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創世記のデボーション

壊れた人生に神の癒しを受けるため

そのころのことであった。ユダは兄弟たちから離れて下って行き、名をヒラというアドラム人の近くで天幕を張った。(38:1)

私は、上のことばを何度も読んだことがありますが、今日は初めて自問自答しました。「なぜ?」

なぜ、ユダは自分の責任を捨て、家族から離れたのでしょうか。

彼の兄たち、ルベン、シメオン、レビが父ヤコブの不興を買ったので、もしかしたら、ヤコブはユダを一族の長に任命しようと思っていたかもしれません。(創世記49:3〜7)

でも、ユダは立ち去りました。なぜでしょうか。

私はわかりませんが、もしかしたら、彼は罪悪感を深く感じていたのかもしれません。つまり、ヨセフを裏切ったあと、毎日ヤコブの苦しみを見て、もう耐えられなかったのかもしれません。(創世記37:26〜28、34〜35)

だから、彼は立ち去ったのです。

新しい人生を始めようと思ったのかもしれません。

でも、ユダは自分自身から逃げることはできませんでした。自分の罪深い心から逃げることはできませんでした。

たぶん、38章の出来事のあと、自分自身と向き合ったとき、ユダは自分の中にあるものを見て、それを嫌ったのでしょう。

もちろん、ヨセフはユダよりも正しい人でした。でも、神様を知らないカナン人の女性タマルでさえ、ユダよりも正しい人でした。

たぶん、彼はそのことを考えて、こう言ったでしょう。「もうだめだ。私はこのような生活を送ってはならない。もう逃げてはならない。」

彼の最初の一歩は、責任をとって、タマルとその二人の息子たちの世話をすることでした。

そして、彼は以前とは違う人として、ヤコブと兄弟たちのところに戻りました。

創世記44〜45章を読めば、ユダがどれほど変わったかがわかります。

ユダは、一朝一夕で変わったわけではありません。でも、彼は最初の一歩を踏み出しました。そして、彼は日々、神様の導きに従って、一歩一歩進みました。

そうすることで、彼の壊れた人生は癒されました。

ヨセフは、彼を許しました。(創世記45章)

ヤコブは、彼を許しました。(創世記49:8〜12)

もちろん、神様は、彼を赦してくださいました。

鏡を見るとき、自分が見ているものが好きでしょうか。

人生の変化、また癒しは、一歩から始まります。

次のステップに関して、神様はあなたに何を語っておられるのでしょうか。

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創世記のデボーション

 心が壊れている人々のために祈る

昨日、私は姉とある従姉妹の話をしていました。その従姉妹は、叔父がどれほどひどい父親だったかを語っていました。

彼は男の子を望んでいたため、従姉妹が生まれたとき、病院に来てくれませんでした。

どうやら、彼は娘に「あなたが男の子だったら良かったのに……」と何度も言ったらしいです。

従姉妹は、50年もの間、その傷を抱えて生きています。

今日の箇所を読んだとき、この世界の歴史の中には、いつも傷ついた人がいたことを思い出しました。レアも、ラケルも、ヤコブも、心が壊れた人々でした。

でも、神様は私たちを見ておられ、聞いておられ、心に留めてくださいます。神様は、私たちを痛みのサイクルから解放し、平和のサイクルへと導こうと望んでおられます。

つまり、神様は、ご自分の真理と愛が私たちの心に治めることを望んでおられるのです。そうして初めて、私たちは癒しを知ることができます。

だから、今日、私は従姉妹のために祈っています。

従姉妹が神様を知るように祈っています。

神の恵みによって、従姉妹が過去の痛みと恥から解放されるように祈っています。

また、神との関係を通して、従姉妹が平和を知るように祈っています。

心が壊れている人々を知っているでしょうか。

今日、その人のために祈りましょう。

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イザヤ書のデボーション

癒しはいつ訪れるのか

天のお父さん、私たちはあなたの家の山が堅く立つ日を待ち望んでいます。

戦争が終わる日を待ち望んでいます。正義をもってすべての悪人が裁かれる日を待ち望んでいます。すべての人々があなたを求める日を待ち望んでいます。(イザヤ書2:2〜4)

癒しはいつ来るのでしょうか。この世とその民は霊的に病んでいます。(イザヤ書1:5〜6)

なぜでしょうか。なぜなら、彼らは自分たちの主を認めないからです。彼らはいのちの源を知らないからです。彼らの心の飢えを満たすことができる方を知らないからです。

むしろ、彼らはあなたを捨て、侮り、あなたに背を向けました。(イザヤ書1:3〜4)

癒しはいつ来るのでしょうか。

私たちのお金や、私たちが誇れるものによって、癒しはもたらされません。(イザヤ書2:7〜18)

私たちの政治家によって癒しは来ません。(イザヤ書2:22)

この世界は、あなたを王、主、神として認めて初めて、癒しを知るのです。

私たちは、形だけではなく、心からあなたを求めて初めて、癒しを知るのです。(イザヤ書1:11〜19)

その日、人々はこう言うでしょう。

さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。(イザヤ書2:3)

でも、あなたの民は、まず最初にそうしなければなりません。私たちは、心からあなたを求めなければなりません。

だから、あなたを求める飢えを、私の心に与えてください。毎日毎日、一瞬一瞬、私があなたを信頼し、あなたに頼るように助けてください。

毎日、私があなたのみ言葉、御心、知恵、力を求めるようにしてください。

この壊れた世界、また、その壊れた人々に、あなたの御国が来ますように。

そのために、私を用いてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ヘブル人への手紙

試練に直面するとき

試練が好きな人は誰もいないでしょう。でも、神様は私たちの人生にその試練を許されます。

なぜでしょうか。この手紙の著者はその理由を説明しています。

霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。(へブル人への手紙12:10)

私たちは壊れた人間であり、壊れた世界に住んでいます。けれども、神様の目的は、私たちを癒し、ご自身の計画どおりに完全な者へと造り変えることです。

神様は私たちの汚れを清めてくださいます。なぜなら、神様は私たちが神のかたちに倣って聖なる者とされることを望まれているからです。神様は、私たちがご自身の完全な反映となることを願っておられます。

