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ヤコブの手紙

真の信仰がどのように表現されるか(7)

ヤコブは、人々の心がこの世への愛によって汚される様子を語った後、「舌」の話に戻ります。特に、心がどのように舌を汚すかについて述べています。

ヤコブによれば、この手紙の読み手は、人を殺したり、争ったり、戦ったりしていました。おそらく、彼らは実際に人を殺したわけではないでしょう。けれども、心の中では相手を殺していたのです。(マタイ5:21-22)

では、人々はなぜ殺人を犯すのでしょうか。それは、彼らが自分の心の中で相手を侮っているからです。彼らは相手を神様の似姿として造られた存在として見ていません。

このため、イエス様はこう言われました。

昔の人々に対して、「殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない」と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。

兄弟に「ばか者」と言う者は最高法院でさばかれます。「愚か者」と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。(マタイ5:21-22)

イエス様によれば、心の中で怒りを抱き、人を侮ることは、殺人と似たものです。

ヤコブも同じ考えを持っていたようです。ある人々は、自分より多くのものを持つ者をねたみ、侮るほどまでにこの世を愛していました。その結果、彼らは相手をそしり、裁くようになってしまったのです。

だから、ヤコブはこう言います。

兄弟たち、互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟について悪口を言ったり、さばいたりする者は、律法について悪口を言い、律法をさばいているのです。

もしあなたが律法をさばくなら、律法を行う者ではなく、さばく者です。(11)

「人を裁いてはいけない」と聞くと、私たちはよく「人をその罪のゆえに裁いてはいけない」と考えます。

しかし、ヤコブは単にそのような裁きのことを語っているのではないかもしれません。むしろ、「あなたはばか者だ」「あなたはろくでなしだ」といった判断について話している可能性があります。

例えば、2章でヤコブは、ある人々が金持ちを敬う一方で、貧しい人々を侮っていたことを指摘しました。

だから、ヤコブは彼らにこう言いました。「そのような態度で人を裁いてはいけません。相手が神様の似姿として造られた存在であることを認めなさい。

神様の律法によれば、あなたは自分自身を愛するように、隣人を愛さなくてはなりません。神様の律法は、相手をそしったり、侮ったりすることを禁じています。

そのようなことをすれば、あなたは実際に神様の律法を裁いていることになります。つまり、律法に従うのではなく、それを軽視し、その価値を否定しているのです。」

そして、ヤコブは私たちに警告します。

律法を定め、さばきを行う方はただひとりで、救うことも滅ぼすこともできる方です。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。(12)

つまり、「裁きを行うのはあなたではなく、イエス様です。だからこそ、高ぶる態度を捨て、主の前でへりくだらなければなりません。偉そうな態度を取ってはいけません。なぜなら、あなたは本当に偉いわけではないからです。」ということです。

あなたはどうでしょうか。人を扱うとき、あなたの信仰はどのように表現されているでしょうか。あなたは相手を裁き、「ろくでなし」や「ばか者」と呼ぶでしょうか。それとも、彼らを呪うでしょうか。

あるいは、あなたの信仰は、神様があなたに与えてくださった愛や憐れみ、そして恵みを通して表現されているでしょうか。

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ヤコブの手紙

真の信仰がどのように表現されるか(6)

今日の箇所では、ヤコブは「舌」についての話から一旦離れ、真の信仰がどのように表現されるかについての三つ目の方法を語ります。それは、清さです。

ヤコブは先に、本当の宗教に欠かせないものの一つとして、この世の汚れに染まらないよう注意することを挙げました。

そして今日の箇所では、その意味を具体的に説明しています。

この手紙の読み手の中には、教師になりたいと願う人が多かったようです。けれども、ヤコブは彼らに警告しました。

私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。(ヤコブの手紙3:1)

そして、ヤコブは彼らに言いました。「あなたたちは教師になるのに十分な知恵と分別を持っていると思うでしょうか。

自分の心を探りなさい。あなたたちの多くは、苦々しい妬みや利己的な思いを抱いています。その『知恵』は神様からのものではなく、サタンからのものです。そして、その『知恵』はあらゆる邪悪な行いへと至ります。」(13-16)

