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詩篇のデボーション

神様が苦しみを許されるとき

あなたは私を多くの苦難とわざわいとにあわせられました。。。(詩篇71:20)

それは酷いと思いませんか。

神様が私たちに苦難とわざわいとに合わせられるときがあるのでしょうか。

はい、あります。

誤解しないでください。神様が積極的に私たちをバットで打つわけではありません。

多くの場合、私たちのトラブルは自分のせいです。他の時、周りの人々のせいで、私たちは苦しみます。また、この壊れた世界のせいで、私たちは時に試練に直面します。

もちろん、神様はそのトラブルを阻止することができます。神様の恵みによって、時には神様がそうしてくださいます。

たぶん、私たちが気づかずに、神様は私たちをたくさんのトラブルから守ってくださったのでしょう。

でも、神様が私たちに苦難とわざわいとに合わせられるときもあります。

どうしてでしょうか。神様は私たちを憎んでいるのでしょうか。神様が酷い方なのでしょうか。

違います。

むしろ、ダビデはこう歌います。

私を再び生き返らせ、地の深みから再び引き上げてくださいます。(21b)

苦しむとき、私たちは神様の腕に抱かれて、神様に頼ることを学びます。(6)

また、私たちは神様を待ち望むことを学びます。(14)

そして、神様が私たちを引き上げてくださるとき、私たちは、神様がやっぱり良い方であることを学びます。(16〜17)

私たちは神様を畏れ、ダビデと一緒に叫びます。

神よ、あなたの義は天にまで届きます。

あなたは大いなることをなさいました。

神よ、だれがあなたのようでしょう。(19)

でも、試練が来るとき、大切なことを覚えておきましょう。それは、イエス様も苦しみを知っておられるということです。

へブル人への手紙の著者はこう書きました。

多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。。。

したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。

それで民の罪の宥めがなされたのです。(へブル書2:10,17)

神様が私たちに苦難とわざわいとに合わせられるときがあります。

でも、その前に、天の父は御子を苦難とわざわいとに合わせられました。

そういうわけで、へブル人への手紙の著者はこう言います。

イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。(へブル書2:18)

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ヨハネの黙示録

神の裁きの重大さ

神様や天にいる者たちは、不義を見るとどう感じるのでしょうか。そして裁きが実行されるとき、彼らはどう感じるのでしょうか。

今日の箇所では、私たちはその答えを知ります。

天国では、普段、御使いたちや長老たちや聖徒たちの賛美が響いています。けれども、子羊(つまり、イエス様)が第7の封印を解くと、天国は完全に静かになりました。どうしてでしょうか。彼らは、裁きが迫っていることを知っていたからです。

もちろん、その前の封印が解かれたときも、裁きはこの世界の人々に降りかかりました。とはいえ、第7の封印が解かれてからは、裁きがだんだん激しくなっていきます。

そして、最初に、ある御使いが金の香炉を祭壇まで持ってきました。そして、御使いは、すべての聖徒たちの祈りに添えて、その香を捧げました。

聖徒たちは何のために祈っていたのでしょうか。たぶん、それは6章に記された祈りです。つまり、殉教者たちの正義のための祈りだったのでしょう。

そのとき、神様は彼らに、「もうしばらくの間、休んでいなさい」と言われました。

けれども、第7の封印が解かれると、正義の時が来ました。

7人の御使いたちが7つのラッパを与えられ、次々にそのラッパを吹き鳴らします。

ヨハネが用いた言葉はとても不思議で、比喩的なものなので、その意味を理解するのはなかなか難しいところです。

しかし、第1のラッパの後に現れた雹と火は、エジプトに降りかかった災いに似ています(出エジプト記9:23-25)。だから、たぶん、それらは文字通りの雹と火なのでしょう。ヨハネによれば、三分の一が焼かれ、木々の三分の一も焼かれ、すべての青草も焼き尽くされました。

三分の一という割合が、文字通りかどうかはわかりません。けれども、黙示録にはこの割合が何度も出てくるので、ヨハネが伝えたかったのは、そのダメージが非常に大きかったということかもしれません。

第2のラッパが吹かれた後、火で燃える大きな山のようなものが、海に投げ込まれました。もしかすると、それは火山だったのかもしれません。(西暦79年、イタリアのベスビオ山が噴火し、多くの船が壊れ、多くの魚が死にました。)

第3のラッパが吹かれた後、天から、たいまつのように燃えている大きな星が落ちて来て、川の三分の一とその水源の上に落ちました。その結果、水の三分の一が苦よもぎのようになり、多くの人が死にました。

それが文字通りの隕石なのか、別の原因で水が汚れたのかは、分かりません。でも、この災いも、エジプトに下った災いに似ています。あの時、ナイルの水は血に変わりました(出エジプト記7:20-24)。

御使いが第4のラッパを吹いた後、太陽の三分の一と、月の三分の一、また星の三分の一が打たれ、それらの三分の一は暗くなりました。昼の三分の一は光を失い、夜も同じようになりました。

