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使徒の働きのデボーション

知らずに礼拝している?

あなたがたは、あらゆる点で宗教心にあつい方々だと、私は見ております。 。。あなたがたが知らずに拝んでいる。。。(使徒の働き17:22ー23)

今日、上記の言葉を思い巡らせていました。アテネ人たちは宗教心が厚い人々でしたが、何を拝んでいるのかを知りませんでした。彼らの神様についての概念は大きく誤っていたため、パウロはその考え方を正そうとしました。

サマリア人たちも同じ問題を抱えていました。イエス様はあるサマリア人にこう言われました。

あなたがたは知らないで礼拝しています。(ヨハネ4:22)

もちろん、多くの人々は神様について誤った考えを持っています。

しかし、ある意味では、私たちクリスチャンも神様を知らないまま礼拝していることがあるでしょうか。

言い換えると、私たちの神様についての知識には、どれほど欠陥があるのでしょうか。また、私たちの個人的な経験によって、神様への理解はどれほど歪められているのでしょうか。

私たちの多くは、神様が自分たちの天のお父さんであることを理解しています。

けれども、父親との関係によって、「天のお父さん」というイメージがどれほど歪められているでしょうか。

また、私たちは神様が良い王であることを主張します。しかし、この世のリーダーたち、さらには教会のリーダーたちが自分の権力を乱用していることで、私たちはどれほどその概念に違和感を抱いているでしょうか。

私は神様について健全なイメージを持っていると思っています。それでも、私の神様についての知識にはまだ欠陥があるでしょうか。

その欠陥のために、私はどれほど神様に従うことをためらっているでしょうか。

その欠陥のために、私はどれほど神様に信頼することをちゅうちょしているでしょうか。

神様が私をどのように見ておられるかを知らないために、私はどれほど周囲の人々の称賛を求めているでしょうか。

私の人生には、そのような葛藤が見られます。それは、ある意味で、私がまだ神様を知らないまま礼拝しているからでしょうか。

だから今日、このように祈ります。

天のお父さん、私があなたをもっと深く知るように導いてください。あなたについての知識の欠陥を埋めてください。あなたをありのままに見たいのです。

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ルカの福音書のデボーション

御名が聖なるものとされている?

父よ、御名が聖なるものとされますように。(ルカの福音書11:2)

天のお父さん、あなたの御名が聖なるものとされるとは、いったいどういう意味でしょうか。

それは、あなたを最高の誉れにふさわしい方とすることではないでしょうか。

つまり、私のすべてにおいて、あなたが最善を受けるにふさわしい方であると認めます。だから、二番目や三番目のもの、さらに残り物を捧げてはなりません。

あなたこそが、私のすべてを受けるべき方です。

私の愛のすべて。

私の信頼のすべて。

私の服従のすべて。

私の人生のすべて。

しかし私は、どれほどあなたを俗なもの、ありふれたものとして扱ってしまうでしょうか。

あなたにふさわしい誉れを捧げず、 あなたよりも他のものを優先し、 二番目や三番目のもの、さらに残り物をあなたに捧げてしまうことがあります。

あなたのご計画よりも自分の計画を求め、 さらには、あなたが忌み嫌われることにふけることすらあります。

天のお父さん、どうかあなたの御名が日本、アメリカ、そして世界中で聖なるものとされますように。すべての人々が、あなたにふさわしい誉れを捧げますように。

しかしまず、私の人生の中で、あなたの御名が聖なるものとされますように。

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申命記のデボーション

神様を喜ばせる礼拝

申命記12章で神様がイスラエルの人々に教えようとされたのは、彼らが自分自身の方法ではなく、神様の方法に従って礼拝しなければならないということです。

彼らは神様が命じられたとおりに礼拝しなければならなかったのです。

私たちの神様との契約はイスラエル人たちの契約とは異なりますが、新しい契約の下でも、私たちは自分自身が好きなような方法で神様を礼拝することはできません。

イエス様によれば、私たちは霊とまことによって礼拝しなければなりません。(ヨハネ4:23ー24)

それは、ただ宗教的な儀式を行うことや賛美をすることではありません。

霊によって礼拝するとは、神様が私たちの心を完全に持っておられることを意味します。私たちの人生、行動、言葉のすべてが神様に対する礼拝となるのです。(ローマ12:1)

さらに、霊によって礼拝するためには、まことによっても礼拝しなければなりません。

神様を喜ばれるため、また私たちの人生が神様への礼拝となるため、私たちは神様のまことによって生きるべきです。

私たちは自分の真理を作ることはできません。

私たちは神様の言葉の中で、何を受け入れるか、何を受け入れないかを勝手に選ぶことはできません。

それは、自分自身の方法で礼拝することに他なりません。そのような「礼拝」は神様を喜ばれません。

あなたはどうですか。

神様の方法に従って礼拝していますか。

霊とまことによって礼拝していますか。

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コロサイ人への手紙のデボーション

あなたが第一の者となるように

御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。

なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。

万物は御子によって造られ、御子のために造られました。御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。

また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。(コロサイ人への手紙1:15-18)

イエス様、私はあなたにあって造られました。私はあなたによって造られました。私はあなたのために造られました。だから、私の人生において、第一の者となってください。あなたは私の人生において第一の者となるにふさわしい方なのです。

どうか私があらゆる霊的な知恵と理解力によって、あなたの御心についての知識に満たされますように。

その知識に満たされることで、私はあなたにふさわしく歩み、あらゆる点であなたに喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、あなたを知ることにおいて成長することができます。

私がどんなことにも喜びと感謝を持ち、忍耐し、寛容でいられるため、あらゆる力で私を強くしてください。

私へのあなたの恵みは素晴らしいです。あなたは私に聖徒の相続分を与えてくださいました。あなたは私を暗闇の力から救い出して、あなたのご支配の中に移してくださいました。

あなたの十字架上の死によって、私を天の父の御前に聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として立たせてくださいます。

あなたの恵みによって、私が信仰に土台を据え、堅く立ち、あなたの福音の望みから外れることなく、信仰にとどまるように助けてください。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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出エジプト記のデボーション

私は何者でしょうか

神はモーセに語り、彼に仰せられた。

「わたしは主(原語:ヤハウェ)である。

わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神(原語:エル・シャダイ)として現れたが、主(原語:ヤハウェ)という名では、彼らにわたしを知らせなかった。(出エジプト記6:3)

