今日の個所では、二種類の熱意を見ることができます。一つは良い結果をもたらし、もう一つは悪い結果をもたらします。
以前、ガラテヤ人たちはパウロに対して熱意を持っていました。パウロが宣べ伝えた福音によって彼らの心は喜びに満たされ、できる限りパウロを助けたいと願いました。(ガラテヤ人への手紙4:14-15)
また、パウロもガラテヤ人たちに対して深い熱意を持っていました。その熱心さは彼のすべての言葉に表れています。
特に、ガラテヤ人たちがユダヤ人のクリスチャンたちに惑わされたとき、パウロの悲しみが明確に現れています。彼はこう言いました。
私の子どもたち。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。
私は今、あなたがたと一緒にいて、口調を変えて話せたらと思います。あなたがたのことで私は途方に暮れているのです。(ガラテヤ人への手紙4:19-20)
パウロはガラテヤ人に対して強い熱意を持っていたため、彼らが彼を敵と見なしたとしても、率直に真理を語り続けました。
それは良い熱意です。
一方で、ユダヤ人のクリスチャンたちにも熱意がありました。パウロは彼らについてこう言いました。
あの人たちはあなたがたに対して熱心ですが、それは善意からではありません。彼らはあなたがたを私から引き離して、自分たちに熱心にならせようとしているのです。(17)
「彼らはあなたがたを私から引き離して」という翻訳では、「私から」という言葉が加えられています。けれども、ユダヤ人たちがガラテヤ人たちを何から引き離そうとしていたのかは、やや曖昧です。
私の意見では、新改訳2017の脚注にある別訳のほうがより正確であると思います。それは、
「彼らはあなたがたを福音の恵みから締め出そうとしています。」
ユダヤ人のクリスチャンたちは、ガラテヤ人たちにこう言いました。
「あなたたちは本当に私たちのグループに属していません。本当のクリスチャンではありません。もしキリストに受け入れられたいのなら、私たちの教えに従わなければなりません。」
そして、その教えによって、彼らはガラテヤ人たちを律法の束縛のもとに置き、彼らの喜びと祝福を奪ってしまいました。
要するに、彼らはガラテヤ人たちに対して熱意を持っていましたが、彼らの最善を求めていたわけではなかったのです。
そこで、パウロはガラテヤ人たちにこう語りました。
善意から熱心に慕われるのは、いつでも良いことです。それは、私があなたがたと一緒にいる時だけではありません。(18)
要するに、「熱意を持ちなさい。それは良いことです。あなたたちが私に対して熱意を持ち、喜びによって私を愛し、私の面倒を見てくれた時、その熱意は良いものでした。
私もあなたたちに対して熱意を持っています。私は、あなたたちのうちにキリストが形作られることを願います。あなたたちがますますキリストのようになることを望みます。
その一方、この人たちはあなたたちの最善を望んでいません。そして、彼らに対するあなたたちの熱意によって、あなたたちは自分の喜びと祝福を失ってしまいました。」
だから、私たちは自分自身に二つの問いを投げかけるべきだと思います。
私たちの周りには、熱意を持っているカリスマ的なリーダーたちがいるかもしれません。けれども、彼らは私たちをどこへ導いているのでしょうか。彼らの導きによって、私たちは神様に近づいているでしょうか。もしかしたら、彼らの教えによって、私たちの喜びと祝福が奪われてはいないでしょうか。
真理が痛みを伴うものであったとしても、彼らは私たちにその真理を教えているでしょうか。あるいは、彼らは私たちを誤った道へ導いているのでしょうか。
二つ目の問いは、「あなたは何に対して熱意を持っているでしょうか」ということです。
イエス様に対する熱心を持ち、イエス様をもっと知りたいと思うでしょうか。
キリストが周りの人々のうちに形作られるように祈っているでしょうか。あなたは、彼らが神様の喜びを知るように願っているでしょうか。
それとも、その熱意が知らず知らずのうちに、自分自身を誤った道へ導いているでしょうか。
かつて、熱心によってパウロは教会を迫害したことがありました。また、熱意によってガラテヤ人たちは律法の束縛のもとへ戻ってしまいました。
あなたの熱意は、あなたをどこへ導いているでしょうか。