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ヨハネの福音書 ヨハネ9章

救い

イエス様が生まれつき盲目の人を癒されたとき、ユダヤ人たちは驚きました。

しかし、この話を通して、私たちはもう一つのことを見ることができます。それは、美しい救いの描写です。

この話では、その人は生まれてからずっと目が不自由でした。同じように、私たちも生まれてから霊的に盲目であり、霊的に死んでいました。

そして、イエス様は私たちを見つけてくださいました。この話では、盲目の人はイエス様を求めていませんでした。むしろ、イエス様はその人を見つけ、触れてくださいました。

同じように、私たちが神様を求めていなかったのに、神様は私たちを見つけて、触れてくださいました。

さらに、イエス様はその人にこう言われました。「行って、シロアムの池で洗いなさい。」

そのように、神様は霊的なバプテスマを通して私たちの罪を清めてくださいました。そして、私たちの洗礼式を通じて、私たちは周りの人々に神様が私たちのために何をしてくださったかを宣言します。

その人の目が癒されたのは、本当に劇的な変化でした。そのため、周りの人々は彼のことをほとんど認識できませんでした。彼らはこう言いました。

これはすわって物ごいをしていた人ではないか。(ヨハネの福音書9:8)

ある人は、「これはその人だ」と言いました。けれども、ほかの人は、「そうじゃない。ただその人に似ているだけだ」と言いました。(9)

しかし、その人は言い張りました。「私がその人です。」

時々、私たちがクリスチャンになると、周りの人々がユダヤ人たちのように反応します。私たちが劇的な変化を経験するので、周りの人々は私たちを見て驚きます。「あなたは全然違う人みたいです。どうして。」

その時、私たちには、彼らに神様が私たちのために何をしてくださったかを伝える機会があります。

また、時間が経つにつれて、私たちはイエス様のことをもっと深く理解するようになります。この話では、癒された人にとっていろんな段階がありました。

「彼はイエスという方です。」

さらに、「あの方は預言者です。」

そして、最後に、「あなたは人の子(つまり、メシア、王、救い主)です。」

私たちは自分のあかしを言うかもしれませんし、相手が私たちの変化を否定できないかもしれません。それでも、彼らはキリストだけではなく、私たちをも拒絶する可能性があります。

この話では、癒された人も同じ経験をしました。パリサイ人たちは、その人にイエス様が罪人であることを説得しようとしました。けれども、その人が彼らの主張を否定すると、彼らはその人を拒絶しました。

それでも、その人の信仰は揺らぎませんでした。イエス様がもう一度彼を見つけたとき、その人はひれ伏してイエス様を拝みました。なぜなら、彼は新しい命を受けていたからです。

私たちもその人のように反応しましょう。

神様が私たちのためにしてくださったことに感謝し、大胆に周りの人々に私たちのあかしを伝えましょう。反対されても、勇気を持って恐れに屈することのないように。そして、毎日私たちの救い主を求め、礼拝しましょう。

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ヨハネの福音書 ヨハネ9章

どうして私にそんなことが起こったのだろうか

時々、私たちに悪いことが起こると、私たちは「どうして?神様は私を罰しているのだろうか」と尋ねます。

実際、時々私たちの罪のために、神様は私たちが苦しむことを許されます。とはいえ、多くの場合、神様は積極的に私たちを罰しておられるのではありません。むしろ、私たちは自分の罪の自然の結果を受けるのです。

あなたがクリスチャンであり、神様があなたを赦してくださったかもしれませんが、この世において、罪の結果を避けられるとは限りません。多くの場合、私たちの罪のゆえに悪いことが起こります。

そして、神様がその罪の結果から私たちを守られないなら、私たちは神様を責めることができません。なぜなら、その苦しみによって、私たちは罪の悪さを理解できるようになるからです。

それは、私たちが聖くなる過程の一部です。その火を通して、神様は私たちを清めてくださいます。

とはいえ、私たちが罪を犯さなくても、私たちに悪いことが起こる場合もあります。

今日の箇所では、イエス様とその弟子たちは、生まれつき盲目の人を見ました。そして、弟子たちはイエス様にこう尋ねました。

先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。(ヨハネの福音書9:2)

その時代、多くの人々はこう考えていました。「あなたの体が不自由なら、それはあなたのせいです。神様があなたの罪のために罰しているのです。」

けれども、その人は生まれつき盲目でした。だから、弟子たちは混乱しました。「この人はご両親の罪のために盲目になったのでしょうか。それとも、もしかしたら子宮の中で、この人自身がなにか罪を犯したのでしょうか。」