そのために、神様は火によって私たちを精錬されます。その火の中で、私たちの性格が現れてきます。

性格は、良い時だけでなく、苦しい時にも表れます。もし私たちの性格が整えられていれば、試練の中でその良い性格が表れます。ヨブがその一例です。

しかし、性格に歪みがあれば、試練によってそれも露わになります。サウル王がその一例です。

私たちが自分の性格を見つめるとき、そこには選びが与えられます。

私たちは罪深く不敬虔な者として生き続けることもできます。

あるいは、神様に向かってこう叫ぶこともできます──「神様、私は惨めな者です。私を救ってください。私を変えてください。」

そのとき、私たちは神様の驚くべき恵みだけでなく、人を変えることのできる神様の力も知るのです。

さらに、私たちが神様の声に耳を傾け、信仰によって従っていく中で、神様は私たちの性格をイエス様のかたちに造り変えてくださいます。

それは常に楽しいプロセスでしょうか。通常はそうではありません。だからこそ、この手紙の著者はこう言います。

すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。(11)

では、私たちは神様の火の中にいるとき、どうすれば良いでしょうか。最初に、イエス様に向かいましょう。

イエス様が私たちの救いのプロセスを始め、それを完成させることを覚えていましょう。イエス様は私たちにこうは言われません──「私はあなたに自分を更生する道具を与えました。頑張ってね。」

むしろ、イエス様はこう言われます──「私はあなたに、その道具の使い方を教えてあげます。」

そして、一歩一歩の歩みにおいて、イエス様は私たちと共にいて助けてくださいます。私たちが完成されるまで、イエス様は働き続けてくださいます。

その上で、覚えていてください──イエス様ご自身も苦しみを経験されました。イエス様は十字架の苦しみに耐えられました。だからこそ、人生の辛さをご存知なのです。

そして、天の父はイエス様の信頼に報いて、今イエス様は御座にあって父なる神の右に座しておられます。

イエス様の模範に従って、天の父に信頼して試練を耐えると、私たちは天の父からの報いを得て、天国でイエス様の隣に座ります。

もう一つのことを覚えておきましょう。あなたの苦しみには意味があります。

その意味は何でしょうか。神様はあなたのことを嫌っておられるのでしょうか。あなたを苦しませたいと思っておられるのでしょうか。

違います。神様はあなたを愛しておられ、あなたの最善を望んでおられるゆえに、あなたを訓練されるのです。

もしかすると、あなたのお父さんがそのような愛をもってあなたを訓練してくれたことがあったかもしれません。けれども、そうでなかった方もいるでしょう。

お父さんが正しくない方法で、あるいは正しくない動機のまま、あなたを躾けたかもしれません。しかし、神様の動機と訓練の方法は、常に清く、いつも愛に満ちています。

ですから、弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。また、あなたがたは自分の足のために、まっすぐな道を作りなさい。

足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろ癒やされるためです。(12-13)

要するに、私たちは正しい道を歩まなければなりません。神様が示してくださった道をたどりましょう。

あなたの足は不自由です。もし、自分勝手な道を進み続けるなら、あなたの状況はさらに悪化します。しかし、神様の道を歩むなら、癒しに出会います。

その道は簡単ではないかもしれません。苦しいかもしれません。でも最終的には、癒しに至るのです。

では、あなたはどうしますか。

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使徒の働き

人を癒し、人を復活させる神

この箇所では、私たちは二つの素晴らしい話を読みます。アイネアとタビタに対するペテロの言葉は特に印象的です。

アイネアは八年間床についていました。彼は回復する希望を完全に失っていたかもしれません。ところが、ペテロは彼にこう言いました。

アイネア、イエス・キリストがあなたを癒してくださいます。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。(使徒の働き9:34)

彼は瞬く間に癒され、立ち上がりました。

タビタはすでに亡くなっていましたが、ペテロは彼女にこう言いました。

タビタ、起きなさい。(40)

彼女は目を覚まし、復活しました。

ペテロの言葉はとてもシンプルでした。しかし、現代においても、人々はその言葉を聞く必要があります。

イエス・キリストがあなたを癒してくださいます。

もちろん、イエス様は身体の問題を癒すことができます。けれども、多くの人々は感情的な問題や霊的な問題を抱えています。彼らの心には過去の傷もあり、現在の傷もあります。

だから、彼らは「イエス・キリストがあなたを癒してくださいます」という言葉を聞く必要があるのです。

アイネアを癒してくださったイエス様は、彼らをも癒すことができます。

起きなさい。復活しなさい。

多くの人々は、自分の人生を振り返ると、失われた希望しか見えません。

彼らは離婚を考えています。彼らの未来には光がないように思えます。だから、彼らはイエス様が死んだものを復活させることができると知る必要があります。

彼らは、イエス様が彼らの結婚、未来、希望を回復させることができると知る必要があります。だからこそ、私たちは彼らに伝えなくてはなりません。

「起きなさい。神様に向かうなら、神様はあなたを新しくしてくださいます。」

人々はこの二つのメッセージを聞く必要があります。この世で希望を失いかけている人々に、このメッセージを届けましょう。

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マタイの福音書 マタイ20章 マルコの福音書 マルコ10章 ルカの福音書 ルカ18章

周りの人々のニーズに目を向ける?

私がバルティマイとその友達の話を読むと、イエス様の愛と憐れみ深い心は、私にとても印象的です。

イエス様はもうすぐ十字架に行くし、そのことを親友たちにはっきりと伝えたのに、彼らは理解してくれませんでした。そんな状況で、イエス様が自分の思いや、フラストレーションや、心配で思い詰めていたなら、びっくりすることではなかったでしょう。

でも、その道を歩いているうちに、イエス様は前に何回も聞いていた願いをもう一度聞きました。

主よ。ダビデの子よ。私たちを憐れんでください(マタイ20:30)

