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民数記のデボーション

 私があなたをあがめるように

聞け、わたしのことばを。

もし、あなたがたの間に預言者がいるなら、主であるわたしは、幻の中でその人にわたし自身を知らせ、夢の中でその人と語る。

だがわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者。(民数記12:6ー7)

ですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。

モーセが神の家全体の中で忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実でした。

家よりも、家を建てる人が大いなる栄誉を持つのと同じように、イエスはモーセよりも大いなる栄光を受けるにふさわしいとされました。。。

モーセは、後に語られることを証しするために、神の家全体の中でしもべとして忠実でした。

しかしキリストは、御子として神の家を治めることに忠実でした。そして、私たちが神の家です。。。(ヘブル人への手紙3:1ー6)

イエス様、モーセは天の父の家全体の中で、しもべとして忠実でした。だから、彼は栄誉や栄光を受けるにふさわしい人でした。

でも、あなたは天の父の家全体の中で、御子として忠実でした。そういうわけで、モーセよりも、あなたは大いなる栄誉と栄光を受けるにふさわしい方です。

だから、私の言動によって、あなたがあがめられるように。あなたは、私の服従と敬いにふさわしい方です。

私があなたに従わないとき、あなたを敬わないとき、赦してください。

そんなときにも関わらず、あなたが私の大祭司として、私のために忠実にとりなし続けてくださり、感謝します。

あなたの素晴らしい恵みを感謝します。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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テサロニケ人への手紙第二

イエスの御名があがめられ、私たちも栄光を受けるために

苦しみが好きな人は、誰もいないでしょう。どうして神様が私たちの苦しみを許すか、疑問に思うのは簡単なことです。でも、この手紙では、私たちはいくつかの答えを見つけることが出来ます。

私は以前にも言ったけど、テサロニケの教会は迫害の中で生まれました。パウロはテサロニケから追い出されて、その都市にもう一度入ることが出来ませんでした。

そういうわけで、テサロニケ人たちを励ますため、パウロは自分の代わりに、テモテを送ったし、手紙を二枚送りました。これは二番目の手紙です。

テサロニケ人たちの苦しみの結果は何だったでしょうか。パウロはこう言いました。

兄弟たち。あなたがたについて、私たちはいつも神に感謝しなければなりません。それは当然のことです。

あなたがたの信仰が大いに成長し、あなたがたすべての間で、一人ひとりの互いに対する愛が増し加わっているからです。(テサロニケ人への手紙第二1:3)

彼らが苦しみに直面していたにもかかわらず、パウロが祈っていたとおりに、彼らの信仰と愛は成長していきました。(第一テサロニケ3:11−12)

それゆえに、パウロはこう語ります。

ですから私たち自身、神の諸教会の間であなたがたを誇りに思っています。あなたがたはあらゆる迫害と苦難に耐えながら、忍耐と信仰を保っています。

それは、あなたがたを神の国にふさわしいものと認める、神の正しいさばきがあることの証拠です。あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。(4-5)

「それは。。。神の正しいさばきがあることの証拠です。」

では、パウロが意味したのは何だったのでしょうか。

それは、神様が決して誤ることのない方であり、常に正しくさばかれるということです。

ですから、神様が私たちの人生に苦しみや試練を許されるとき、 その出来事は私たちを滅ぼすためではありません。むしろ、私たちは火で精錬された金のように、清められ、鍛えられて出て来るのです。(ヨブ記23:10)

この真理は、テサロニケの人々の歩みにおいても現れました。 彼らは苦しみによって打ち砕かれたのではなく、かえって、その愛と信仰はますます強められていったのです。

だからこそ、パウロはこう語りました。「あなたがたは苦しみにあったが、神の国にふさわしい者として認められているのです。」

さらにパウロは、彼らをこう励まします。「たとえこの世で正義が実現しなくても、最後には神様ご自身が、あなたの迫害者をさばき、あなたに安らぎを与えてくださいます。」

黙示録6:9〜11において、神様は殉教者たちにも同じように語られました。

こうして、パウロはその日について、次のように語ります。

その日に主イエスは来て、ご自分の聖徒たちの間であがめられ、信じたすべての者たちの間で感嘆の的となられます。そうです、あなたがたに対する私たちの証しを、あなたがたは信じたのです。(10)

私は、この言葉が本当に大好きです。

イエス様が来られると、神様は、試練の中でもあきらめずに神のために生き続けた聖徒たちの間で、あがめられるのです。

同時に神様は、私たちの間で感嘆の的となられます。なぜなら、私たちはふさわしくない者であったのに、神様はその恵みによって、私たちを救ってくださったからです。

またその日、私たちははっきりと悟るでしょう。「神様が常に私たちとともにおられ、私たちを強めてくださったからこそ、私たちはこの試練を通り抜けることができたのだ」と。

だからパウロは、このように祈ったのです。

こうしたことのため、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか私たちの神が、あなたがたを召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から出た働きを実現してくださいますように。

それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、私たちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。(11-12)

どうして私たちは、苦しみを経験するのでしょうか。その目的は、イエスの御名が私たちの間であがめられ、私たち自身も、主にあって栄光を受けることにあります。

そして、何に直面してもイエス様に従い続けるなら、神様は、私たちの善を求めるあらゆる願いと、信仰に基づく働きを実現し、祝福してくださるのです。

そのうえで、イエス様が来られるその日、私たちをご覧になって、こう言ってくださるのです。

よくやった。良い忠実なしもべだ。。。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(マタイ25:21)

アーメン。主イエスよ、来てください。

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コリント人への手紙第二

イエス様の御名を輝かせている?