すると、イエス様はこう答えられました。

この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。(3)

イエス様が意味されたものは何だったのでしょうか。時々、私たちの苦しみは私たちの罪のためではありません。むしろ、神様は私たちを通して素晴らしいことをしようと思われるのです。

アメリカでは、ジョニー・エリクソン・タダという人がいます。彼女は十代の時にダイビング事故で四肢麻痺になりました。たくさんの人々が彼女のために祈りましたが、神様は彼女を癒されませんでした。

けれども、彼女を通して神様は多くの人々に触れられました。その事故が起こらなかったなら、ジョニーはそんな影響力を持つことはなかったでしょう。

神様は彼女を罰しておられませんでした。むしろ、彼女を通して神様のわざが現れたのです。

イエス様はこう言われました。

わたしが世にいる間、わたしは世の光です。(5)

イエス様は天国に戻られましたが、神様の栄光を現すために私たちの人生を照らしてくださいます。そして、私たちを通してイエス様は輝き、周りの人々に触れてくださいます。

だから、あなたが苦しんでいるなら、自己憐憫に浸らないでください。むしろ、このように祈りましょう。「神様、私を照らしてください。また私を通して、輝いてください。」

そうすれば、あなたの人生に神様の栄光が輝くでしょう。

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マルコの福音書 マルコ8章

盲人

17年くらい前の話ですが、私の父が転倒した際にメガネが割れ、父の目にガラスが入ったため、視力を失いました。

おそらく、この聖書の箇所に出てくる男性も似た経験をしていたのではないかと思います。彼は若い頃にはきちんと見ることができたけれど、事故や病気のせいで視力を失ったのかもしれません。そう考えられる理由は、彼が木や人の形をよく知っていたからです。

さて、イエス様がその男性を癒された際、その手順は少し変わっていました。イエス様はその男性の両目に唾をつけ、その目に触れました。

もしかしたら、多くの盲人と同じように、彼の瞼は粘着質のものが原因で閉じていたのかもしれません。そのため、洗い清める必要があったのでしょう。

そしてイエス様は彼の目を開きました。その後、イエス様は彼に「何か見えるか」と尋ねられました。

男性は、「人が見えます。木のように見えますが、歩いているのが分かります」と答えました。

イエス様がもう一度彼の両目に触れると、その男性の目は完全に癒されました。

イエス様がその人の目を癒されたように、イエス様は霊的に盲目な人々も癒してくださいます。ただし、この話のように、時には段階があります。

イエス様は彼らの霊的な瞼を開くために、彼らの罪深い考えを洗い清めてくださいます。そして彼らは少しだけ見ることができるようになりますが、まだはっきりとは見えません。

しかし、イエス様が彼らにもう一度触れると、彼らの霊的な目は完全に癒されます。その時、彼らが最初に見るものはイエス様です。

その後、イエス様は彼らの思いと人生を変え、彼らは新しい人に生まれ変わります。

ですから、もし周りの人々がイエス様を見ることができず、人生を変えられる真理に気づいていないとしても、諦めないでください。時間がかかることもあるでしょう。

また、あなたが彼らの霊的な目を開くことはできません。彼らの目を開くことができるのはイエス様だけです。そのため、彼らのために祈り続け、霊的な種を蒔き続けてください。

そして、神様の恵みによって、いつの日か彼らの目が開かれる時が来るでしょう。

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イザヤ書

盲人、無知な人

「どうして神様ははっきりとご自身を現されないのでしょうか。そうしてくだされば、私は神様が存在するかどうかを推測する必要がなくなるのです。」

時々、信者も信じない人も、そのようなことを言います。

けれども、その質問をするのであれば、まず、私からあなたに質問があります。

もし神様がそのようにはっきりと現れたら、あなたは本当に神様についていくでしょうか。それとも、単に神様についていかないための言い訳をしているだけではないでしょうか。

実際、聖書の時代には神様はご自身をもっとはっきりと現されました。それでも、多くの人々は神様についていこうとはしませんでした。

例えば、神様は驚くべきしるしと奇跡を通して、イスラエル人をエジプトから救い出してくださいました。何度も砂漠で、神様は彼らに食べ物と水を備えてくださいました。また、雲の柱と火の柱はイスラエル人の宿営にあり、それらは神様の臨在のしるしでした。