大勢の人がイエス様を取り巻いており、イエス様がその声を見逃すのは簡単だったかもしれません。

また、その声を無視するのも簡単だったでしょう。なぜなら、多くの人がその二人に「黙れ」と言ったからです。

しかし、イエス様は立ち止まり、「その二人を呼んできなさい」とおっしゃいました。

そして、彼らが来ると、イエス様は彼らに尋ねられました。「わたしに何をしてほしいのですか。」

彼らは答えました。「主よ、目を開けていただきたいのです。」

マタイによると、イエス様は深く憐れみ、彼らの目に触れて癒されました。

イエス様はご自身のフラストレーションや困難に思い詰めることなく、周りの苦しんでいる人々に目を向けられました。

私たちはどうでしょうか。どのくらい私たちはイエス様の模範に従い、自分自身のことで思い詰めることなく、周りの苦しんでいる人々に気づいているでしょうか。

また、どれだけ自分自身の必要やフラストレーションに思い詰めることで、神様の愛を周りの人々に伝える機会を逃しているでしょうか。

おそらく、私もそのような機会を逃してきたことが多いでしょう。

私たちはイエス様のようになることを学びましょう。私たちの苦しみや心配にとらわれることなく、周りの人々のニーズや痛みに目を向けましょう。そして、イエス様のように、彼らに手を差し伸べ、神様の力で彼らを癒しましょう。

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マタイの福音書 マタイ15章 マルコの福音書 マルコ7章

人々をイエス様のもとに連れて行く?

この箇所では、イエス様の癒しのミニストリーがどれほど人気だったかがわかります。

私の心に響くのは、多くの人々が癒されたいと思ったにもかかわらず、一人でイエス様のところに行かなかったことです。むしろ、友達や家族が彼らをイエス様のところに連れて行きました。そして、イエス様は彼らを癒されました。

その時代にイエス様が目や耳を癒されたように、現代でもイエス様は霊的な目や耳を開いてくださいます。また、イエス様が当時、人々の体を癒されたように、今ではイエス様が人々の心を癒してくださいます。

もちろん現代でも、イエス様は人々の体を癒されます。しかし、それ以上にイエス様は人々の心と魂を癒したいと望んでおられるのです。(例えば、マルコ2:1–12をご覧ください。)

さて、当時、人々が病気の友人や体が不自由な友人をイエス様のもとに連れて行ったように、私たちも苦しんでいる人々や霊的に病んでいる人々をイエス様に連れて行くべきです。私たちは彼らを癒すことはできませんが、イエス様は彼らを癒すことができます。

そのため、彼らが自分でイエス様のもとに行くのを待つべきではありません。むしろ、私たちが積極的に彼らをイエス様のところに連れて行くべきなのです。

このことに心を留めておきましょう。イエス様はしばしば人々にこう尋ねられました。「わたしに何をしてほしいのか?」

また、「よくなりたいか?」

彼らが癒しを望むならば、イエス様は彼らを癒してくださったのです。

同じように、私たちは人々をイエス様のところに連れて行くことはできますが、最終的に彼ら自身が決断しなくてはなりません。彼らが癒しを望むのかどうか、イエス様が提供するものを受け入れるのかどうか。それは彼ら自身の選択です。

では、あなたはどうでしょうか?あなたは人々をイエス様のもとへ連れて行っていますか?

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マタイの福音書 マタイ9章

イエス様ができること。イエス様がしないこと。

この箇所を見ると、私たちはイエス様が何をすることができるのか、また何をしないのかを知ることができます。

イエス様は盲人や口のきけない人を癒すことができます。

けれども、イエス様はご自身を無理やり人々に信じさせることはされません。

わたしにそんなことができると信じるのか。(マタイの福音書9:28)

彼らが「そうです。主よ。」と答えた時、イエス様は「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われました。(29)

つまり、彼らが本当に信じなかったなら、彼らは癒されなかったのです。

実際には、私たちが信仰を持っていなくても、イエス様は私たちを癒すことができます。ある日、相手がイエス様のことをよく知らず、まったく信仰を持っていなかった状況でも、イエス様はその人を癒されました。(ヨハネ5:1-15)

とはいえ、多くの場合、イエス様は人々の信仰を求められました。

この話では、二人の盲人が信じたために癒されました。

ところが、次の話では、イエス様が口のきけない人を癒された時、多くの人々は驚きましたが、パリサイ人たちはイエス様を信じず、「彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ」と言いました。(34)

イエス様がどんな奇跡やしるしを行っても、パリサイ人たちは信じることを拒み続けました。

イエス様は彼らの信仰を求められましたが、彼らに無理やり信じさせることはありませんでした。

同じように、イエス様は私たちにも無理やり信じさせることはされません。

イエス様は私たちに聖書を与えてくださり、神様が私たちの人生にどのように働いているかを示し、神様に従う時の祝福を思い起こさせてくださいます。

それでも、私たちは毎日自分自身に問いかけるべきです。「私は神様を信じるだろうか。私は神様を信じるので、神様の道を行くだろうか。」

そうすれば、神様からの祝福と癒しを見いだすことができます。

そうしない場合、パリサイ人のように、神様の祝福と癒しを決して知ることはできません。

さて、あなたはどうしますか。

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マタイの福音書 マタイ9章 マルコの福音書 マルコ5章 ルカの福音書 ルカ8章

人々を清め、命を与えてくださる神

旧約聖書を読んでいると、「清いもの」と「汚れたもの」についての記述が頻繁に出てきます。ユダヤ人たちにとっては、触れても良いものと触れてはならないものが多くありました。

例えば、死骸は汚れたものとされていました。また、生理中の女性たちも汚れたものとみなされていました。もしそのような者に触れると、自分自身も汚れたものとされてしまいました。

以前にも述べたように、不思議なのは、イエス様が汚れた人々に触れた時、イエス様自身が汚れたものとならず、むしろその汚れた人々が清い者とされたことです。

この箇所では、まさにそのような場面を見ることができます。

一人の女性が、十二年もの間、長血の病に悩まされていました。これはおそらく、生理的な問題だったかもしれません。

彼女は一か月に一度だけではなく、常に汚れたものとみなされていました。彼女は多くの医者に診てもらいましたが、全く治りませんでした。

そこで彼女は必死にイエス様の服に触れようとしました。彼女は「この服に触れさえすれば、必ず治る」と信じていたからです。

では、なぜ彼女はイエス様に直接お願いしなかったのでしょうか。おそらく彼女は、自分の病のために深く恥じていたからではないでしょうか。

また、「汚れたもの」としてみなされていたため、イエス様に拒絶されるかもしれないと思っていた可能性もあります。

しかし、彼女がイエス様の服に触れた瞬間、病が癒された時、イエス様はこう尋ねられました。

だれがわたしの着物にさわったのですか。(マルコ5:30)