天のお父さん、あなたはエル・シャダイ、全能の神です。あなたはヤハウェです。

あなたはアブラハム、イサク、ヤコブとともにおられた神様です。

あなたはモーセとともにおられた神様です。

そして、あなたは私とともにおられる神様です。

私は何者でしょうか。

どうして、あなたは私を愛し、心に留めてくださるのでしょうか。

どうして、私のうめきを耳に留めてくださるのでしょうか。

どうして、私を救い、購ってくださるのでしょうか。

どうして、私をご自分のものとしてくださるのでしょうか。

どうして、私を御国に導いてくださるのでしょうか。

どうして、私の神となり、あなた自身を私に現してくださるのでしょうか。

イエス様において、あなたはアブラハム、イサク、ヤコブ、モーセでさえ知らなかった方法で、私にご自身を現してくださいました。

だからこそ、苦しむときにも、私はあなた信頼することを選びます。

アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてモーセの時代に、あなたは忠実でおられました。今もあなたは忠実であり、そして永遠に、あなたは忠実な神様なのです。

アバ、あなたを愛しています。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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詩篇のデボーション

自分の心を礼拝へ導く

わがたましいよ、主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ、聖なる御名をほめたたえよ。

わがたましいよ、主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103:1ー2)

今日、この箇所を読んだとき、私は「どれだけ私は主をほめたたえるように自分の心を導くだろうか」と考えました。

「おい!自分よ。今日、主をほめたたえよ!主が良くしてくださったことを忘れるな。あなたへの主のいつくしみを忘れるな。」

もちろん、悪いときも、私たちはそうするべきです。ダビデが落ち込んだとき、彼はこう言いました。「おい!自分よ。どうしてあなたはそんなに落ち込んでいるの?主をほめたたえよ!」(詩篇42〜43篇)

でも、良いときにも、主をほめたたえることを覚えていることは大切です。私たちの祝福がどこから来たのか、自分に思い起こさせるべきです。(申命記6:10〜12)

この詩篇では、ダビデはそうしました。

私のただの意見ですが、おそらく、神様がダビデのバテ・シェバとの罪を赦し、ダビデの息子アブサロムの反乱の後に、神様がイスラエル王国をダビデに返されたときに、ダビデはこの詩篇を書いたのではないでしょうか。(第二サムエル記11〜19章)

あなたはどうでしょうか。主をほめたたえるように、毎日、自分の心を導いているでしょうか。

主のみこころを行い、主に仕える者たちよ。主をほめたたえよ、すべて造られたものたちよ。 主が治められるすべてのところで。

わがたましいよ 主をほめたたえよ。(21ー22)

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ローマ人への手紙のデボーション

私があなたのものだから

すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。

それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。(ローマ人への手紙11:36ー12:1)

最近、このことばは、私の毎日の祈りの土台となっています。

天のお父さん、すべてのものは、あなたから発し、あなたによって成り、あなたに至るのです。

あなたはすべてのものを造られ、すべてのものは、あなたとあなたの目的のために造られました。

私も、あなたとあなたの目的のために造られました。

だから、私のからだをあなたに捧げます。

私の人生が、あなたへの礼拝となるように。

私のすべてのことば、思い、行動が、あなたに喜ばれる聖なるものとなるように。

それらが、あなたに対して芳ばしい香りとなるように。

生きたささげ物として、私のからだを捧げます。

あなたは、私が捧げることができるすべてのものにふさわしい方です。

私への、あなたの素晴らしい恵みとあわれみを感謝します。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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テトスへの手紙のデボーション

真の礼拝

キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。(テトスへの手紙2:14)

最近、私はこの疑問について考えています。人々が「ワーシップするのが好きです」と言うとき、それは何を意味しているのでしょうか。また、私自身は何を意味しているのでしょうか。

多くの人々がそう言うとき、「賛美するとき、私は本当に嬉しいです。神様の愛を感じるから。神様が私とともにおられることを感じるから」という意味で使っています。

実は、アメリカ人として、「ワーシップ」という言葉を聞くとき、賛美を思い浮かべるので、そのような人々に共感できます。

しかし、日本では、聖書の翻訳者たちは「ワーシップ」ではなく「礼拝」という言葉を用いています。

「礼拝」とは何でしょうか。それはただ賛美することなのでしょうか。礼拝は、神様に愛の歌を歌うことだけなのでしょうか。礼拝は、教会での日曜日の集まりだけなのでしょうか。

それは違います。

礼拝、すなわち真のワーシップとは、イエス様がその素晴らしいあわれみのゆえに十字架にかけられたことを認めることです。

さらに、真のワーシップとは、イエス様がなぜそのようにしてくださったのかを理解することです。 それは、私たちをご自分のものとし、罪から清め、良いわざに熱心な民とするためです。

私たちはイエス様のものとなりました。私たちはイエス様に属する者です。

ですから、礼拝—ワーシップとは—ただ神様に愛の歌を歌うことではありません。

ワーシップとは、「私の人生はすべてあなたのものです。私の時間も、お金も、すべてのものをあなたにささげます」と告白する生活を送ることです。

ローマ書11章から12章にかけて、パウロはこのことについて語りました。

彼は歌を歌いましたが、その歌は単なる神への愛唱ではありませんでした。むしろ、パウロはこう歌いました。

「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。」(ローマ11:36)

そして、パウロは真のワーシップを定義します。

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。

それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。(ローマ12:1)

あなたはどうでしょうか。「ワーシップが大好き」と言うとき、あなたはパウロのワーシップの定義を用いているでしょうか。

天のお父さん、私が本当にワーシップを愛するように。私が何も隠さず、喜んで私のすべてをあなたに捧げるように。

あなたをそのようにワーシップするのは、ふさわしいことです。なぜなら、あなたは私を造り、あなたのみこころゆえに、私は存在し、また造られたのですから(黙示録4:11)。

すべてのものがあなたから発し、あなたによって成り、あなたに至るのです。だから、私の歌の中だけではなく、私の人生の全体において、あなたに栄光がありますように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ローマ人への手紙のデボーション

あなたの目には、私の人生が礼拝になるように

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。

そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。(ローマ人への手紙12:1-2)

主よ、あなたは私にあわれみを注いでくださいました。だから、毎日、私の人生をあなたに捧げたいです。

私のすべての思い、すべての言葉、すべての行為があなたの目にかなうように。あなたの目には、私の人生が礼拝になるように。

どうか私の心を新たにしてください。私があなたのように考えるように助けてください。あなたの目には何が良いのか、何が喜ばれるか、何が完全なのかを知りたいのです。

私の人生はあなたのものです。私はあなたのものです。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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詩篇のデボーション