この箇所で、パウロはエルサレムの貧しい人々のための献金を集める手順について語ります。なぜなら、彼はコリントの人々に、その過程が公正であることを安心してもらいたかったからです。

そこで、パウロは献金を預かる担当者たちについて説明します。

一人はテトスでした。もう一人は、福音を宣べ伝える働きによって知られていました。そして、もう一人は、主への奉仕に熱心なことで知られていました。

彼らについて、パウロはこう語りました。

テトスについて言えば、彼は私の仲間であり、あなたがたのために働く同労者です。

私たちの兄弟たちについて言えば、彼らは諸教会の使者であり、キリストの栄光です。(コリント人への手紙第二8:23)

それは素晴らしい誉め言葉です。その三人はキリストの栄光です。

それはどういう意味でしょうか。彼らは、自分の人生を通してイエス様の御名に栄光をもたらしました。

イエス様への熱心さによって、彼らはイエス様の御名を栄光で満たしました。また、福音を宣べ伝える働きを通して、彼らはイエス様の御名に栄光をもたらしました。さらに、周りの人々への愛と憐れみによって、彼らはイエス様の御名を輝かせました。

この言葉を読むと、私は自分自身に問いかけます。私はキリストの栄光となっているだろうか。

私の言葉と行動を通して、イエス様に栄光をもたらしているだろうか。イエス様への熱心さを持っているだろうか。周りの人々にイエス様の言葉を伝えているだろうか。彼らに対する神様の愛と憐れみは私の心に溢れているだろうか。

私はそう願います。もちろん、私は完全な人間ではありません。しかし、イエス様の御名を汚したくありません。

あなたはどうでしょうか。あなたはイエス様の栄光となっているでしょうか。あなたの言葉と行動を通して、イエス様の御名を輝かせているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

なぜ私たちは決して恥じる必要がないのか

前回の記事でこのトピックに少し触れましたが、今日はもう少し深く考えたいと思います。

モーセがシナイ山から降りて十戒を持ってきたとき、彼の顔は主の栄光に輝いていました。

最初は、イスラエルの民が恐れたため、モーセは自分の顔に覆いをかけました。けれども、その栄光が消え去りつつあっても、モーセは覆いを外しませんでした。

もしかすると、栄光が消え去ることを恥ずかしく感じていたのかもしれません。つまり、その時、自分の罪によって栄光が失われつつあることに気付いたのです。

この出来事を通して、私たちは律法の問題を理解できます。

律法は、神様がどのような方であるか、また私たちに対する神様の御心を示します。けれども、律法には私たちを変える力がありません。私たちはなお罪深く、律法によって裁かれるのです。

しかし、パウロによれば、私たちの状態は変わりました。私たちがイエス様を信じると、モーセの栄光よりもはるかに優れた栄光を見いだします。

どうしてでしょうか。それは、律法が石の板や紙に書き記されているものではないからです。

むしろ、私たちがクリスチャンになると、聖霊様がその律法を私たちの心に書き記し、毎日、私たちをイエス様と同じかたちに変えてくださいます。

私たちは日々、栄光から栄光へと変えられています。私たちの栄光は消え去るものではなく、むしろ、次第に増していくのです。

だから、パウロは私たちにこう語ります。

このような望みを抱いているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。

モーセのようなことはしません。彼は、消え去るものの最後をイスラエルの子らに見せないように、自分の顔に覆いを掛けました。(コリント人への手紙第二3:12-13)

神様が私たちに賜った栄光が消え去ることを心配する必要はありません。むしろ、私たちがイエス様の姿へと変えられるまで、神様が私たちの内で働かれることを確信することができます。その時、私たちは神様の栄光に輝くのです。

だから、パウロは私たちが自由を持っていると言います。(17)

神様は私たちを罪悪感から解放してくださいました。 神様は私たちを罰への恐れから自由にしてくださいました。 神様は私たちを律法の力から自由にしてくださいました。私たちにはもはや、自分の力で律法を守る必要はありません。

モーセはそのような自由を知りませんでした。彼は律法の支配下にありました。だから、全焼のいけにえを何度もささげても、罪悪感と恥を感じ続けていたのです。(へブル10:2-4)

