カテゴリー
士師記のデボーション

後悔のない歩み

ルベンの諸支族の決意は固かった。なぜ、あなたは二つの鞍袋の間に座って、羊の群れに笛吹くのを聞いていたのか。ルベンの諸支族の間には、深い反省があった。

ギルアデはヨルダンの川向こうにとどまった。ダンはなぜ船に残ったのか。アシェルは海辺に座り、その波止場のそばにとどまっていた。(士師記5:15-17)

天のお父さん、人生の終わりに、後悔のない心で自分の歩みを振り返ることができますように。

人々が敵であるサタンから虐げられていたのに、私が自己満足のまま座って彼らを無視していたという後悔。

人々に霊的なニーズが多くあったのに、私が座り、自分のところにとどまっていたという後悔。

天のお父さん、私にあなたの心を与えてください。人々を憐れむ心。人々の人生を滅ぼしている敵と戦う心。

あなたに対する熱心、イエス様が死んでくださった人々に対する熱心を与えてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

カテゴリー
使徒の働きのデボーション

御国への熱心

パウロは、神の国のことを証しし、モーセの律法と預言者たちの書からイエスについて彼らを説得しようと、朝から晩まで説明を続けた。

ある人たちは彼が語ることを受け入れたが、ほかの人たちは信じようとしなかった。(使徒の働き28:23ー24)

この言葉を読んで、私はパウロの熱心に気づかざるをえません。 神の御国へ導こうとするパウロの熱心は驚くべきものです。

パウロのメッセージを信じる人もいれば、信じない人もいました。しかし、信じるか信じないかに関わらず、パウロの熱心が消えることはありませんでした。

私もそのような熱心を持ちたいと思います。

使徒の働きの最後のいくつかの章を読みながら、コリントの信徒たちに対するパウロの言葉を思い起こしていました。 特に、第二コリント5章では、パウロは自分の動機をはっきりと説明しています。

そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。

私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。

そのため、主を恐れることを知っている私たちは、人々を説得しようとしています。。。(24章に登場するフェリクスのことを考えてください。)

私たちが正気でないとすれば、それは神のためであり、正気であるとすれば、それはあなたがたのためです。 (26章に登場するフェストゥスのことを考えてください。)

というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。(コリント人への手紙第二5:9ー11、13ー15)

天のお父さん、どうかパウロが持っていた御国への熱心を与えてください。キリストの愛に捉えられ、キリストへの愛に動かされ、そして周囲の人々へのキリストの愛に押し出されて、御国のために仕える者とならせてください。

カテゴリー
使徒の働きのデボーション

熱心に祈り続けている?

こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。(使徒の働き12:5)

今日の箇所を読んだとき、私はクリスチャンたちの姿について考えました。彼らはヤコブのために熱心に祈りましたが、彼はヘロデによって殺されました。

それでも、ヘロデがペテロを拘束したとき、教会はペテロのために祈りました。そしてただ祈っただけでなく、熱心に祈りました。

そのことを考えながら、私は自問しました。 「神様の答えが遅く感じられるとき、私はどれほど熱心に祈り続けているだろうか。

そして、神様が『ノー』と答えられたことを思い出しながらも、それでも私は同じ熱心さで祈り続けているだろうか。」

今、私は二人の友人のことを考えています。彼らのためにずっと祈っていますが、今のところ神様の答えはまだ来ていません。

熱心に祈るときもあれば、あまり熱心に祈らないときもあります。

もちろん、熱心に祈ったからといって、必ず神様がその祈りを聞き届けてくださるとは限りません。

また、祈りの熱心さが、私の信仰の深さを証明するものとは限りません。(15-16節を読んでみてください。)

しかし、祈りの熱心さは、このような態度を表します。

「天のお父さん、私にとってこの問題は非常に重要です。あなたが私の願いを聞いてくださることを信じます。 あなたが私を愛してくださることを信じます。 だからこそ、私はあなたを信じて、すべてをあなたに委ねます。」

今日、そのような態度を持って、私は友人のために祈りたいと思います。

あなたはどうでしょうか。熱心に祈り続けていますか。

カテゴリー
ガラテヤ人への手紙

何に対して熱意を持っているのか?

今日の個所では、二種類の熱意を見ることができます。一つは良い結果をもたらし、もう一つは悪い結果をもたらします。

以前、ガラテヤ人たちはパウロに対して熱意を持っていました。パウロが宣べ伝えた福音によって彼らの心は喜びに満たされ、できる限りパウロを助けたいと願いました。(ガラテヤ人への手紙4:14-15)

また、パウロもガラテヤ人たちに対して深い熱意を持っていました。その熱心さは彼のすべての言葉に表れています。

特に、ガラテヤ人たちがユダヤ人のクリスチャンたちに惑わされたとき、パウロの悲しみが明確に現れています。彼はこう言いました。

私の子どもたち。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。

私は今、あなたがたと一緒にいて、口調を変えて話せたらと思います。あなたがたのことで私は途方に暮れているのです。(ガラテヤ人への手紙4:19-20)

パウロはガラテヤ人に対して強い熱意を持っていたため、彼らが彼を敵と見なしたとしても、率直に真理を語り続けました。

それは良い熱意です。

一方で、ユダヤ人のクリスチャンたちにも熱意がありました。パウロは彼らについてこう言いました。

あの人たちはあなたがたに対して熱心ですが、それは善意からではありません。彼らはあなたがたを私から引き離して、自分たちに熱心にならせようとしているのです。(17)