正しい物の見方を保つ

今朝、詩人の言葉は私の心を打ちました。

主に感謝することは良いことです。いと高き 方よ、あなたの御名をほめ歌うことは。朝に、あなたの恵みを夜ごとにあなたの真実を告げることは。(詩篇92:1-2)

正直に言うと、私はその言葉にもっと従うべきです。

多くの場合、朝に私が起きるとき、私が最初に聞くのはニュースです。でも、そうすると、全然、神様を賛美する気になりません。逆に、多くの場合、ニュースは私の態度に悪い影響を与えてしまいます。

また、寝る前に、私は神様の真実をあまり考えません。

もし、毎朝、私が神様の恵みを喜び、また、毎晩、私が神様の真実を告げるなら、どれだけ、私の態度は変わるでしょうか。起きる時と寝る時だけではなく、私の態度は一日中どれだけ変わるでしょうか。

 

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ヨハネの黙示録

イエス様がもうすぐ来られるから。。。

黙示録の最後に繰り返し登場する重要なテーマは、「イエス様がまもなく来られる」という約束です。実はこの約束、黙示録だけではなく、聖書全体を通して繰り返し語られているテーマでもあります。

特に黙示録22章では、イエス様がご自身の再臨を三度宣言されています(7、12、20)。

では、私たちはこの約束にどう応答すればよいのでしょうか。 そのヒントが、17節に記されています。

御霊と花嫁が言う。「来てください。」

これを聞く者も「来てください」と言いなさい。(黙示録22:17a)

興味深いことは、御霊さえもイエス様に「来てください」と叫ばれることです。もしかしたら、それは私たちのための御霊のとりなしの祈りの一つかもしれません。(ローマ8:18-27)

でも、キリストの花嫁として、私たちもイエス様の到来を待ち望むべきです。その日のために、私たちは自分の心を整えなくてはなりません。

私たちはどのようにそうするべきでしょうか。

1.神様が私たちに与えた役割を忠実に果たしましょう。

見よ、わたしはすぐに来る。それぞれの行いに応じて報いるために、わたしは報いを携えて来る。(黙示録22:12)

私たちは20章で読みましたが、二種類の書物があります。一冊目には、私たちの行為のすべてが記されています。二冊目は、子羊のいのちの書です。

でも、あなたの名前が子羊のいのちの書に記されていても、一冊目の書がなくなるわけではありません。ある日、私たちは神様のみ前に立ち、自分の行為のために裁かれます。福音書や使徒たちの書簡には、そのテーマが何度も出てきます。

私たちが神様から与えられたものを忠実に用いたかどうか、判断されます。

忠実に用いれば、報いを得ます。でも忠実でなければ、私たちは救われるものの、火の中をくぐるようにして助かるのです。(第一コリント3:10-15)

だから、イエス様は私たちに警告されます。「目を覚まし、わたしの到来を期待して、忠実に仕えなさい。」(マタイ24:36-25:30)

2.聖さを追い求めましょう。

第一ヨハネでは、ヨハネはこう語りました。

しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。

キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。(第一ヨハネ3:2-3)

言い換えると、私たちがキリストの到来を期待し、いつかキリストに似た者になるという希望を抱いているので、今、私たちは清い人生を送るように努めます。

正しい者には、ますます正しいことを行わせ、聖なる者は、ますます聖なる者とならせなさい。(黙示録22:11b)

3.神様を礼拝しましょう。

この世には、さまざまなものが私たちの注目を集め、心を虜にしようとします。その中には良いものもあります。でも、私たちはそれらを礼拝してはなりません。

ヨハネも二度、その罠に陥りそうになりました。彼は御使いを見て、礼拝しようとしたのです。けれども、天使は二度こう言いました。

いけません。。。神を礼拝しなさい。(22:9)

私たちは被造物を礼拝してはなりません。私たちは創造者だけを礼拝するべきです。

4.神様のみ言葉に忠実になりましょう。

この書では、私たちはさまざまな訓戒を読んできました。特に、2〜3章では多くの訓戒を読みましたが、黙示録の他の箇所にも訓戒がいくつもあります。 だから、イエス様は、私たちがそれらの訓戒に留意し、忠実に従うように命じられます。

イエス様はこう言われました。

見よ、わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを守る者は幸いである。(22:7)

また、イエス様は、私たちがその言葉から何かを取り除かないように注意し、その言葉に付け加えないように注意されます(22:18〜19)。

イエス様がこの世に来られるまで、私たちはそのような人生を送るべきです。

しかし、もしあなたがまだイエス様を知らないなら、イエス様の次の言葉はあなたのためのものです。

渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。(22:17b)

神様は、あなたがご自身のもとに来るように強制されません。 もしあなたが自分の罪にとどまりたいなら、神様はあなたをそのままにされます(22:11a)。

けれども、神様の望みは、あなたがご自身のもとに来て、救われることです。

神様はこう言われます。

自分の衣を洗う者たちは幸いである。彼らはいのちの木の実を食べる特権が与えられ、門を通って都に入れるようになる。(22:14)

私たちはどのように自分の衣を洗うことができるでしょうか。 私たちは自分の努力によってそうするのでしょうか。

違います。十字架で流されたイエス様の血によって、私たちは清められます。 イエス様を信じると、イエス様はあなたの罪のすべてを清めてくださいます(第一ヨハネ1:7)。

今日、あなたは祈って、イエス様を自分の救い主と主として受け入れませんか。

イエス様、今まで、私は自分の道を行き、あなたや周りの人々、そして自分自身さえも傷つけました。 私を赦してください。あなたが十字架で私の罪のために死んでくださり、感謝します。 私の罪と失敗を清めてください。

あなたは王の王、主の主です。 私は自分の人生をあなたに捧げます。 イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

この記事を、イエス様とヨハネの言葉で終わります。

イエス様はこう言われました。

わたしイエスは御使いを遣わし、諸教会について、これらのことをあなたがたに証しした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。。。

これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」(黙示録22:16,20)

ヨハネはこのように答えました。

アーメン。主イエスよ、来てください。(20b)

「主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。」(22)

アーメン、アーメン。

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ヨハネの黙示録

預言の中心におられる方、私たちの言動の中心となられる方

私が何年もこのブログを書いてきて、もうすぐ聖書全体を読み終えるところなので、できるだけ早くこのブログを終えたいという誘惑を感じています。

けれども、ヨハネが自分の語りの途中で少し脱線したように、私もそうしたいと思います。というのも、その言葉が、私がなぜこのブログを書き始めたのかを思い出させてくれるからです。

