カテゴリー
ルカの福音書のデボーション

神様のサーチライトを避けている?

そこで、ペテロが言った。「主よ。このたとえを話されたのは私たちのためですか、皆のためですか。」(ルカの福音書12:41)

ペテロのこの言葉は、私にはとても引っかかりました。

イエス様は、私たちが忠実であり、主の帰りに備えるべきことを教えておられる最中でした。ところが、ペテロはそこで、的外れな質問をしてしまったのです。

ペテロがイエス様のことばの矛先を自分から他の人へそらそうとしたのかどうかはわかりませんが、たまにそのようなことをしてしまう人でした。(ヨハネの福音書21:21)

とはいえ、振り返ってみると、私も同じことをしばしばしてしまいます。

日曜日のメッセージを聞くとき、また聖書を読むとき、神様のサーチライトが私の心を照らすことを許すのではなく、むしろ、「あの人こそ、これを聞くべきだ」とか、「あの人がこの言葉を心に留めてくれたらいいのに」と考えてしまうのです。

私は、もうそのようなことをしたくありません。神様のサーチライトが私の心を照らすことを喜んで受け入れたいのです。なぜなら、神様は私を責めるためではなく、私たちの偽善や罪深さを心からきよめたいと願っておられるからです。

そして、私が愛するお方のように変えられていくためです。

天のお父さん、あなたのサーチライトを喜んで受け入れます。どうか、私の心を探り、知ってください。

カテゴリー
イザヤ書のデボーション

石を巧みに投げる

最近、教会でダビデとゴリアテについてのメッセージを聞きました。

牧師の一つのポイントは、すべての国が、イスラエルが従っている神を知るように、ダビデは石を投げたということです。(第一サムエル17:40、46)

そして、巧みに投げられた石は、神様が望まれた目的を成し遂げました。その石によって、ゴリアテは倒されただけではなく、イスラエル人たちも、周りの国の人々も、主が神であることを知るようになりました。

今日の箇所を読んだとき、そのメッセージを思い出しました。私が巧みに投げたい石は、神の御ことばです。特に、福音です。

私は、周りの人々に、満足を与えられないものではなく、心の穴を満たすことのできる神を求めるように促したいのです。

彼らに、自分の人生を滅ぼしている罪から悔い改めるように促したいのです。

また、彼らには遅すぎるわけではないという良い知らせを伝えたいのです。なぜなら、神様は、悔い改める者を豊かに赦してくださるからです。

そして、神様が約束しておられるのは、ダビデの石のように、神のことばがご自分のもとに空しく帰ることはなく、神様が望まれることを成し遂げるということです。

天のお父さん、私の周りの人々があなたを知り、また、永遠のいのちを知るために、私があなたのことばをよく知り、巧みに用いることができるようにしてください。