それにもかかわらず、イスラエル人は何度も神様を信頼せず、神様に背きました。

そして、新約聖書の時代、神様は人間としてこの世に来られ、イスラエル人にご自身を現されました。イスラエル人はずっと救い主の到来を祈り求めており、ついにイエス様が来られました。

イエス様は奇跡を行い、知恵によって人々を教えられました。他の人々はイエス様と議論しようとしましたが、最終的に彼らは黙らざるを得ませんでした。

それなら当然、イスラエル人全員がイエス様についていったと思うかもしれませんね。

ところが、そうではありません。彼らはイエス様を十字架に掛けました。

このイザヤの箇所では、私たちはそのような態度を見ることができます。アリエル(つまりエルサレム)はまさにそのような態度を持っていたため、イザヤは彼らを責めました。

「アリエル」という言葉の意味は、「神様のライオン」ですが、イザヤはその名前を皮肉として用いています。

彼らは「私たちは神様のライオンだ」と言っていながら、自分たちの道を歩んでいました。

イザヤは次のように言いました。

そこで主は仰せられた。

「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。(イザヤ書29:13)

だから、神様は裁きについて警告されました。まず、神様はエルサレムを裁くと告げましたが、彼らのプライドが打ち砕かれた後には、エルサレムの敵も裁くと警告されました。

しかし、イスラエル人はその警告を聞いても、危険を認識することができませんでした。なぜでしょうか。

イザヤは次のように言いました。

主が、あなたがたの上に深い眠りの霊を注ぎ、あなたがたの目、預言者たちを閉じ、あなたがたの頭、先見者たちをおおわれたから。(10)

あなたはこう言うかもしれません。「ちょっと待って、それは公平ではない。神様が彼らの目を閉じたのなら、彼らが見ないことで罰するのは不公平ではないですか。」

けれども、実際のところ、イスラエル人は何も見たくありませんでした。知りたいとも思いませんでした。

イザヤは次のように言いました。

のろくなれ。驚け。目を堅くつぶって見えなくなれ。(9)

つまり、「あなたは見たくないのですか。真実に目を閉じたいのですか。いいでしょう。では、あなたはその真理を見ることはできないでしょう。」

イザヤは別の比喩を使いました。神様の言葉は、イスラエル人にとって封じられた書物のようになる、と。

そのため、イスラエル人はこう言います。「神様の言葉は封じられた書物だから、読むことができない。」

または、こう言います。「この預言は難しすぎる。理解できない。」

さらに、「私は読むことができないから、しょうがない。」とも言います。

しかし、それは単なる言い訳でした。彼らは心の中で、本当に理解したくなかったのです。もし本当に理解したかったのなら、間違いなくイザヤや他の預言者に尋ねていたでしょう。

けれども、彼らは、ただ「ごめんなさい。分かりません。」と言って立ち去っただけでした。

イエス様の時代、多くのイスラエル人もまた、このような人々でした。

イエス様は多くのたとえ話を使いました。彼らはその話を気に入りましたが、その意味を理解することはありませんでした。それでも、説明を求めることもせず、彼らはただ帰っていきました。

その一方、イエス様の弟子たちはその意味を知りたかったので、イエス様に質問をしました。すると、イエス様がそのたとえ話を説明され、彼らは理解することができました。

現代でも、多くの人々はこう言います。「聖書は難しすぎて、分かりません。」

しかし、本当に理解したいという心があれば、理解することは可能です。

それでも、彼らは助けを求めることなく、すぐに立ち去ってしまいます。

それは、自分の目を閉じることを意味します。つまり、真理を知りたくないという態度です。

そのような態度を取れば、神様はこう言われます。「それはあなたの選択です。けれども、裁きの日は確実に来ています。あなたは必ず裁かれるでしょう。」

あなたはどうでしょうか。神様の心に対して、自分の目を閉じますか。神様の言葉を知りたくないと考えていますか。

もし、あなたが自分の目を閉じて真理を知りたくないなら、神様はあなたに無理やりご自身を認めさせることはされません。

しかし、もし見たいと望み、心から神様を求めるなら、神様はご自身をあなたに現されるのです。

神様は、イスラエル人にこのような日が来ることを語られました。

その日、耳の聞こえない者が書物のことばを聞き、目の見えない者の目が暗黒とやみから物を見る。(18)

また、

心の迷っている者は悟りを得、つぶやく者もおしえを学ぶ。(24)

私たちが盲人にならないように、無知な人にならないようにしましょう。むしろ、心から神様を求めましょう。そうすることで、私たちは本当に生きはじめるのです。