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ヨハネの福音書のデボーション

私たちのイエス様に近づく権利

今日、私たちがイエス様に近づく権利について考えていました。私たちはその権利をどれだけ当たり前のものだと思っているでしょうか。

今日の箇所では、あるギリシア人たちはその権利を持っていないと考えていました。なぜなら、彼らは異邦人で、イスラエルでは部外者と見なされていたからです。また、イエス様は有名なラビでした。

しかし、イエス様が地上から上げられ、十字架につけられたので、私たち皆がイエス様に近づくことができます。(32節)

その真理を考えていたとき、昔の讃美歌を思い出しました。

What a friend we have in Jesus
イエス様はなんて素晴らしい友でしょう
All our sins and griefs to bear
イエス様は私たちの罪と悲しみをすべて背負ってくださるからです
What a privilege to carry everything to God in prayer
すべての重荷を神様に祈りで委ねることができるとはなんて素晴らしいことでしょう

O what peace we often forfeit
私たちはどれだけ平安を失っていることでしょう
O what needless pain we bear
私たちはどれだけ不必要な痛みを背負っていることでしょう
All because we do not carry everything to God in prayer
すべてを神様に祈りで委ねないからです

ーージョセフ・メドリコット・スクライブン

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コリント人への手紙第一

御国のために権利を譲ること

聖書を読む際、私たちは時に文脈に注意を払わず、その著者の意図を見逃してしまうことがあります。

そこで、この記事では8-10章をまとめて概観し、後の別の記事で各章をより詳しく見ていきたいと思います。

もちろん、各章ごとに興味深い学びがありますが、パウロの主旨を見落とすことは避けたいと考えています。

では、8-10章におけるパウロの主旨とは何でしょうか。

それは、「私たちの権利ではなく、神の御国こそが最も重要である」ということです。したがって、時には神の御国のために、自らの権利を手放さなければならないのです。

8章ですでに私たちは一つの例を見ました。パウロによれば、私たちは偶像に捧げられた食べ物を食べる権利を持っています。けれども、パウロはこう語りました。

「もし私がその肉を食べることで、私の兄弟が罪に陥るなら、私はその肉を食べません。さらに、彼が罪に陥らないように、私は今後決して肉を食べません。」(コリント人への手紙第一8:13)

そして、パウロはコリントの人々が抱くであろう疑問を予測します。「しかし、私は食べる権利を持っている。それなのに、なぜ私の権利を手放さなければならないのか。」

パウロは12節で一つの理由を示します。それは、もし私たちの行為によって兄弟が罪に陥るなら、その行為自体が罪となるということです。

それだけではなく、パウロは自らの人生を例として示しました。使徒として、彼にはさまざまな権利がありましたが、それらの権利を行使することを主張しませんでした。

たとえば、パウロには結婚して妻と共に宣教旅行をする権利がありました。しかし、彼は結婚すらしませんでした。

また、福音を伝える働きに対して報酬を受け取る権利もありましたが、彼はその権利を用いませんでした。

実際、モーセの律法やキリストの言葉によれば、私たちはそのような働き人に対して経済的支援をするべきです。けれども、パウロはその報酬を断りました。(9:1-14)

では、なぜパウロは自らの権利を主張しなかったのでしょうか。それは、おそらく彼が貧しい人々に福音を伝えていたからです。

もし彼が彼らから金銭を受け取っていたら、彼らはさらに経済的に苦しんだことでしょう。さらに、パウロは「貧しい者を利用している」と言われることを避けたかったのかもしれません。

もう一つの可能性として、パウロは「福音を利用して金銭を得ている」と非難されることを避けたかったのかもしれません。

そのような非難は、福音の普及を妨げることになったでしょう。

さらに、パウロは福音のために払った他の犠牲についても語りました。

モーセの律法のもとにあるユダヤ人たちと共にいる際、パウロはユダヤ人のように振る舞いました。たとえば、モーセの律法に従い、豚肉や貝を食べませんでした。

しかし、異邦人と共に食事をするときには、パウロは何でも食べました。

また、傷つきやすい良心を持つ人々と共に食事をする際には、偶像に捧げられた肉を口にしませんでした。

多くのコリントの人々にとって、パウロの慎重さは過剰に思えたかもしれません。おそらく、彼らは「パウロが権利を譲るのは、やりすぎだ」と考えたでしょう。

それでも、パウロはその生き方をマラソンの訓練に例えました。マラソンの準備をするために、ランナーは時に好きな食べ物を控えたり、好みの活動を制限しなければなりません。

そうしなければ、報酬を得ることはできません。

同様に、もし私たちがキリストとその御国のためではなく、自分のために生きるなら、報酬を受けることはないでしょう。

だから、10章でパウロはこう語りました。

「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。

「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません。

だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい。(23-24)

また、

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。

ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。

私も、人々が救われるために、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めているのです。(31-33)

だから、自分の権利について考えるとき、自らに問いかける必要があります。

「私は何のために生きているのか。だれのために生きているのか。自分のためなのか。それとも、神様とその御国のためなのか。」

神様のために生きるなら、最後には報いを受けることができます。けれども、自分のために生きるなら、あなたの業績は消え去り、神様からの報いを受けることはありません。

あなたは何のために、そしてだれのために生きているのでしょうか。