御使いが子羊の婚宴について語った後、ヨハネはその足もとにひれ伏して、礼拝しようとしました。

ヨハネの考えは理解しやすいでしょう。この御使いは、ヨハネよりも栄光に満ち、聖なる存在でした。だからこそ、束の間、ヨハネはその御使いこそ礼拝にふさわしい者だと思ったのです。

しかし、御使いはヨハネに言いました。

いけません。私はあなたや、イエスの証しを堅く保っている、あなたの兄弟たちと同じしもべです。

神を礼拝しなさい。イエスの証しは預言の霊なのです。(黙示録19:10)

要するに、「私があなたにこの幻を現す目的は、あなたが私を礼拝することではありません。私はこの幻の中心ではありません。

また、預言者たちは自分の預言の中心ではなく、あなたもこの預言の中心ではありません。

むしろ、イエス様がその預言の中心です。すべての預言は、イエス様に関して証しするためのものです」ということです。

これはとても大切で、心に留めておくべき真理です。イエス様はすべての中心におられる方です。特に、イエス様は私たちの言動の中心であるべきです。

私がこのブログを書くときも、教会でメッセージを語るときも、それは私の栄光のためではありません。それは、イエス様に栄光をお返しするためです。

あなたが教会や社会の場で仕えるときも、それはあなた自身の栄光のためではありません。それは、イエス様を証しするための奉仕です。

それを忘れると、私たちは非常に深刻な状態に落ちてしまいます。

名声を礼拝し始め、お金を礼拝し始め、周囲の人々からの称賛や尊敬を礼拝し始めます。イエス様は本来、私たちの人生の中心であるはずですが、私たちはそのお方を忘れてしまうのです。

だからこそ、私たちが自分自身に問いかけなければならないのは、教会で仕えるとき、私たちの心がイエス様に向けられた礼拝の姿勢になっているかどうかということです。

この社会に触れる時、私たちは神様に栄光をお返しする心を持っているでしょうか。

あなたは、誰の前に、また何の前に、ひれ伏して礼拝しているでしょうか。

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ヘブル人への手紙

この遺産を持っている者として

最近、私たちは、神様がイエス様を通して差し出してくださる遺産について考えてきました。また、その遺産を拒むことの危険性についても学んできました。

では、クリスチャンとしてその遺産を受けたなら、私たちはどう生きるべきなのでしょうか。この手紙の著者は、そのことについて教えています。

このように揺り動かされない御国を受けるのですから、私たちは感謝しようではありませんか。

感謝しつつ、敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか。(へブル人への手紙12:28)

実際にそれが意味するのは何でしょうか。ヘブル人への手紙第13章において、著者は本当の礼拝について語っています。しかし、本当の礼拝とは、ただ歌を歌うことではありません。

本当の礼拝とは、周りの人々を愛することです。特に、クリスチャンの兄弟姉妹を愛することです。(13:1)

本当の礼拝とは、人をもてなすことです。あまり親しくない人にも心を開くことです。(13:2)

本当の礼拝とは、苦しんでいる人々に憐れみを示すことです。(13:3)

本当の礼拝とは、夫や妻を敬い、結婚を尊び、不貞を避けることです。(13:4)

本当の礼拝とは、お金よりも神様を愛し、神様に信頼することです。(13:5−6)

本当の礼拝とは、神様が与えてくださったリーダーたちの信仰の模範に従うことです。(13:7)

本当の礼拝とは、律法主義的なルールや儀式ではなく、神様の恵みによって生きることです。(13:9−10)

本当の礼拝とは、イエス様のために喜んで苦しむことです。なぜなら、私たちは一時的なものではなく、永遠のものを求めているからです。(13:11〜14)

本当の礼拝とは、賛美のいけにえを神様にささげることです。(13:15)

本当の礼拝とは、善を行い、分かち合うことです。(13:16)

本当の礼拝とは、教会のリーダーたちに従うことです。私たちは彼らをいつも批判するのではなく、励まし合うべきです。教会を分裂させてはなりません。(13:17)

本当の礼拝とは、周りの人々のために祈ることです。特に、教会で奉仕する人々のために祈ることです。(13:18)

あなたはどうでしょうか。あなたは神様の子どもとしての遺産を受けたでしょうか。

そのことへの感謝をもって、毎日神様を礼拝しているでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ4章

真の礼拝

イエス様とサマリヤ人の会話から、私たちは礼拝の本質について多くを学ぶことができます。

その女性は、自分の罪に直面した瞬間、話題を変えようとしました。それで、彼女はこう言いました。

先生。あなたは預言者だと思います。私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。(ヨハネの福音書4:19-20)

ユダヤ人とサマリヤ人の間では、これは大きな議論でした。おそらく、このサマリヤ人の女性は、その議論によってイエス様を怒らせようとしたのかもしれません。それでも、イエス様は優しく応じられました。

わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。

救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。

しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。(21-24)

簡単に言うと、イエス様が来られたことで、どこで礼拝するべきかという疑問には意味がなくなりました。大切なのは、どのように礼拝すべきかということです。

私たちは、どのように礼拝すべきなのでしょうか。

まず、私たちの礼拝は神様の真理によらなければなりません。

サマリヤ人には、本当に重大な問題がありました。彼らは、神様のことを正しく知らないまま礼拝を続けていました。

その会話の何百年も前、北イスラエル王国は崩壊しました。そして、他国の人々がイスラエルに定住し、残っていたユダヤ人と結婚しました。

それだけではなく、彼らの宗教をユダヤ教と混ぜ合わせた結果、神様についての教えは混乱しました。そんな状態では、誰も神様を正しく礼拝することはできません。私たちは真理によって礼拝しなければなりません。

けれども、それだけではありません。私たちは霊によっても礼拝しなければなりません。神様は礼拝の形式そのものには興味を持っておられません。神様は私たちが心から礼拝することを望まれます。そして、私たちの人生全体が神様に対する礼拝となることを望まれます。

毎日、私たちは神様のために生きるべきです。毎日、神様の愛によって周囲の人々に触れるべきです。毎日、私たちの人生は神様に捧げる賛美の歌であるべきです。それが、霊によって礼拝することなのです。

あなたはどうですか。真理によって礼拝していますか。サマリヤ人のように、間違った神様に関する考え方があるなら、神様を正しく礼拝することはできません。

神様は聖書を通してご自身を表されました。そのため、自分の神様に関する間違った考えを捨てて、神様の言葉を受け入れなくてはなりません。

しかし、神様は書かれたみ言葉だけではなく、生きている言葉を通してもご自身を表されました。つまり、イエス様を通して、神様はご自身を完全に示されたのです。(ヨハネ1:1;14)

