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ルカの福音書のデボーション

私たちはなぜ教会に来るのでしょうか

今日の箇所を読んだとき、いろいろなことを考えさせられましたが、会堂でのイエス様の言葉は私の心を打ちました。

会堂司が気にしていたのは、宗教的なルールを守ることでした。だから、イエス様がある女性を癒されたとき、会堂司はまったく喜びませんでした。逆に、彼は怒りました。

働くべき日は六日ある。だから、その間に来て治してもらいなさい。安息日にはいけない。(ルカの福音書13:14)

しかし、イエス様は答えられました。

この人はアブラハムの娘です。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日に、この束縛を解いてやるべきではありませんか。(16)

教会に行くとき、私たちは何を気にするのでしょうか。

たぶん、宗教的なルールを心配することはないかもしれませんが、どれほど自分のこと、特に教会で自分が何を得ることができるかを考えているでしょうか。

でも、毎週の日曜日、神様はサタンに縛られていて、解放が必要な人を教会に何人送っておられるでしょうか。彼らが教会に来たとき、私たちは気づくでしょうか。

主よ。教会に行くとき、私の目を開いてください。サタンに縛られ、傷ついている人に気づくように助けてください。

私があなたの愛のパイプラインとなるようにしてください。私を通して、彼らが解放されるようにしてください。

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コリント人への手紙第一

聖書の物語の目的

多くのクリスチャンは旧約聖書を避け、新約聖書だけを読みます。なぜなら、新約聖書に最も重要なことが書かれていると考えているからです。

もちろん、新約聖書にはイエス様の十字架の働きや、恵みによる信仰による救いがより明確に記されています。しかし、新約聖書の著者たちは、旧約聖書を不要なものとして捨てたわけではありません。

むしろ、彼らは何度も旧約聖書を引用しました。彼らは旧約聖書から抜粋したり、旧約聖書の出来事について語ったり、その教訓を適用することを教えたりしました。イエス様も、使徒たちも同様でした。

だからこそ、私たちもそうしなければなりません。

10章の冒頭で、パウロはイスラエルの民の荒野の旅を思い起こし、それについて語ります。そして、彼はコリントの人々にこう言いました。

これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。(コリント人への手紙第一10:6)

また、

これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。(コリント人への手紙第一10:11)

パウロは特に偶像礼拝、性的な罪、そして神様への不信について語っています。そして、彼によれば、これらの話を読むとき、私たちはそこから教訓を学ばなければなりません。

実際、どの聖書の話を読んでも、私たちはそうすべきです。不信者のように童話として読むのではなく、また単なる歴史的な物語として読むのでもありません。

むしろ、聖書を読むときには、こう祈るべきです。「神様、あなたは私に何を教えたいと望んでおられるでしょうか。私に何を伝えようとしておられるでしょうか。」

そのような心を持つなら、神様は私たちに教えてくださいます。このブログでは、私はその模範を示そうとしています。ただ事実を述べるのではなく、私たちの人生への適用を教えようとしています。

しかし、私たちは子供たちのためにもそうすべきです。子供たちに聖書の物語を教えることはとても良いことですが、その適用を簡単に説明することが大切です。

例えば、「神様は私たちの必要を満たしてくださいます。」(神様がエリヤに食べ物を与えた話、またはイスラエルの民にマナを与えた話。)

または、「神様に従うことは重要です。」(アダムとエバの話。)

とにかく、忘れないでください。聖書の物語は単なる話ではありません。神様は私たちへの教訓として、そして私たちの益のためにこれらを与えてくださいました。

あなたはこのような視点を持って、聖書を読もうとするでしょうか。

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エゼキエル書

神様の目的のため、神様の栄光のため

この箇所では、エゼキエルが将来の戦いについて語ります。その時、いくつかの国々がイスラエルを打ち破ろうとして攻撃しますが、神様はその国々を滅ぼされます。

この箇所についてはさまざまな議論が交わされていますが、このブログではその議論には触れません。なぜなら、それは非常に複雑であり、私よりもはるかに賢い人たちが議論しているからです。😊

私が特に注目したいのは、なぜ神様がその戦いを許されるのかという点です。神様はその将来のリーダーたちにこう言われます

あなたは、わたしの民イスラエルを攻めに上り、終わりの日に、あなたは地をおおう雲のようになる。。。

わたしはあなたに、わたしの地を攻めさせる。それは、わたしがあなたを使って諸国の民の目の前にわたしの聖なることを示し、彼らがわたしを知るためだ。(エゼキエル書38:16)

そして、その国々の裁きについて語った後、神様はその裁きの理由を説明されます。

わたしがわたしの大いなることを示し、わたしの聖なることを示して、多くの国々の見ている前で、わたしを知らせるとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。(38:23)

39章でも、そのテーマは続いています。

わたしは、わたしの聖なる名をわたしの民イスラエルの中に知らせ、二度とわたしの聖なる名を汚させない。

諸国の民は、わたしが主であり、イスラエルの聖なる者であることを知ろう。(エゼキエル書39:7)

そして、イスラエルの癒しについて語る際に、神様はこう言われます。

わたしが彼らを国々の民の間から帰らせ、彼らの敵の地から集め、多くの国々が見ている前で、彼らのうちにわたしの聖なることを示す。。。(39:27)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