そして、彼女が自分の行動を認めるまで、イエス様は待っておられました。なぜイエス様が彼女の返事を求められたのでしょうか。おそらく二つの理由があったのだと思います。

一つ目は、彼女が完全に癒されたことを確信させたかったからです。つまり、その病気がもう二度と再発しないことを伝えるためでした。

二つ目は、イエス様が周りの人々にこの癒しについて知らせたかったからです。12年間、彼らはその女性を除け者にしていました。けれども彼女が清いものとなったことを公に知らせたいとイエス様は思われたのでしょう。

その後、イエス様は会堂管理者であるヤイロの家へ行かれました。彼の娘が瀕死の状態だったからです。ところが、その家に着く前に、ヤイロの家から人々が来て、「あなたのお嬢さんは亡くなりました」と伝えました。

それにもかかわらず、イエス様はヤイロに「恐れないで、ただ信じていなさい」とおっしゃいました。

そして、イエス様はその少女のそばに行かれ、愛を持ってこう言われました。「少女よ、あなたに言う。起きなさい。」

その言葉が告げられた瞬間、彼女は起き上がりました。

この話から、私たちは何を学ぶべきでしょうか。

私たちの罪によって、私たちは皆「汚れたもの」となってしまいました。「自分はあまりにも汚れていて、もうきよめられることはない」と感じているかもしれません。あるいは、「神様はもう私を赦してくださらない」と思っているかもしれません。

罪のために、希望を失っていると感じているかもしれません。結婚や家計が壊れてしまい、将来への展望がないと思っているかもしれません。

けれども、その女性を癒された神、またその少女を復活させられた神は、今も生きておられます。神様はあなたを清め、新しい命を与えることができます。

神様は、一つの言葉、一つの手で、あなたを癒すことができます。

もしあなたがイエス様に向かい、イエス様とその十字架の働きを信じるならば、イエス様はあなたを癒してくださいます。

ですから、あなたのために私はパウロのように祈ります。

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。(ローマ15:13)

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ヨハネの福音書 ヨハネ5章

完全さを望む?

時々、私は人々が本当に完全な人生を望んでいるのか疑問に思います。

彼らは結婚関係や他の人間関係について文句を言ったり、仕事や健康について文句を言ったりしますが、結局何も変わりません。まるで文句を言うことが好きで、相手の同情を得るのが好きなように見えます。

けれども、イエス様は私たちがそのように生きることを望んでおられません。イエス様は私たちがみじめさに浸ることを望んでいるのではなく、むしろ癒すことを望んでおられるのです。

この箇所では、その大切な真理を学ぶことができます。

この話には、38年間病気に苦しんでいた人が出てきます。おそらく彼は毎日、乞食をしなければならなかったでしょう。

イエス様は彼の状態を聞いたとき、非常に単純な質問をされました。「よくなりたいか。」

多くの人々は、彼が「はい」と答えるのは当然だと思うかもしれません。しかし、もしかしたら彼は働かずに乞食をする生活を快適に感じていたのかもしれません。

また、周囲の人々に世話される生活を好んでいた可能性もあります。その意味では、彼の人生はある意味で楽だったとも言えるでしょう。

それでも彼は癒しを望みました。その時代にはある迷信がありました。それは、天使がベテスダと呼ばれる池の水を動かした後、最初に池に入った人が癒されるというものです。

彼はできるだけ早く池に入ろうとしましたが、いつも他の人に先を越されてしまいました。

それでも、イエス様は彼の答えを聞かれると、こう言われました。

起きて、床を取り上げて歩きなさい。(ヨハネの福音書5:8)

その乞食は、どのように思ったでしょうか。どうやら、彼はイエス様のことを全く知らなかったようです。

もしイエス様について聞いたことがあったとしても、彼はイエス様を認識していなかったようです。(ヨハネ5:12-13)

彼にとって見知らぬ人物が「起きて、歩きなさい」と言ったのです。

それでも、彼はイエス様の言葉に従い、その場で起き上がり、歩くことができるようになりました。

その後、神殿でイエス様は彼にこう言われました。

見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。(14)

この話から、私たちは何を学べるでしょうか。

私たちの多くは、人生の中で傷つくことを経験します。私たちの人生が壊れ、どうやって完全になるかが分からない時があります。

しかし、イエス様は私たちにこう問いかけておられます。「よくなりたいか。完全になりたいか。」

もし完全になりたいなら、その乞食のように、イエス様の言葉に従わなければなりません。イエス様の言葉を疑ってはいけません。「それは無理だ」と言ってはいけません。ただ、イエス様の言葉に従いなさい。

この乞食の場合、癒しは即座に訪れました。あなたの場合、癒しには時間がかかるかもしれません。

特に、壊れた人間関係や失恋、苦い思いの癒しは時間を要することがあります。そのため、聖霊の助けが必要です。聖霊に頼れば、聖霊はあなたの心の中で確実に働いてくださいます。

また、教会の人々からの助けが必要かもしれません。教会はキリストの体です。そのため、問題があるときには私たちは互いに助け合います。(これが、私たちが教会を必要とする理由の一つです。)

しかし、完全になりたいのであれば、あなた自身が完全さを求め、イエス様を信頼し、イエス様が言われることに従うべきです。

その時、イエス様はその言葉に従う力を与え、あなたを癒してくださいます。

一方で、イエス様を信頼せず、自分の道を行き続けるなら、つまり罪の道を選び続けるなら、イエス様が乞食に警告されたように、あなたの人生はさらに困難になるでしょう。(ヨハネ5:14)

あなたはどのような選択をしますか。

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マタイの福音書 マタイ8章 マルコの福音書 マルコ1章 ルカの福音書 ルカ5章

私たちを清める方

この箇所を読むと、イエス様の慈悲深さに私は感動します。ツァラアトに冒された人がイエス様のもとに来て、こう願い求めました。

主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。(マタイ8:2)