使徒パウロはこう言いました。

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。(コロサイ2:9)

あなたは神様がどんな方であるか知りたいなら、イエス様を見てください。

神様を霊によって礼拝していますか。歌を歌うだけではなく、あなたの人生を通して神様を礼拝していますか。

私の友人は素敵な歌を書きました。今でも私は、その歌のことをよく思い出します。そして、その歌の中の言葉を祈りとして用います。

私の人生があなたへの賛美となるように。

毎日、あなたが霊と誠によって神様を礼拝することができますように。」

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ヨハネの福音書 ヨハネ2章

神殿に対するイエス様の熱心

この箇所では、イエス様が神殿に行かれた時、そこで牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちが営業していた様子が記されています。

神殿には「異邦人の庭」という場所がありました。ユダヤ人ではない人々がそこに来て、神様を礼拝することができました。

ところが、イエス様が異邦人の庭に入られた時、その場所は非常に騒がしい状況でした。羊や牛、鳩が鳴き声をあげている上、これらの動物を売る者たちや両替人、さらにそのお客たちが話していたためです。

そのため、異邦人にとっては神様を礼拝することがほぼ不可能な状況でした。

さらに、神様を礼拝するために来た人々は不当に扱われていました。

宮の納入金を払うため、多くの人々は両替を必要としていましたが、その為替レートは非常に高く設定されていました。

それだけでなく、いけにえとして自分の動物を連れてきた人々が、ふさわしい動物であるにもかかわらず、検査を担当する者たちに「その動物は不適切だ」と言われてしまいました。

その結果、彼らは神殿で売られている動物を非常に高い価格で購入せざるを得ませんでした。

このような不正が行われていたため、イエス様は大いに怒られました。この状況を見て、イエス様はどう行動されたのでしょうか。

[イエスは]細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、また、鳩を売る者に言われた。

「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(ヨハネの福音書2:15-16)

ユダヤ人のリーダーたちは、この出来事を目にして、イエス様に問いかけました。

あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。(18)

イエス様はこう答えられました。

この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。(19)

ユダヤ人たちは、イエス様がヘロデによって建てられた神殿について話していると思いました。その時点で、すでに46年が経過していましたが、この神殿が完成したのは西暦63年でした。

しかし、イエス様が話していたのは、その神殿ではありませんでした。ヨハネによれば、イエス様はご自身の体について語っていたのです。

つまり、ユダヤ人のリーダーたちがイエス様を十字架につけて殺しても、三日目にイエス様はよみがえられるということです。

ところで、イエス様が幽霊としてよみがえったと考える人もいます。(例えば、エホバの証人はそのように信じています。)けれども、この箇所によれば、イエス様は明確にこう言われました。「私の体はよみがえります。」

イエス様がご自身の体を神殿と呼ばれたように、パウロは私たちの体を「聖霊の神殿」と呼びます。(第一コリント6:19)

さらに、イエス様はエルサレムの神殿に対して情熱を持っておられたように、私たち一人ひとりに対しても情熱を持っておられます。

イエス様はエルサレムの神殿を神様を礼拝するための場所として清めたいと望まれました。同じように、イエス様は私たちの体を神様のために聖別したいと望んでおられます。

けれども、私たちはしばしばその神殿を、罪やその他のものによって汚してしまいます。

数年前、私はコンピュータのトラブルに直面しました。ファイル自体は無事でしたが、Windowsに問題が発生していました。再インストールを試み続けましたが、最終的には成功しませんでした。

そこで、ファイルをバックアップした後、ハードディスクをフォーマットしました。(つまり、そのハードディスクに保存されていたソフトウェアやファイルをすべて消去しました。)

その後、再び再インストールを行うことができましたが、それは非常に大変な作業でした。

このハードディスクには、多くの役立つファイルが保存されていました。また、悪くないソフトウェアもたくさんありました。しかし、破損したファイルのせいで、コンピュータが正常に動作しなくなっていたのです。

あなた自身はどうでしょうか。私のコンピュータのように、あなたの心に悪いものが存在していませんか。どのような罪が潜んでいるでしょうか。羊や牛の騒がしさが異邦人の礼拝を妨げたように、あなたの罪が周りの人々に神様を見えにくくしているでしょうか。

また、悪いものではなくても、神様を礼拝する妨げとなるものが存在していませんか。例えば、趣味自体は悪くないものですが、その趣味のせいで聖書を読む時間や祈る時間が減ってしまってはいませんか。

イエス様は清い神殿を望まれます。ですから、イエス様はあなたの心を清めたいと願っておられます。

あなたの心には何があるのでしょうか。

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詩篇

礼拝する心を保つこと

これは最後の都上りの歌です。もしかしたら、イスラエル人たちはエルサレムへの巡礼が終わって、帰る時にこの歌を歌ったかもしれません。

帰る時、彼らは夕方にまだ宮で働く人々にこう歌ったかもしれません。

さあ、主をほめたたえよ。主のすべてのしもべたち、夜ごとに主の家で仕える者たちよ。

聖所に向かってあなたがたの手を上げ、主をほめたたえよ。(詩篇134:1-2)

彼らは祭司たちとレビ人に、怠けずに注意をし続け、主を礼拝し続け、主に仕え続けるように励ましました。

あるレビ人たちは歌う役割があって、昼となく夜となくその仕事に携わりました。(歴代誌第一9:33)

もしかしたら、イスラエル人たちはそのレビ人たちにその言葉を歌ったかもしれません。

とにかく、私たちが覚えているべきなのは、神様についてよく考えるべきだということです。

時々、私たちの考え方は皮肉っぽくなるので、その考え方が私たちの祈りに影響を与えてしまいます。私たちは神様の愛を忘れます。神様の良さを疑い始めます。

だから、祈る価値があるかどうかを疑います。そして、私たちは神様からもっと離れるように感じます。

けれども、感謝の心を持てば、神様がどんな方であるかを覚えていて、また神様の良さを覚えていたら、皮肉があなたの魂を毒することはありません。

神様の民として、私たちは神様の祭司です。しかし、皮肉っぽい祭司が本当に酷いものであることを覚えていてください。

あなたはどうですか。皮肉な態度はあなたの魂を毒しているでしょうか。皮肉はあなたのこの世に対する態度や、あなたの人生に対する態度を毒しているでしょうか。

もう一度私たちの思いを神様中心にしましょう。神様の良さに焦点を当ててください。神様のあなたに対する愛に焦点を当ててください。神様があなたのためにしてくださったことに焦点を当ててください。

