カテゴリー
使徒の働きのデボーション

あなたを知るため

すると、パウロは答えた。「あなたがたは、泣いたり私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことも覚悟しています。」(使徒の働き21:13)

主よ、あなたと同じように、パウロは自ら望んでエルサレムに行き、そこで苦しむことを受け入れる決心をしました。もしかすると、彼はそうすることで、あなたの苦難にあずかることになると思っていたのかもしれません。

彼は確かに、その願いを以前に表現していました。

私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。(ピリピ人への手紙3:10~12)

私もあなたを知りたいです。しかし、あなたと同じように、自ら望んで苦しみの待っている自分のエルサレムへ向かう心を、私も持っているでしょうか。

正直に言うと、私はわかりません。そのためには、もっと力や決意が必要です。そして、さらにあなたの恵みが、もっともっと必要なのです。しかし、あなたは、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」と言われました。(マタイの福音書16:24)

私は自分のエルサレムが何であるのか、まだわかりません。しかし、あなたが私とともにいてくださるなら、私はあなたに従って行きたいのです。なぜなら、私はあなたを知りたいからです。

あなたは愛をもって私を捕らえてくださいました。だからこそ、私を愛し、私のためにご自身を捧げてくださったあなたのようになりたいのです。

カテゴリー
ガラテヤ人への手紙のデボーション

私を愛してくださった王

今朝、私は「キリスト」と「神の子」ということばに思いを巡らしていました。

私たちはイエス様について話すとき、そのことばをよく使いますが、その意味を深く考えることはあまりないでしょう。

キリストとは、「神によって油を注がれた王」という意味です。

「神の御子」は、もちろんキリストが神であられることに触れますが、ユダヤ人たちは王をある意味で「神の子」として理解していました。

だから、今日、ガラテヤ人への手紙2章20節を新鮮な思いで読みました。

私は王とともに十字架につけられました。

もはや私が生きているのではなく、王が私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、王に対する信仰によるのです。(ガラテヤ人への手紙2:20)

貼り付けられた革命家と同じように(その人は普通、強盗と呼ばれますが、実際には革命家だったのかもしれません)、私は正当な王とともに十字架につけられました。

反逆者である私は、もはや生きていません。

むしろ、王は私のうちに住み、心の王座に座っておられるのです。

今、私は毎日この王への信仰によって生きています。この王が良いお方であり、私を愛し、私の最善を望んでおられることを心から信じているのです。

だからこそ、愛と信頼に満ちた心で、私の良い王に従おうと選びます。私はもはや自分自身のためではなく、イエス様のために生きているのです。

王様が長く生きられますように。

カテゴリー
使徒の働きのデボーション

御国への熱心

パウロは、神の国のことを証しし、モーセの律法と預言者たちの書からイエスについて彼らを説得しようと、朝から晩まで説明を続けた。

ある人たちは彼が語ることを受け入れたが、ほかの人たちは信じようとしなかった。(使徒の働き28:23ー24)

この言葉を読んで、私はパウロの熱心に気づかざるをえません。 神の御国へ導こうとするパウロの熱心は驚くべきものです。

パウロのメッセージを信じる人もいれば、信じない人もいました。しかし、信じるか信じないかに関わらず、パウロの熱心が消えることはありませんでした。

私もそのような熱心を持ちたいと思います。

使徒の働きの最後のいくつかの章を読みながら、コリントの信徒たちに対するパウロの言葉を思い起こしていました。 特に、第二コリント5章では、パウロは自分の動機をはっきりと説明しています。

そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。

私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。

そのため、主を恐れることを知っている私たちは、人々を説得しようとしています。。。(24章に登場するフェリクスのことを考えてください。)

私たちが正気でないとすれば、それは神のためであり、正気であるとすれば、それはあなたがたのためです。 (26章に登場するフェストゥスのことを考えてください。)

というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。(コリント人への手紙第二5:9ー11、13ー15)

天のお父さん、どうかパウロが持っていた御国への熱心を与えてください。キリストの愛に捉えられ、キリストへの愛に動かされ、そして周囲の人々へのキリストの愛に押し出されて、御国のために仕える者とならせてください。

カテゴリー
コリント人への手紙第二

キリストの愛に捕らえられた

あなたは何のために生きていますか。そして、なぜそれのために生きているのでしょうか。

パウロにとって、その答えは明白でした。それは、裁きの日が訪れることです。その日、彼だけでなく、すべての人々が裁かれます。(コリント人への手紙第二5:10)

だからこそ、彼はこう書きました。

そのため、主を恐れることを知っている私たちは、人々を説得しようとしています。(コリント人への手紙第二5:11a)

神様の前に立つことは、本当に恐ろしいことです。私たちはクリスチャンとして、自分の罪のために裁かれることはないと分かっていますが、それでも裁きの日は畏敬の念を抱かせるものです。

しかし、イエス様を信じない人々にとっては、何百万倍も恐ろしいことです。

だからこそ、パウロはこう言います。「人々がまだ悔い改めることができる間、私たちは彼らを説得しようとしています。」

彼は以前にもこのことを語りましたが、ここでも再び強調します。

「私たちは神様の前に誠心誠意をもって、福音を宣べ伝えます。なぜなら、神様は私たちの行動だけではなく、私たちの動機も裁くからです。」(11b-12)

では、パウロの動機は何だったのでしょうか。迫害されながらも、なぜ彼は福音を伝え続けようとしたのでしょうか。

私たちが正気でないとすれば、それは神のためであり、正気であるとすれば、それはあなたがたのためです。

というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。(13-15)

パウロによれば、キリストの愛が彼をとらえました。

実は、この「キリストの愛」という表現には、2つの解釈があります。

一つ目は、パウロとこの世の人々に対するキリストの愛です。おそらく、それがパウロの主な意味でしょう。

しかし、もう一つの解釈は、キリストに対するパウロの愛です。この箇所では、両方の概念を見ることができます。

14節では、パウロは「キリストはすべての人のために死なれた」と語っています。

では、なぜイエス様はそのようにされたのでしょうか。なぜ天を離れ、十字架へと向かわれたのでしょうか。それは、私たちに対するイエス様の偉大な愛ゆえです。

そして、その愛に応答するならば、私たちはもはや自分自身のために生きることはありません。むしろ、自分の古い生き方を葬り、イエス様のために生き始めます。

そのために、ヨハネはこう記しました。

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(第一ヨハネ4:19)

あなたはどうでしょうか。自分のために生きていますか。それとも、神様のために生きていますか。

もし、神様のために生きているのなら、その理由は何でしょうか。裁きへの恐れからでしょうか。それとも、イエス様があなたを愛してくださるゆえに、あなたもイエス様を愛しているからでしょうか。

あなたの心には、イエス様の愛が満ち溢れ、どうしても周りの人々にその愛を伝えたいと願うほどになっていますか。

あなたは何のために生きていますか。そして、その理由は何でしょうか。