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使徒の働きのデボーション

健全な良心にしたがう

パウロは、最高法院の人々を見つめて言った。

「兄弟たち。私は今日まで、あくまでも健全な良心にしたがって、神の前に生きてきました。」(使徒の働き23:1)

今日の箇所を読んだとき、「パウロの言葉を言うことができたらいいのに」と思いました。

もちろん、そう言うときに、傲慢で独善的な態度を取ってはいけません。

実際、私たちは健全な良心に従おうとしても、時にはひどいことをしてしまうことがあります。パウロは、他の多くの人々以上に、そのことを理解していたでしょう。(第一テモテ1:13〜14)

しかし、私は決して自分の良心に反して故意に罪を犯したくありません。

むしろ、自分の罪を見いだすとき、私はパウロのように柔らかい心を持ち、すぐに悔い改めたいです。(使徒の働き23:5)

だから、これはいつも私の心の祈りです。

だれが、自分の過ちを悟ることができるでしょう。

どうか、隠れた罪から私を解き放ってください。

あなたのしもべを傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。そのとき私は大きな背きから解き放たれて、全き者となるでしょう。

私の口のことばと、私の心の思いとが御前に受け入れられますように。主よ、わが岩、わが贖い主よ。」(詩篇19:12〜14)

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イザヤ書

盲人、無知な人

「どうして神様ははっきりとご自身を現されないのでしょうか。そうしてくだされば、私は神様が存在するかどうかを推測する必要がなくなるのです。」

時々、信者も信じない人も、そのようなことを言います。

けれども、その質問をするのであれば、まず、私からあなたに質問があります。

もし神様がそのようにはっきりと現れたら、あなたは本当に神様についていくでしょうか。それとも、単に神様についていかないための言い訳をしているだけではないでしょうか。

実際、聖書の時代には神様はご自身をもっとはっきりと現されました。それでも、多くの人々は神様についていこうとはしませんでした。

例えば、神様は驚くべきしるしと奇跡を通して、イスラエル人をエジプトから救い出してくださいました。何度も砂漠で、神様は彼らに食べ物と水を備えてくださいました。また、雲の柱と火の柱はイスラエル人の宿営にあり、それらは神様の臨在のしるしでした。

それにもかかわらず、イスラエル人は何度も神様を信頼せず、神様に背きました。

そして、新約聖書の時代、神様は人間としてこの世に来られ、イスラエル人にご自身を現されました。イスラエル人はずっと救い主の到来を祈り求めており、ついにイエス様が来られました。

イエス様は奇跡を行い、知恵によって人々を教えられました。他の人々はイエス様と議論しようとしましたが、最終的に彼らは黙らざるを得ませんでした。

それなら当然、イスラエル人全員がイエス様についていったと思うかもしれませんね。

ところが、そうではありません。彼らはイエス様を十字架に掛けました。

このイザヤの箇所では、私たちはそのような態度を見ることができます。アリエル(つまりエルサレム)はまさにそのような態度を持っていたため、イザヤは彼らを責めました。

「アリエル」という言葉の意味は、「神様のライオン」ですが、イザヤはその名前を皮肉として用いています。

彼らは「私たちは神様のライオンだ」と言っていながら、自分たちの道を歩んでいました。

イザヤは次のように言いました。

そこで主は仰せられた。

「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。(イザヤ書29:13)

だから、神様は裁きについて警告されました。まず、神様はエルサレムを裁くと告げましたが、彼らのプライドが打ち砕かれた後には、エルサレムの敵も裁くと警告されました。

しかし、イスラエル人はその警告を聞いても、危険を認識することができませんでした。なぜでしょうか。

イザヤは次のように言いました。

主が、あなたがたの上に深い眠りの霊を注ぎ、あなたがたの目、預言者たちを閉じ、あなたがたの頭、先見者たちをおおわれたから。(10)

あなたはこう言うかもしれません。「ちょっと待って、それは公平ではない。神様が彼らの目を閉じたのなら、彼らが見ないことで罰するのは不公平ではないですか。」

けれども、実際のところ、イスラエル人は何も見たくありませんでした。知りたいとも思いませんでした。

イザヤは次のように言いました。

のろくなれ。驚け。目を堅くつぶって見えなくなれ。(9)

