そこで、ペテロが言った。「主よ。このたとえを話されたのは私たちのためですか、皆のためですか。」(ルカの福音書12:41)
ペテロのこの言葉は、私にはとても引っかかりました。
イエス様は、私たちが忠実であり、主の帰りに備えるべきことを教えておられる最中でした。ところが、ペテロはそこで、的外れな質問をしてしまったのです。
ペテロがイエス様のことばの矛先を自分から他の人へそらそうとしたのかどうかはわかりませんが、たまにそのようなことをしてしまう人でした。(ヨハネの福音書21:21)
とはいえ、振り返ってみると、私も同じことをしばしばしてしまいます。
日曜日のメッセージを聞くとき、また聖書を読むとき、神様のサーチライトが私の心を照らすことを許すのではなく、むしろ、「あの人こそ、これを聞くべきだ」とか、「あの人がこの言葉を心に留めてくれたらいいのに」と考えてしまうのです。
私は、もうそのようなことをしたくありません。神様のサーチライトが私の心を照らすことを喜んで受け入れたいのです。なぜなら、神様は私を責めるためではなく、私たちの偽善や罪深さを心からきよめたいと願っておられるからです。
そして、私が愛するお方のように変えられていくためです。
天のお父さん、あなたのサーチライトを喜んで受け入れます。どうか、私の心を探り、知ってください。
