信仰。
実は、私は自分の信仰があまり強くないと感じています。特に、祈るときに自分の信仰が弱いと感じることがあります。私は祈るとき、本当に信仰をもって祈っているのでしょうか。「信仰をもって祈る」とは、どういう意味なのでしょうか。
イエス様が呪われた木が枯れたとき、弟子たちは非常に驚きました。そして、彼らはイエス様にこう尋ねました。
どうして、すぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。(マタイ21:20)
イエス様はこのように答えられました。
神を信じなさい。(マルコ11:22)
「神様を信じなさい」とは何を意味するのでしょうか。私たちは何を信じるべきでしょうか。
1.神様が良い神であるということ。 神様は私たちを愛する天の父であり、私たちに良い賜物だけをくださいます。
だから、私たちがパンを願えば、神様は石を与えるようなことはされません。また、私たちが魚を願えば、神様は蛇を与えるようなこともされません。
2.神様が私たちの祈りを聞いてくださるということ。 どんなに小さな願いであっても、神様はそれを聞いてくださいます。私たちの問題がどれほど大きくても、またはどれほど小さくても、神様は祈りを聞いてくださいます。
3.神様が私たちの祈りをかなえる力を持っておられるということ。 神様にとって、私たちの願いは決して難しいものではありません。
4.神様が私たちを祝福したいと望んでおられるということ。 正当な理由がない限り、神様は私たちに良いものを与えることを控えることはなさらないのです。
5.神様が私たちのために良い計画を持っておられるということ。 神様の計画は私たちにとって良いものであり、その計画は私たちの益のために働きます。
これらの五つのポイントを覚えながら、イエス様の次の言葉を読みましょう。
まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、「立ち上がって、海に入れ」と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。
ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求める者は何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、その通りになります。(マルコ11:23-24)
この箇所を読んで、神様に何を頼んでも、神様がその祈りを必ずかなえなければならないと考える人がいます。
けれども、時には、私たちが魚やパンに見えるものを願っても、実際にはそれらが石や蛇であることがあります。例えば、ある男性や女性と結婚することを祈ったとしても、十年後には神様がその祈りをかなえなかったことに感謝するようになる場合があります。
また、私たちは良いことのために祈ることがありますが、神様はさらに良いものを用意してくださることがあります。例えば、新しい仕事を願って祈ったとしても、神様はそれよりも良い仕事を与えてくださいます。
ですから、信仰をもって祈ったとしても、神様がその祈りをかなえてくださるとは限らないのです。
けれども、通常、私の問題は間違ったことのために祈るのではありません。多くの場合、私の問題は、神様が私の祈りをかなえてくださることを信じきれていないところにあるのです。
例えば、私の現在の職場は非常に素晴らしい場所です。以前の職場よりもはるかに良い職場です。
しかし、その学校に応募した際には、多くの疑いを抱いていました。実は、数年前、その同じ場所で不採用になった経験がありました。それに、何度も良い仕事を願って祈ったものの、その祈りがかなえられることはありませんでした。
それでも、私が十分な信仰を持っていなかったにもかかわらず、神様の恵みによって採用されることができました。
また、私はがんを患った友人のために祈ったことがあります。医師たちはその状態を見て「もう手の施しようがない」と言いましたが、多くの人が祈り、私も祈りました。ただ、私はあまり希望を持つことができませんでした。
もちろん、神様が友人を癒す力を持っておられることは信じていましたが、本当に癒してくださるかどうかは分かりませんでした。結局、2人とも亡くなりました。それでも、神様は1人の命を約5年延ばしてくださいました。
さて、ここで私が言おうとしているのは何でしょうか。
神様は信仰を見ると喜び、祈りに応えてくださいますが、祈りが叶うかどうかは私たちの信仰の強さにはあまり関係がありません。たとえ信仰が小さくても、神様が祈りに応えてくださることは多々あります。
それでも、私はもっと希望を持って祈るべきだと感じています。なぜなら、神様は私を助けてくださるだけでなく、実際に私を助けてくださった経験があるからです。
そのため、私はよく次のように祈ります。
「あなたを信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコ9:24)