彼は裁きの苦しみも経験しました。自分の罪のゆえに、神様がイスラエルの民に約束された土地に入ることができませんでした。だからこそ、モーセの顔に律法の栄光が消え去りつつあるとき、彼は覆いを外しませんでした。

しかし、私たちにはその必要はありません。私たちの覆いを取り去り、周りの人々に私たちの顔を見せましょう。私たちがどのような者であるかを明らかにしましょう。私たちは恵みによって救われた者です。

完全ではありませんが、私たちは日々、イエス様の姿へと変えられています。

だから、ペテロの言葉を心に留めて、生きていきましょう。

「見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、尊い要石を据える。この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」(第一ペテロ2:6)

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コリント人への手紙第二

律法の目的を正しく理解する

多くのクリスチャンは、クリスチャン生活をさまざまなルールを守ることだと考えています。多くのノンクリスチャンも同じように捉えているでしょう。

しかし、クリスチャンとして、私たちの栄光はルールにあるのではありません。なぜでしょうか。

パウロは、律法についてこう書きました。

石の上に刻まれた文字による、死に仕える務めさえ栄光を帯びたものであり、イスラエルの子らはモーセの顔にあった消え去る栄光のために、モーセの顔を見つめることができないほどでした。

そうであれば、御霊に仕える務めは、もっと栄光を帯びたものとならないでしょうか。

罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めは、なおいっそう栄光に満ちあふれます。実にこの点において、かつては栄光を受けたものが、それよりさらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているのです。

消え去るべきものが栄光の中にあったのなら、永続するものは、なおのこと栄光に包まれているはずです。(コリント人への手紙第二3:7-11)

律法が与えられたことは、本当に栄光に満ちた出来事でした。なぜなら、律法を通して、私たちは神様がどのような方であるか、そして私たちに対する神様の御心を知ることができるからです。

律法が与えられる前、人々はそのことを知りませんでしたが、律法によって、その真理が明らかにされました。

けれども、律法には問題がありました。律法を完全に守ることができる人は誰もいません。そのため、律法は私たちを死に至らせました。だからこそ、その栄光はすぐに消え去りました。モーセの顔に輝いていた栄光も、すぐに消え去りました。

モーセがシナイ山から降り、十戒を持ってきたとき、彼の顔は神様の栄光に輝いていました。イスラエルの民はその輝きを見て恐れたため、モーセは顔に覆いをかけました。

ところが、パウロによれば、その栄光が消え去りつつあっても、モーセはその覆いを外しませんでした。

もしかすると、モーセは恥ずかしさを感じていたのかもしれません。または、こう思っていたかもしれません。

「もし私がもっと聖い人であれば、この栄光は消え去らなかったのではないか。」

もしかしたら、そうだったのかもしれません。

私はもう一度言います。律法の問題は、律法を完全に守ることができる人が誰もいないことです。そのため、律法は誰にもいのちを与えることができません。律法には、私たちをキリストと同じかたちに変える力がありません。

それにもかかわらず、多くの人々は律法を守ることで、神様が彼らを受け入れると考えています。パウロによれば、彼らが律法を読むと、覆いが彼らの心にかけられます。(14-15)

そのため、彼らは律法に関する真理を見ることができません。

つまり、律法の栄光はすでに消え去ったのです。けれども彼らは、まだ律法が栄光に満ちていると思い込み、その律法を通して神様に受け入れられると考えています。だから、彼らは必死に律法を守ろうとします。

しかし実際のところ、律法は彼らの罪を明らかにし、裁きをもたらすのです。

けれども、覆いが取り除けられると、私たちは気づきます。それは、律法の栄光がすでに過ぎ去ったということです。そして、私たちは本当に栄光に満ちたものを探し始めるのです。

それは何でしょうか。それは、御霊の働きです。イエス様の御業によって、聖霊様の務めが始まりました。十字架において、イエス様は私たちの罪の代価を支払われました。

だから、私たちが信仰をもって、自分の罪を悔い改め、イエス様を自分の主とすると、聖霊様は私たちの心を変え始めます。そして、私たちは日々、栄光から栄光へと主と同じかたちに変えられていきます。

「栄光から栄光へと。」

律法の栄光とは異なり、御霊の務めの栄光は決して消え去ることがありません。なぜなら、御霊の務めの栄光は、律法の栄光よりもはるかに優れているからです。

だからこそ、私たちは律法の目的を正しく理解する必要があります。律法によって、私たちは神様がどのような方であるかを知り、神様の御心を理解しました。

しかし、その栄光はすでに過ぎ去りました。もし新しい心を持ちたいと願うなら、律法や自分の努力に頼るのではなく、御霊の導きに委ねて歩みましょう。

むしろ、毎日、聖霊様とともに歩むことを学びましょう。そうすれば、私たちは周りの人々に天の父の栄光を映し出すことができるのです。

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コリント人への手紙第二

キリストの手紙

私は年寄りなのかもしれません。まだ手紙を書くことや受け取ることを覚えているからです。

私は大学生の時にメールを送ったり受け取ったりしていましたが、当時はまだメールがあまり普及していませんでした。そのため、日本に来る際には家族に航空書簡を送りました。