その後、ヤコブは彼らの問題の根本を指摘します。それは、彼らがこの世の汚れに染まってしまっているということです。

ヤコブは彼らにこう言います。

あなたがたの間の戦いや争いは、どこから出て来るのでしょうか。ここから、すなわち、あなたがたのからだの中で戦う欲望から出て来るのではありませんか。

あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。

自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。(1-3)

言い換えると、「自分自身を振り返りなさい。あなたたちはこの世に執着し、自分より多くのものを持っている人を憎み、ねたんでいます。そのため、いつも彼らと争っています。

この世に対する愛は、彼らとの関係に影響を与えるだけでなく、あなたの神様との関係にも影響を及ぼしています。あなたが祈る理由は、ただ神様から多くのものを求めることだけです。けれども、神様はそのような自己中心的な祈りには答えません。」

そして、ヤコブは彼らを厳しく戒めます。

節操のない者たち。世を愛することは神に敵対することだと分からないのですか。

世の友となりたいと思う者はだれでも、自分を神の敵としているのです。(4)

翻訳者たちはヤコブの言葉を控えめに訳しました。けれども、ヤコブは旧約聖書の預言者たちのように、読者を売春婦になぞらえています。(エゼキエル書16章やホセア書がその例です。)

私たちがこの世を愛すると、神様の妬みをかき立ててしまいます。(5)

一般的に、私たちは妬みを悪いことだと考えます。けれども、正しい妬みもあります。夫や妻が伴侶の不倫を知ったときに感じる妬みは、その関係に対する深い愛と絆から生じるものです。

同じように、私たちは神様に属しています。そのため、もし私たちが神様に背を向け、この世のものを追い求めるならば、神様は妬みを抱かれるのです。

しかし、私たちが神様のもとへ戻るならば、神様はいつも恵みを与えてくださいます。(6)

だから、ヤコブはこう言います。

ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。

罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清めなさい。嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。(7-9)

あなたはどのような信仰を持っているでしょうか。あなたの信仰は二心のものではないでしょうか。あなたは神様を信じると主張しながらも、売春婦のようにこの世のものを追い求めてはいないでしょうか。

私たちは神様の聖なる祭司として召されました。祭司たちは神様に近づく前に自らの手を清めました。それと同じように、私たちも霊的な手の汚れを洗い、心を清めなければなりません。私たちはこの世に対する愛を捨て、悔い改めなければならないのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの心はこの世の汚れに染まってしまっているでしょうか。それとも、あなたの心は神様だけに属しているでしょうか。

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真の信仰がどのように表現されるか(5)

私はこの記事に「舌」と名付けることもできました。けれども、それは少し奇妙なタイトルに思えました。

さらに、この箇所がヤコブのより大きな議論の一部であることを、自分自身に思い出させたかったのです。つまり、真の信仰とは、愛と清さ、そして言葉を通して表現されるものなのです。

今日の箇所では、ヤコブは1章26節で述べた話を続けます。その聖句で、ヤコブはこう言いました。

自分は宗教心にあついと思っても、自分の舌を制御せず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。(ヤコブの手紙1:26)

私は以前にも言いましたが、私たちの言葉は、私たちの心の状態を表します。

時々、人々は誤ったことを口にした後、「失礼しました。つい言ってしまいました」と言います。

しかし、なぜその言葉が出てしまったのでしょうか。それは、その言葉がすでに心の中にあったからです。何の根拠もなく突然出てきたのではありません。その言葉は心に深く根付いており、時が来ると現れるのです。

私たち全員の心の中には罪があるため、ときに思わず悪いことを口にしてしまいます。

だから、ヤコブはこう言いました。

私たちはみな、多くの点で過ちを犯すからです。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です。(2)

私たちは行動するよりも先に、言葉を発してしまうことがよくあります。そのため、もし私たちが成熟し、自制心を持って決して悪いことを言わないようになるならば、おそらく悪い行動をも慎むことができるでしょう。

しかし、この世に生きている限り、私たちの心には罪があるのです。

だから、ヤコブはこう言います。

どのような種類の獣も鳥も、這うものも海の生き物も、人類によって制することができ、すでに制せられています。(7)

私たちの言葉は、自分の人生を形成するだけでなく、周囲の人々の人生にも影響を与えます。くつわによって馬を操るように、また舵によって船の方向を変えるように、私たちの言葉は人の人生を良い方向にも悪い方向にも導くことができるのです。