感謝の態度を取りましょう。そうすれば、あなたの皮肉な態度はなくなって、あなたの喜びは戻ります。

巡礼者が帰る時、祭司たちはこう叫びました。

天地を造られた主がシオンからあなたを祝福されるように。(3)

この巡礼で、神様があなたにすべての霊的な祝福を与えてくださるように。神様があなたの皮肉な心を清めて、あなたの心に喜びを満たしてくださるように。

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詩篇

神様の民と一緒にいる喜び

巡礼者がエルサレムの門にたどり着くと、詩篇122篇を歌い始めたでしょう。この歌は、詩人が神様の宮に入る喜びを言い表しています。

人々が私に、「さあ、主の家に行こう」と言ったとき、私は喜んだ。(詩篇122:1)

私は若い時、あまりそんな喜びはありませんでした。私は7-8歳ぐらいでクリスチャンになったのですが、中学生になったとき、もう教会に行きたくなくなりました。

私の教会は良い場所でしたが、私は他のことをしたかったのです。

けれども、高校生になった時、初めて神様の臨在を感じました。私が賛美をするとき、急に理解したのは、私たちはカラオケをしているのではなく、その歌を通して神様に祈っているということです。

その経験で、私の教会と礼拝に対する考え方が変わりました。

時々、クリスチャンは教会が必要ないと思います。なぜなら、彼らは自分で礼拝できると思うからです。

もちろん、礼拝には個人的な側面もあります。しかし、もし私たちが他のクリスチャンと一緒に礼拝するのが嫌いなら、私たちの態度は間違っています。

時々、私たちにはプライドの問題があります。「私は聖書をもうよく知っている。牧師の説教は必要ない。」

時々、私たちは人々を許せないので、教会に行きたくないと思います。「どの教会に行っても、誰かが私を傷つける。だから、教会はもういいです。」

時々、私たちはいつも人々を裁きます。「全てのメンバーは偽善者だ。彼らと付き合いたくない。」

また、時々私たちは自己中心です。「私にとって、教会に行く益がない。」

けれども、教会に行くのは、ただ私たちの利益のためではありません。教会で、私たちは神様に賛美を捧げます。

また、私たちは周りの人々に仕えるべきです。そして、彼らと一緒にそのコミュニティに仕えるべきです。

この詩篇では、詩人はエルサレムの平和のために祈ることについて話します。また、彼はエルサレムの繁栄を求めます。そのように、私たちは自分の都市のために祈るべきであり、その都市の繁栄を求めるべきです。

一人では、このようなことは私たちはあまりできません。しかし、キリストの体として、教会は私たちのコミュニティに影響を与えることができます。

もしあなたが、ただ礼拝に出て、すぐに帰るなら、あなたは神様の計画が全然見えません。

だから、教会の人々と交わり、一緒に働いてください。神様の体で、あなたには自分の役割があるので、その役割を果たしましょう。

ヘブル人への手紙の著者はこう書きました。

また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。

ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。(へブル書10:24-25)

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詩篇

全ての国民は礼拝するとき

これは聖書の中で、一番短い章です。けれども、すぐに一番長い章を読みます。だから、私の英語のブログで、私は、「This is the calm before the storm.」と言いました。

つまり、「これは嵐の前の静けさです。」 🙂

とにかく、詩篇117篇はメシアについての詩篇です。なぜなら、詩人はすべての国民が神様を礼拝する日を楽しみにしているからです。彼はこう歌いました。

すべての国々よ。主をほめたたえよ。すべての民よ。主をほめ歌え。(詩篇117:1)

パウロはこの箇所によって、キリストがユダヤ人のためだけではなく、すべての人々のために来てくださったことを証明します。(ローマ15:11)

なぜ、詩人はすべての国民が神様をほめたたえるように招くのでしょうか。二つの理由があります。

一つ目は、神様の私たちに対する大きな恵みです。神様は、十字架でキリストの死によってその恵みを示してくださいました。

その死によって、私たちの罪が赦され、私たちは神様の家族に入ることができます。

その真理を理解したので、ヨハネはこう叫びました。

私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。(第一ヨハネ3:1)

あなたが日本人でも、アメリカ人でも、ユダヤ人でも、あなたがイエス様を信じたら、神様は自分の子供としてあなたを受け入れてくださいます。

二つ目の理由は、神様の忠実さは永遠に続くことです。私たちがどんなに失敗しても、神様は私たちを決して見捨てません。

日本語の聖書では、こう訳されています。

主のまことはとこしえに。(詩篇117:2)

つまり、神様とそのみことばは決して変わることがありません。

神様が気まぐれな方であると心配する必要はありません。神様が何かを語られるなら、その御心が変わることを恐れる必要はありません。

だから、私たちは恐れずに神様に信頼することができます。

だからこそ、詩人は歌います。

ハレルヤ。(2)

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詩篇

本当の礼拝

詩篇100篇は礼拝のための歌です。

だから、この詩篇の始めに、詩人は私たちを神様を礼拝するように招きます。

全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。

喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。(詩篇100:1-2)

そして、詩人は私たちの礼拝の理由を教えます。つまり、詩人は神様がだれであるか、私たちがだれであるか、また私たちの神様との関係は何であるかを反省します。

神様は誰でしょうか。神様は「主」です。

この話を進める前に、少し説明した方が良いと思います。

新改訳では、時々「主」は太字で書かれます。時々、「主」は普通のフォントで書かれます。どうしてでしょうか。

「主」が太字で書かれたとき、それは「ヤハウェ」という言葉です。「ヤハウェ」は神様の名前です。

実は、私たちはその名前の子音しか知りません。なぜなら、ユダヤ人は神様の名前を尊重したので、聖書を読むとき、決して「ヤハウェ」と言わなかったからです。その代わりに「主」と言いました。