(航空書簡を知っている人はまだいるでしょうか。)

今なお友達からの手紙を持っていますが、最近はまったく手紙をもらっていません。

さて、パウロは私たちを「キリストの手紙」と呼びます。彼はコリント人たちにこう言いました。「私のミニストリーの妥当性を証明するために、あなたたちからの推薦状は必要ありません。」

むしろ、

私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心に書き記されていて、すべての人に知られ、また読まれています。

あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。

それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。(コリント人への手紙第二3:2-3)

私たちがすべての人に知られ、また読まれているキリストの手紙であるとは、どういう意味でしょうか。

それは、人々が私たちの人生を見ると、イエス様が生きておられ、この世で働いていることが分かるということです。

なぜなら、私たちの歩みを通して、イエス様が私たちの人生の中で働き、私たちを変えていることを人々は見ることができるからです。

モーセの時代、神様は律法を通して、ご自身がどのような方であるかをユダヤ人たちに示されました。特に十戒を通して、神様はご自身の性質を明らかにし、私たちがどのように生きるべきかを示されました。

しかし、その石の板ができることは、それだけでした。つまり、その石の板はユダヤ人たちに(また、私たちにも)心を変える力までは与えることができませんでした。

でも、私たちがクリスチャンになると、神様はご自身の律法を私たちの心に書き記されます。

その律法は、私たちにどのように生きるべきかを教えるだけのものではありません。むしろ、御霊が私たちの心を変えてくださるのです。

毎日、御霊は私たちにささやかれます。「これが道だ。これに歩め。」(イザヤ書30:21)

そして、御霊に従うにつれて、私たちは主の栄光を映し始め、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていきます。(18)

要するに、私たちが少しずつ踏み出すことで、ますますキリストのようになりつつあるのです。次の栄光の段階に到達すると、周りの人々はこう気づきます。

「イエス様は本当に生きておられる。このクリスチャンを通してそれが見える。このクリスチャンを通して、イエス様がどのような方なのか分かる。」

このように、私たちは彼らへのイエス様の招待状となるのです。イエス様は彼らに言われます。「私のもとへ来なさい。そうすれば、このクリスチャンのように、あなたも本当のいのちを知ることができる。」

毎日、イエス様の手紙となりましょう。神様がご自身の言葉を私たちの心に書き記し、周りの人々がその栄光を見て、神様を知るように。

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ヨハネの福音書 ヨハネ14章

驚くべき約束

この箇所で、イエス様は驚くべき約束をされました。もしかすると、その約束を聞いたあなたは、「本当ですか?イエス様は本気なのですか?」と思うかもしれません。

イエス様はこう言われました。

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。(ヨハネの福音書14:12)

イエス様はさまざまな驚くべきことを行われました。病に苦しむ人々を癒し、死者をよみがえらせ、何千人もの人々に教え、福音を通して希望を与えられました。

では、イエス様を信じる人々もそのようなことをするのでしょうか。さらに大きなわざを行うのでしょうか。

もしかすると、使徒の働きを読んで、イエス様が弟子たちだけについて語られたのだと思うかもしれません。なぜなら、彼らはイエス様が行ったような奇跡を行い、福音をイスラエルだけでなく全世界に広めたからです。

しかし、イエス様は「わたしを信じる者」と言われました。

弟子たちだけではなく、イエス様を信じるすべての人々のことを指していたのです。新約聖書の時代に生きていた人々だけではなく、イエス様を信じる者がさらに大きなわざを行うと約束されました。

では、なぜイエス様はそのようなことを言われたのでしょうか。それは、イエス様が天の父のもとへ帰り、私たちに聖霊を送られたからです。その聖霊が私たちの心の内に住んでおられるため、聖霊の力を通して私たちはこの世を変えることができるのです。

では、私たちはイエス様のように病に苦しむ人々を癒し、死者をよみがえらせることができるのでしょうか。

時々、私はこう考えます。「私たちは不信のゆえに、どれほど神様の働きを制限しているのだろうか。」

私は発展途上国のクリスチャンたちの素晴らしい証を聞いたことがあります。彼らは「現実」を気にせず、イエス様の言葉をそのまま受け入れ、信じました。その結果、神様は驚くべき奇跡を行われました。

正直に言うと、私はしばしば懐疑的な態度を持っています。日本で癒しの話を聞くこともありますが、「本当にその人は癒されたのだろうか。その健康状態はどれくらい続くのだろうか」と思うことがあります。

それでも、私は神様が今もなお働いておられると信じています。この瞬間も、神様は確かに働いておられます。

だからこそ、私たちはイエス様の言葉をもっと信じるべきだと思います。

またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。

あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。(13-14)