しかし、残念ながら、私たちはしばしば言葉によって人々を悪い方向へと向かわせてしまいます。ヤコブは、舌を「大きな森を燃やす小さな火」にたとえています。

私たちの言葉は、自分自身の人生を破滅へと向かわせる恐れがありますし、他者の人生をも破壊する可能性があります。だからこそ、ヤコブは「舌はゲヘナ(つまり地獄)の火によって焼かれる」と警告しています。

言葉によって、人は職を失います。言葉によって、夫婦の関係が壊れます。言葉によって、子供は傷つきます。言葉によって、友人関係も壊れてしまいます。それでも、私たちは往々にして不注意のために言葉を発してしまいます。

そのため、ヤコブは舌を「死の毒で満ちているもの」と呼ぶのです。

ヤコブはこう言います。

私たちは、舌で、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌で、神の似姿に造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。

私の兄弟たち、そのようなことが、あってはなりません。(9-10)

言い換えると、私たちは「神様を愛している」と言いながら、どうして神様の似姿に造られた人を侮辱することができるのでしょうか。

ヤコブはこの話を次のようにまとめています。

泉が、甘い水と苦い水を同じ穴から湧き出させるでしょうか。私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりすることができるでしょうか。塩水も甘い水を出すことはできません。(11-12)

もちろん、泉は甘い水と苦い水を同時に湧き出させることはありません。しかし、私たちの心に罪があるため、良い言葉も悪い言葉も私たちの口から出てしまいます。

だから、自分の言葉を制御できないと感じるなら、その言葉の源について考えてみてください。あなたの心には何が入っているでしょうか。

苦々しい思いや怒り、見苦しいものが心に宿ってはいないでしょうか。それらをイエス様の手に委ねるまで、自分の言葉を完全に制御することはできません。

だから、ダビデのように祈りましょう。

私の口のことばと私の心の思いとが御前に受け入れられますように。主よ。わが岩、わが贖い主よ。(詩篇19:14)

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真の信仰がどのように表現されるか(4)

前回の記事でさらに言いたいことがありましたが、すでに記事が長くなっていたため、その代わりに今日の記事で触れることにしました。

以前の記事で、私が強調したかったことの一つは、クリスチャンとして成熟し、完全な者になるには時間がかかるということです。私たちは、一瞬にして完全なクリスチャンになるわけではありません。

アブラハムの信仰も、一瞬で完全なものになったわけではありませんでした。彼がイサクを生贄として捧げようとした時、その信仰はようやく成熟しました。

けれども、それまでの彼の信仰は何度も揺らいでいました。そのため、彼は相続人を得るために妻の奴隷ハガルと関係を持ちました。

また、20章では、アビメレク王に嘘をつき、自分の妻サラを妹だと言いました。(それは半分は真実でした。サラはアブラハムの異母妹だったのです)。

なぜ彼は嘘をついたのでしょうか。それは、アビメレクがアブラハムを殺し、サラを奪うことを恐れたからです。

では、私のポイントは何でしょうか。

一つ目は、私はあなたに自分の信仰について考えることを促したということです。けれども、その際、自分の失敗ばかりに目を向けて落ち込むのは簡単です。

「もしかしたら、私は本当に救われていないのではないか。私の人生には愛の実が見られないし、さまざまな面で失敗ばかりしている。」

しかし、そうした反応は私の意図ではなく、また、ヤコブの意図でもありません。

ある人々は自分がクリスチャンだと自称しながらも、自分勝手な人生を送っても問題ないと考えます。

彼らは、「私は信仰をもって、あなたは行いを持っている」と言い、信仰と行いの関係をまったく認めようとしません。ヤコブと私は、そのような人の信仰を疑います。

なぜなら、信仰と行いは深く結びついているからです。真の信仰は必ず変えられた人生へと導きます。十字架を見て神様の愛を悟り、神様を愛するならば、自然と神様を喜ばせたいと願うようになります。

もしあなたが自分の信仰に疑問を感じているならば、私はこう問いかけます。「あなたは本当に神様を愛しているでしょうか。神様を本当に喜ばせたいと思うでしょうか。」

もしあなたが「はい」と答えることができるならば、私はあなたを心配しません。なぜなら、あなたは聖霊の力と導きによって自然に変化し始めるからです。その過程には時間がかかり、困難を伴うかもしれません。それでも、それは確実に起こります。