そして、ヤハウェの名前を書くとき、子音しか書きませんでした。だから、今では誰もヤハウェの本当の発音をよく知りません。誰もヤハウェの母音を知らないからです。

そういうわけで、日本語の聖書と英語の聖書のほとんどは神様の名前のために「主」を使います。

とにかく、太字の「主」を見るなら、その代わりに「ヤハウェ」と入れ替えてみてください。

多分「ヤハウェ」という名前は、出エジプト記3章14節から来ます。そのとき、モーセは神様に尋ねました。「あなたの名前は何ですか。」

神様は「わたしは、『わたしはある』という者です。」と答えられました。

ヘブライ語では、「ヤハウェ」という名前は「ある」という動詞から来ています。

その名前によって、神様が私たちに言われるのは、「私は永遠の方です。私は永遠から存在し、永遠まで存在します。私は決して変わりません。」ということです。

そして、神様は私たちの創造主です。

それでは、私たちは誰でしょうか。そして、私たちの神様との関係は何でしょうか。私たちは神様のものです。私たちは神様に属するものです。なぜでしょうか。

それは神様が私たちを造られたからです。私たちは自分自身を造りませんでした。神様は私たちの創造主ですから、私たちは正当に神様に属します。だから詩人は言います。

私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。(3)

神様の羊として私たちはどうすればいいでしょうか。

感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、入れ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。(4)

以前のブログでは、私はジム・エリオットという人について話しました。「Shadow of the Almighty」という本の一節は本当に私の心を打ちました。エリオットは詩篇100篇4節についてこう書きました。

どうして、羊はその門に入っているのでしょうか。どうして、主の大庭に入っているのでしょうか。歌を歌って、羊の交わりを楽しむためでしょうか。それだけでしょうか。違います。

彼らは祭壇に行っていました。彼らが牧場で食べた目的は、彼らを試し、いけにえの準備をさせられるためです。

だから、神様に感謝しましょう。なぜなら、あなたはその祭壇に値するものとして認められたからです。

賛美しながら、神様の仕事をしなさい。。。

天のお父様、あなたの御心でしたら、私の命、私の血を取って、あなたの火で焼き尽くしてください。

私の人生を救おうとは思いません。なぜなら、この人生は私の物ではないからです。

私の人生のすべてを取って、用いてください。

この世のために私の血を供え物として注いでください。なぜなら、私の血は、あなたの祭壇の前に流れる時だけに価値があるからです。

あなたはその言葉が極端だと思うかもしれませんが、多分エリオットはパウロの言葉をよく理解していました。

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。

あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ12:1)

実は、エリオットはアウカ族の救いのために自分の血を注ぎました。

だから、覚えておきましょう。礼拝はただ賛美の歌を歌うことではありません。

礼拝は生きた供え物になることです。

礼拝は、自分の目的のためでなく、神様の目的のために生きることです。

礼拝は主を喜ばせることです。

それらが本当の礼拝です。

時々、礼拝の代価は高いです。しかし、主にすべてを捧げると、あなたは喜びを知ります。どうして私はそう思うでしょうか。

主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。(5)

その言葉を信じないなら、主に人生を捧げるのは難しくなります。

けれども、神様が良い方であることを信じたら、また、神様が忠実で、私たちを愛して、私たちの最善を望んでおられることを信じたら、神様にすべてを捧げることは当然なことになります。

あなたはどうですか。そのことを信じるでしょうか。神様を本当に礼拝しているでしょうか。

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列王記第二

ふたりの主人に仕える?

この箇所は北イスラエル王国の物語の跋文です。

イスラエル人がアッシリヤに追放された後、アッシリヤの王は征服した他の国々の民をイスラエル人の代わりにサマリヤの町々に住まわせました。(サマリヤは北イスラエル王国の首都でした。)

ところが、間もなく、その人々はライオンによって殺されました。そして、アッシリヤの王はこの報告を聞きました。

あなたがサマリヤの町々に移した諸国の民は、この国の神に関するならわしを知りません。

それで、神が彼らのうちに獅子を送りました。今、獅子が彼らを殺しています。彼らがこの国の神に関するならわしを知らないからです。(列王記第二17:26)

この箇所を初めて読んだとき、「本当に主がそのライオンを送られたのだろうか」と思いました。

列王記の著者はそう考えていたのでしょうが、この話を読むと、その考えを受け入れるのは難しいと感じました。

なぜなら、アッシリヤの王が捕らえ移したイスラエルの祭司の一人をイスラエルに送り返し、その祭司がその人々にどのように主を礼拝するかを教えたからです。

そして、それ以降、ライオンが人々を襲うことはなくなったようです。

もちろん、神様は時々人々を裁かれます。また、旧約聖書の時代には、神様が動物を通して人々を裁かれた例も時々ありました。

とはいえ、問題は、サマリヤに送り返された祭司たちが堕落した祭司だったという点です。彼らは本当の祭司ではありませんでした。

ヤロブアム王一世が王位に就いたとき、本物の祭司たちは皆ユダ王国に移ったため、ヤロブアムは自分の意にかなう祭司を任命したのです。

そして、彼らは真の神様の礼拝を教えませんでした。むしろ、金の子牛がイスラエルの神であると教えたのです。

だから、もし神様がそのライオンを送られたのだとしたら、なぜ堕落した礼拝のためにライオンを送るのを止められたのでしょうか。

けれども、さらに考えてみると、一つの可能性として考えられるのは、神様が彼らを罰したものの、彼らの無知によって神様はご自身の怒りを収められたのではないかということです。

イエス様は次のように言われました。

主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。

しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。

すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(ルカ12:47-48)

とにかく、その人々は神様について教えられたにもかかわらず、彼らは自分の神々を礼拝し続けました。

だから、私たちはこの矛盾した状況について読むことになります。

彼らは主を礼拝し[た]。(列王記第二17:32)

そして、

彼らは主を恐れているのでもなく、主が、その名をイスラエルと名づけたヤコブの子らに命じたおきてや、定めや、律法や、命令のとおりに行なっているのでもない。(列王記第二17:34)

どのようにしてこの二つの文が同時に正しいと言えるのでしょうか?

この箇所によって、神様はこう言っておられるのだと思います。「二人の主人を礼拝することは、真の礼拝ではありません。」

十戒の最初の命令で、神様は「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」(出エジプト記20:3)と仰いました。

したがって、列王記の著者は、この命令によってその人々を非難したのです。(列王記第二17:34-40)

では、あなた自身はどうでしょうか。主だけに仕えているでしょうか。それとも、二人の主人に仕えようとしているでしょうか。

ある人々にとって、お金が彼らの主人となっています。そのために、イエス様はパリサイ人を非難されました。

しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。

あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。(ルカ16:13)

ある人にとっては、自分の持ち物が彼らの主人となっています。また、ある人にとっては、趣味が彼らの主人となっています。

あなたにとって一番大事なもの――それこそが、あなたの神です。

もし神様よりも他のものを優先して仕えるなら、神様はあなたの礼拝を受け入れられません。

そのような礼拝はサマリヤ人の礼拝と同じであり、神様の目には無意味なものになってしまいます。

あなたの主人は誰でしょうか。

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サムエル記第一

口だけで神様に仕える?