その時代、ツァラアトに冒された人々は社会から完全に疎外されていました。彼らは自分の家を出て、他の人々から距離を置かなければなりませんでした。

もし誰かが近づいてきた場合、その人は「私は不潔です。近づいてはならない」と叫ばなければならなかったのです。

彼らの人生は、本当に孤独で惨めでした。交わることができる相手は、他のツァラアトに冒された人々だけでした。

しかし、この男性はイエス様のことを聞いたとき、再び希望を感じました。彼はイエス様に近づいて、癒しを願い求めました。

おそらくイエス様は、彼が期待した以上のことを行われました。イエス様は遠くから癒すのではなく、直接彼に触れて癒されたのです。

ユダヤ人の律法によれば、ツァラアトに冒された人に触れると、触れた者も一時的に「不潔」とされました。それに加えて、その病気に感染する可能性もありました。

この男性にとって、数年ぶりに誰かが自分に触れた瞬間だったかもしれません。それは彼にとって、驚きと深い感動をもたらしたことでしょう。

私はその感覚を少し理解することができます。日本人は、アメリカ人ほどハグをしません。私は日本に住んで20年以上経つので、友達にハグされると、今でも少し驚いてしまいます。

そのように、人々はツァラアトに冒された人に触れるのを恐れました。不潔になることを避けたかったからです。

けれども、イエス様がその人に触れたとき、イエス様ご自身は不潔とはならず、むしろ相手を清められました。

同じように、イエス様が私たちを見るとき、私たちの罪によって不潔な状態を見ておられることでしょう。私たちは罪の泥から抜け出すことができず、自己救済も不可能でした。

だからこそ、ツァラアトに冒された人のように、「主よ、お心一つで私をきよくしてください」と願うしかありません。

その願いに応えて、イエス様は手を差し伸べてくださり、私たちに触れ、癒してくださいます。

イエス様がその人の病を癒されたのであれば、私たちの魂を癒してくださらないということがあるでしょうか。

あなたは自分の罪に縛られているでしょうか。あなたは不潔な状態で、自己救済できないでしょうか。

イエス様のみ前に進んでください。イエス様の助けと赦しを心から願い求めてください。そうすれば、あなたは癒されるでしょう。

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マタイの福音書 マタイ8章 マルコの福音書 マルコ1章 ルカの福音書 ルカ4章

私たちを癒やしてくださる方

この箇所では、私たちはイエス様の癒やしの働きを垣間見ることができます。

イエス様がペテロの家を訪ねられた際、ペテロの義理のお母さんを癒してくださいました。おそらくイエス様は初めて安息日に人を癒されましたが、人前では行わなかったため、非難を受けませんでした。

さて、ここでひとつの質問が思い浮かびます。

前回の話では、イエス様が安息日に悪霊をある人から追い出されました。もしその会堂にパリサイ人たちがいたら、イエス様を責めたでしょうか。もしかしたら彼らは、「おい、それはだめだ。別の日に悪霊を追い出しなさい」と言ったかもしれません。

いずれにせよ、この日はイエス様が責められることはありませんでした。安息日が終わると、多くの人が癒しを求めてペテロの家を訪ねてきました。そして、イエス様は皆を癒してくださいました。

マタイはその癒やしについて、こう記しています。

これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」(マタイ8:17)

少し注意が必要です。マタイによれば、イエス様はこの世にいる間、その預言を成就されました。しかし、現在では癒やしの約束はありません。

もちろん、イエス様は今でも人々を癒やすことがおできになりますが、私たちを必ず癒やしてくださるという保証はありません。

さて、この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

一つ目は、イエス様の哀れみについてです。イエス様は群衆を愛されましたが、たった一人の女性に対しても愛を示されました。私たちはペテロの義理のお母さんの名前を知りません。それでもイエス様は彼女を癒してくださいました。

あなたはこの世でごく普通の人かもしれません。周りの人々があなたの名前を知らないかもしれません。けれども、イエス様はあなたの名前をよくご存じです。そして、あなたが苦しんでいるとき、イエス様はあなたを見て、あなたを愛してくださいます。

以前も言ったように、神様は私たちを癒やすことを約束されていません。時には神様の見えない計画の一環として、私たちは癒されないこともあります。それでも、イエス様は「私に祈り、頼みなさい」と言われるので、祈り求めるべきです。

とはいえ、もしあなたが感情的な傷を持っているなら、イエス様はその傷をきっと癒してくださると思います。

イエス様が肉体的な病気を通して神様の栄光を現されることはあるでしょう。

しかし、神様はあなたが感情的な重荷を持ち続けることを望んでおられません。だからこそ、その重荷をイエス様の足元に置いてください。そうすれば、癒やしを体験することができます。

この箇所から、もう一つ心に響くことがあります。それは、ペテロの義理のお母さんが癒やされた後、すぐにイエス様に仕えることを始められたことです。

私たちもそのようにするべきです。もしイエス様が私たちを病気や感情的な傷、罪からの傷から癒してくださるなら、私たちが愛と感謝を持ってイエス様に仕えることはふさわしいでしょう。それは義務ではなく、愛に満ちた心からの奉仕です。

多くの場合、神様は私たちが経験した困難を持つ人々を私たちのもとへ導いてくださいます。

イエス様が私たちを癒してくださる理由の一つは、その癒しを周りの人々にも分かち合うためです。

さて、あなた自身はどうでしょうか。その癒しをあなたの周りの人々に分かち合っていますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ4章

イエスが言われたことばを信じる?

この箇所では、私たちは初めてイエス様が人を癒やす奇跡を見ることになります。(ただし、その前にイエス様が他の人を癒やされた可能性もあります。ヨハネ2:23)

けれども、この話で私の心を打ったのは、王室の役人のイエス様への反応です。彼の息子は死にかけていました。

おそらく、彼は息子をあらゆる医者に連れて行ったものの、誰も息子を助けることができませんでした。そのため、イエス様が彼の最後の希望でした。

その役人がイエス様に助けを求めたとき、イエス様はこう言われました。

あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。(ヨハネの福音書4:48)

それは、少し不思議な答えでした。しかし、その意味はおそらくこうだったのではないでしょうか。

「あなたは私のことを本当に信じているからここに来たのですか。それとも、まだ信じていないけれど、私があなたの息子を癒やしたら信じるのですか。」

これは今も、私たちにとって本当に重要な問いです。私たちが自分の必要について祈るとき、イエス様を信じているから祈るのでしょうか。それとも、イエス様が私たちの祈りに応えてくださったとき初めて信じるのでしょうか。