「彼らはあなたがたを私から引き離して」という翻訳では、「私から」という言葉が加えられています。けれども、ユダヤ人たちがガラテヤ人たちを何から引き離そうとしていたのかは、やや曖昧です。

私の意見では、新改訳2017の脚注にある別訳のほうがより正確であると思います。それは、

「彼らはあなたがたを福音の恵みから締め出そうとしています。」

ユダヤ人のクリスチャンたちは、ガラテヤ人たちにこう言いました。

「あなたたちは本当に私たちのグループに属していません。本当のクリスチャンではありません。もしキリストに受け入れられたいのなら、私たちの教えに従わなければなりません。」

そして、その教えによって、彼らはガラテヤ人たちを律法の束縛のもとに置き、彼らの喜びと祝福を奪ってしまいました。

要するに、彼らはガラテヤ人たちに対して熱意を持っていましたが、彼らの最善を求めていたわけではなかったのです。

そこで、パウロはガラテヤ人たちにこう語りました。

善意から熱心に慕われるのは、いつでも良いことです。それは、私があなたがたと一緒にいる時だけではありません。(18)

要するに、「熱意を持ちなさい。それは良いことです。あなたたちが私に対して熱意を持ち、喜びによって私を愛し、私の面倒を見てくれた時、その熱意は良いものでした。

私もあなたたちに対して熱意を持っています。私は、あなたたちのうちにキリストが形作られることを願います。あなたたちがますますキリストのようになることを望みます。

その一方、この人たちはあなたたちの最善を望んでいません。そして、彼らに対するあなたたちの熱意によって、あなたたちは自分の喜びと祝福を失ってしまいました。」

だから、私たちは自分自身に二つの問いを投げかけるべきだと思います。

私たちの周りには、熱意を持っているカリスマ的なリーダーたちがいるかもしれません。けれども、彼らは私たちをどこへ導いているのでしょうか。彼らの導きによって、私たちは神様に近づいているでしょうか。もしかしたら、彼らの教えによって、私たちの喜びと祝福が奪われてはいないでしょうか。

真理が痛みを伴うものであったとしても、彼らは私たちにその真理を教えているでしょうか。あるいは、彼らは私たちを誤った道へ導いているのでしょうか。

二つ目の問いは、「あなたは何に対して熱意を持っているでしょうか」ということです。

イエス様に対する熱心を持ち、イエス様をもっと知りたいと思うでしょうか。

キリストが周りの人々のうちに形作られるように祈っているでしょうか。あなたは、彼らが神様の喜びを知るように願っているでしょうか。

それとも、その熱意が知らず知らずのうちに、自分自身を誤った道へ導いているでしょうか。

かつて、熱心によってパウロは教会を迫害したことがありました。また、熱意によってガラテヤ人たちは律法の束縛のもとへ戻ってしまいました。

あなたの熱意は、あなたをどこへ導いているでしょうか。

カテゴリー
コリント人への手紙第一

賜物を熱心に求める?

私たちがただ求めるなら、神様はどれほど与えてくださるでしょうか。

多くの場合、私たちは自己中心的な態度に注意したり、自分の動機を疑ったりすることで、神様に願うのをためらいます。

私の言葉を誤解しないでください。もちろん、私たちは自分の動機を吟味するべきです。しかし、ためらわずに願ってもよいのです。もし願っている途中で、神様が私たちの誤った動機を示されるなら、もちろん私たちは悔い改めるべきです。

忘れないでください。神様はご自身の子供たちに良いものを与えることを喜ばれる方です。だから、願うとき、私たちは遠慮する必要はありません。

霊的な賜物も、恥ずかしがらずに願ってよいのです。だから、パウロはこう語っています。

あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。(コリント人への手紙第一12:31)

「より優れた賜物」とは何でしょうか。私は後でそのことについて話しますが、14章によれば、より優れた賜物とは、教会を成長させる賜物を指します(14:12)。

だから、霊的な賜物を求めるときは、教会を成長させることを考えるべきです。その賜物がどのようにあなたの評判を高めるか、また、あなたがどのような利益を得るかを考えてはいけません。

むしろ、どのように人々を祝福できるかについて考えるべきです。霊的な賜物について考えるときは、自分ではなく、周りの人々のことを考えるべきです。

また、もう一つ忘れてはならないことがあります。神様は御心のままに、私たちに賜物を与えてくださいます(11)。

キリストのからだの中で、私たちは神様から自分の役割を与えられています。だから、その役割を果たすために、神様は私たちに適切な賜物を与えてくださいます。

神様はそれ以上にも与えてくださるかもしれませんが、私たちが望むすべての賜物を与えてくださるとは約束されていません。

パウロはこう語っています。

皆が使徒でしょうか。皆が預言者でしょうか。皆が教師でしょうか。すべてが力あるわざでしょうか。皆が癒やしの賜物を持っているでしょうか。皆が異言を語るでしょうか。皆がその解き明かしをするでしょうか。(29-30)

もちろん、その答えは「いいえ」です。

それでも、霊的な賜物を求めてもよいのです。特に、自分のミニストリーや役割を考えるとき、どの賜物が必要なのかを思い巡らし、その賜物を願うことが大切です。

そして、自分の役割を果たすために、神様が適切な賜物を与えてくださることを信じましょう。

どれほど神様が「はい、喜んで与えます」と答えられるかに驚くかもしれません。