つまり、「あなたは見たくないのですか。真実に目を閉じたいのですか。いいでしょう。では、あなたはその真理を見ることはできないでしょう。」

イザヤは別の比喩を使いました。神様の言葉は、イスラエル人にとって封じられた書物のようになる、と。

そのため、イスラエル人はこう言います。「神様の言葉は封じられた書物だから、読むことができない。」

または、こう言います。「この預言は難しすぎる。理解できない。」

さらに、「私は読むことができないから、しょうがない。」とも言います。

しかし、それは単なる言い訳でした。彼らは心の中で、本当に理解したくなかったのです。もし本当に理解したかったのなら、間違いなくイザヤや他の預言者に尋ねていたでしょう。

けれども、彼らは、ただ「ごめんなさい。分かりません。」と言って立ち去っただけでした。

イエス様の時代、多くのイスラエル人もまた、このような人々でした。

イエス様は多くのたとえ話を使いました。彼らはその話を気に入りましたが、その意味を理解することはありませんでした。それでも、説明を求めることもせず、彼らはただ帰っていきました。

その一方、イエス様の弟子たちはその意味を知りたかったので、イエス様に質問をしました。すると、イエス様がそのたとえ話を説明され、彼らは理解することができました。

現代でも、多くの人々はこう言います。「聖書は難しすぎて、分かりません。」

しかし、本当に理解したいという心があれば、理解することは可能です。

それでも、彼らは助けを求めることなく、すぐに立ち去ってしまいます。

それは、自分の目を閉じることを意味します。つまり、真理を知りたくないという態度です。

そのような態度を取れば、神様はこう言われます。「それはあなたの選択です。けれども、裁きの日は確実に来ています。あなたは必ず裁かれるでしょう。」

あなたはどうでしょうか。神様の心に対して、自分の目を閉じますか。神様の言葉を知りたくないと考えていますか。

もし、あなたが自分の目を閉じて真理を知りたくないなら、神様はあなたに無理やりご自身を認めさせることはされません。

しかし、もし見たいと望み、心から神様を求めるなら、神様はご自身をあなたに現されるのです。

神様は、イスラエル人にこのような日が来ることを語られました。

その日、耳の聞こえない者が書物のことばを聞き、目の見えない者の目が暗黒とやみから物を見る。(18)

また、

心の迷っている者は悟りを得、つぶやく者もおしえを学ぶ。(24)

私たちが盲人にならないように、無知な人にならないようにしましょう。むしろ、心から神様を求めましょう。そうすることで、私たちは本当に生きはじめるのです。

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ヨブ記

神様の正義、私たちの傲慢

多くの人々は神様の良い性質や存在を疑います。彼らはこう言います。「もし神様が存在し、善良なお方であるなら、なぜこの世界に悪があるのでしょうか。なぜ神様は悪をすべて取り除かないのでしょうか。悪がある以上、絶対に神様は存在しない。たとえ存在していたとしても、神様は善良なお方ではないのです。」

ヨブもまた、ヨブ記の20ー21章および23章で、この疑問について語りました。ヨブはこう尋ねました。「なぜ多くの悪人が罰されないのでしょうか。」

すると、エリフは答えました。

神は決して悪を行わない。全能者は公義を曲げない。(ヨブ記34:12)

そして、14ー15節で、エリフは本当に大切なポイントを述べます。それは、もし神様が完全な正義を強要されたなら、すべての人々が滅ぼされるということです。(34:14ー15)

なぜなら、私たちは皆、罪を犯しているからです。

さらにエリフはこう言いました。「神様はすべての悪人を今罰していないかもしれませんが、私たちが『悪人は決して罰せられていない』とは断言できません。

そして、神様はえこひいきをなさらない方です。結局、すべての罪人は自分の罪の代償を払わなければなりません。

しかし、もし神様が今、憐れみによって何もなさらないのであれば、どうして私たちは文句を言えるでしょうか。なぜなら、もし神様が憐れみを示してくださらなければ、私たちは皆、滅ぼされてしまうからです。」(34:18ー19)

その後、エリフはへりくだる人々とヨブを比較しました。へりくだる人々は自分の罪を認め、悔い改めますが、ヨブは神様の正義を疑問視していました。

エリフは問いかけました。「神様がその態度に報いられると思いますか?あなたはまるで悪人のように話しています。」

35章では、エリフがヨブの言葉の矛盾を指摘します。ヨブは「神様が私の言葉を聞いてくだされば、私の汚名はそそがれる」と言いましたが、同時に神様の正義を疑っていました。