その王室の役人がイエス様の言葉を聞いたとき、何を思ったのでしょうか。彼はどの程度本当に信じていたのでしょうか。

いずれにせよ、彼は必死に叫びました。

主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。(49)

それを聞いて、イエス様は彼の信仰を試されました。

帰って行きなさい。あなたの息子は治っています。(50a)

少し想像してみてください。おそらく、その役人はイエス様が自分と一緒に帰ることを望んでいたでしょう。ところが、イエス様はこう言われました。

「帰って行きなさい。私は行かなくていい。あなたの息子は確かに回復します。私の言葉を信じなさい。」

その役人がどれほどイエス様の言葉を深く考えていたのか、私には分かりません。その言葉を聞いた瞬間にすぐ帰ったのかもしれません。

または、彼はしばらくイエス様の目を見つめて、「本当にイエス様を信じられるだろうか」と考えたのかもしれません。けれども、最終的に、

その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。(50b)

そして、彼が下って行く途中、そのしもべが彼に出会い、「あなたの息子は治りましたよ」と伝えました。

私たちはどうでしょうか。イエス様が言われた言葉を信じることができるでしょうか。

多くの場合、私たちが祈るとき、イエス様が私たちに何か伝えようとされていますが、その言葉を信じないことがあります。むしろ、疑いの心が生じ、「イエス様は本当に助けてくださるだろうか」と問いかけてしまいます。

例えば、私たちが新しい仕事のために祈り、求職活動をしているとします。その仕事を選べば日曜日に働かなければならない状況になる場合、イエス様は「別の仕事のために待ちなさい」と言われるかもしれません。

私たちはこのように考えるかもしれません。「イエス様を信頼できるだろうか。この機会を逃してしまったら、イエス様は別の機会を備えてくださるのだろうか。」

または、私たちが精神的な癒しを求めて祈ることがあります。そのとき、イエス様は「この人を許しなさい。苦々しい心を手放しなさい。そうすれば、あなたは癒されるでしょう」と語られるかもしれません。

けれども、私たちはイエス様に問いかけます。「どうして許さなければならないのでしょうか。私は本当に傷ついたのに。」

私たちはイエス様の言葉にどのように応答するでしょうか。その言葉を信じ、従うのでしょうか。

この問いに答えることができるまで、人生に癒し、平和、喜びを見つけることは難しいでしょう。

「私はイエス様を本当に信じることができるでしょうか。イエス様が言われたことを信じることができるでしょうか。」

あなたはどうでしょうか。イエス様が言われた言葉を信じることができるでしょうか。

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詩篇

神様を信頼するとき

詩篇146篇では、神様が私たちの信頼にふさわしい方であることが示されています。この詩篇は、神様に信頼することの結果を私たちに教えています。

イスラエルの民は長い間神様に背き、信頼することを怠ってきました。むしろ、自分自身や偽りの神々、周囲の国々に頼っていたのです。その結果、国は崩れてしまいました。

しかし、エズラ、ネヘミヤ、ハガイ、ゼカリヤのリーダーシップのもとで、彼らは再び神様に立ち返り始めました。こうして、癒しのプロセスが始まったのです。

向かい始めました。だから、癒しのプロセスが始まりました。

詩人はこう書きました。

主はエルサレムを建てイスラエルの追い散らされた者を集める。

主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む。(詩篇147:2-3)

そして、詩人はイスラエルの民に、神様の偉大さを思い起こさせました。また、なぜ神様が私たちの賛美にふさわしい方であるのかを思い起こさせます。それは、神様がすべてのものを造り、支えておられるからです。(5–9)

また、詩人はイスラエルの民に、神様が人間や動物の力に心を動かされることはないと教えています。むしろ、

主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。(11)

だから、詩人はイスラエル人を励まします。

「あなたの人生において、神様をほめたたえましょう。神様が私たちの門を強め、私たちを祝福し、平和を与え、必要を満たしてくださることを心に留めておきましょう。」

そして、詩人は彼らに、神様がほかの国々にはご自身を現さず、イスラエルにだけご自身を現して祝福してくださったことを思い起こさせます。

しかし、ヘブル人への手紙の著者によれば、神様は預言者たちだけを通してご自分を現されませんでした。今はイエス様を通して、神様はご自分を現してくださいます。だから、私たち皆はイエス様を通して、神様に近づくことができます。

また、神様はイエス様にあって人間となられたので、私たちをよく理解でき、私たちに対して情け深いです。

だから、その確信を持って、神様に近づきましょう。私たちは神様を信頼しましょう。そうすれば、癒しと祝福、そして平和を見いだすことができます。

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ダニエル書3

自分の罪によってあなたの人生が壊れた時

ペルシアがバビロンを打ち破った後、ダニエルはエレミヤの預言を思い出しました。それは、イスラエルの追放が70年間続くというものでした。その70年が過ぎたとき、ダニエルは神様の前に跪き、祈りを捧げました。

実際、他のイスラエル人と比べると、ダニエルは正しい人でした。彼は一貫して神様に忠実であり、それほど悔い改める必要がありませんでした。

それでもなお、イスラエル人のために祈るとき、ダニエルは「私は正しい人だからイスラエル人のために祈ります」とは言いませんでした。むしろ、自分の罪を認め、神様の恵みの必要性を訴えました。

ダニエルはこの祈りを通して、私たちの人生が罪によって壊れたとき、どのように祈るべきかを教えてくれます。

第一に、ダニエルは言い訳をせず、正直に自分の罪を告白することです。彼はこのように祈りました。

私たちは罪を犯し、不義をなし、悪を行ない、あなたにそむき、あなたの命令と定めとを離れました。

私たちはまた、あなたのしもべである預言者たちが御名によって、私たちの王たち、首長たち、先祖たち、および一般の人すべてに語ったことばに、聞き従いませんでした。(ダニエル書9:5-6)

第二に、ダニエルはユダヤ人が抱えるトラブルの原因を神様のせいにせず、彼ら自身の責任を認めることです。

イスラエル人はみな、あなたの律法を犯して離れ去り、御声に聞き従いませんでした。そこで、神のしもべモーセの律法に書かれているのろいと誓いが、私たちの上にふりかかりました。私たちが神に罪を犯したからです。