次に、人の成長が遅すぎると感じても、その人を急いで裁かないように注意しなくてはならないということです。

人々はそれぞれ異なるペースで成長します。彼らの行いは心の状態をよく表しますが、それが信仰の完全な尺度であるとは限りません。

ある人は外見上、立派なクリスチャンに見えるかもしれません。しかし、神様の目には、その心が正しくないこともあります。

その一方、ある人が偽善者に見えたとしても、その人は自分の部屋で泣き叫びながら祈っているかもしれません。「神様、どうして私はこんな人間なのでしょうか。赦してください。私を変えてください。」

けれども、聖い人生を送ることに関心を持たない人を見るならば、その人の信仰を疑うべきです。そのような人はいつも言い訳をし、訓戒されると、「でも、私は信仰によって救われた。私の行動は関係ない」と答えます。

私はそのような人の信仰を疑います。ヤコブも同じようにするでしょう。

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真の信仰がどのように表現されるか(3)

前回の記事では、「私は神様を信じる」と主張するだけでは十分ではないことを学びました。また、「イエス様が私の罪のために死んだと信じる」と言うだけでも不十分です。

真の信仰は、必ず変えられた人生へと導きます。特に、真の信仰は愛によって表現されます。それは、神様への愛と、人々への愛です。

成長せず、決して愛を示さない信仰は、実際には信仰とは言えません。それはただの空しい言葉です。それは、貧しい人に「かわいそうに。神様があなたを祝福するように。」と言いながら、何も助けないことに似ています。

そして、ヤコブはこう言います。

しかし、「ある人には信仰があるが、ほかの人には行いがあります」と言う人がいるでしょう。行いのないあなたの信仰を私に見せてください。私は行いによって、自分の信仰をあなたに見せてあげます。(ヤコブの手紙2:18)

ギリシャ語では引用符がないため、この箇所を解釈するのは少し難しいです。

この翻訳によれば、おそらく自称クリスチャンがヤコブにこう話しているのかもしれません。「あるクリスチャンは信仰があるが、ほかのクリスチャンは行いがある。でも、二人とも結局クリスチャンだよ。」

しかし、ヤコブはその人に答えます。「あなたは本当に信仰を持っているでしょうか。それを証明しなさい。

自分がクリスチャンだと主張するのは簡単なことです。あなたは自分が神様を愛していると主張するかもしれませんが、どのようにして私があなたの心を知ることができるでしょうか。私はあなたの心を見抜くことはできません。

ただ、あなたの行為を見ることしかできません。けれども、その行為のゆえに、私はあなたの信仰を疑います。なぜなら、あなたの人生に神様への愛と人々への愛が見られないからです。

もしあなたが本当に神様の愛を知っていたら、その愛は自然にあなたの人生から溢れ出るはずです。」

ある人々は、パウロの言葉とヤコブの言葉が矛盾していると考えます。なぜなら、パウロは「人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められる」と教えました(ローマ3:28)。

しかし、ヤコブによれば、「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではない」(ヤコブ2:24)からです。

では、私たちはどのようにしてこの二つの言葉を調和させることができるのでしょうか。

神様の目には、私たちは信仰によって義と認められます。なぜなら、神様は人の心を見抜くことができ、その人が本当に信仰を持っているかどうかを理解されるからです。

けれども、人の目には、私たちは行いによって義と認められます。なぜなら、人は他人の心を見抜くことができず、その行いだけを見ることしかできないからです。

興味深いことに、パウロとヤコブはそれぞれの主張を証明するために、同じ聖句と登場人物を用いています。

ヤコブはこう言いました。

私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇に献げたとき、行いによって義と認められたではありませんか。あなたが見ているとおり、信仰がその行いとともに働き、信仰は行いによって完成されました。(21-22)

では、アブラハムは誰によって義と認められたのでしょうか。神様でしょうか。ある意味ではそうです。

しかし、アブラハムの行為によって、周りの人々も彼が神様を信じていたことを知るようになりました。それ以前、彼らはアブラハムが本当に神様を信じていたかどうか分かりませんでした。彼らはアブラハムの心を見ることができなかったからです。

過去のアブラハムの行為を見ると、彼を偽善者と呼ぶこともできたでしょう。

例えば、彼は信仰が弱く、相続人を得るために、自分の妻の奴隷と関係を持ちました。アブラハムの妻がそれを勧めたとはいえ、その行為は信仰の表れではなく、むしろ神様の約束を疑ったことを示していました。