以前も言ったように、たぶんこの割合は比喩的なものですが、その結果として、この世はさらに暗くなるのです。エジプトのように、昼間でも不思議に日が暮れてしまいます。

その後、物事はさらに悪くなっていきます。

鷲の言葉を借りるなら、三つの災いが来ようとしています(黙示録8:13)。

第5のラッパが吹かれると、地獄からいなごの群れが現れて、この世を荒らし始めます。この災いも、エジプトに下った災いに似ています(出エジプト記10:12-15)。

けれども、おそらくそのいなごは文字通りのいなごではなく、実際には悪霊のようです。

なぜ、私はそう考えるのでしょうか。

一つ目の理由は、そのいなごの王の名前がアバドン、またはアポリュオンであることです。どちらも、「破壊者」という意味を持っています。

二つ目の理由は、そのいなごが植物を荒らすことなく、人を襲って苦しめるという点です。

三つ目の理由は、そのいなごが神様に封印されていない人だけを襲うということです(黙示録7章)。

その後、第6のラッパが吹かれると、7章に登場した四人の御使いたちが、この世を荒らす許しを受けます。7章では、神様が彼らに、「待ちなさい。まず、私の民の額に印を押さなくてはなりません」と言われました。

しかし、8章では、聖徒たちの額にはすでに印が押されているので、天使たちはこの世を荒らし始めます。

おそらく、この第6のラッパは戦争を描写しているのでしょう。6章では、世界の人口の4分の一が殺されましたが、8章では、その数は人口の三分の一に増えます。

それでも不思議なのは、この深刻な六つの災いが起きても、人々が悔い改めることを拒み、むしろ罪を続けることです。

時々、ある人は疑問に思います。「どうして地獄は永遠なのか。地獄でも、悔い改めたいと思う人がいるのではないか」と。

けれども、今日の箇所と16章の証言は、はっきりと「それは誤った考え方です」と教えています。

地獄にいる人々がどれほど苦しんでも、悔い改めず、神様を呪い、自分の罪深い態度を持ち続けます。

だからこそ、七つの封印が解かれたとき、天にいる者たちは沈黙しました。

神様は人を裁くことを喜ばれるわけではありません。それでも、神様は正義の神です。ですから、神様は聖徒たちの叫びに応えられることを永遠に延ばすことはなさいません。神様は彼らの祈りを聞いて、裁きをもたらされます。

ですから、心に留めておきましょう。あなたがクリスチャンとして「正義はいつ来るのか」と疑問に思うなら、神様はあなたの叫びを聞いておられます。そして、正義は必ず来ます。

しかし、もう一つ覚えておくべきことがあります。神様の裁きを軽んじてはいけません。天にいる者たちは決して軽んじません。ですから、私たちも神様の裁きを軽んじてはいけません。

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エレミヤ書

悔い改めなさい

私がハワイにいた時、エホバの証人やモルモン教の人たちが私の家によく訪ねてきました。私が日本に引っ越して、神戸に住んでいた時でも、エホバの証人たちが時々訪ねてきました。

けれども、現在住んでいるマンションにはルールがあるため、ほとんどのセールスや宗教の人々は戸別訪問ができません。

ある意味、それは残念なことです。時々興味深い会話があったからです。

いずれにせよ、このエホバの証人やモルモン教の人々は「私たちはクリスチャンです」と言います。しかし、彼らにはいくつかの問題があります。

例えば、彼らはクリスチャンの言葉を用いますが、その意味は全く異なります。

エホバの証人にとって、イエス様は御使いのかしらであるミカエルです。

モルモン教にとって、イエス様はサタンの兄弟とされています。

もう一つの問題は、彼らの預言者たちが偽の預言を語ったことです。(申命記28:21ー22では、神様は偽物の預言者について警告しておられます。どうぞお読みください。)

エホバの証人やモルモン教の人々の言い訳はこうです。

「聖書に記された本当の預言者たちでもミスをしました。ヨナの話を覚えているでしょうか。ヨナがニネベは滅びると預言しましたが、結局ニネベは滅びませんでした。」

しかし、ヨナの言葉は預言ではなく、警告でした。神様はニネベの人々が悔い改めることを望んでおられたので、ヨナをニネベに遣わされました。

この箇所では、その真実を見ることができます。神様はエレミヤにこのように言われました。

わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、引き倒し、滅ぼすと語ったその時、もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。

わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し、植えると語ったその時、もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目の前に悪を行なうなら、わたしは、それに与えると言ったしあわせを思い直す。(エレミヤ書18:7ー10)

この箇所を読むと、ヨナ書をより深く理解できると思います。ニネベの人々は悔い改めたので、神様は彼らに憐れみを注いでくださいました。

一方で、神様はイスラエルの人々に多くの祝福を約束されました。それは、彼らが神様の命令に従うならば、彼らが神様の民となり、神様が彼らの神となられるということです。

ところが、彼らは神様に背を向けたので、神様はその祝福を取り消され、彼らに災いを下されました。

この箇所の終わりでは、彼らの心が硬く、全く神様のメッセージを聞きたくなかったため、彼らはエレミヤを無視し、責めました。その結果は追放です。

私の言葉を誤解しないでください。神様はイスラエルの人々のためにまだ計画を持っておられます。神様は常にご自身の約束を守られます。

とはいえ、イスラエルの人々が悔い改めなければ、神様の祝福を得ることができません。(ローマ11章をお読みください。)

とにかく、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。私たちの罪を悔い改めるべきです。私たちの自己中心的な態度を捨てるべきです。そして、神様に向かうべきです。

そうすれば、本当の命を見つけることができるでしょう。

あなたはどのような罪を悔い改めるべきでしょうか。また、神様はあなたに何を望んでおられるのでしょうか。