神は、大きなわざわいを私たちにもたらすと、かつて私たちと、私たちをさばいたさばきつかさたちに対して告げられたみことばを、成就されたのです。(ダニエル書9:11-12)

第三に、ダニエルはイスラエル人ではなく、神様こそが正義の方であることを認めることです。

私たちの神、主のみわざは、すべて正しいのです。私たちが、御声に聞き従わなかったからです。(ダニエル書9:14)

最後に、ダニエルはユダヤ人の良い行いに基づくのではなく、神様の恵みに基づいて赦しを願うことです。

私たちが御前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行ないによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです。

主よ。聞いてください。主よ。お赦しください。(ダニエル書9:18-19)

私たちの人生が罪によって壊れるとき、私たちはしばしば自分自身を責めるのではなく、周りの人々を責めます。

時には神様さえも責めることがあります。「あなたは不公平です。どうして私の人生はこんなにもめちゃくちゃになったのですか?」と文句を言うこともあります。

たとえ自分が悪かったと認めたとしても、私たちはよく自分の行動を弁解しようとします。

しかし、そのような態度を持ち続けるなら、私たちの人生は壊れたままで、神様の赦しを知ることは決してありません。むしろ、苦々しい心だけを抱くことになるでしょう。

もし赦しと癒しを知りたいなら、ダニエルのように祈るべきです。言い訳をせず、正直に神様に「私は悪かった。私は罪を犯しました」と告白することが必要です。

また、「神様、あなたは不公平です。だから私の人生はめちゃくちゃになったのです」と言うのではなく、自分の責任を認めることが大切です。

さらに、神様の判断が正しいと認めるべきです。

そして、神様の憐れみによってのみ、神様の赦しを願うべきです。私たちは神様の赦しに値する存在ではありません。神様の憐れみを得るために何かをすることはできません。ただへりくだって神様に頼ることしかできません。

そうすれば、神様がイスラエルの人々を触れて癒されたように、私たちの人生にも触れて癒してくださいます。

あなたはどうでしょうか。あなたの罪によって、あなたの人生は壊れているのですか。神様を責めていますか。他の人々を責めていますか。

今こそ、自分の責任を認め、罪を告白する時です。そうすれば、神様の赦しと癒しを知ることができるでしょう。

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エゼキエル書

私たちが倒れると

この箇所では、神様は再びユダの周辺の国々を厳しく責められます。なぜなら、エルサレムが倒れたとき、彼らがそれを喜んだからです。

まず、神様はエドムを責められました。エドムはユダに対して悪意や妬み、怒りを抱いていただけでなく、ユダの苦しみを自分たちの利益のために利用しようとしました。

そして、神様はイスラエルにその国々の裁きとイスラエルの癒しについて伝えられました。

とはいえ、イスラエルはその憐れみにまったく値しませんでした。彼らが癒されるのは、イスラエルの性格によるのではなく、神様の恵みによるのです。

むしろ、彼らが癒されるのは、神様のご性質によるのです。

エルサレムの没落の際、周りの国々は神様に向かって「高慢なことばを吐いた」のです。(35:13)

けれども、神様がイスラエルを癒すとき、その国々は神様がどのようなお方であるかを知ることになります。

つまり、神様は力ある神であり、恐るべき神です。また、神様は約束を守られる神であり、罰を与える神でありながら癒す神でもあります。怒りの神でありながら、人を赦す神なのです。

したがって、イスラエルを通じて周辺の国々は、神様だけが主であることを知るようになります。

神様はどのようにしてイスラエルを癒されるのでしょうか。それは人間の心を変えることです。他の神々には決してできないことです。

そして、神様はこう言われました。

わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。

わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。

わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。

わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。(25ー27)

そのようにして、神様は私たちの心に働きかけておられます。私たちは神様に背を向け、自分の道を歩みましたが、それでも神様は私たちを救ってくださいます。

私たちの良い性格によってではなく、神様ご自身が素晴らしいお方であるからこそ、私たちを救われるのです。

私たちの行いによってではなく、むしろ神様の御業によって、私たちは救われます。

パウロはこう書きました。

神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。

神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。

それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。(テトス3:5-7)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。私たちがどんなに倒れても、神様は私たちを救うことができます。神様は私たちを良い性格によって救われるのではありません。

もし私たちが本当に良い人であれば、救いを必要としないでしょう。しかし、私たちは罪人であり、救いが必要です。なぜなら、私たちは神様に背を向けて、自分の道を歩んだからです。

ですから、もしあなたが神様から遠く離れているのなら、神様に向き直りましょう。そして、神様の赦しを求めましょう。そうすれば、神様はあなたの声を聞き、あなたを癒してくださいます。

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エレミヤ書

損なわれた

私たちは壊れた世界に生きています。ニュースを見るだけで、その現実はすぐに理解できるでしょう。

けれども、この箇所では、神様が損なわれたものを美しいものへと変えることがおできになるということを学ぶことができます。

神様はエレミヤに「陶器師の家に下りなさい」と言われました。エレミヤがその場所に着くと、陶器師がろくろを使って仕事をしていました。

陶器師が作っていた器は一度失敗しましたが、彼はそれを捨てませんでした。むしろ、彼は、

再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。(エレミヤ書18:4)

そして、神様はエレミヤにこう言わました。

イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。――主の御告げ――

見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。(6)

イスラエルは自分の罪によって損なわれました。しかし、神様はこう言われました。「たとえあなたが損なわれても、私はあなたを美しいものに変えることができます。」

神様は私たちにも同じことを語っておられます。

あなたは、自分の人生を見て、価値がないと感じることがあるかもしれません。また、自分があまりにも罪深いので、神様が自分を愛することなどできないと思うかもしれません。

けれども、たとえどんなに損なわれていても、神様はあなたの傷を癒すことがおできになります。神様は、あなたの壊れた人生を新しいものに変えることができる方です。

あなたを癒すために、イエス様は損なわれました。イザヤは次のように語っています。

しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ書53:5)

あなたは、自分自身を損なわれたものだと感じていますか。神様はあなたを赦し、そして新しいものに変えてくださいます。どうか神様に向かって、仰ぎませんか。

Something beautiful, something good
美しいもの、良いもの。

All my confusion, he understood
神様は私の混乱を理解しておられました。

All I had to offer him was brokenness and strife
私は壊れた人生と、闘争の多い心しかささげることができませんでした。