けれども、アブラハムがイサクを生贄として捧げたとき、彼は自らの信仰を証明しました。

神様は、イサクを通してアブラハムが多くの子孫を得ると約束されました。けれども、神様がその生贄を命じたとき、イサクにはまだ子供がいませんでした。それでも、アブラハムは神様の約束を信じ、イサクを捧げようとしました。

彼の信仰は成長しました。以前は偽善的な行動をとり、信仰が揺らいでいましたが、今や彼は神様を完全に信頼していました。

だからこそ、ヤコブはこう言いました。

アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。(23)

では、アブラハムはいつ神様を信じたのでしょうか。そして、彼はいつ神様によって義と認められたのでしょうか。生贄の前でしょうか、それとも後でしょうか。

それは、生贄の前でした。実際には、イサクが生まれる前から、すでにアブラハムは神様によって義と認められていました。(創世記15:6)

その時、神様はアブラハムの心をご存知でした。神様は彼が本当に信じていたことを知っていたので、彼を義と認められました。

それでも、アブラハムがイサクを祭壇に捧げた時、その信仰は成熟し、完全なものとなりました。

以前の記事で私は言いましたが、信仰の成熟や完成には時間がかかることがあります。時に、私たちの信仰は揺らぎ、成長の過程で苦しみを伴うこともあります。

しかし、真の信仰を持っているならば、進展があるはずです。そして、最終的に周囲の人々もその進展を目にすることになります。

あなたはどのような信仰を持っているでしょうか。

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真の信仰がどのように表現されるか(2)

毎日聖書を読むとき、私たちはよく聖書の書を小さい部分に分けます。もちろん、それでも構いませんが、注意すべき点があります。時々、そのように聖書を読むことで、その書の全体的な流れや意味を見落としてしまうことがあるのです。

例えば、著者が1章から2章まで長い議論を展開しているかもしれません。しかし、私たちはある日に1章を読み、次の日に2章を読むため、1章の内容を忘れ、その議論の重要な部分を切り離してしまうことがあります。

この場合、ヤコブの議論は1:26-27から始まります。その箇所でヤコブが述べているのは、真の宗教、真の信仰は、愛、清い言葉、そして聖い人生へと導くということです。

今日の話では、ヤコブは真の信仰が愛によって表現されることについて語り続けます。パウロもこのことについて述べました。彼はこう言いました。

キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。(ガラテヤ5:6)

特に、ヤコブは私たちが貧しい人や卑しい人をどのように扱うべきかについて語ります。彼らに愛を示さず、逆に見下すならば、私たちは罪人のように振る舞っているのです。

私たちは殺人や姦淫を犯さないかもしれません。しかし、神様の目から見れば、私たちは律法の違反者です。だからこそ、ヤコブは私たちに警告します。「貧しい人や卑しい人を見下してはいけません。むしろ、彼らを憐れみなさい。」

そして、ヤコブはその例を用いて、自らの要点に立ち返ります。それは、真の宗教や真の信仰が、変えられた人生へと導くはずだということです。

ヤコブはこう言いました。

私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。(ヤコブの手紙2:14)

その文脈を覚えていれば、ヤコブが「行為」と言うとき、それが愛の行為を指していることが分かるでしょう。言い換えれば、「もし愛を持っていないなら、どうして自分が信仰を持っていると主張できるでしょうか。」

そして、ヤコブは自らのポイントを具体的に描写します。

兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。

同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。(15-17)

この描写の中で、ヤコブは行為を伴わない言葉の空しさを示しています。

もしある人が貧しい者に「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言えば、その人は優しそうに見えます。しかし、その人が実際に貧しい者を助けなければ、その言葉は心からのものではなかったことを証明してしまいます。それはただの空しい言葉にすぎません。

ヤコブはこのポイントを強調して、こう言います。

あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。(19)

簡単に言えば、真理に同意するだけでは十分ではありません。「私は神様を信じる」と言うことだけでは足りないのです。真の信仰は、いつも変えられた人生へと導きます。その変化の一つは、あなたが周りの人々を愛し始めることです。