けれども、もしヨブの言うように神様が不正義な方であるなら、そもそも神様がヨブの無罪かどうかを気にすることはないでしょう。

続いて、エリフは「もし神様が不正義な方であるならば、どうして私たちは善を行うべきなのでしょうか」という傲慢な疑問に答えました。

ヨブ自身はその言葉を使いませんでしたが、もしヨブが言うように神様が悪人を罰しないとしたら、多くの人々がそのように考えるでしょう。

エリフはこう答えました。「神様が『悪から離れ、正しいことを行いなさい』と言われるのは、神様ご自身の益のためではなく、私たちの益のためです。

もちろん、神様は私たちを裁かれます。そして、私たちの罪は神様との関係に影響を与えます。

とはいえ、私たちの行動が影響を与えるのは、神様よりもむしろ私たち自身や周囲の人々です。ですから、もし私たちが神様の命令を無視するなら、その結果、傷つくのは私たち自身なのです。」(35:6ー8)

さらにエリフは、別のポイントを指摘しました。多くの人々は苦しみの中で叫びますが、ほとんどの場合、神様に心を向けません。彼らが傲慢な態度を取り続けるため、神様はその叫びをお聞きになりません。

そのため、エリフはヨブに言いました。「あなたも同じような態度を取っています。神様の正義を疑う中で、神様があなたの叫びに答えるべきでしょうか。」(35:9ー15)

そして、36章でエリフは再び繰り返します。神様は悪人を罰し、たとえ正しい人々が苦しむことがあっても(ヨブの友達はそれを認めませんでした)、神様は彼らを高めてくださいます。(36:6ー7)

けれども、エリフはヨブに警告しました。もし神様が苦しみを通してヨブを懲らしめておられるのであれば、その理由を必ずお示しになります。そして、神様は沈黙されません。

(ここでエリフが暗に認めているのは、神様がまだヨブにその理由を明かされていないということかもしれません。)

ただし、もし神様が「悔い改めなさい」と言われたなら、ヨブはへりくだってそれを受け入れ、苦い心を捨てなければなりません。そうしなければ、ヨブは最終的に滅ぼされてしまうでしょう。(36:8ー13)

さらにエリフは別の警告を与えました。もし神様の正義を疑い続けるなら、その態度は罪へとつながるかもしれません。(36:17ー19)

最後にエリフはこう言いました。「あなたは神様を裁く立場にはありません。神様がその苦しみを許されることを批判する資格はないのです。」

これがエリフの言葉です。

見よ。神は力にすぐれておられる。神のような教師が、だれかいようか。

だれが、神にその道を指図したのか。だれが、「あなたは不正をした」と言ったのか。(ヨブ記36:22ー23)。

また、

見よ。神はいと高く、私たちには知ることができない。その年の数も測り知ることができない。 (36:26)

エリフは続けてこう言いました。

神は、御声で驚くほどに雷鳴をとどろかせ、私たちの知りえない大きなことをされる。 (37:5)

最後に、エリフはこう言いました。

神に何と言うべきかを私たちに教えよ。やみのために、私たちのことばを並べることができない。

私が語りたいと、神にどうして伝えられようか。人が尋ねるなら、必ず彼は滅ぼされる。

今、雨雲の中に輝いている光を見ることはできない。しかし、風が吹き去るとこれをきよめる。(37:19ー21)

つまり、「あなたは神様と弁論したいのですか?あなたの理解はあまりに小さく、曖昧であるため、良い弁論をすることはできません。神様の知恵と知識は、あなたの理解をはるかに凌ぎます。神様の聖さも、あなたの清さをはるかに凌ぎます。」

では、私たちは何を学ぶべきでしょうか。神様の正義を疑問視することは、私たちの傲慢さを表しています。神様と比べると、私たちはほとんど何も知らないのです。

さらに、私たちは罪深い存在であり、どうして私たちが神様の正義を疑問視することができるでしょうか。私たちは神様に答えを要求する立場にはないのです。

それでは、私たちが疑問を抱いたとき、どうすればよいのでしょうか。たとえ難しくても、私たちはその疑問を一旦置いておき、神様を信じるべきです。

神様の善良な性質を信じ、神様の正義を信じ、神様の知恵を信じるのです。そうするならば、神様は私たちの信仰に報いてくださるでしょう。

エリフが言ったように、

私たちが見つけることのできない全能者は、力とさばきにすぐれた方。義に富み、苦しめることをしない。

だから、人々は神を恐れなければならない。神は心のこざかしい者を決して顧みない。(ヨブ記37:23-24)