サウルの没落はさらに続いています。

サムエルを通して、神様はサウルにアマレク人を全滅させるよう命じられました。モーセの時代、イスラエル人が砂漠を旅している間に、アマレク人は彼らを攻撃しました。

そして、サムエルの時代でもアマレク人は依然として存在し、イスラエル人や他の民を攻撃し続けていました。

そのため、神様は「彼らをすべて滅ぼしなさい」と命じられました。誰にも容赦してはならず、動物でさえもすべて殺すべきだったのです。

これは厳しすぎると思うかもしれませんが、アマレク人には悔い改めのための時間が与えられていました。それでも、彼らはその恵みを拒み、さらに悪い行いに走り続けました。そのため、神様は彼らを裁かれました。

同じように、いつの日か、神様はすべての人々を裁かれます。ある人々は永遠の命を受け取り、他の人々は滅びるのです。

いずれにせよ、サウルは神様の命令に従いませんでした。彼はアマレクの王を容赦し、最も良い羊や家畜を殺さずに残しました。おそらく「もったいない」と思ったのかもしれません。

そのため、神様はサムエルに次のように言われました。

わたしはサウルを王に任じたことを悔いる。彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかったからだ。(サムエル記第一15:11)

サムエルはサウルの所に行きましたが、最初、サウルは自分の罪を認めませんでした。むしろ、サウルはこう言いました。

主の祝福がありますように。私は主のことばを守りました。(13)

サウルは、サムエルが羊や家畜、その他の動物について知らないと思っていたのかもしれません。けれども、サムエルがそのことについて質問した時、彼は答えました。

「ああ、そうそう。それはね。いけにえを捧げたかった。だから、私の民はその動物を殺したくなかった。」

しかし、サムエルはこう答えました。

主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。

見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。

あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。(22-23節)

そして、サウルはようやく自分の罪を認めましたが、自分の民を責めました。

私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです。(24節)

サウルの問題は、今でも多くの人々に見られるものです。口では神様に仕えると言いながら、心の中では自分自身に仕えていたのです。

その前に、サムエルがサウルを探していた時、サウルは自分を祝うために山に登り、記念碑を立てていました。サウルは「いけにえを捧げたかった」と言いましたが、それは本当だったのでしょうか。

また、私が以前に言ったように、彼の謝罪はあまり誠実ではなかったように思われます。自分の行動に責任を取るのではなく、他の人々を責める態度を見せました。

さらに、彼の礼拝も心から捧げられたものではなく、うわべだけのものでした。サムエルが去ろうとした時、サウルは願いました。

どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください。どうか私といっしょに帰って、あなたの神、主を礼拝させてください。(35節)

神様の前でも民の前でも、サウルは自分の評判を気にしていました。

そのため、神様はサウルをイスラエルの王として拒絶されました。

あなたはどうでしょうか。口先だけで神様に仕えているでしょうか。他の人々を感動させるためだけに、宗教的なことを言ったり行動したりしているでしょうか。

それとも、神様はあなたの心を持っておられるでしょうか。

神様はあなたの言葉や行動よりも、あなたの心そのものに興味を持っておられます。もし、あなたの心が神様に捧げられていなければ、神様にとって、あなたの行動や言葉は無駄なものとなってしまいます。

サウルは神様に自分の心を捧げませんでしたが、次の王であるダビデは、自分の心を神様に捧げました。

神様はあなたの心を持っておられるでしょうか。それとも、あなたの言葉だけを持っておられるのでしょうか。

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士師記

偽者の礼拝

この士師記の最後の5章はエピローグです。その箇所の話は、おそらくヨシュアが少し前に亡くなった後に起こりました。なぜなら、アロンの孫ピネハスは、まだ大祭司だったからです。

この二つの話は、かなりショッキングです。この二つの話を一言でまとめたいなら、17章6節と21章25節を読んでください。つまり、

そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。

この箇所では、ある人とその家族が自分の目に正しいと見えることによって神様を礼拝する姿が描かれています。

ミカという人は、母から銀を盗みましたが、後で告白して、その銀を戻しました。それは良いことでした。

そして、その母はその銀を主に捧げました。どのように捧げたのでしょうか。その母は彫像と鋳像を作るためにミカに銀をあげました。

しかし、神様は十戒、すなわち第一戒と第二戒において、それを禁じておられます。

どうして、その母が「私は神様に捧げる」と言いながら「彫像と鋳像を作りましょう」と言えるのか私は理解できません。

おそらく彼女は、「この鋳像を作るけれど、ヤハウェ(つまり、神様の名前)と名づける」と思ったのかもしれません。

しかし、神様が命じられた通りに礼拝せず、自分が正しいと思う方法で礼拝したのです。

ミカは、その彫像と鋳像を作り、礼拝し始めました。

そして、ある日、レビ人が訪れました。レビ人たちは幕屋(神殿のようなものです)で神様に仕える人たちでした。そして、ミカは言いました。

私といっしょに住んで、私のために父となり、また祭司となってください。あなたに毎年、銀十枚と、衣服ひとそろいと、あなたの生活費をあげます。(10)

私は信じられませんが、そのレビ人は同意しました。その人は神様の戒めをよく知っていたのに、お金のために背を向けました。

そして、18章で、ダン人の部族は、その彫像を礼拝し始めました。

私たちは何を学べるでしょうか。ミカとその母は自分が正しいと思ったことをしました。神様の彫像に関する戒めをよく知らなかったかもしれません。もしくは、その戒めを無視したのでしょう。

いずれにせよ、彼らはその行動によって神様の祝福を得ると思っていました。ダン人たちも同じように考えました。

けれども、神様はそのような礼拝をお受けになりません。イエス様はこう言われました。

 しかし真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。(ヨハネ4:23-24)

つまり、礼拝する時に熱心さは大切ですが、神様の目にはそれだけでは足りません。あなたの礼拝は神様の真理によるべきです。

神様が自分を現されたように礼拝するべきですし、神様が命じられる通りに礼拝するべきです。けれども、神様の言葉を知らなければ、それはできません。また、もし神様の言葉に従わなければ、神様を喜ばせることはできません。

あなたはどうでしょうか。神様が自分を現されたように礼拝しているでしょうか。それとも、自分の偽のイメージを作って礼拝しているでしょうか。

神様が命じられる通りに礼拝しているでしょうか。それとも、自分が正しいと思う通りに礼拝しているでしょうか。

神様を霊と真によって礼拝しましょう。