もちろん、私たちがスポーツカーを求めて祈ったとしても、イエス様が必ずその祈りに答えるわけではありません。

しかし、私たちが自分自身の栄光を求めるのではなく、神様の栄光を求め、自分の願いではなく神様のみこころを求めるなら、多くの場合、神様は私たちの祈りに応えてくださいます。

さらに、神様は、私たちが願うこと、思うことのすべてをはるかに超えて行ってくださいます。(エペソ3:20)

神様は、私たちを通してこの世に触れたいと望んでおられます。では、神様が私たちを用いてくださると、あなたは信じていますか。

あなたは、自分の不信や懐疑を捨てて、「あなたの御心が行われますように。私を用いてください。」と神様に祈るでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ9章

どうして私にそんなことが起こったのだろうか

時々、私たちに悪いことが起こると、私たちは「どうして?神様は私を罰しているのだろうか」と尋ねます。

実際、時々私たちの罪のために、神様は私たちが苦しむことを許されます。とはいえ、多くの場合、神様は積極的に私たちを罰しておられるのではありません。むしろ、私たちは自分の罪の自然の結果を受けるのです。

あなたがクリスチャンであり、神様があなたを赦してくださったかもしれませんが、この世において、罪の結果を避けられるとは限りません。多くの場合、私たちの罪のゆえに悪いことが起こります。

そして、神様がその罪の結果から私たちを守られないなら、私たちは神様を責めることができません。なぜなら、その苦しみによって、私たちは罪の悪さを理解できるようになるからです。

それは、私たちが聖くなる過程の一部です。その火を通して、神様は私たちを清めてくださいます。

とはいえ、私たちが罪を犯さなくても、私たちに悪いことが起こる場合もあります。

今日の箇所では、イエス様とその弟子たちは、生まれつき盲目の人を見ました。そして、弟子たちはイエス様にこう尋ねました。

先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。(ヨハネの福音書9:2)

その時代、多くの人々はこう考えていました。「あなたの体が不自由なら、それはあなたのせいです。神様があなたの罪のために罰しているのです。」

けれども、その人は生まれつき盲目でした。だから、弟子たちは混乱しました。「この人はご両親の罪のために盲目になったのでしょうか。それとも、もしかしたら子宮の中で、この人自身がなにか罪を犯したのでしょうか。」

すると、イエス様はこう答えられました。

この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。(3)

イエス様が意味されたものは何だったのでしょうか。時々、私たちの苦しみは私たちの罪のためではありません。むしろ、神様は私たちを通して素晴らしいことをしようと思われるのです。

アメリカでは、ジョニー・エリクソン・タダという人がいます。彼女は十代の時にダイビング事故で四肢麻痺になりました。たくさんの人々が彼女のために祈りましたが、神様は彼女を癒されませんでした。

けれども、彼女を通して神様は多くの人々に触れられました。その事故が起こらなかったなら、ジョニーはそんな影響力を持つことはなかったでしょう。

神様は彼女を罰しておられませんでした。むしろ、彼女を通して神様のわざが現れたのです。

イエス様はこう言われました。

わたしが世にいる間、わたしは世の光です。(5)

イエス様は天国に戻られましたが、神様の栄光を現すために私たちの人生を照らしてくださいます。そして、私たちを通してイエス様は輝き、周りの人々に触れてくださいます。

だから、あなたが苦しんでいるなら、自己憐憫に浸らないでください。むしろ、このように祈りましょう。「神様、私を照らしてください。また私を通して、輝いてください。」

そうすれば、あなたの人生に神様の栄光が輝くでしょう。

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ヨハネの福音書 ヨハネ7章

私たちは誰に仕えているでしょうか

この箇所を読んだとき、この言葉は私の心を打ちました。なぜなら、私は神様のみ言葉を教えているからです。

わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。

自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。(ヨハネの福音書7:16-18)

この箇所を読むと、私は自分自身にこう問いかけます。「私の教えはどこから来るのだろうか。私自身から来るのだろうか。それとも、神様から来るのだろうか。

私が日曜日にメッセージを伝えるとき、それは私の栄光のためだろうか。私は教会の人々を感動させたいと思っているのだろうか。それとも、人々が神様に栄光を帰すよう願っているのだろうか。」

私たちクリスチャンは真理を伝える者であるべきです。そして、私たちには偽りがあってはなりません。牧師や聖書を教える者だけでなく、すべてのクリスチャンが真理を伝える者であるべきです。

しかし、真理を語る者になりたいなら、私たちは誰に仕えるのか決める必要があります。また、誰の栄光を求めるのか決める必要があります。

私たちは自分自身の栄光を求めているのでしょうか。それとも、神様の栄光を求めているのでしょうか。私たちは本当に神様に仕えているのでしょうか。それとも、口先で神様の名前を讃えているだけで、実際には自分自身に仕えているのでしょうか。

もし私たちが自分自身の栄光を求めているなら、または周囲の人々からの誉れを求めているなら、神様の福音を薄めてしまう誘惑に直面することになります。そして、もしかすると福音をまったく伝えない選択をしてしまうかもしれません。

