも怒っておられ、彼らを叱責されると思っています。

しかし、私たちの天のお父さんはそのようなお方ではありません。

神様は私たちを常に叱りつけておられるわけではありません。

むしろ、神様はかすかな細い声で、私たちが再び立ち上がり、神様についていくように励ましてくださいます。

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士師記のデボーション

知恵にふさわしい柔和さ

あなたがたのうちで、知恵があり、分別のある人はだれでしょうか。その人はその知恵にふさわしい柔和(別訳、謙虚)な行いを、立派な生き方によって示しなさい。(ヤコブ3:13)

今日の箇所を読んで、ヤコブ3章を連想しました。

先生やリーダーには、真の知恵は、その人の柔和な行為や言葉で現れます。

ギデオンはそんな柔和な態度をエフライムの人々に表しました。

でも、そのあと、ギデオンはそうしませんでした。

むしろ、ギデオンは自分(士師記8:4〜17)やその家族(18〜21節)を傷つけられたことに拘って、復讐を求めました。

それに、ギデオンは利己的な思いに駆られました(22〜32節)。

イスラエル人たちが「私たちの王になってください」と願ったとき、ギデオンは断ったけれど、すぐにその時代の王のようにふるまって、イスラエル人の金を受け、金持ちになって、たくさんの妻を持ちました。

さらに、ギデオンは「神様は私たちの王です。私たちは神様に仕えるべきです」と敬虔に言ったのに、彼は自分のために祭司のエポデを作って(出エジプト記28:3〜8)、勝手に礼拝する場所を立て、祭司のように振る舞ったようです。

その結果、イスラエル人たちは神様に背を向けてしまいました(27節)。

ヤコブの言葉を借りれば、そのような知恵は、「上から来たものではなく、地上のもの、肉的で悪魔的なものです」(ヤコブ3:15)。

ギデオンは、甘い水と苦い水を同じ穴から湧き出させる泉のようでした。彼の言葉や行為が甘い水のような時もありましたが、苦い水のような時もありました(ヤコブ3:11)。

私たちがそんなリーダーにならないように。私たちが自分の家族のリーダーとして、職場のリーダーとして、教会のリーダーとして、どんなリーダーシップの立場を持っていても、私たちは知恵から産み出す柔和な言葉や行いで特徴づけられるように。

その知恵はどのようなものでしょうか。

しかし、上からの知恵は、まず第一に清いものです。それから、平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。

義の実を結ばせる種は、平和をつくる人々によって平和のうちに蒔かれるのです。(ヤコブ3:17ー18)

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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:天の父に従う

柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。(5:5)

英語では、「Blessed are the meek」と書かれています。

「Meek」、つまり「柔和」という言葉を見たとき、私はその意味をよく調べる必要があります。なぜなら、アメリカ人はこの言葉をあまり使わないからです。

「柔和」という言葉が日本人にとってどのようなイメージを持つかはわかりませんが、多くのアメリカ人にとって「Meek」という言葉は「弱い」という印象があります。

ところが、この言葉は「弱い」という意味ではありません。モーセとイエス様は柔和な者だと呼ばれました。この箇所では、新改訳聖書は「謙遜」や「へりくだっている」という表現を用いています。(申命記12:3、マタイ11:29)

彼らは謙遜な人だったかもしれませんが、彼らを「弱い」と呼ぶことはできません。彼らは本当に強い人たちでした。

実は、この言葉は飼いならされた動物を指す際にも使われていました。飼いならされた動物は、自分の力を持ちながらも、飼い主に従い、仕えるのです。

その意味で、モーセとイエス様は柔和な者でした。

モーセは、最初は自分の力でイスラエル人を奴隷の生活から解放しようとしました。けれども、結局彼はパロから逃げなければならず、諦めました。

しかしその後、モーセは神様の権威に従い、神様とイスラエル人のために偉大な働きをすることができました。

イエス様は神の御姿でありましたが、天の父に従い、天の父の計画を成し遂げられました。つまり、イエス様は十字架にかかり、私たちの罪のために死んでくださり、私たちを救われました。

モーセとイエス様はいろいろな試練に直面しました。彼らは自分の弱さと戦いました。それでも、彼らは最後まで神の計画を成し遂げるまで仕え続けました。

それが柔和な者です。

あなたはどうでしょうか。あなたは柔和な者でしょうか。

あなたは天の父に従いますか。試練に直面するとき、「どうして私はこんなに苦しまなければならないのでしょうか。私はあなたの御心に従っているはずなのに」と不満を言うでしょうか。

それとも、へりくだって神様の御心に従い続けるでしょうか。

そのような人に、イエス様は言われます。「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。」

私たちは毎日、天の父に従うなら、最終的に報いを受けることができます。

しかし、私たちは本当にそうするでしょうか。