その変化には時間がかかるかもしれません。自分が変わるのは難しいかもしれません。しかし、真の信仰を持っているならば、あなたは確実に進歩していきます。

もし振り返ったとき、あなたの人生に神様がもたらした変化を見ることができないなら、もしあなたがより成熟していないならば、自分自身に問いかけるべきです。「私はどんな信仰を持っているのだろうか。」

次の記事では、この話を続けます。

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真の信仰がどのように表現されるか

ヤコブが強く主張することの一つは、真の信仰は単に「私は神様を信じる」と言うことではないという点です。

多くの人は、「私は神様を信じる」と主張します。しかし、その言葉だけでは、救いに導く信仰を持っていることの証明にはなりません。

救いに導く信仰の結果は、変えられた人生です。以前読んだように、神様が試練を許される理由の一つは、私たちが変えられるためです。つまり、試練を通して、私たちは神様に信頼することを学び、完全な者へと成長していくのです。

この手紙の中で、ヤコブは救われた人々がどのように変わるかについて語ります。ヤコブは三つのことを挙げています。一つ目は言葉、二つ目は愛、そして三つ目は清さです。パウロも、これら三つのことについてテモテに語りました。(第一テモテ4:12)

ヤコブは最初にこう言います。

自分は宗教心にあついと思っても、自分の舌を制御せず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。(ヤコブ1:26)

多くの人々は自分の言葉に注意を払わず、嘘をついたり、人をそしり、言葉で人を傷つけます。しかし、彼らが決して悟らないのは、自分の言葉が心の中にあるものを映し出しているということです。もし、心にゴミがあれば、そのゴミが言葉となって表に出ます。

だから、もし自分がクリスチャンだと主張しているのに、あなたの口からゴミが流れ出るならば、ヤコブによれば、あなたは自分自身を欺いていることになります。その「信仰」はあなたの心を変えていないのです。ゴミがあなたの口から出ているのに、あなたはまったく気づいていません。

ヤコブは続けてこう言います。

父である神の御前できよく汚れのない宗教とは、孤児ややもめたちが困っているときに世話をし、この世の汚れに染まらないよう自分を守ることです。(27)

後にヤコブは、私たちがこの世の汚れに染まらないように、どのように自分自身を守るべきかを説明します。しかし、27節では、ヤコブは真の信仰の証拠の一つについて語ります。それは、周りの人々に対する愛です。

もし私たちが真の信仰を持っているなら、周りの人々を憐れむはずです。例えば、孤児ややもめたちを憐れむべきです。貧しい人を軽蔑し、金持ちだけを尊敬するべきではありません。私たちは人々の見た目で判断せず、神様の目で人々を見るべきです。

私たちが忘れてはならないのは、神様が、この世の人々から退けられた者たちを神様の子供として受け入れたことです。その人々は神様の御国を受け継ぎます。(1:27-2:7)

そしてヤコブはこう言います。

もし本当に、あなたがたが聖書にしたがって、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いは立派です。

しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。(ヤコブの手紙2:8-9)

多くの人々は言います。「もちろん、私はクリスチャンです。私は人を殺さないし、物を盗まないし、姦淫を犯さない。」

けれども、彼らはキリストの愛をもって人々を愛していません。むしろ、周りの人々を見下しています。

だから、ヤコブは彼らに警告します。「あなたが思うほど、あなたは良い人ではありません。神様の目には、あなたは違反者です。なぜなら、あなたは人々を愛していないからです。」

イエス様の時代、パリサイ人たちはまさにそのような人々でした。彼らは人々を愛していませんでした。彼らはさまざまな宗教的なルールを守り、さらには神様が命じていないルールさえ守りました。

しかし、彼らは人々を差別し、裁き、見下しました。だから、イエス様は彼らの偽善を厳しく責められました。

もしイエス様が現代の教会を見るなら、同じ理由でどれほど責めるでしょうか。

だからヤコブはこの話を次のようにまとめます。

自由をもたらす律法によってさばかれることになる者として、ふさわしく語り、ふさわしく行いなさい。あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。

あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです。(2:12-13)

私たちが愛と憐れみの律法に従って生きるならば、人々を自由にし、自分が神様の子供であることを証明するのです。

しかし、人々を裁き、侮るならば、私たちの信仰がそれほど強くないことを証明してしまいます。

あなたの言動は、あなたの信仰について何を表しているでしょうか。