この箇所では、私は第3節が特に好きです。
わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。(エレミヤ書33:3)
正直に言うと、私はもっと神様を求めるべきだと感じています。そのように考えることがよくあります。
それでも、私はいつも自分の人生について思いを巡らせ、重要だと思うことに集中しています。
(ただし、その「重要だと思うこと」が本当に重要かどうかは分からないこともあります。)
イエス様の生涯について考えてみてください。彼は毎朝、天の父と共に時間を過ごしました。そのとき、どれほどの力と知恵を得たのでしょうか。
同じように私がそんな時間を持つことができたら、どれほどの力と知恵を得ることができるでしょうか。
最近、私は聖書を読むことは多いのですが、祈りの時間があまり取れていません。特に、私は神様の声をもっと聞く必要があると感じます。
神様の約束はこうです――私たちが神様を求めるなら、神様を見出し、神様が私たちに語りかけてくださる、と。
もちろん、私たちの将来のためには神様の知恵が必要です。しかし、それ以上に、私たちの理解を超えた偉大な事――神様の恵みを思い起こすべきです。
この箇所は神様の恵みに関するものです。
ただし、この箇所の冒頭は神様の裁きについて記されています。つまり、イスラエルの罪ゆえに裁きが訪れるということです。
もちろん、誰もそのような話を聞きたいとは思わないでしょう。
それでも、神様は続けてこう言われました。
見よ。わたしはこの町の傷をいやして直し、彼らをいやして彼らに平安と真実を豊かに示す。。。
わたしは、彼らがわたしに犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らがわたしに犯し、わたしにそむいたすべての咎を赦す。
この町は世界の国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり栄えとなる。」(エレミヤ書33:6、8-9)
神様はイスラエル人について語られましたが、この言葉は私たちにも深く関係しています。
私たちの人生は罪によって壊れてしまいましたが、神様は私たちを癒してくださいました。
神様は私たちの罪と背きを赦し、私たちに平安を豊かに示してくださいます。そして、世界の国々の間で、私たちは神様にとって喜びの名となり、栄誉となり、栄えとなるのです。
私たちが毎日そのことについて思いを巡らせたら、私たちの人生はどれほど変わるでしょうか。どれほど神様に感謝することでしょうか。そして、神様の恵みを受けたなら、私たちの人生に対する態度や他の人々への態度はどれほど変わるでしょうか。
けれども、もう一つ、私たちの理解を超えた大いなる事を思い起こすべきです。それは、ある日、イエス様がこの世に戻られるということです。
14-16節には、次のように書かれています。
「見よ。その日が来る。――主の御告げ――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみのことばを成就する。
その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝(つまり、イエス様)を芽ばえさせる。彼はこの国に公義と正義を行なう。
その日、ユダは救われ、エルサレムは安らかに住み、こうしてこの町は、『主は私たちの正義』と名づけられる。」
私たちはしばしば一時的なことに気を取られがちです。しかし、もしイエス様が戻られることを思い起こしたなら、果たしてその一時的なことに集中し続けることができるでしょうか。
その真理を心に留めるなら、私たちの優先順位はどれほど変わることでしょうか。
