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コリント人への手紙第一のデボーション

清い良心?

私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。(コリント人への手紙第一4:4)

パウロはきっと、私たちが神様の御前に清い良心を保つべきだと言うはずです。

しかし、パウロが理解していたのは、私たちは自分の心によく欺かれるということです。

つまり、私たちは自分が清いと思っていても、自分の罪を見ることができません。パウロがコリント人たちに4〜5節を書いたとき、預言者エレミヤの言葉を思い浮かべていたことでしょう。

人の心は何よりもねじ曲がっている。 それは癒やしがたい。 だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。

わたし、主が心を探り、心の奥を試し、 それぞれその生き方により、 行いの実にしたがって報いる。(エレミヤ書17:9ー10)

では、私たちはいつも自分の心が清いかどうか心配するべきでしょうか。「私の心の中に、隠れた罪があるだろうか。私が気づいていない悪い動機があるだろうか。」と、ずっと疑問に思うべきでしょうか。

いいえ、神様は、私たちがいつも罪悪感をもって、恐れによって生きることを望んでおられません。

もちろん、謙遜な心を持つべきです。

毎日、ダビデのように祈ればよいと思います。「私の心を探ってください。悪いものがあれば、教えてください。」(詩篇19:12〜13;139:23〜24)

もし神様が何か罪を現されたなら、ぜひそれを告白し、悔い改めましょう。

しかし、神様が何も現されないなら、私たちが立っている恵みを感謝しましょう。

実際、もし神様が私たちの罪のすべてを一度に現されたなら、私たちは圧倒されてしまうでしょう。

けれども、恵みによって、神様は私たちを最後まで堅く保ち、裁きの日に責められるところがない者としてくださいます。(第一コリント1:8)

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使徒の働きのデボーション

神の前で清い良心を保って生きる

兄弟たち。私は今日まで、あくまでも健全な良心にしたがって、神の前に生きてきました。(使徒の働き23:1)

パウロの言葉は、本当に驚くべきものです。それを言える人が、どれほどいるでしょうか。

もちろん、パウロは、自分が罪のない人間だとは考えていませんでした。

パウロは、コリントの人々にこう語りました。

私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。

ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。

そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。(第一コリント4:4ー5)

要するに、私たちは、自分では正しい動機で正しいことをしていると思っていても、神様の目には、心が正しくないこともあるのです。

それでも、私たちは、できる限り神様の前に清い良心を保つように努めるべきです。

覚えておきましょう。故意に自分の良心に反することは、罪です。

だからこそ、ダビデのように祈りましょう。

だれが 自分の過ちを悟ることができるでしょう。どうか 隠れた罪から私を解き放ってください。

あなたのしもべを 傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。そのとき私は、大きな背きから解き放たれて、全き者となるでしょう。

私の口のことばと 私の心の思いとが 御前に受け入れられますように。主よ、わが岩 わが贖い主よ。(詩篇19:12ー14)