多くのクリスチャンは、クリスチャン生活をさまざまなルールを守ることだと考えています。多くのノンクリスチャンも同じように捉えているでしょう。
しかし、クリスチャンとして、私たちの栄光はルールにあるのではありません。なぜでしょうか。
パウロは、律法についてこう書きました。
石の上に刻まれた文字による、死に仕える務めさえ栄光を帯びたものであり、イスラエルの子らはモーセの顔にあった消え去る栄光のために、モーセの顔を見つめることができないほどでした。
そうであれば、御霊に仕える務めは、もっと栄光を帯びたものとならないでしょうか。
罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めは、なおいっそう栄光に満ちあふれます。実にこの点において、かつては栄光を受けたものが、それよりさらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているのです。
消え去るべきものが栄光の中にあったのなら、永続するものは、なおのこと栄光に包まれているはずです。(コリント人への手紙第二3:7-11)
律法が与えられたことは、本当に栄光に満ちた出来事でした。なぜなら、律法を通して、私たちは神様がどのような方であるか、そして私たちに対する神様の御心を知ることができるからです。
律法が与えられる前、人々はそのことを知りませんでしたが、律法によって、その真理が明らかにされました。
けれども、律法には問題がありました。律法を完全に守ることができる人は誰もいません。そのため、律法は私たちを死に至らせました。だからこそ、その栄光はすぐに消え去りました。モーセの顔に輝いていた栄光も、すぐに消え去りました。
モーセがシナイ山から降り、十戒を持ってきたとき、彼の顔は神様の栄光に輝いていました。イスラエルの民はその輝きを見て恐れたため、モーセは顔に覆いをかけました。
ところが、パウロによれば、その栄光が消え去りつつあっても、モーセはその覆いを外しませんでした。
もしかすると、モーセは恥ずかしさを感じていたのかもしれません。または、こう思っていたかもしれません。
「もし私がもっと聖い人であれば、この栄光は消え去らなかったのではないか。」
もしかしたら、そうだったのかもしれません。
私はもう一度言います。律法の問題は、律法を完全に守ることができる人が誰もいないことです。そのため、律法は誰にもいのちを与えることができません。律法には、私たちをキリストと同じかたちに変える力がありません。
それにもかかわらず、多くの人々は律法を守ることで、神様が彼らを受け入れると考えています。パウロによれば、彼らが律法を読むと、覆いが彼らの心にかけられます。(14-15)
そのため、彼らは律法に関する真理を見ることができません。
つまり、律法の栄光はすでに消え去ったのです。けれども彼らは、まだ律法が栄光に満ちていると思い込み、その律法を通して神様に受け入れられると考えています。だから、彼らは必死に律法を守ろうとします。
しかし実際のところ、律法は彼らの罪を明らかにし、裁きをもたらすのです。
けれども、覆いが取り除けられると、私たちは気づきます。それは、律法の栄光がすでに過ぎ去ったということです。そして、私たちは本当に栄光に満ちたものを探し始めるのです。
それは何でしょうか。それは、御霊の働きです。イエス様の御業によって、聖霊様の務めが始まりました。十字架において、イエス様は私たちの罪の代価を支払われました。
だから、私たちが信仰をもって、自分の罪を悔い改め、イエス様を自分の主とすると、聖霊様は私たちの心を変え始めます。そして、私たちは日々、栄光から栄光へと主と同じかたちに変えられていきます。
「栄光から栄光へと。」
律法の栄光とは異なり、御霊の務めの栄光は決して消え去ることがありません。なぜなら、御霊の務めの栄光は、律法の栄光よりもはるかに優れているからです。
だからこそ、私たちは律法の目的を正しく理解する必要があります。律法によって、私たちは神様がどのような方であるかを知り、神様の御心を理解しました。
しかし、その栄光はすでに過ぎ去りました。もし新しい心を持ちたいと願うなら、律法や自分の努力に頼るのではなく、御霊の導きに委ねて歩みましょう。
むしろ、毎日、聖霊様とともに歩むことを学びましょう。そうすれば、私たちは周りの人々に天の父の栄光を映し出すことができるのです。