あるいは、私たちはパリサイ人のようになってしまうかもしれません。表面上は神様に仕えているふりをしながら、実際には人々からの栄光を求めているのです。

あなたは誰に仕えていますか。あなたは誰の栄光を求めていますか。

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ゼカリヤ書

私たちを取り巻く火の城壁、私たちの内にある栄光

神様はこのメッセージ、そしてその後のすべてのメッセージを、主の宮の再建が進む間にゼカリヤに伝えられました。

ゼカリヤは不思議な幻を見ました。一人の人が赤い馬に乗っていました。その後ろには赤い馬、栗毛の馬、そして白い馬がいました。彼らは地を行き巡り、世の状態を観察しました。彼らは何を見たのでしょうか。

私たちは地を行き巡りましたが、まさに、全地は安らかで、穏やかでした。(ゼカリヤ書1:11)

イスラエル人がその言葉を聞いたら、驚いたことでしょう。なぜなら、神様が国々を揺り動かすと明言されたからです。

そのため、天使はこう問いかけました。

万軍の主よ。いつまで、あなたはエルサレムとユダの町々に、あわれみを施されないのですか。あなたがのろって、七十年になります。(1:12)

神様はその天使、そしてイスラエルの民に慰めの言葉を言われました。具体的には、神様がイスラエルの民を祝福し、主の宮が再建され、イスラエルの町々が再び繁栄するという約束です。(1:13-17)

また、神様はイスラエルを征服した国々を裁くことを約束されました。神様は次のように言われました。

わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。

しかし、安逸をむさぼっている諸国の民に対しては大いに怒る。わたしが少ししか怒らないでいると、彼らはほしいままに悪事を行なった。(1:14-15)

18-20節では、神様はイスラエルを攻撃し、イスラエル人を散らした「角」(つまり、国々)を打倒されると約束されています。

おそらく、その「角」とはアッシリア、エジプト、バビロン、そしてペルシアを指しているのでしょう。

けれども、2章の内容は本当に心に響きます。神様がイスラエルの復活について語られる箇所だからです。イスラエルはもう一度繁栄するので、

エルサレムは、その中の多くの人と家畜のため、城壁のない町とされよう。(2:4)

それだけではなく、神様はこう言われました。

しかし、わたしが、それを取り巻く火の城壁となる。――主の御告げ――わたしがその中の栄光となる。。。あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ。(2:5,8)

また、

シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。――主の御告げ――(2:10)

この言葉は本当に素晴らしいです。神様は私たちを取り巻く火の城壁であり、私たちの盾であり防衛です。神様は私たちを攻撃する者と戦ってくださいます。

そして、神様は私たちの内にある栄光です。聖霊様は私たちの心に住み、私たちを通して輝いてくださいます。

ダビデはこう歌いました。

しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。(詩編3:3)

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ハガイ書

私たちの栄光がどこから来るか

以前のブログでも触れましたが、ソロモンの宮を目にした世代は、新しい宮の礎が据えられるのを見た時、涙を流しました。なぜなら、ソロモンの宮の栄光は、新しい宮の栄光よりもはるかに素晴らしかったからです。

さらに、ユダの民がその働きを再び始めた時、同じ世代は再び泣き始めました。そこで、預言者ハガイは彼らを励ましたのです

あなたがたのうち、以前の栄光に輝くこの宮を見たことのある、生き残った者はだれか。あなたがたは、今、これをどう見ているのか。あなたがたの目には、まるで無いに等しいのではないか。

しかし、ゼルバベルよ、今、強くあれ。――主の御告げ――

エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ。強くあれ。この国のすべての民よ。強くあれ。――主の御告げ――

仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。――万軍の主の御告げ――

あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。(ハガイ書2:3ー5)

つまり、「失望しないでください。この宮について落胆しないでください。また、反対に直面する時も、気落ちしないでください。私があなたと共にいるからです。働き続け、私の宮を建てなさい。

あなたをエジプトから救い出した時、私は多くの約束をしました。その約束は決して変わりません。私はあなたをここまで導いた神です。私は変わらず、私の霊もあなたと共にいます。」

そして、神様はこう言われました。

まことに、万軍の主はこう仰せられる。

しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。

万軍の主は仰せられる。銀はわたしのもの。金もわたしのもの。――万軍の主の御告げ――

この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。万軍の主は仰せられる。わたしはまた、この所に平和を与える。――万軍の主の御告げ――」(6ー9)

これはメシヤ、つまりイエス様についての預言です。イエス様が来られる前、神様はすべての国々を揺り動かされました。すなわち、さまざまな帝国が繁栄したり衰退したりしました。

そして、すべての国々の宝であるイエス様が来られました。イエス様はその宮に入り、ご自身の栄光でその宮を満たされました。神様が人間として来られ、福音を述べ伝え、多くの奇跡を行われたのです。