神様はご自身の目的を果たすために働いておられます。また、神様はご自身の栄光を現すために働いておられるのです。

そして、神様の御業の目的は、この世が神様を知ることにあります。つまり、神様は他の「神々」よりも優れたお方です。なぜなら、それらの「神々」は本当の神ではないからです。

そして、最後の日に、

イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられる。。。(ピリピ2:10-11)

神様はイスラエルの民を、ご自身の民とするために呼んでくださいました。しかし、アブラハムとその子孫が他の人々よりも優れていたわけではありません。

アブラハムとその子孫の話を読むと、彼らもまた罪人であったことがわかります。

それでも、神様の恵みによって彼らが呼ばれたのです。

神様はご自身の目的のために彼らを選ばれました。神様は彼らが罪を犯すことをすでに知っておられましたが、それでも彼らを通してご自身の栄光をこの世に現すことを計画されたのです。

神様はイスラエルの民を通してイエス様を送り、私たちを贖い、神様がどのような方であるかを示されました。

そして、終わりの日に、神様はイスラエルを守り、ご自身の民に聖霊を注ぎ、彼らの罪を赦されます。その御業を通して、神様はご自身の栄光と力、そして恵みをこの世に現されるのです。

その同じ理由で、神様は私たちクリスチャンを選ばれました。

私たちは他の人々よりも優れているわけではありません。また、私たちの目的や栄光のために選ばれたのでもありません。

むしろ、神様の恵みによって、そして神様の目的と栄光のために私たちは選ばれたのです。

この世が神様を知るために、神様は私たちを選んでくださいました。その神は、

あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者。。。(出エジプト34:6-7)

私たちは神様の目的と栄光のために生きましょう。

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エレミヤ書

私たちの価値がどこから来るか

あなたの価値はどこから来るのでしょうか。

多くの人々は人生の目的を探します。また、彼らは「私の人生には本当に価値があるのだろうか」と問いかけます。

その答えを見つけたいのであれば、それはただ一つの場所にしか見つけられません。しかし、その答えは自分自身の中にはありません。

この箇所では、神様はイスラエル人にそのことを教えられました。

神様がイスラエル人を愛し、彼らにいろいろな祝福を注がれたのに、彼らは神様に背を向けました。そのため、神様はイスラエル人を不倫している妻にたとえられました。

神様は彼らに問いかけられました。

あなたがたの先祖は、わたしにどんな不正を見つけて、わたしから遠く離れ[たでしょうか。」(エレミヤ書2:5a)

そして、神様はその先祖についてこう言われました。

[彼らは]むなしいものに従って行って、むなしいものとなった。。。(5b)

多くの人々は「私の人生には本当に価値があるでしょうか。私の目的を見つけなければならない」と言います。

そのため、その答えを見つけるためにあちらこちらへ行きます。

けれども、彼らは神様を求めません。むしろ、お金やキャリア、彼や彼女、夫や妻、そして持ち物を追い求めます。

イスラエル人も同じことをしていました。神様は彼らについてこう言われました。

彼らは尋ねもしなかった。『主はどこにおられるのか。。。

祭司たちは、『主はどこにおられるのか』と言わず、律法を取り扱う者たちも、わたしを知らず、牧者たちもわたしにそむき、預言者たちはバアルによって預言して、無益なものに従って行った。(6、8)

しかし、私たちがこの世の虚しい物を求めても、自分の価値を見つけることはできません。かえって私たちの価値を失ってしまいます。

私たちの目的を見つけることもできません。かえって私たちの目的を失ってしまいます。

神様はこう言われました。

わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。(13)

この箇所では、二つの罪を見ることができます。

1.湧き水の泉である神様を捨てること。

2.自分の水をためることができない、壊れた水ためを掘ること。

どれほど多くの人々が、お金や持ち物、力、人間関係によって、自分の「水ため」を掘るでしょうか。そして、彼らは一時的な満足を感じますが、結局はまた空っぽだと感じます。

そのため、彼らはさらにこう叫びます。「私の生きる目的は何でしょうか。私の価値はどこから来るのでしょうか。」

けれども、その道を生き続けるならば、神様はこう言われます。

あなたの悪が、あなたを懲らし、あなたの背信が、あなたを責める。だから、知り、見きわめよ。

あなたが、あなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、どんなに悪く、苦々しいことかを。――万軍の神、主の御告げ――(19)

どうしてでしょうか。命の源を捨てるならば、どうやって命を見つけることができるでしょうか。それは不可能です。他のものは結局、私たちを失望させるからです。

イスラエルはエジプトとの同盟、またアッシリヤとの同盟、さらにその国々の神々を通して、自分の目的と価値を探しました。(18)

しかし、神様はこう言われました。

あなたはアッシリヤによってはずかしめられたと同様に、エジプトによってもはずかしめられる。そこからもあなたは、両手を頭にのせて出て来よう。

主があなたの拠り頼む者を退けるので、あなたは彼らによって栄えることは決してない。(36ー37)

あなたは自分の目的を探しているでしょうか。自分の価値がどこから来るのか知りたいでしょうか。

自分の中ではその答えを見つけることはできません。この世の物によって見つけることもできません。

神様だけが、あなたの目的と価値を示されます。

だから神様を求めましょう。むなしいものに従って行くと、むなしいものとなってしまいます。