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コリント人への手紙第一のデボーション

神様を喜ばせる選び

前にもこの箇所について書きましたので、今回は具体的な解説はしません。ただ、今日私が気づいたのは、第8章には第6章との強い関係があるということです。

(ちなみに、パウロがこの手紙を書いたときには、章と節の番号は付けられていませんでした。)

前回の記事でも触れましたが、コリント人たちには口癖がありました。それは、

すべてのことが私には許されている。(コリント人への手紙第一6:12a)

でも、パウロはこのように答えました。

すべてが益になるわけではありません。(6:12b)

第8章では、私たちはもう一度、コリント人たちの口癖を見ることになります。つまり、彼らは「偶像の神は実際には存在しないので、その偶像に捧げた肉を食べてもよい」と言っていました。

実のところ、パウロはその考えに同意しています(8:4〜6、8)。

しかし問題は、その肉を食べることが教会に益をもたらしていないという点です。なぜなら、弱い良心を持つクリスチャンたちがそれを見て、自分の信仰が滅びることになったからです(8:10〜11)。

そのため、パウロはコリント人たちに思い起こさせます。

すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。(新改訳, 第3版)

パウロは、ただ神学的な真理を教えているだけではないと思います。むしろ、以前に自分が語ったことを、コリント人たちに思い起こさせているのです。つまり、

あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。(6:19〜20)

だから、パウロはコリント人たちに訓戒を与えます。

あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。(8:12)

この場合、偶像に捧げた肉を食べること自体は罪ではありませんでしたが、兄弟たちがつまずいたため、彼らの行為は罪となりました。

ですから、覚えておきましょう。「何が許されているか?」という問いは、誤った問いです。

正しい問いは、「私は誰のものでしょうか。どのように神様を喜ばせることができるでしょうか」ということです。