そのイスラエルの年配の人々の考え方には誤りがありました。彼らは、宮の外見にばかり注目し、宮の栄光がその建材や装飾から来ていると考えたのです。

けれども、ソロモンの宮がいくら美しかったとしても、その栄光は銀や金、あるいは他の素材から来たものではありませんでした。その栄光は神様の臨在から来たのです。神様がその宮に来られたからこそ、その宮に栄光がありました。

確かに、ソロモンの宮は新しい宮よりも美しかったかもしれません。しかし、神様は人間としてその宮に入られることはありませんでした。一方、新しい宮にはイエス様が入られた時、その宮はさらに素晴らしい栄光を受けたのです。

同じように、私たちも自分の「宮」、つまり人生を見て、他の「宮」と比べると、がっかりすることがあるかもしれません。ほかの人が自分よりもハンサムだったり美人だったり、あるいは才能が豊かだったりするように見えることがあります。

けれども、あなたの栄光は外見や才能から来るものではありません。あなたの栄光は、あなたの心に住まわれるイエス様から来るのです。

ですから、他の人々と自分自身を比べないでください。そして、周りの人々があなたの神様への従順に反対するときにも、失望しないでください。強く、雄々しくありなさい。恐れることなく、神様があなたに与えられた働きを成し遂げなさい。

あなたをサタンの国から救い出し、奴隷の人生から解放された神様は、あなたと共におられ、決してあなたを見捨てられません。そして、神様は毎日ご自身のご計画の中で、あなたをますます素晴らしい宮へと変えてくださいます。

パウロはこう書きました。

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(第二コリント3:18)

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エゼキエル書

新しくなった

最近、私は出エジプト記25ー27章を読みました。

その箇所を「つまらない」と言いたくはありませんが、幕屋の作り方が非常に詳細に書かれているため、読んでいるうちに少し眠くなってしまいました。

このエゼキエル書の箇所は、その出エジプト記の箇所と非常に似ています。けれども、エゼキエルは幕屋についてではなく、将来の主の宮について語っています。

エゼキエルの時代、イスラエルの罪のゆえに、神様の聖霊はその宮を去られました。その結果、宮は間もなく倒れ、その栄光は失われてしまったのです。

しかし、その後、神様はエゼキエルに新しい宮に関する幻を見せられました。そして、神様はその宮の形を非常に具体的に説明されました。

43章では、エゼキエルは神様の栄光がその宮に戻る幻を見ました。

神様が東の方から宮を去られたように(10:18-19)、再び東の方から宮に戻り、その宮を神様の栄光で満たされたのです。

神様はエゼキエルにこう言われました。

人の子よ。ここはわたしの玉座のある所、わたしの足の踏む所、わたしが永遠にイスラエルの子らの中で住む所である。

イスラエルの家は、その民もその王たちも、もう二度と、淫行や高き所の王たちの死体で、わたしの聖なる名を汚さない。。。

今、彼らにその淫行や王たちの死体をわたしから遠く取り除かせなければならない。わたしは永遠に彼らの中に住もう。(エゼキエル書43:7-9)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たちは神様との関係を持つために造られました。そして、聖霊の宮となるために造られたのです。

けれども、私たちの罪のために、その宮を汚してしまい、私たちは神様から離れてしまいました。その結果、私たちの人生はめちゃくちゃになってしまったのです。

それでも、私たちが神様に立ち帰るなら、神様は私たちの中からそのごみを取り除き、私たちを新しくしてくださいます。

神様はご自身の霊を私たちに注ぎ、最初から計画されていたように、私たちは神様の宮となるのです。

そして、神様がイスラエルの民に語られたことを、私たちにも語っておられます。パウロはこう書きました。

私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。

わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。

そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」(第二コリント6:16-18

また、

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。(第一コリント6:19-20)

イエス様の血によって、私たちは清められ、新しくされました。

ですから、私たちの罪を捨て、私たちを救ってくださった神様と共に歩みましょう。

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エゼキエル書

神様の目的のため、神様の栄光のため

この箇所では、エゼキエルが将来の戦いについて語ります。その時、いくつかの国々がイスラエルを打ち破ろうとして攻撃しますが、神様はその国々を滅ぼされます。

この箇所についてはさまざまな議論が交わされていますが、このブログではその議論には触れません。なぜなら、それは非常に複雑であり、私よりもはるかに賢い人たちが議論しているからです。😊

私が特に注目したいのは、なぜ神様がその戦いを許されるのかという点です。神様はその将来のリーダーたちにこう言われます

あなたは、わたしの民イスラエルを攻めに上り、終わりの日に、あなたは地をおおう雲のようになる。。。

わたしはあなたに、わたしの地を攻めさせる。それは、わたしがあなたを使って諸国の民の目の前にわたしの聖なることを示し、彼らがわたしを知るためだ。(エゼキエル書38:16)

そして、その国々の裁きについて語った後、神様はその裁きの理由を説明されます。

わたしがわたしの大いなることを示し、わたしの聖なることを示して、多くの国々の見ている前で、わたしを知らせるとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。(38:23)