But he made something beautiful of my life
しかし、神様は私の人生を美しいものへと変えてくださいました。

ーービル・ゲイザー

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エレミヤ書

癒しの必要

人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。(エレミヤ書17:9)

この箇所は人間の本質を端的に表していると思います。

この世の問題について考える時、その根本的な原因は人間の心にあります。私たちの心は陰険です。私たちは周りの人々を欺くだけでなく、自分自身さえも欺きます。

この箇所では、エレミヤはこう言います。

「ある人々は富を得るために周りの人々を欺きます。なぜなら、彼らは自分自身を欺き、お金さえあれば幸せになれると思い込んでいるからです。」

しかし、エレミヤは彼らについて次のように語りました。

彼の一生の半ばで、富が彼を置き去りにし、そのすえはしれ者となる。(11)

他の人々は、神様が人生の喜びを取り去ろうとされると思うため、神様に背を向けます。彼らは、自分の人生がもっと楽しくなると考えています。

しかし、エレミヤは次のように語りました。

あなたを捨てる者は、みな恥を見ます。

「わたしから離れ去る者は、地にその名がしるされる。いのちの水の泉、主を捨てたからだ。」(13)

つまり、命の源は神様です。だから、神様に背を向けると、彼らは自分の命を失ってしまいます。

他の人々は神様の言葉を聞いて、あざけりました。彼らはこう言います。

主のことばはどこへ行ったのか。さあ、それを来させよ。(15)

しかし、神様の言葉は必ず成就します。そして、もし彼らが悔い改めないならば、裁きの日に彼らのあざけりは後悔と涙に変わるでしょう。

私たちは周りの人々を欺くことがあるかもしれません。自分自身を欺くこともあるかもしれません。けれども、神様を欺くことは決してできません。

だからこそ、神様は私たちにこう警告されます。

わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によって報いる。(10)

私たちの心は病にかかり、罪によって汚れてしまいました。私たちは自分自身の心を癒すことはできません。人間にはそれを治すための治療法がありません。

どんなに頑張っても、私たちは神様の目に正しい者となることはできません。むしろ、私たちは繰り返し罪のパターンに陥ります。

では、私たちの希望はどこにあるのでしょうか。それは、神様だけにあります。

だからこそ、エレミヤのように祈りましょう。

私をいやしてください。主よ。そうすれば、私はいえましょう。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。あなたこそ、私の賛美だからです。(14)

十字架でイエス様が流された血によって、私たちの罪の代価が支払われました。そして、聖霊の働きによって、私たちの心が洗われ、清められます。

あなたはどうでしょうか。自分の罪を認識し、その癒しが必要だと感じていますか。

イエス様に向かうなら、イエス様はあなたを癒し、解放してくださいます。

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ミカ書

聞きたくない

「それは聞きたくない。」

聖書を読むとき、私たちはどれほどそのような態度を取るでしょうか。つまり、困難に直面しているとき、聖書から何をすべきかが示されているのに、その言葉が好きではないために、すぐに拒絶してしまうのです。

ある友人は、いつも口から悪い言葉を出していました。彼は自分の罪をよく知っていたため、口についての聖書の箇所をいつも避けていました。例えば、箴言やヤコブの手紙を決して読みませんでした。

けれども、ある日、彼が聖書を読んだとき、これまで一度も読んだことのなかった箇所によって、神様がその口の悪さの罪について彼の心を打たれました。幸いなことに、彼は結局悔い改めることができました。

それでも、私たちはしばしば聖書の言葉を避け、その言葉を無視してしまいます。なぜなら、その言葉を聞くことが耳に痛いからです。

イスラエルの民も同じでした。彼らはミカにこう言いました。

たわごとを言うな。(ミカ書2:6)

でもミカは答えました。

そんなたわごとを言ってはならない。恥を避けることはできない。ヤコブの家がそんなことを言われてよいものか。主がこれをがまんされるだろうか。(6b-7a)

つまり、神様の言葉を拒絶してはいけません。「たわごとを言うな」という言葉に神様は我慢できません。そのような態度を取れば、恥を避けることはできないのです。

そしてミカは訊きました。

「これは主のみわざだろうか。」(7b)

3-5節では、神様はいろんな裁きについてイスラエル人に警告しました。そしてイスラエル人たちは訊きました。「その裁きは本当に神様のみわざだろうか。神様は本当に私たちの態度と罪のために私たちを裁くだろうか。」

ミカはその質問に答えませんが、その答えは明白です。「はい。神様は本当にあなたを裁きます。」

もし私たちが罪を犯すと、悪い結果が起こります。悔い改めないと、必ず裁きが来ます。この世では、私たちの罪によって結婚生活が壊れるかもしれません。経済的にも困窮するかもしれません。

とはいえ、この世で何も起こらなくても、私たちが死ぬと神様は私たちを必ず裁きます。その裁きから逃げられません。

しかし、良いニュースもあります。神様は訊かれました。

私のことばは、正しく歩む者に益とならないだろうか。(7c)

もう一度、神様はその質問に答えませんが、その答えも明白です。「もちろんその通りです。」

つまり、神様の言葉は私たちの人生を惨めにするためのものではありません。

むしろ、神様の言葉は私たちに命を与えるものです。神様の言葉は、私たちの人生がうまくいくために必要なものです。つまり、私たちの結婚生活が良いものになり、良い仕事があり、食べ物があり、寝る場所もしっかり確保できるために、神様の言葉が必要です。

とはいえ、たとえそのようなものがなくても、神様に従うと、満足のいく人生を送ることができます。なぜならば、神様との関係があれば、一番大切なものを持つことになるからです。

時には神様の言葉が痛みを伴うこともあります。しかし最終的に、その言葉は私たちを癒すものなのです。

もしその罪の傷を神様の言葉で治療しないと、あなたの傷はもっと悪くなり、その傷によって私たちは滅びてしまいます。

あなたはどうですか?あなたは神様の言葉から逃げているでしょうか?あなたの耳を閉じているでしょうか?

どうかあなたの心を開いてください。あなたの心を柔らかくしてください。神様の言葉は痛みを伴うかもしれませんが、あなたを癒せるのです。

あなたの人生に癒しが始まりますように。