39章でも、そのテーマは続いています。

わたしは、わたしの聖なる名をわたしの民イスラエルの中に知らせ、二度とわたしの聖なる名を汚させない。

諸国の民は、わたしが主であり、イスラエルの聖なる者であることを知ろう。(エゼキエル書39:7)

そして、イスラエルの癒しについて語る際に、神様はこう言われます。

わたしが彼らを国々の民の間から帰らせ、彼らの敵の地から集め、多くの国々が見ている前で、彼らのうちにわたしの聖なることを示す。。。(39:27)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

神様はご自身の目的を果たすために働いておられます。また、神様はご自身の栄光を現すために働いておられるのです。

そして、神様の御業の目的は、この世が神様を知ることにあります。つまり、神様は他の「神々」よりも優れたお方です。なぜなら、それらの「神々」は本当の神ではないからです。

そして、最後の日に、

イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられる。。。(ピリピ2:10-11)

神様はイスラエルの民を、ご自身の民とするために呼んでくださいました。しかし、アブラハムとその子孫が他の人々よりも優れていたわけではありません。

アブラハムとその子孫の話を読むと、彼らもまた罪人であったことがわかります。

それでも、神様の恵みによって彼らが呼ばれたのです。

神様はご自身の目的のために彼らを選ばれました。神様は彼らが罪を犯すことをすでに知っておられましたが、それでも彼らを通してご自身の栄光をこの世に現すことを計画されたのです。

神様はイスラエルの民を通してイエス様を送り、私たちを贖い、神様がどのような方であるかを示されました。

そして、終わりの日に、神様はイスラエルを守り、ご自身の民に聖霊を注ぎ、彼らの罪を赦されます。その御業を通して、神様はご自身の栄光と力、そして恵みをこの世に現されるのです。

その同じ理由で、神様は私たちクリスチャンを選ばれました。

私たちは他の人々よりも優れているわけではありません。また、私たちの目的や栄光のために選ばれたのでもありません。

むしろ、神様の恵みによって、そして神様の目的と栄光のために私たちは選ばれたのです。

この世が神様を知るために、神様は私たちを選んでくださいました。その神は、

あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者。。。(出エジプト34:6-7)

私たちは神様の目的と栄光のために生きましょう。

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イザヤ書

あなたの栄光はどこから来るのか

あなたの栄光はどこから来るのでしょうか。あなたの賞賛はどこから来るのでしょうか。何について自慢するのでしょうか。

ツロ人は自分の商売について自慢しました。

ツロは港町で、彼らの商売はうまく行っていました。彼らは金持ちでしたし、何をしても成功しました。

でも、彼らは不敬虔な人でした。彼らはいろんな神々を礼拝しました。私たちの社会のように、彼らはお金の「神」も礼拝しました。

彼らはプライドがあって、自分の栄光を自慢しました。でも神様は彼らに警告されました。

「裁きが来ます。ある日、ツロは倒されます。また、あなたの評判と富は取り去られます。」

イザヤはこう言いました。

海辺の住民よ。タルシシュへ渡り、泣きわめけ。

これが、あなたがたのおごった町なのか。その起こりは古く、その足を遠くに運んで移住したものを。

だれが、王冠をいただくツロに対してこれを計ったのか。その商人は君主たち、そのあきゅうどは世界で最も尊ばれていたのに。

万軍の主がそれを計り、すべての麗しい誇りを汚し、すべて世界で最も尊ばれている者を卑しめられた。(イザヤ書23:6-9)

神様はツロが後で復活すると言われましたが、これも言われました。

その儲け、遊女の報酬は、主にささげられ、それはたくわえられず、積み立てられない。その儲けは、主の前に住む者たちが、飽きるほど食べ、上等の着物を着るためのものとなるからだ。(18)

つまり、ツロのプライドと栄光は自分のためではなくて、主とその民のためです。

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。持続的な栄光は一つの所から来ます。

その栄光はお金や、評判や、他の世のものから来ません。なぜなら、 それらのものはただ一時的なものです。持続的な栄光はただ神様から来ます。

そして、その栄光は私たちが自分のイメージを好きなように形成することから来るものではありません。

むしろ、私たちが神様に近づくと、私たちは主の栄光を反映します。

パウロはこう書きました。

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。

これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(第二コリント3:18)

「栄光から栄光へと。」

その言葉が好きです。私たちが神様に近づけば近づくほど、私たちは神様の栄光を反映します。

つまり、私たちの罪深い性格は神様の性格のように変えられます。そして、いつか、私たちの不完全な体はイエス様の素晴らしい体のように変えられます。

だから、私たちは何を自慢するでしょうか。エレミヤはその答えを私たちに与えます。

主はこう仰せられる。「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。

誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。

わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行なう者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。――主の御告げ―― (エレミヤ書9:23ー24)

あなたはどうですか。あなたの栄光はどこから来るのでしょうか。あなたは何について自慢するのでしょうか。